夏の章 一巡

芽かぶ






「八重殿! 出汁が引けるようになるぞ!」


「まあ、それはうれしいことですね」


 田んぼから帰った八重を、家守の弾んだ声が迎えた。家守が腕を振るえることも、料理の幅が広がることも、どちらも喜ばしいことだと八重は手を叩いて微笑んだ。


「ああ、龍守たつのかみ様が昆布を届けて下さったのだ。わかめもたくさん頂いたぞ」


「昆布にわかめ……ですか」


 嬉しそうな家守の言葉に、八重は首を傾げた。八重は山育ちで、海のものと縁遠かったのだ。


「八重殿は山でお育ちだったか。ご存知ないのではないか?」


「ああ、そうか。八重殿、鳥居の先には雲海が広がっているのだ」


「雲海ですか?」


 井守も顔を出して、首を傾げる八重に口々に説明を始める。


「人の世にある海と似たようなものでな。魚や貝、海藻などがとれるのだ。昆布とわかめは海藻だ」


「海はおわかりになるか? 果ての見えぬ湖のようなものでな。海の水は塩っぱくて、そこから塩をとっているのだ」


「そうなのですね。……まあ、なんとも不思議に思えます。里では温泉から塩を作っていたのです」


「ああ、山塩か。出汁は何でとっておられた?」


「干した野菜や茸でしょうか。あとは鳥の骨ですね」


「左様か」


 八重の言葉に、家守はうんうんと頷く。


大鹿守おおしかのかみ様の御わす山でも茸は採れよう。八重殿にとって親しみのある味も、お出しできれば良いな」


「八重殿は龍守たつのかみ様から加護を賜っただろう。加護が増えれば八重殿が歩ける場所も広がる。今は無理であろうが、いずれ鳥居の先にも行けると良いな」


「今は霧で見えぬだろうが、鳥居の先には砂浜と岩場が広がっているのだ。潮が引けば浅蜊あさりはまぐりが採れるのだぞ。どちらもとても美味だ」


「雲海も本来であれば、小舟を浮かべて魚を釣ることができるのだがなぁ。龍守たつのかみ様が泳ぎ鎮めて下さっているが、未だ舟は無理であろうな」


 人の世もかわいそうなことよ、と井守と家守は腕を組みそろって頷く。そして、しまったと言わんばかりに顔を上げて動き始めた。


「おっと、長話をしてしまったな。申し訳ない。八重殿、白陽様に御膳をお出ししてくれ」


「はい、かしこまりました」


 慌てたように膳を用意する家守に、八重はくすくすと笑みをこぼした。渡された膳に乗っているのは、椀にこんもりと盛られた白飯、小皿の塩、水、山菜を焼いたもの、それから、小鉢に入った緑のものだ。


 この細かく刻まれた緑のものが海藻だろうか、と考えながら、八重は白陽の元に膳を運んだ。




「ああ、来たね、八重」


「はい。御膳をお持ちいたしました」


 白陽の前に膳を置き、八重は深く頭を垂れる。


「今日は何があったか、聞かせておくれ」


「はい!」


 八重は声を弾ませて、田んぼの小屋で脱穀をしたこと、その近くでナズナが舞って、花や葉が米に混ざって困ったこと、ナズナの無邪気な喜びように、つい笑ってしまったことを話した。


 ナズナは八重の膝の上で、照れたように左右に揺れている。憎めないその様子に、八重はくすくすと笑いながらナズナをつついた。


「――それから、井守さんと家守さんに、雲海のことを伺ったのです。魚や貝や海藻がとれるのだと。……それで」


「うん」


 少し言い淀む八重に、白陽は優しく頷いて先を促す。


「雲海が荒れると、人の世がかわいそうなのだ、と。私はあの鳥居の下で目覚めました。雲海は、人の世に繋がっているのでしょうか」


「直接、繋がっているわけではないんだよ」


 白陽は八重に言い聞かせるように言葉を発する。


「雲海には雲海の底がある。だが、雲と海、そして人の世との境界が曖昧でね。一度迷えば、何処へも出られず永遠に彷徨うこととなるだろう」


 真剣に話を聞く八重に、白陽は語って聞かせる。白陽の語り口に、八重は雲海の神秘と恐ろしさを感じ取っていた。


「だがひとつ確かなことは、雲海が荒れると人の世の天候が荒れる、ということだ。井守と家守が案じたのはそのことだよ」


「それを、龍守たつのかみ様が鎮めてくださっているのですね」


 なんとも有難いことだ、と八重は目を伏せ龍守たつのかみに感謝を捧げた。八重の様子に白陽は「うん」と頷き、話を続ける。


「八重は人の世の中心にある山の洞の、泉からこちらに来ただろう。あの泉は、唯一こちらと直接繋がっている。八重、そなたが来てくれて、本当に良かった」


「……はい!」


 白陽の優しく響く言葉に、八重は頬を赤らめて微笑んだ。気付けばとうに椀は空になっていて、八重は額づいて御前を辞す。


 土間の方に戻れば八重の膳が用意されていて、そこには緑のものが入った小鉢も乗っていた。手を合わせ、早速食べてみようと小鉢を持ったが、細かく刻まれた海藻は箸で掴もうとするとつると滑り、透明な粘り気をもって小鉢に落ちる。


 どうしたものか、と首を傾げる八重に家守は笑い、直接小鉢から掻き込むと良いと告げる。八重はそれに従って小鉢に口をつけた。つるりと口に滑り込む海藻は、こりこりとした小気味よい歯ごたえと、強いぬめりが面白い食感だった。塩気と粘り気に、深い香りが鼻を抜ける。これが海の香りなのだろう、と八重は胸いっぱいに豊かな香りを楽しみ、大きく息を吐いた。


 初めて味わった海藻の香りが広がる、海そのものが鼻腔をくすぐるような吐息だった。






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