山の目覚め
八重は小屋から鎌を出して、乾いた田んぼに足を踏み入れた。揺れてはざあと音を立てる稲穂を掴み、根本から鎌で刈り取る。
(やっと)
ある程度の株を刈り取っては纏めて束ねる。稲を刈りながら、八重ははらはらと涙をこぼしていた。
(やっと、届けられる)
これだけの量で、何もかもがよくなるわけではないだろう。きっとこれから先も、八重は同じ様に、いや、今まで以上に、働き続けなければならないのだと理解している。
それでも、あの絶望から間違いなく一歩抜け出せる。稲を刈る毎に、痩せた子どもたちの顔を思い出す。絶えていった笑い声を。やるせなさに拳を握り締める大人たちを。――里にいた、乳飲み子はどうなったろう。
次から次へと溢れ出る涙と共に、八重は鎌を引き続けた。
夕暮れ前に、八重は稲を刈り終えた。稲束を田面に並べて日干しする。田んぼ一面に並ぶ稲束を前に、八重は涙を拭った。泣き腫らした瞼を水路に浸けた手で冷やしながら、日が暮れていく様を、夕日に照らされ輝く稲束を、暫くじっと眺め続けた。
「八重、よく頑張ったね。さあこちらへおいで」
日が沈んだ後戻った八重を、白陽が温かく迎える。八重は「はい」と返事をして、思わずまた涙をこぼした。
「いいかい八重、明日一日稲を干して、明後日の午前に稲束を半分、こちらへ持っておいで」
「稲束のまま、半分でございますか?」
「ああ。私に供える分は脱穀も
八重は白陽の言葉に慌てて頭を振った。
「いいえ、いいえ。私の食べる分はどうか奉じさせてください。ここで私は、空腹を感じることがありません」
「いいや、八重。それではいけない。そのように痩せた体で無理を続ければ、いつか必ずどこかを患う」
腹の空かぬ自分よりも、少しでも早く人の世に実りを届けたいと願う八重に、白陽はやんわりと断りの言葉を告げる。
「八重、私の巫女。長く、健やかに務めておくれ」
ああ、そうか、と八重はぐっと言葉を呑み込んだ。ずっと食わずに働き続けられないのだ。空腹を感じなくても、
「かしこまり、ました」
八重を案じる白陽の心が温かかった。白陽は、ただ奉納を途絶えさせないために八重に食べろと言っているわけではない。声の優しさが、そう伝えている。
『私の巫女』――その言葉が、八重の心に深く沁みた。
翌々日、歌を奉納した後、八重は田んぼへ向かった。小屋から
何度も往復し、こんもりと積み上げた稲穂を前に八重は座して額づいた。
「稲穂を、白陽様に奉納致します」
「ああ、受け取る」
白陽がこたえた途端、稲穂はこうと輝き、光の渦となって掻き消える。白陽の指先が再び光を宿す。
「八重、手を出しなさい」
「はい」
八重は頭を上げて、両手を差し出した。光を湛える白陽の指先に不安げな眼差しを送ると、白陽は安心させるように穏やかな声を出す。
「大丈夫。八重の働きで十分に力は足りた。さあ、そのまま」
空中に光が集まる。光は輝く雫となって、差し出した八重の手のひらに落ちてきた。しゃん、と高く澄んだ音を立て、雫は八重の手のひらに弾けて溶ける。
「八重、屋敷の裏手に回って、山の手前に行きなさい。木々の生えるところに行けばそれで良い。まずは山を目覚めさせなさい」
「山を、ですか?」
「ああ。山が目覚める前に人里に実りをもたらせば、山の獣たちが人里に降りてしまう。それは双方にとって望ましいことではない」
飢えた獣が里に降りれば。撒いた種や芽吹いたばかりの新芽を荒らされれば。人が、襲われれば。実りどころの話ではない。何事にも順序があるのだと、八重は深く頷いた。
「山が目覚めれば、共に葉や野の精も目覚める。人里にも、恵みが届く」
「はい、ありがとうございます」
「山の神と、十二の守護神。私の側に仕える四柱。満ちた力で、順に目覚めさせよう。まずは
「かしこまりました」
八重は立ち上がって、白陽に向かって一礼し、山の入口に向かって歩き始めた。
八重は屋敷の裏手に山路を見つけた。木々も下草も、全て立ち枯れたように一面灰の世界が広がっている。八重は入口の、少し開けた場所に座して手を合わせた。
「上天に御座す
合わせた手が光り輝く。しゃん、しゃんと何処からか鈴の音が響く。一層大きな音が鳴ると共に、光が弾けた。吹き抜けた風に瞼を開けると、目の前に驚くほど大きな、立派な牡鹿が姿を現していた。
牡鹿が足を一度踏み鳴らす。牡鹿の足元から、芽吹くように、花開くように、山が色を取り戻していく。灰が緑に塗り替えられる。
(ああ、山が、
目覚めたのだ。八重は自然と、目の前の
(どうか、どうか)
人の世に、届きますように、と。
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