上天の巫女は愛を奉じる

紬夏乃

冬の章 一巡

神洞の里の巫女

 





 国を統べる帝が怪死した。


 丑三つ時に御簾の奥から迸った叫号に側仕えが駆け込んだときにはもう、御寝所には天井まで染め上げるほどにおびただしい血痕が飛び散り、帝の御姿は一筋の髪さえ残さず消え失せていた。


 その事実は深く隠され世に流れることはなかったが、しかしその日から気候は荒れ長雨が続き、この国は今飢饉に見舞われている。




 §




「神洞の注連縄しめなわが切られていた」


 里長が怒りに赤く染まった顔で、軋む歯の隙間から唸るように集まった里の者たちに告げる。それを聞かされた皆は顔を蒼白にして項垂れた。


八重やえ、こちらへ」


 うつむく人々の一番後ろから、痩せぎすの少女が歩み出る。八重と呼ばれた少女は里長の前で頭を垂れ、ただじっと続く言葉を待った。


「お前を巫女に、と預かったのはこの日のためだったのやもしれぬ。その身を捧げ、人柱となるのだ」


「――――かしこまりました」




 御山の中腹にあるこの里は、上天に通じると伝わる洞を守る隠れ里だ。『守る』と言っても何かをするわけではない。ただ洞に通じる道を朽ちさせぬためだけにあり、その上で『尊い神洞を守っている』という誇りに凝り固まった小さな里だ。


 洞に近付くことは禁忌とされていたし、外から人が入ることもない。数十年に一度、帝が代替わりする際に忍びで洞を訪れる。そのためだけに存在していた。


 八重は、ようやく歩くかどうかという幼い頃に、帝の遣いを名乗る者に連れてこられた外様の子だ。


「どういうことか」と尋ねる里長に、遣いの者は「巫女にでもすればよいのではないか」と投げやりに答え八重を置いて去っていった。


「巫女に」と言われても洞を祀る神事を行うでもないこの里に巫女など必要ない。八重はそれからずっと、どこか浮いた立場のままこの里で育ってきた。


 半年ほど前、洞の方向から轟音が響いた。異変を感じた里長が里長にのみ許された方法で帝に文を送れども、応える者はいない。そして、それが予兆だったと言うかのように飢饉が国を襲った。


 もう待てぬ、と今朝方里長が洞を訪れ、注連縄しめなわが切られているのを発見したのだ。里には、男巫おとこみこが洞の泉に身を捧げて泰平の世に導いたと言伝えられている。この里にとって、人柱をたてることはごく当たり前の考えだった。――それに八重が選ばれることも。


 里の者は少ない藁をかき集め、細い細い注連縄しめなわを拵えた。今にも風に巻かれて引き千切れそうな頼りない見目は、この国の飢えをこの上なく物語っている。


 里長はその縄を抱え、木の棒に括り付けた松葉に火を点して鈴を持ち、八重を連れて御山を登り洞を目指した。


 松葉に火をつけるのも鈴を鳴らすのも、獣を避けるためだ。豊かな実りをもたらすはずの御山には、どんぐりのひとつも落ちていなかった。


 八重はパチパチと火の爆ぜる音を聞きながら、白い装束を身に纏って里長の後ろを付いて行った。


 人柱になるということは、死ぬと言うことだ。それでも八重は、逃げよう、とは思わなかった。どこに逃げると言うのか。里は飢えに侵されている。見晴らしの良い処から眺める風景にも、稲穂は見えなかった。この国は飢饉に見舞われているのだ。


 今歩いている御山も、一歩道を外れれば飢えた獣が徘徊している。里に降りてきた狐や狸が、朝方に餓死しているのを何度も見かけた。八重はどちらに行っても死ぬしかないのだ。


(それなら)


 どうせ飢えるか獣に喰われるかして死ぬのならば、神に身を捧げることはどこか救いのようだと八重は思った。




 洞の入口で里長に見送られ、八重はひとり暗い洞窟を進んだ。入口には、里長が注連縄しめなわを張り直していた。


 狭い道を抜けた先には広い空間が空いており、最奥にはまるで測ったかのように真円の大きな泉があった。自然にできたと思えぬその光景に、八重は自ずとこの泉なのだと理解した。


 履物を脱いで揃え、泉の縁に座して両手を合わせる。泉は不思議なくらいぴったりに、縁までなみなみと水を湛えていた。


 水は波紋を描くこともなく、ただ静に満ちている。泉の中はどこまでも昏く昏く、底抜けにぽっかりと口を開けていた。


(どうか、実りを)


 八重は虚ろな目で昏い口を見つめ、両手を合わせたまま上体を傾げてとぷりと泉に沈んでいった。




 §




 八重が目を覚ましたのは、灰色の世界だった。


 身を起こし、八重はぐるりと辺りを見回す。不思議と体は少しも濡れていなかった。


 広い広い一本に続く道に、両側には立派な建物が立ち並んでいる。しかし空も道も建物も、全てが彩を失いまるで灰で出来ているかのようだった。


 触れれば崩れて壊れそうなその光景に、八重は立ち上がって胸の前で手を結んだ。足元の地面がざりと音を立てる。空気さえも、灰を纏っているように思えた。


(――――ここは)


 ここが神の御座す上天なのだろうか。この灰に満ちた世界が。それとも八重はただ死んで、あの世に着いたのだろうか。八重は途方に暮れた気持ちでずっと続く大通りを眺めた。


 触れれば崩れそうな建物を訪ねることは恐ろしくてできなかった。壊して咎められそうだと思ったのだ。だから八重は、遠くまで続く道の最奥を目指して歩き始めた。


 神か、鬼か。八重には意識があって、ここに立っているのだから、八重は誰かに逢って沙汰されなければいけないのではないか、と思った。


 ざらりとする道を踏み、八重は奥を目指して歩き続ける。道は階段に続き、登った先で見晴らしの良い拓けた高台に出た。


 高台の奥には御座所が見える。八重が恐る恐る近寄ると、御簾は上げられていて、御座所には、ひとりの男が座していた。


 脇息に肘をつき体をもたせ掛け、瞳を閉じたその男は、おそろしく美しかった。


 眉は凛々しく、伏せた睫毛は頬に深く影を落とす。透き通る肌は雪のように白く、濡羽色の髪はまるで絹糸のように艷やかに広がっている。


 今にもさらさらと垂れそうな髪も、緩く開きそうな瞼も、男を形作る全てが時を止めたかのように静止していた。


 八重は今まで生きてきて、美しいと思うものに出会ってきた。春に咲く桜。夕暮れの空。御山の紅葉に、頭を垂れる稲穂。朝明けの空とまっさらな雪景色。それら全てがこの男の美貌の前では霞むのだと、八重はひれ伏すほどの美しさに圧倒されていた。色を失った世界で、その御姿だけが鮮やかだった。


「人の子が参ったか」


 低く、心に直接響くような声が聞こえた。眼前の御方こそが大御神なのだと理解し、八重は即座にその場に座り額づいた。畏れ多く、声をあげることもできなかった。


「そう畏まらずともよい。私は今力を失い、眷族たちもまた深き眠りについている。人の世は大層荒れていることであろう。聞かせておくれ。直答を許す」


「は、はい」


 八重は尊き御方に答えることを許され、顔を伏したまま身を縮めて震える声を発した。


「天候が荒れ、国は飢饉に見舞われております。神洞の注連縄しめなわは切られておりました。私は人柱となるべく泉に身を沈めたのです。どうぞ、この命をお納めください」


「そうか……」


 大御神は身動ぎひとつしなかったが、しかし深慮に沈んだ声を零す。八重は、自分のような貧相な形では力不足だろうかと気落ちした。


 飢えは辛かった。


 死ぬことが恐ろしいという思いは、とうに持ち合わせていなかった。国を見舞う飢饉は、先の希望も失わせた。


「どうか」


 八重は声を震わせ、どうか、と願う。大御神の御姿を拝見し、八重は感じたのだ。この美しい神に命を奉じ、それがもしあの飢えを少しでも和らげる一助となれるのであれば、それは八重の生で得られる最上の誉れではないか、と。


「人の子よ、名を名乗りなさい」


「八重、と申します」


「そうか、八重」


 八重の悲痛な声に、大御神は柔らかく声をかけた。


「そなたひとりの命で贖えるものは少ない。だから八重、そなた私の巫女となりなさい」


 思いがけないお言葉に、八重は驚いて頭をあげた。大御神は変わらぬ姿で、しかし不思議と微笑んでいるように見えた。


「そして、舞や歌を納め、この上天で土を耕し、作物を作り奉納しておくれ。それはそなたの命ひとつより、余程私の力と成ろう。眷族たちを目覚めさせ、人の世に実りを授ける助けと成ろう」


「本当に、ございますか」


 八重は大御神を見つめ、はらはらと涙をこぼした。


「ああ、必ず」


「はい、はい……! 私は貴方様に、全て奉納致します……!」


 八重は地にひれ伏し大粒の涙を流した。あの飢えを、あの飢えを、とうわ言のように繰り返し、必ずや大御神に全て奉納すると誓いを立てる。


「ああ、頼んだよ、私の巫女」


 大御神の声は、柔らかく八重の願いを包み込むようだった。





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