屋敷の目覚め






 八重が起きたとき、身体の上に葉槌はつち野椎のつちが積み上がっていることにも慣れた時分。田の稲が青々と育った頃だった。


「八重、屋敷を目覚めさせよう」


 歌の奉納を終えた後、白陽はそう言葉を発した。


「屋敷を、でございますか?」


「ああ。八重には、きちんと体を休める場所も、食事も必要だ。毎日の奉納でようやく力が足りた。――それに」


 白陽は、ただ自分のためだけに、と思えば躊躇ためらうであろう八重に優しく言葉を続ける。


「屋敷が目覚めれば、共に私に仕える井守いもり家守やもりが目覚める。井守は井戸水が濁らぬよう、枯れぬよう守りを与える。家守は人の住む家が朽ちぬよう、悪しきものが寄らぬよう守りを与える。それは人の世にとっても必要な守りだ」


 八重は白陽の言葉に納得する。それは、確かに人に必要な守りだった。特に井戸には、その実感がある。


「かしこまりました」


 八重が頭を下げて承知すると、白陽は「うん」とこたえ指先に光を湛える。こうと輝き、光がはぜる。光が収まった後八重の目に飛び込んできたのは、色を取り戻した立派な屋敷だ。


 屋根の瓦一枚一枚が、まるで魚の鱗のようにつややかに光を受ける。白漆喰の外壁は染みや汚れのひとつもなく、眩かった。並み立つかまちは見目よく、木材の温かな色味を添える。


「――井守、家守」


「はっ」


「こちらに」


 屋敷に目を奪われていた八重の後ろで、男の声がした。驚いて後ろを振り返れば、黒と赤の髪をした男と、灰と白をした髪の男がふたり、八重の後ろで片膝をついて深く頭を垂れている。


「私はまだ動けぬ。そこにいる八重は、私の巫女だ。世話を頼んだよ」


「承知つかまつりましてございます」


「白陽様の御心のままに」


 ふたりはそうこたえると頭を上げて八重を見つめる。片側の前髪が顔にかかり、長い髪を後ろで一本に縛っている。黒と赤で右目を隠した井守と、灰と白で左目を隠した家守。すらりと引き締まった身体をした美丈夫たちだ。


「ひっ人っ……人の姿でいらっしゃる、のですね」


 八重は驚いてひっくり返った声をあげた。大鹿守おおしかのかみが牡鹿の姿をしていたので、白陽に仕えるものは皆獣の姿をしていると思い込んでいたのだ。


「白陽様のお近くに仕えるのだ、近い姿をとらねば不便だろう」


「左様。礼を言おう八重殿。お陰で目覚める事ができた」


 ふたりは快活に笑って八重にこたえる。八重は半身をふたりに向けて、地に手をつき頭を下げた。


「あの、お世話になります。自分のことはなるたけ自分で致しますので、よろしくお願い致します」


「ふむ……」


 ふたりは頭を下げる八重をまじまじと見つめ、思案顔をする。


「いや、これは大変なことだぞ井守」


「そのようだ。屋敷も一度灰になったのだ、無事なものを確かめねばならんな」


 ふたりは立ち上がり、白陽に向かって一礼する。


「御前失礼致します」


「屋敷を検め、整えて参ります」


「ああ。頼んだよ」


「八重殿」


 白陽の言葉に頷いたふたりは、立ち去る前に八重に声をかける。


「御用が終われば屋敷に来て頂きたい」


「御部屋をご用意してお待ちしている」


 ふたりはそれだけ言うと、そのまま踵を返して颯爽と歩いていく。八重はその様子をぽかんとした顔で見送った。ナズナは呆ける八重の頭の上で、くるくると舞って花を溢していた。




 夕方、田んぼ仕事を終えた八重は屋敷に向かった。玄関を開け、そっと声をかける。


「あの、参りました。井守様、家守様」


「ああ、よしてくれ。我らは『様』と呼ばれるほどのものではない」


「左様。白陽様に仕える小間使いのようなもので、神としての格も低いのだ。お帰り八重殿」


 八重の声に気付いたふたりは玄関に顔を出し、口々に八重に話しかける。


「気軽に接してくれればよい。――井守、そっちはどうだった」


「いや、やはり丁度良い反物は屋敷にないな。やはり羊守ひつじのかみ様がお目覚めにならねば」


「そうは言っても、このままと言う訳にはいくまい。せめて羽織はいるだろう」


 ふたりは顎に手を当てて、八重の姿を眺めながら思案する。八重はその様子に、自分の着物の話をしているのだと気付いた。


「私の着物でしたら、田の仕事を致しますので羽織は……」


 汚すから、と頭を振る八重に、家守はううむと唸った。井守は暫く考えて、思いついたと明るい声を出す。


「では、袴はどうだ。緋色の反物ならあったぞ」


「おお、それは良い。早速出しておいてくれ」


「相分かった」


 井守はそうこたえるなり屋敷の奥に姿を消す。ぽんぽんと小気味良く決まっていく話に、八重は口を挟むことも出来ず取り残される。家守は八重に振り返り、にっこりと笑みを浮かべた。


「八重殿、お疲れだろう。御部屋に案内しよう」


 足を拭くための濡れた布を渡され、足を拭いて屋敷に上がる。それを見るなり家守は「こちらだ」と言ってずんずんと進んでいく。置いて行かれる訳にもいかず、八重は家守の後ろを付いて行った。


 通されたのは、中庭に面した十畳程の部屋だった。文机が置かれ、飾り棚には一輪挿し。行灯が灯され、立派な寝具が敷かれていた。


「まだ用意の足らぬものが多いが、暫くお待ち頂きたい。気に入らぬことがあれば気軽に言ってくれ」


「湯をお持ちしたぞ」


 八重が通された部屋に呆気にとられていると、井守が湯の入った桶と布を持って現れた。


「風呂まで手が回らず申し訳ない。今日の所はこれで。使い終わったら廊下に出しておいてくれればよい」


「では八重殿、ゆるりと休まれよ」


 ふたりはそう言うと、部屋に八重を残して去っていく。あれよあれよという間に進んでいった状況に、八重はただぽかんと口を開けるばかりだった。


 ずっと呆けている訳にもいかないと、八重はとりあえず渡された湯で身を清め、使い終わった桶を廊下に出して布団に入った。


 綿がたっぷりと使われた、美しい柄の立派な寝具だ。八重は今までこんなに立派な寝具を見たことがなかった。これはまるでお大臣様が使うような寝具だと、八重は恐る恐る身体を横たえる。


 ナズナは八重の枕元で楽しそうに弾んでいる。その様子にいくらか慰められながら、八重は天井を眺めた。


(――寂しいと)


 思っては、いけないのだろう。こんなに立派な部屋を用意してもらって、暖かな寝具に身を横たえて。そもそも、御座所に上がるのは畏れ多いことなのに。


 八重は目を閉じて、腕で顔を覆った。ナズナはそんな八重の様子を心配そうに伺う。


 ただただ、八重は白陽の後ろ姿が恋しかった。





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