塩むすび
「御膳を下げてまいりました」
八重は土間の方に戻り、井守と家守に声をかけた。
「ご苦労だった、八重殿」
「八重殿の膳もそちらに用意している。さあ、召し上がると良い」
塩むすびだけでおかずがないのだが、と家守は笑い、空の膳を受け取って八重に食べるよう勧める。土間に面した畳の部屋に、布巾がかかった膳が用意されていた。
「御部屋にお運びしようか?」
「いえ、こちらで頂きます」
膳をあちこち運んでは手間がかかるだろうと、八重は用意された場所で膳の前に座った。布巾をあげると、三角形をした真っ白なおむすびがふたつ、揃って並んでいた。
「……このように、真っ白なご飯は頂いたことがありません。なんて、まあ、贅沢な……」
八重にとって、米とは玄米だった。それに、
「ここでは常に白米だ。白陽様にお出しするのだからな」
「ささ、八重殿も召し上がれ」
「はい、頂きます」
御神饌を下げて頂くようなものと思えば、確かに白米であって当然だと思えた。八重は両手を合わせて拝み、そっと塩むすびを持ち上げる。米の一粒一粒がつやつやと光っていた。甘く優しい香りが食欲をそそる。
八重はかぷりと塩むすびに齧りつく。口に含んで、最初に感じたのは程よい塩気だった。喰めば口の中で塩むすびがほろりとほどける。
芳ばしい香りが鼻腔に抜ける。噛むごとに甘みが口の中に広がり、塩味と混ざり合う。米の一粒一粒はしっかり粒立っているが、噛めば噛むほどもっちりと柔らかな食感を伝えてくる。心地よい粘りと柔らかく口の中でとろける甘みが得も言われぬ旨さを感じさせた。
美味しかった。体に染み渡る程に。ぼろぼろと、八重の瞳から大粒の涙がこぼれた。
(――ああ、そうだ私は)
飢えていたのだ。死を身近に感じるほど。上天に来てから飢えを感じずにいられただけで、八重は心底から飢えていた。
「……あ、わあ、わあああん!!」
「どうした八重殿!」
「何ぞあったか、舌でも噛んだか!?」
突然大声を上げて泣き出した八重に、井守と家守は慌てふためいて駆けつけてくる。ナズナも慌てて八重の膝で飛び跳ねた。
「おい、おいしい、ごはん、おっおいしい」
しゃくり上げながら八重がなんとか言葉をつむぐと、井守と家守は顔を見合わせてからあたふたと動き始める。
「八重殿、どうだもうひとつ握ってこようか」
「他に何ぞないのか、茶くらいなんとかならんか」
「共に確かめただろう。お前は白湯を用意しろ」
「相分かった。家守、もうひとつは止めておこう、いくら神米とはいえ、急に食べればかえって毒だ」
「八重殿、明日もお出しするからな。ゆっくり食べるのだぞ。追々、色々なものもお出ししよう、な」
八重は泣きながら、こくこくと頷いた。ひと口ひと口大切に、ゆっくりと塩むすびを平らげる。一粒残さず腹に入れて、井守にもらった白湯を飲んで、八重はずっと鼻をすすった。
人心地ついた八重に、井守は風呂を勧めてくれた。「八重殿、風呂はお好きか」という井守の言葉に頷くと、井守はよかったと笑って八重を風呂場に案内してくれた。今日検め終わったのだ、と。
熱い湯に体を浸けて、八重はほうと息を吐いた。里から少し歩いた御山の中にも、温泉が湧いていた。男衆の日と、女衆の日。それから、
八重はちゃぽりと湯に顔を浸けた。ああ、食べるとは、生きることなのだ。腹が満たされて、やっと気付いた。今改めて見た自分の手足が、驚くほどやせ細っていたことに。
風呂から上がり、部屋に戻ると布団が用意されていた。ほこほこと温まった体で布団に入ると、布団からはお日様のいい匂いがした。
昨夜もきっとそうだった。井守か家守が、日に干してくれたのだ。心も体も精一杯で、八重にそれを受け取る余裕がなかっただけで。
――八重には、きちんと体を休める場所も、食事も必要だ。
白陽の言葉が八重の脳裏に浮かぶ。
(本当に、白陽様のおっしゃるとおりだ……)
いつかどこかを患うと、白陽は八重にそう言っていた。八重は気付かず病んでいたのだ。飢餓の底に囚われて、早くせねばと気を急き立てて、自身を労ることを忘れて。
お腹の中が温かい。温泉に浸かった体が心地良い。布団はいい匂いがして、柔らかかった。
枕元のナズナに頬を寄せると、ナズナは八重を慰めるようにすり寄ってきた。八重は温かな涙を一粒こぼし、深い眠りへと誘われていった。
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