塩水選
翌朝、八重が歌の奉納を終えて土間に顔を出すと、家守が何かにたくさんの塩を揉み込んでいるところだった。
「何をなさっているのですか?」
「おお、八重殿。奉納ご苦労だった。これは頂いたわかめを保存するために、塩蔵わかめを作っているのだ」
茹でたあと塩で揉んで一晩水を出したわかめに、更に塩を揉み込んで保存食を作っているのだと家守は嬉しそうに笑う。
「八重殿の朝餉はそちらにご用意しているぞ。芽かぶは日持ちせぬからそれで終いだが、また頂いたらお出ししような」
「まあ、嬉しいです。とても美味しかったのです」
喜んで目を輝かせる八重に、家守は笑って、酢醤油や出汁醤油があればもっと美味いのだと告げる。八重はその言葉に、これ以上美味しくなるのかと期待に胸を膨らませた。塩しかない現状に家守が苦心しているのも知っている。家守が存分に腕を振るえるようになるといい、と思い、八重は一層励もうと決意を新たにした。
「……そうだ、家守さん。塩はたくさんあるのでしょうか。里では種籾の選別に、塩水を使っていたのです」
「ああ、塩水選だな。
朝餉を食べ終えた八重は、家守に気になっていることを尋ねた。家守は八重の言葉に、蔵から塩を出してこよう、と快諾する。八重は慌てて手を振って、今にも動き出しそうな家守を引き止めた。
「塩水で選別したいとは思うのですが、聞きかじったばかりでどれ程の塩がいるか分からないのです。家守さんは
『
「いや、俺も詳しくは知らんな。おい、井守! お前は知っておるか」
家守は大声を出して井守を呼ぶ。顔を出した井守は、八重と家守の話を聞いて首を振った。
「いや、俺も詳しくは知らぬ。だが
悪くなるものでもなし、次にも使えるのだからたくさん持って行くといい、と井守は提案した。八重は成る程と頷き、家守はそれを受けて籠に山盛りの塩を蔵から出してきた。
「塩も水も重いだろう。お手伝いしよう」
井守は家守から籠を受け取り、八重を手伝うと言う。八重は頭を下げて礼を言ったが、井守は「なに、帰りにたんと米を頂いて帰る」と快活に笑った。
それだって、井守と家守のために持って行くわけではない。白陽にお出しするものだし、八重も頂くものだ。ただ八重が運ぶ手間を代わりに買って出てくれているばかりで、礼にはならない。それを報酬のように語る井守の茶目っ気に、八重は思わず笑みこぼれて「持ちきれないほどお渡しいたします」と返した。
田んぼの小屋について、八重が大きな桶を出すと井守がついと指を動かす。井守の指に従うように、溜め池から水が走りたっぷりと桶に入った。
八重は目を瞬いて驚き、ナズナはくるくると舞って桶に花を散らす。
「こらナズナ、花を散らすな。よもやいつもそうやって八重殿にご迷惑をおかけしているのではあるまいな?」
「ふふ、可愛らしくて叱れないのです」
半眼になってナズナをつつく井守と、その指から逃れようとするナズナの様子に、八重は声を出して笑った。
「井守さんは、やはり神様でいらっしゃるのですね。神の御業でお手伝いいただくなんて、畏れ多いことでございます」
「ああ、水か。なに、大したことではないのだ。俺に出来ることは水を多少操れるくらいのことで、
「そうなのですか?」
「ああ、八重殿は上天の水や山海のものを摂り、そして何より神米をお食べになっている。守護神様方のご加護も賜っているのだから、尚更のことだ」
「なんとまあ、楽しみな気がいたします。実は最近、疲れにくくなっているように思っているのです」
「それは重畳」
井守は笑いながら桶に塩を入れる。八重もそれに従って、種籾を桶に入れた。棒でぐるぐるとかき混ぜて、井守は様子を見ながら桶に塩を足す。
新たに浮いてくる種籾がなくなったころに、塩を足すのをやめてしばらく待ち、浮いた種籾を掬い取った。使う種籾も掬い上げ真水を張った桶に入れ、八重と井守は桶いっぱいの塩水を眺め思案する。
「この塩水はどういたしましょう……」
「田畑に撒いて良いものとも思えぬしなあ……」
作物を育てる土に撒いて良いとは思えない。八重は里でどうしていたかを思い出そうとするがとんと覚えがなく、そろって腕を組んで首を傾げた。
「そうだ、
井守は思いついたと顔を上げ、水路に向かって声をかける。
「
八重は何をしているのだろうとますます首を傾げたが、井守の声に応じるように水路の水が高く盛り上がって人の形を成す。
「なんぞあったかの」
姿を表したのは
「お呼び立てして申し訳ない。桶の塩水を海に持っていって頂けないかと思いまして」
「よかろう」
「有難く存じます」
「なに、構わぬ。ではの」
「い、井守さん、今
「ああ、水場でお声をかけると来てくださるぞ。八重殿も御用ができればそうすると良い」
「そんな、簡単に、神様に」
「気さくな方だからなあ」
井守は気にした様子もなく笑っている。そのまま小屋を覗いて、「これが持っていって良い米か?」と八重に声をかけた。八重がなんとか「はい、そちらがすべて……」とこたえると、井守は米が詰まった麻袋をひょいひょいといくつも肩に乗せ、「ではまた後ほど」と言って颯爽と屋敷に戻っていった。
八重はぽかんと口を開けてそれを見送る。重い麻袋をいとも簡単にいくつも持って行くことも、神が気軽に声に応じることも。腰を抜かすほど驚くことばかりだ。
八重はなんとか気を取り直し、これから使う種籾を真水で洗い始めた。なんとまあ、すごい所に来たものだ、と思いながら。
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