実る稲穂
翌日、朝日が登る頃に八重は目を覚ました。
「お早う、八重」
「おはようございます、白陽様」
優しくかけられる白陽からの言葉に八重は綻ぶように微笑む。昨日と同じ様に、八重は白陽の前に座して深々と礼をとり、歌を奉納する。
昨日ほどの迸る奔流ではないが、人々の祈りが確かに八重を通して白陽に奉じられていく。八重はその流れに身を任せ、奔流と一体となって祈り歌う。人の世に実りを、この上天に目覚めを、と。
歌い終え、一度深く額づき八重は立ち上がる。
「田を頼んだよ、八重」
「かしこまりました。御前失礼いたします」
八重は一礼して田んぼに向かう。階段を下り、田畑について、まず八重は止水板を上げて田んぼに水を入れ始めた。水を張っている間に小屋から苗を出し、田んぼ全体に薄っすらと水が入ったところで止水板を下げる。
小屋で見つけた紐で襷掛ける。見る者はいないから、と思い切りよく着物の裾をたくし上げ腰紐に挟み、腰籠に苗を入れて括り付けた。田んぼにそろと足を踏み入れると、丁寧に
(よし)
八重は気合を入れて、一株一株丁寧に苗を田に植えていった。出来るだけ真っ直ぐに、均等に間を開けて。腰籠が空になるとまた苗を取りに行き、
日がまだ高いうちに、八重は苗を全て植え終わった。畦に腰を下ろし、水路で足を洗う。足を水に遊ばせて、八重は田んぼを振り返りぼんやりと苗を見つめ続けた。水路を流れる水は冷たさが心地良く、植えた苗は青く風にそよいでいた。
八重は毎日、夜明けと共に起きて白陽に歌を奉納した。それから田んぼに向かい、日々育っていく稲を世話する。水の具合を確かめ、雑草が生えればそれを抜きに田に入った。
初めは恐る恐る稲の間を歩いたが、上天の稲は八重が田を歩いても不思議と倒れることも泥を被ることもなく、まるで八重の足を避けているかのようにそよいでいた。八重は不思議に思って、寝る前に白陽に尋ねると、白陽は「神の稲だから、わざと踏もうとしない限り踏めないし、病にかかることもないんだよ」と教えてくれた。八重は心底感心して、「何とも有難いことですね」と嘆息した。
里で稲を育てることは、病や虫との戦いの日々だった。特に飢饉の起こった今年は、病にかかり葉枯していく稲に、よって集る虫に、薄めた酢を撒いたりあれこれと手を尽くして、得られぬ手応えに皆で項垂れていた。
人の世もこうであればいいのに、と思ったが、そうでないから人の世で、そうであるから上天なのだろう。八重は過分な望みを飲み込んで、知識の少ない自分でも育てられる有難さに感謝した。
育てやすいとは言っても、八重はひとりで田の世話をするのが初めてで、その上に上天の稲は育つのがとても早かった。田んぼの水の具合はすぐに変わってしまう。隣の畑に植えられるものはまだないが、それでも放っておけば畑は草に覆われてしまう。八重は付きっきりで、止水板を上げたり下げたり、田んぼや周りの草をひいたりと、慣れぬ手つきで忙しく働き続けた。
毎日精一杯働いては、白陽の元に帰る。白陽は変わらず動かぬままだが、毎日温かく八重を労ってくれた。田んぼや畑の仕事をすれば、どうしても泥汚れをつけてしまう。溜め池や水路で出来るだけ清めても、限度があった。いくら御座所に入る際に清められるとはいえ、汚れたまま御座所に上がるなど畏れ多く、慣れてはいけないことだと八重は毎日思っていた。しかし、穏やかな声で「お帰り八重、今日も頑張って働いてくれたね。さあこちらに上がりなさい」と白陽に言われると、八重はつい嬉しくなって「はい」とこたえ、戸惑いなど忘れていそいそと御座所に上がり微笑んだ。
朝から夕まで身体を動かし、心地良い疲労感に八重は毎日すぐにぐっすりと眠りについてしまう。それでも寝付くまでのわずかな間、白陽と今日は何をしたかと話す時間は、八重にとってとても温かく、幸せな時間だった。そして毎夜誓うのだ。必ず、必ず届けると。稲が育つほどに得られる手応えが、白陽の温かさが、八重の心を支えていた。
上天はずっと春のような暖かさなのに、不思議と稲はすくすくと育っていく。稲の分けつが始まれば、田んぼから水を抜いて中干しをした。穂が出始めると、田んぼにたっぷりと水を入れた。里では皆こうしていた、と、見聞きした知識もまた八重を支え続けた。
八重が上天に来てから三月程、ついに穂はたっぷりと実り、稲は重く頭を垂れた。
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