蕗の薹






 与一は夜明け頃、家を出て雪の残る里を眺めた。雪はもう薄く、土に混ざっていて掻き集めても飲めそうにない。


 体が重く、疲れ果てていた。眠りたいのに、眠り続ける体力がない。胃は常にしくしくと痛んだ。何よりも辛いのは、ひもじがる子どもたちに何も食べさせてやれないことだ。柔らかかった手足が棒切れのようになっていくのを、ただ見ていることしかできない。はあ、とか細く湿った白い息が与一からこぼれる。


(ああ、このままでは)


 取りたくない選択肢が、常に浮かび上がっている。絶望に暗く沈む与一の視界が、何かを捉えた。ふらふらと、吸い寄せられるように与一は重い足を動かしそれを目指す。


「ああ、あああ、あああああ!!」


 夜明けの里に与一の叫び声が響く。男の絶叫が響いても、里は静まり返って誰も出てこようとはしない。皆もう、慟哭に慣れてしまったのだ。次は誰が死んだのか、と横たわったまま悲しみを聞き流し身体を丸める。


「ああ、ああああ…………八重!!」


 与一は八重の名を叫んで薄い雪の上に崩れ落ちる。膝をつき、蹲った与一の両手の間に、緑の新芽が顔を覗かせていた。涙に滲む視界で、必死に周りを見渡せば、あちらこちらにちらほらと、白と黒の世界に緑が輝く。


「八重、八重……届けてくれたのか!!」


 与一は天を仰ぎ、大声を上げて涙を流した。意味を成さない喚き声が喉から迸る。


 里は限界を迎えていた。この春に食べ物が得られなければ、もう、弱い者から口減らしをするより他なかった。老いた者と、幼い者を。


 夏に作った山塩を舐め、雪を掻き集めて溶かして飲んだ。里に降りてきた、餓死した獣を捌いて食べた。薄い薄い粥の、椀に数粒沈む穀物を何度も何度も噛み締めた。固く凍った地面を掘り返し、木の根を齧って口慰めた。


 何人も、死んでいく者を見送った。それでも人の道を踏み外さずにいられたのは、畜生道に堕ちずにいられたのは、八重を、人柱に送ったからだ。


 もし八重が神にまみえれば――送った我々が恥ずべきことは出来ないと、皆がその一心で耐え忍んだ。そして今、両手の間には確かにふきとうが芽を出している。


(恨まれても)


 仕方ないだろうに、と与一は涙をこぼし続ける。ああ、でも八重は、人を恨めるような子ではなかった、と溢れる涙に拳を握った。優しい子だ。いつも、穏やかに笑っていたあの子は。


 子どもたちの面倒を、よく見てくれる子だった。花冠を編んで、虫や蛙を捕まえて。大人が畑仕事をしている間、子どもたちを集めて見ていてくれた。歌を歌って、手遊びをして。


 八重の名が聞こえたことに、何事かと人が顔を出し始めた。ふきとうを見つけては、皆手を合わせて涙を流す。


 有難う、有難うと天に祈りを捧げて。


 厚く重い雲の狭間から、淡い光が細く里に降り注いでいた。




§




 朝日の登る空に八重の歌声が響き渡る。温かな祈りの奔流が八重の身体を通り抜ける。


「……届いたでしょうか」


 歌い終えた八重は、大気に溶ける光の残滓を見送りながらぽつりと呟いた。祈りの奔流は、僅かだが確かに、日々その勢いを増していると感じとれた。


「ああ、きっと人の世に届いたよ、八重」


「はい」


 白陽の肯定の言葉に、八重は柔らかく微笑んだ。まだ、最初の一歩だ。然程暮らしは楽にならないだろう。――でも。


(どうか、命を繋いで)


 生き延びて欲しい。必ず実りを届けるから。だから、どうか、生きていて。


 八重はそう願い蒼天を見上げる。冬を乗り越えた命があると、信じながら。




 月の光に 雪は白く

 眠れ眠れよ 芽生えを待ちて――





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