歌を、祈りを






「八重、そこで寝てはいけないよ」


 夕暮れに、大御神の柔らかな声が響く。八重は泣き疲れ、大御神の御前に蹲ったままうとうとと船を漕いでいた。


「とはいえ、屋敷もまた眠りについている。そなたが身を休める場所は……そうだ、八重。こちらに上がりなさい」


 大御神は優しく、八重を御座所に上がるよう勧めた。のそりと頭を上げた八重は、その言葉に慌てて頭を振る。


「いいえ、いいえ。そのようなこと。畏れ多いことでございます。それに……」


 八重は自分の身体に目をやった。地についた手も、着物も、灰で薄汚れている。きっと、地に伏せていた額も。


「このようななり御許みもとに上がるなど、とても」


「気にせずとも良い。この場は不浄を通さない。汚れも落ちて、丁度よい」


 でも、とためらう八重に、大御神は柔らかく声をかける。


「こちらへおいで、私の巫女。そなたは私の巫女なのだから、後ろに控えておかしいことなど一つもない」


 私の巫女。その優しく響く呼びかけに、八重は許しを得た心地がした。偉大なる大御神の巫女ともあろうものが、灰に薄汚れ地べたに蹲って眠るなど、その方が余程許されぬ所業であろう、と。


「かしこまりました」


 そうこたえ、八重は恐る恐る御座所に上がった。上がる瞬間、透き通った膜をくぐるような感触があった。不思議に思い身体を改めると、手や着物についた灰汚れが綺麗に清められていた。


「私の後ろで眠りなさい。布団や布は無いけれど、外より幾分か良いだろう」


「ありがとうございます」


「良い。いいかい八重、きちんと身体を横たえて、しっかり眠るのだよ。明日から巫女として務めてもらうのだから」


「はい、かしこまりました」


 十全に働くために休むのだ、と思えば、横たわることへの抵抗感は薄まった。言われた通り、大御神の後ろで素直に身を横たえると、畳からは鼻の奥まで染み渡るようなイ草の清々しい香りがした。


(里の皆は)


 どうしているだろう、と八重は瞳を閉じた。これから寒い冬が来る。厳しい冬が。蓄えはろくになく、鳥も、獣も、大地までもが皆かつえている。


 自分だけが救われてしまった、と八重は身体を丸めて涙をこぼす。ここは暖かい。ずっと身を蝕んでいた胃の腑を引き絞るような飢えも、不思議と和らいでいる。


(どうか、ひとりでも多く)


 生き延びて欲しい。ここで出来る限りを尽くすから。八重はそう願いながらはらはらと涙を流す。


 八重はあの里で、少し浮いた立場だった。しかしそれは排他されていたという意味ではない。里のものは皆、『巫女』を扱いあぐねていたのだ。八重は様々な労働を免除されていたし、里長によって教育も施された。里長に代々伝わる、帝を迎えるための言葉遣いや振る舞いを。かろうじて細々と伝わってきたそれは、お世辞にも洗練されたと言えるものではなかったが、それでも今の八重を支える知識だった。


『巫女だから』――それは名ばかりのものであったが、親のない八重が然程さほど苦労せず今まで生きて来られた理由であった。巫女だから、人柱に選ばれるのは当然だと受け入れられるほどに。


 八重はぎゅっと肩を抱く。握りしめた着物は、里で一番上等で、真白な着物を誂え直したものだ。神の御下に行くのだから、と、そう言って女衆が皆で誂えてくれた。あてられた時の、震える指を八重は覚えている。


 里の皆は、何も八重を死なせたいと思っていたわけではないと八重は知っている。他にやり様がなかったのだ。縋るものがなかった。八重も何かに縋りたいと心から思っていた。人柱となることが救いに感じられる程に。……皆、あの飢餓の中で今も苦しんでいる。


(必ず、届けるから)


 八重はここで、正しく巫女という立場を得た。だから、必ず実りを届けると、八重はそう祈りながら泥のような眠りに落ちていった。




 翌朝、八重が目を覚ましたのは空が白み始めた頃だった。見慣れぬ場所に目を幾度か瞬き、朝明けの光に浮かび上がる大御神の背中に、ああ、と吐息をついて身を起こした。


「お早う、八重」


 八重が目覚めたことに気付いた大御神が声をかける。


「さあ、私の前に。歌や舞を納めておくれ」


「かしこまりました」


 不思議と、喉の渇きも飢えも感じない。八重はそろりと大御神の脇を抜け、御座所を下りて大御神に向き合い座した。


「私は舞を知りません。童歌わらべうたですが、歌を歌うことは出来ます。大御神に、歌を奉じさせて頂きたく存じます」


白陽はくようと」


 微動だにしない大御神は、優しい声音で八重を促す。


「私のことは、白陽と呼びなさい。さあ、歌を聴かせておくれ」


「はい、白陽様」


 八重は一度深々と頭を下げ、両手を膝に置き姿勢を正す。すうと息を吸い、八重は歌い始めた。朝日の登り始めた曇天に八重の歌声が響き渡る。


「朝日の中で 舞うは蝶々

 芽生え芽生えよ 花は開いて」


 八重が知る歌は、里で歌われる童歌だけだ。神に納めるべき歌は知らない。それでも、八重は心からの祈りを込めて歌を歌う。


「照る日差しに 鳴く蝉の声

 茂ろ茂ろよ 青々として」


 それは四季の移ろいを尊び、収穫を喜ぶ歌だ。八重の脳裏に里の風景が浮かぶ。里の子どもたちが走る、青々とした畦道を。


「夕暮れ赤く 染まる稲穂よ

 実れ実れよ 頭を垂れて」


 皆で歌い、稲を刈った日を思い出す。大御神の、白陽の御力に守られていたあの日々を感謝と共に。救い給え、お導き給えと祈りを込めて。八重は歌いながら、何か大いなるものが自身を通り抜けていくのを感じていた。


「月の光に 雪は白く

 眠れ眠れよ 芽生えを待ちて」


 光が湧き上がる。失われた上天と人の世の結び付きが、巫女を得て再び繋がる。絶望と怨嗟の念に阻まれ、行き場を失っていた人々の祈りが、信仰心が束ねられ、白陽に奉納される。


 歌い終わり、確かに何かを奉じた、と感じた八重はほうと息をついた。


「ありがとう、八重。確かに届いた」


 膝に乗せられた、白陽の指先が眩く光を湛えていた。






 

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