屋敷の目覚め
八重が起きたとき、身体の上に
「八重、屋敷を目覚めさせよう」
歌の奉納を終えた後、白陽はそう言葉を発した。
「屋敷を、でございますか?」
「ああ。八重には、きちんと体を休める場所も、食事も必要だ。毎日の奉納でようやく力が足りた。――それに」
白陽は、ただ自分のためだけに、と思えば
「屋敷が目覚めれば、共に私に仕える
八重は白陽の言葉に納得する。それは、確かに人に必要な守りだった。特に井戸には、その実感がある。
「かしこまりました」
八重が頭を下げて承知すると、白陽は「うん」とこたえ指先に光を湛える。こうと輝き、光がはぜる。光が収まった後八重の目に飛び込んできたのは、色を取り戻した立派な屋敷だ。
屋根の瓦一枚一枚が、まるで魚の鱗のように
「――井守、家守」
「はっ」
「こちらに」
屋敷に目を奪われていた八重の後ろで、男の声がした。驚いて後ろを振り返れば、黒と赤の髪をした男と、灰と白をした髪の男がふたり、八重の後ろで片膝をついて深く頭を垂れている。
「私はまだ動けぬ。そこにいる八重は、私の巫女だ。世話を頼んだよ」
「承知つかまつりましてございます」
「白陽様の御心のままに」
ふたりはそうこたえると頭を上げて八重を見つめる。片側の前髪が顔にかかり、長い髪を後ろで一本に縛っている。黒と赤で右目を隠した井守と、灰と白で左目を隠した家守。すらりと引き締まった身体をした美丈夫たちだ。
「ひっ人っ……人の姿でいらっしゃる、のですね」
八重は驚いてひっくり返った声をあげた。
「白陽様のお近くに仕えるのだ、近い姿をとらねば不便だろう」
「左様。礼を言おう八重殿。お陰で目覚める事ができた」
ふたりは快活に笑って八重にこたえる。八重は半身をふたりに向けて、地に手をつき頭を下げた。
「あの、お世話になります。自分のことはなるたけ自分で致しますので、よろしくお願い致します」
「ふむ……」
ふたりは頭を下げる八重をまじまじと見つめ、思案顔をする。
「いや、これは大変なことだぞ井守」
「そのようだ。屋敷も一度灰になったのだ、無事なものを確かめねばならんな」
ふたりは立ち上がり、白陽に向かって一礼する。
「御前失礼致します」
「屋敷を検め、整えて参ります」
「ああ。頼んだよ」
「八重殿」
白陽の言葉に頷いたふたりは、立ち去る前に八重に声をかける。
「御用が終われば屋敷に来て頂きたい」
「御部屋をご用意してお待ちしている」
ふたりはそれだけ言うと、そのまま踵を返して颯爽と歩いていく。八重はその様子をぽかんとした顔で見送った。ナズナは呆ける八重の頭の上で、くるくると舞って花を溢していた。
夕方、田んぼ仕事を終えた八重は屋敷に向かった。玄関を開け、そっと声をかける。
「あの、参りました。井守様、家守様」
「ああ、よしてくれ。我らは『様』と呼ばれるほどのものではない」
「左様。白陽様に仕える小間使いのようなもので、神としての格も低いのだ。お帰り八重殿」
八重の声に気付いたふたりは玄関に顔を出し、口々に八重に話しかける。
「気軽に接してくれればよい。――井守、そっちはどうだった」
「いや、やはり丁度良い反物は屋敷にないな。やはり
「そうは言っても、このままと言う訳にはいくまい。せめて羽織はいるだろう」
ふたりは顎に手を当てて、八重の姿を眺めながら思案する。八重はその様子に、自分の着物の話をしているのだと気付いた。
「私の着物でしたら、田の仕事を致しますので羽織は……」
汚すから、と頭を振る八重に、家守はううむと唸った。井守は暫く考えて、思いついたと明るい声を出す。
「では、袴はどうだ。緋色の反物ならあったぞ」
「おお、それは良い。早速出しておいてくれ」
「相分かった」
井守はそうこたえるなり屋敷の奥に姿を消す。ぽんぽんと小気味良く決まっていく話に、八重は口を挟むことも出来ず取り残される。家守は八重に振り返り、にっこりと笑みを浮かべた。
「八重殿、お疲れだろう。御部屋に案内しよう」
足を拭くための濡れた布を渡され、足を拭いて屋敷に上がる。それを見るなり家守は「こちらだ」と言ってずんずんと進んでいく。置いて行かれる訳にもいかず、八重は家守の後ろを付いて行った。
通されたのは、中庭に面した十畳程の部屋だった。文机が置かれ、飾り棚には一輪挿し。行灯が灯され、立派な寝具が敷かれていた。
「まだ用意の足らぬものが多いが、暫くお待ち頂きたい。気に入らぬことがあれば気軽に言ってくれ」
「湯をお持ちしたぞ」
八重が通された部屋に呆気にとられていると、井守が湯の入った桶と布を持って現れた。
「風呂まで手が回らず申し訳ない。今日の所はこれで。使い終わったら廊下に出しておいてくれればよい」
「では八重殿、ゆるりと休まれよ」
ふたりはそう言うと、部屋に八重を残して去っていく。あれよあれよという間に進んでいった状況に、八重はただぽかんと口を開けるばかりだった。
ずっと呆けている訳にもいかないと、八重はとりあえず渡された湯で身を清め、使い終わった桶を廊下に出して布団に入った。
綿がたっぷりと使われた、美しい柄の立派な寝具だ。八重は今までこんなに立派な寝具を見たことがなかった。これはまるでお大臣様が使うような寝具だと、八重は恐る恐る身体を横たえる。
ナズナは八重の枕元で楽しそうに弾んでいる。その様子にいくらか慰められながら、八重は天井を眺めた。
(――寂しいと)
思っては、いけないのだろう。こんなに立派な部屋を用意してもらって、暖かな寝具に身を横たえて。そもそも、御座所に上がるのは畏れ多いことなのに。
八重は目を閉じて、腕で顔を覆った。ナズナはそんな八重の様子を心配そうに伺う。
ただただ、八重は白陽の後ろ姿が恋しかった。
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