記憶の一縷を辿るヒロインはよく散る

でんでん

傷だらけの夢だけど……

 どこか見覚えのあるトラバーチン模様の天井を視界に、呻き声を出すほどじゃないが、身体には絶えず痛みが走り続けていた。

 人の気配と春の穏やかな風、うぐいすの鳴き声、隙間なく響く雑音に釣られてそちらを見やる。

 そこにはベッドの上に座って窓外を眺める少女が居た。腰まで伸ばされた艶のある黒髪と後ろの白のレースカーテンが風に靡き、窓から見える景色を背景にした一つの絵画のような光景に思わず息を呑む。

 探していたものを見つけたような気がした。

「ふふっ、心の声が聞こえてるよ?」

 鈴を振るような可憐な声で振り返ったその少女は……出るところは出ていて引っ込むところは引っ込んでいる、欲望的で理想的な体型だった。

 スタイルを確認するために彷徨(さまよ)った瞳の行方は、澄んだ彼女の紅い双眸に捉えられた。そして彼女は持ち前の柔らかな容姿に、何もかも見透かしたような微苦笑を湛えて見せた。

「あれ、今、俺。……。無意識に綺麗だって言った?」

「今のは意識して『綺麗だ』って言ったのかな?」

 慌てて紡いだ言葉が綻んだ途端に本心が漏れた。すると、少女の微苦笑は悪戯な笑みに変容して、揚げ足を取るように俺をイジる。

「……そうだ」

 小っ恥ずかしくてすぐに目線を外し、静かに深呼吸をしてから肯定の意を表すと、少女は首を傾げて微笑んだ。

「ありがと」

 円滑なコミュニケーションに惑わされたが、初対面で名も知らない少女に恥ずかしい思いをさせられ、釈然としない。

「名前。なんて言うんだ?」

「私は……。あっ、当ててみて」

 彼女は閃いたように瞳を大きくした。率直に効率が悪いとは思ったが、他に病院ここで出来ることも無い。暇つぶしと天真爛漫な表情を守るために、その提案に乗ってやった。

 押し黙って思考を巡らせると、そこに静寂が落ちた。彼女はもう準備万端という感じで、居心地の悪さを感じない沈黙を創り出してくれる。

「ミオ」

「違う」

「スズ」

「違う」

「メイ……。カンナ……。ハルカ……。ユイ……。ミナミ……。リホ……」

 一度だけ真面目に思案したが、手掛かりがない中で考える時間は無謀だと悟った瞬間、思い浮かんだ名前をただ羅列した。しかし、彼女はどの名前にも首を横に振って肩を竦める。やれ理不尽だ。

「もういいだろ。教えてくれよ」

 俺は音を上げて問うと、少女は破顔して声高らかに笑った。

「ナギサ。凪に桜って書くの。君は?」

「俺は凪。よろしく」

があるね」

 凪桜のボケを一瞬理解できなかったが、不意にも息を零すように笑ってしまった。喋ると残念系美少女というレッテルが良く似合う。

「、そうだな」

「これからよろしくね。凪のその怪我が治るまで……」

 凪桜は俺のズタボロの体躯を指さす。病衣で隠されているが、ギプスや包帯で蔽われている面積の方が広い。

 そう言う凪桜の顔は憂いを滲ませながらも、どこか寂しそうに見えた。出逢いが有れば別れも有る。新年度に咲いて早々に散る桜のような哀愁が俺たちの間に漂った。

「俺が人と関わるスタンスはバチカン市国より狭く、マリアナ海溝より深くだぞ」

「何それ。じゃあ改めてよろしくね?」

 凪桜は馬鹿でも見るような……けれど、俺に微笑みかけた。

「嗚呼、もちろん」

「そういえば、どうして怪我しちゃったの?」

 会話に一区切りが付いたところで凪桜は訊いて来た。改めて、惨めな己の指先から足先の細部まで俯瞰で見つめた。

「同じ高校の女子生徒を事故から助けたんだ。気付いた時には意識が朦朧とし始めて……今に至るわけ。身近で他人ひとが死ぬのを黙って見過ごすのが嫌だったんだと思う。過去にさよならも言えずに死んじまった人がいたからかな……」

 曖昧な記憶のフォルダを探し回って、当時の状況と不確かな思考を縫い合わせ、微苦笑と共に悲劇の正義執行人のような雰囲気を醸し出す。

「そうなんだ。凪は良い子だね」

「いや、別に。大したことはして無いし、俺じゃなくても助けていたと思う」

「ううん。誰かのために何かできる人……犠牲を顧みずに払える人は一握りだよ。それに、凪が事故の被害に遭っているってことは、他に誰も動かなかった最もな証拠。だから、私の前では謙遜なんてしなくていいよ」

 凪桜の視線は俺の横顔を撫でるように掠めていた。ほんの僅か一瞥をして目が合うと、彼女なりの優しさが身体の痛みを少し和らげた。

「まぁ俺だからな?」

 だから俺は口角を歪に上げて自信満々に胸を張り、凪桜の方に顔を向けたが、鼻で笑われ軽くいなされた。束の間の鎮痛剤は効力を損ない、再び痛みが駆け巡り始めた。


「残念だったね。今日入学式だったでしょう?」

 凪桜の言葉で今朝を鮮明に思いだした。憂鬱に起こされ、薄暗いリビングで独りパンを齧って、疲労感が蓄積させたまま登校したことを。

「俺は学校嫌いだし、今日だって早退したいって思っていたくらい」

「私は学校に行ったことがないからそういうのが分からないけど、夢を見るのは現実を見るためだったんだね」

「いや、これは俺が思うだけで……楽しそうな人はたくさんいる、よ」

 どうやら踏んではいけない夢見る少女の地雷を踏み抜いてしまい、早口で咄嗟にフォローすると「別にいいよ」と、一蹴されて彼女は続けた。

「私はずっと入退院を繰り返していて、家と病院しか知らない。学校がどんなところかはなんとなく予想はつくけど、それでも少し憧れるの。……ごめん、何か飲む?喉乾いた」

 話を聞くに重たい病気を患っている。動いても大丈夫なのかと思ったが、それは愚問。水かお茶、オススメがあれば。と答えた。

 凪桜と二人きりの病室でしばらく一人。窓の外を眺めて待つことに……。

 紺碧の海と雲一つない快晴の空色。その間に散りばめられた桜の褪紅たいこう。レールを滑る車両の少ない電車。街並みを走る車。歩く人々。見慣れた筈の景色は意想外にも穏やかで色があった。

 もう一度、自分の怪我の度合いを見た。穏やかでないかもしれないと、自嘲気味に視線を戻す。

「いたのか!?」

「声かけたのに気付かないんだから」

「ごめんごめん」

「はい、これ」

 突き出された透明のペットボトルを辛うじて動く腕で受け取り蓋を開けてあおる。

「凪は普段何してるの?」

 凪桜は俺のベッドの足元あたりに腰を落として、話題を振ると同時に好奇の眼差しを向けてくる。別に一般学生の日常なんて大概がつまらない。同じ日々の繰り返しをして、いずれ社会に放り出されるまでの猶予を浪費するだけ……。

「ゲームと課題くらいかな」

「ほぼ私と同じだね」

 会話は基本、連想ゲームをしながらのキャッチボール。凪桜は俺からの言葉を待った。

「と言いますと?」

 よくぞ訊いてくれましたと言わんばかりに凪桜は長くしていた首を戻す。

「大したことじゃないんだけどね。趣味の読書。よく読むジャンルは恋愛ものだけど、偏読はしてないつもり」

 恋愛小説が出てきたのは、凪桜が年頃の女の子であることを示唆しているのだろうか。

「ジャンルで絞って読むなんて勿体ないもんな」

「そういうこと。それに病院ここには図書館が隣接していてね、そこで本を借りて、ベッドの奥の小さい本棚に置かせてもらっているの。退屈したくないからかな?気付いたら読んでいることが多いわ」

 それくらい何かに熱中できるのが羨ましく感じながら、暇を持て余さないように質問を重ねていく。

「へぇ、なんか推している作家さんとか作品とかってあるのか?」

「興味あるなら貸すよ」

「やったぜ」

 凪桜は例の本棚からその本を取り出してきた。ブックカバーまで付けるあたりかなりの読書愛好家……だと思う。極めつけは片手で持てるサイズの本を丁寧に両手で手渡しする程だ。

「サンキューな」

「うん、読んでおいて」

 俺はその本を丁重にベッド横の棚に置いた。普段本を読まない俺への彼女なりの配慮なのだろう。そこまでの厚みを感じない。

 その後も俺たちは駄弁り倒して、冷めきって人の温もりも感じられない不味い入院食を食べ、陽が沈んで月が顔を出すような時間まで、何かを埋め合わせるように長く話した。

「ちょっと本読んでいい?この時間帯に読むと睡眠の質がよくなる気がする気がする?兎に角、おやすみ」

「あー、拘り的なやつだな。わかった。おやすみ」

 ようやく一人の時間ができ、毎夜欠かさず書いてきた日記に新たな物語を書き出した。

 少女を事故から救ったこと、知らないはずの天井、窓から見える景色、凪桜のこと、どことなく嬉しかったこと、綿密に綴った。

 そして書き終わってから、スマホを確認すると母親から連絡が入っていた。

『今日、病院に行ったんだけど、ドア越しに楽し気な凪の話声を聞いたら満足して帰っちゃった。また、今度顔を出しに行くね。女の子によろしく』

 何か変なことを言っていたような気がして、その夜は寝付きが悪かった。




 まだ寝たい。そう思わせる間もなく、自然と目が冴えた。どうにも二度寝するには眠気が足りない。生活習慣が調律されていく。気怠さは皆無。久しぶりの良い朝を迎えた。

 隣にはやはり凪桜がいて……どうやら早起きができる人間らしく、朝から優雅に本を開いていた。話す時とは表所が違う俯き加減の首に乗ったその横顔を焼き付けた。

 今日も空には果てしない蒼穹が拡がっており、その下に同じ街と黒髪の少女。

 時計の秒針が一秒を刻む音、窓の外を響く生活音、ページが捲れる音だけが耳に落ちた。

 いつも朝は暗かった。憂鬱が胸に蔓延して嫌気がさしていた。遮光カーテンで外界からの光を遮断していたからか、虚無だったからか。

 こんなに明るい朝は久々だった。隣のベッドに女の子も居る。非日常的で夢見心地だ。

 目線を戻して静かに大きく深呼吸をして静穏を噛み締め、もう一度彼女の方を向く。

「おはよう」

「あっ、ぇ……おはよう」

 不意に目が合ったので挨拶をすると、凪桜は慌てふためいた拍子に栞も挟んでいない本を閉じて言葉を詰まらせた。そんな様子を冷静に眺めながら、双眸を捉えたが逃げられた。動揺は確からしい……。

「んー?何読んでたんだよ」

 揶揄うような表情で、逸らす顔を覗き込むようにして追いかけた。とは言え、身体に障るからあまり動けてないが。

 何かやましいことでもあるのではないか。年相応の下心と彼女への興味関心で五分五分の気持ちを抱えた。

「官能小説か?」

「いや、そういうのじゃなくて、ただビックリしただけというかなんというか」

「あっ、そう……だよな?」

 朝から俺は何を思って口走ったのかと平静を取り戻した。慌てたのも概ね、本を間違えて閉じてしまったからだろう。

 凪桜はベッドに落ちた本のページを戻し、栞を挟んで閉じた。

「……なんだか可愛い寝顔だったからね?小説の合間にちょっと見ていたのに、振り向いたらいきなり目が合うものだから」

 訊いていなかったはずだが、凪桜は髪先を指先でクルクルといじりながら突然の自己開示をする。その言葉に俺は戸惑いながらも紐解いてみせる。

 つまり、俺より早起きをして優雅に読書しているかと思われ凪桜だが、ながら俺を見ていたということだろう……。

 無言でいるのも無性に居心地の悪さを感じ、思わず乾いた笑いを零す。

 紅潮した凪桜の顔。一瞬を数秒に感じさせる漠然とした何かが渦巻くところに、助け舟かのように部屋にやけに響くノック音が鳴る。

「二人とも朝ですよーって起きていましたか。もうすぐご飯ですよ。それから凪桜ちゃん。本の貸し出し期限が迫っているので、返しに行かないとですよ!」

 看護師さんが部屋を覗き込む風に隙間からひょっこりして数秒。顔を引っ込めてどこかへ去ってしまい二人して口籠った。

 薄々と感じる居た堪れなさが、身体を蝕んでは内側の細胞から壊していくようだ。

「今日ネ、定期検査のネ、日なんだ」

 沈黙に堪え兼ねて、言葉を口にしたのは凪桜だった。

「文節分けするみたいに喋るなよ」

 動揺で訥弁とつべんになる凪桜に思わず突っ込んで笑い飛ばした。やはりと言うべきなのだろうか、彼女と同じ空間に居る自分にだけ生きる意味が与えられている気がした。まるで比翼の鳥になったような気分だった。

「ホントだね」

 それから地味な朝食を済ませ、凪桜が多量の薬を口に放り込んで、水で無理矢理流し込む姿を心配しながら見守った。

「俺も……そのうちリハビリとか始まるんだよな」

 内心、このぬるま湯から足を抜く恐怖や嫌悪感が肩に乗っていた。俺が恢復(かいふく)すれば、凪桜もまた同じ境遇に逆戻り。再び孤独を味わうことになるのだろう。

「でも、凪のその惨状だったら思ったより時間かかりそうだけど……治ったら晴れて高校生じゃん。おめでとう」

 なぜその言葉に余所余所しさや距離感を感じたのかは分からない。今まで、他人と縁を切ることに微塵の寂しさも感じたことはなかったというのに……。

「そうだ、連絡先!交換しよう」

 きっと使う機会はあまり無い。だというに俺は……繋がりを求めているのだろうか。

「うん、いいよ」

 ということで、端末同士を重ね合わせた。軽快な音とともに画面には【凪桜】と連作先の交換が完了されたことが表示された。

「よかった。やっと友達と連絡先の交換イベントを消化し終わったよ。ほら見て」

 凪桜は安堵の息を零しながら微笑んで、スマホの画面を俺に見せつけた。確かに、そこにあるのは俺の名前とアイコンのみ。その下にはひたすらの空白。

 ふと、両親の存在が気になった。なぜ連絡先の一覧にいないのか、交換してないなんてことはないだろう。俺はそのことについて訊こうと思ったが、幾ばくかの逡巡の末に押し殺した。

 とは言っても俺も似たような画面だから親近感は必然と湧いた。

「そういえば、時間大丈夫か?」

「あっ!いかないとね」

 凪桜はベッドから降りて、足取りが重たそうに歩きはじめる。部屋を出る直前、若干の顰めっ面と微笑を混在させた顔を浮かべ、俺に「行ってくるね」と手を振り出て行った。




 酷く静かだった。久しぶりに一人になったようで心地はよかったが、多少の退屈を感じていた。すると、タイミングよくスマホの通知音が鳴った。

 凪桜からの連絡で、白猫の愛くるしいスタンプと共に『さみしい?』と。

 この胸にある空虚は何が開けた穴なのだろうか。ただ少しの間一人になるだけ……。

『どうってことない。そんな凪桜はどうなんだよ』

『私は検査結果が良くなるか不安なだけ。それよりこの前貸した本読んで待っていてよ』

『りょーかい』

 既読がついて……音沙汰が無くなったので、ベッド横にある棚から本を取り、ページを捲り続けた。やはりラブコメ……というか恋愛小説だ。記憶喪失の主人公と記憶でしか存在できない彼女ヒロイン。言葉にするには惜しいような物語がそこにあった。

「ただいま」

 同じ体勢を保つには身体が悲鳴をあげ出すので、休憩していると、凪桜は帰って来た。時計を見ると一時間と少しが経っている。

「おかえり。どうだった?」

 凪桜は部屋に足を踏み入れるなり、俺の方に身体を向けて自分のベッドに重そうな腰を落とした。表所が曇っている。

「可もなく不可もなく?良くはなってないけど、悪くもなってない」

「現状維持か……。悪くなってないだけいいんじゃないか?」

「うん、そうなんだけどね」

 そう言って凪桜は項垂れた顔を少し上げて見せた。何の病気を患っているのか、訊くに訊けなかった。否、訊きたくもなかった。

 尋常でないほどの錠剤の数々。定期的に行われる検査。芳しくないのは一目瞭然。

 なんとか落ち込んだ凪桜を慰め、彼女は今朝の看護師さんの発言を思い出したようで、本棚から山のような本を抱えて隣に建つ図書館に向かった。

 女の子があの量を一気に持って行って大丈夫なのかと思ったが、何をやってあげられないからと、黙って送り出してしまった。

 どうにも不安で、凪桜とのトーク画面を開いて落ち着き無く待っていたところ……。

『図書館に向かう最中に転んじゃった。ちょっと休んでから戻るわ』

 俺が心配していることが、連絡が入ったことで現実になったことを知らされた。

『大丈夫か?』

 きっと凪桜は病弱だからと勝手に決めつけ、凄く心配したが、冷静になって連絡するぐらいだ。そこまでではないのだろうと杞憂となった。

『なんとかね。本を一冊落とした拍子に……』

『無理するからだよ。気を付けて帰ってくるんだぞ』

『わかってるって』

 親のさとしを受け流すだけで、呑み込めていないようなその返信に俺は溜息を被せた。

 暫くして、平然とした凪桜が帰って来たが、その右膝に擦りむいて応急処置だけ施された跡が残っていた。

「ただいま。ごめんね。心配かけちゃって」

 苦笑しながらそう言い、凪桜は自分のベッドに横たわった。

「おかえり」

「眠い。……副作用には抗えない」

「寝るのか?おやすみ」

「……ゃ……ぃ」

 吐息交じりにそう言った眠り姫は既に小口をだらしなく開けて寝息を立て始めていた。小動物のような少女を横目に、借りていた本を読むことにした。

 しかし、だ。隣で女の子が寝ているともなれば、思春期真っ只中の男子が集中できるはずもなく。一ページ読むごとに寝顔を確認。いつしか、一文を読むごとに頬の筋肉が弛緩した無防備な顔を拝むことになった。

 時間は掛かったもののやっとのことで読了し、感嘆の息を吐いた。

 絶えず止まない時計の針に目を向ける。もうこんな時間か。

「凪桜、起きろ~?」

「ぅんー?うん」

 寝ぼけ眼の眠り姫は、俺を細目で睨むよう捉える。目が冴え始めたようで……なぜか顔がほんのりと赤い。

「み、見た?」

「パンツのことか?」

「ヘ?」

 予想外な切り返しに凪桜は素っ頓狂な声を漏らした。かと思われたが、凪桜は怒りと羞恥でより赤くなっていく。

「私が寝ている間に脱がして見たの⁉バカ!アホ!変態!し、シんじゃえぇ!」

 言いなれていない物言いが否めない暴言は乱暴を通り過ぎて、育ちの良さや品、はたまた可愛さを演出した。俺は赤い凪桜を見て言葉を返す。

「冗談だっての。仮に脱がされて起きないのもどうかと思うぞ?まぁ、寝顔は見たけど」

「あんまりジロジロ見てないわよね?」

「それは安心してくれて大丈夫だ。ちゃんと髪の毛先から、足の指の間の垢まで見た」

 俺は事も無げに自己の行いを言い退けてみせたが、凪桜は依然として表情に変化はない。しかし、何か言いたそうだった。嫌な予感が肌を刺激する。自分で凪桜の口から彼女の思惑を耳にしようとはせずに口を噤んだ。

 この場に静寂を置き去りにして出ていきたい気持ちは山々だが自業自得。俺は甘んじて全て受け入れようと思う。

「……そんなに、私のこと……あ、愛……愛してくれているのね」

 世も末を感じた今日この頃であった。

 そんな日の夜に目が覚めた。水が弾けるような音が窓の方から聞こえた。街灯とビルの光で最低限の明るさを闇のような雲が閉じ込め、そこに雨をしきりに降らせていた。

「……凪桜?」

 入院初日にも見た背中。凪桜がベッドの上で窓外を見ながら座っていた。

「どうした?」

「あれ、起こしちゃったかな」

 弱さを強がりで隠そうとしたのだろうが、鈴のような可憐な声は震えていた。

「大丈夫か?」

 そう訊いたものの独りで抱えるようなところがあるし、聖女のような優しさを兼ね備えた凪桜のことだ。答えは大方予想がついた……。

「ううん、大丈夫。起こしちゃってごめんね」

 これ以上執拗に凪桜の事情を詮索するのは控えた方がいいと思う。誰しも誰かに言えない秘密が一つや二つあるとはず。けれど、このまま一人で枕を濡らさせたくはなかった。

「本当はどうなんだ?」

 三度目のなんたら、俺はもう一度訊いた。すると凪桜は俺のベッドに腰掛けて沈んだ。

 無闇矢鱈に問うのもよくないかと思って、彼女が口を割るのを待った。最悪、傍に居てやれるならそれでもいいのだが……。

「……私は生まれた時から母子家庭だったの。母は文句も愚痴も言わずに、常に笑顔で明るかったわ。私の世話はするし、仕事もする。私が大学に行きたいって言い出しても通えるようにってね。働き者でそんな責任感あふれる母の言動が好きだった。でも、この前突然連絡が入ってきたわ。――過労死だった」

 凪桜は母親の死因を少し間を置いてから言うと、涙の堤防が崩壊した勢いで嗚咽した。

 頬を伝う涙を手で擦って無かったことにしている凪桜を、母親を思い出したくなくて連絡先を消した小さな背を眼前に何ができるだろうか……。

 困っているなら俺は凪桜を支えてやりたいと思ったから、若干強引にも聞き出したのだ。何もしない訳にはいかなかった。

 だから……無意識に伸びた腕が凪桜の頭を撫でていた。

 そのままただ黙って続けていると、彼女は徐々に落ち着きを取り戻した。

 涙が止まったのを確認して、俺はその手を離して腕を引っ込めようとしたが、凪桜はそれを許さず手首を掴んできた。

 俺は彼女の横顔に目を移す。視線は窓の外に固定されているかのように動かない。何も喋る気配もない。空気と雰囲気を察して、そのまま凪桜の腕が落ちたところで、華奢な手の甲を覆い隠すように手を重ねてやった。

 暫しそんな……筆舌に尽くし難い時間を過ごした後に、凪桜は自分のベッドに戻った。

「ありがとう」

「いいよ。俺が勝手にやったことだし」

 真っすぐに注がれる視線と謝辞に、俺は頬をポリポリと無意識に搔いていて、それを凪桜は静かに肩を上下させて笑っていた。

「なんだよ?」

「締まりが悪いなぁってね」

 打って変わって、暗闇でも分かるほどの満面の笑みを浮かべていた。立ち直ってくれたことには安堵する一方で、舐めやがってと思った。

「はやく寝ろよ」

 俺がぶっきらぼうに言うと、凪桜は少し寂しそうにしたが、頷いて横になり静かに呼吸のリズムを整え始めた。

「……ありがとう」

 その言葉にそちらを見る。スヤスヤと寝息を立てる少女の上にあった黒く厚い雲の隙間間を、煌々と輝きを放つ満月の下で、目を瞑り、眠りの深淵へと落ちていった……。




 とうとうリハビリが始まった。始まってしまったのかもしれない。あまり歩いてなかった期間があるせいか、歩き方を忘れてしまった。

「あの……歩き方から教えてくれませんか?」

 こんなことを質問していいのか躊躇したが、どうにも歩けないのだから、仕方ないと断念して情けなく訊いた。

「「嘘でしょ⁉」」

 凪桜もリハビリに付き合ってくれていて、理学療法士の大神さんと驚愕の声を重ねた。

「ほら右足を出すでしょ?そしたら左足を右足の前に出すの」

 左右にある手摺と凪桜の言葉を頼りに右足を前に出してみた。懐かしい感覚が身体を巡り、無意識の内に足が交互に動き出そうとしたが、左足に体重が掛かると耐えきれずくずおれた。

「大丈夫ですか?ゆっくりでいいですからね」

 俺の前に立って補助役に徹してくれている一回り身体の大きな大神さんが、咄嗟に脇に腕を通して支えてくれた。

「っ……頑張ります」

 その後、何度も、何度も、諦めることなく歩こうとしたが、左足に体重が掛けられない。関節部分の不適合によって痛みが生じるからだ。

 手術をしてくれた先生が、モニターに表示されたレントゲンなどで詳しく説明してくれた内容はあまり覚えていないが、『今まで通り歩いたり走ったりできなくなるかもしれない』と。その衝撃的な発言を、俺の意思とは関係なく、脳が何度も繰り返し読み上げた。

 翌日も、次の日も、一週間後も、一ヶ月後も、手摺の端から端まで歩くことはできなかった。その度にあの言葉が読み上げられ、心が折れそうになる。ましてや、自分で自己を殺そうとしているような感覚は地獄のようだった。

「クソッ」

「でも、半分のところまでは自力で進めるくらいまでは回復してるよ!だから、頑張ろ?私もできることはするからさ!」

 凪桜は落ち着かない様子で、手摺の端から端まで行き来しながら、俺に激励の言葉を授けた。しかし、今の精神状態での同情は単なるトゲにしかならなかった。

「だから、なんだってんだ。凪桜にはわかんないだろ!今まで当たり前に出来ていたことが出来なくなる恐怖が、一歩すらも踏み出せなくなるかもしれないんだよ!」

 凪桜にはわからない。そう傲慢に決めつけて放った言葉が独り歩きするかのように部屋に響いた。それは彼女も同じで、きっと死ぬかもしれない恐怖と闘っているはずだ。それも何年と。理解わかっているのにもそんなことを言える自分を恥じた。

「ごめん」

 自分に腹が立った。そんなのは言い訳だ。その言葉が口を通り抜けようとしたのを必死に止めた。

「私もそんな時あるよ。理不尽にお母さんにぶつかったことだってあるし」

 大丈夫。そう言って手摺を握る力が強まっていた手を凪桜はさすった。

 聖女は俺を宥めるように優しく許したが、俺が知らない悲しそうな顔を浮かべ目尻に涙を一滴溜めた……。


 だからこそ心機一転し、その日から嘆かずリハビリの日々を送ることを粛然と誓った。

 そうして、かれこれ入院してから二ヶ月強が経とうとしていた頃のリハビリ中……。

 あれから猿が人間へと進化する過程を辿るように少しずつ歩けるようになっていた。

「いける!」

 あんなことを言った日から今の今まで、未だに見守ってくれている凪桜の声が少し離れた所から聞こえた。

 彼女のゆっくり近づいてくるしとやかな足音を聞きつつ、両手の手摺を支えに着実に一歩を踏みしめていく……。

「っしゃー!」

 両手を挙げて叫んだのは俺ではなかった。現実を受け止めきれなかったから、喜ぶどころではなかった。

「俺、歩けたんだよな?」

「うん!そうだよ!歩けたんだよ!」

「やったよ……凪桜!」

 大神さんの手を支えに立ちながら凪桜と喜び合った。

「おめでとうございます。頑張りましたね」

「大神さんも本当にありがとうございます」

 これまで一番近くで支えてくれた大神さんに小さく頭を下げてお礼すると、「なんだか、すごく勇気をもらいました」と大きな体躯には似合わない照れくさそうな顔を浮かべ、俺が車椅子に座るところまで補助し終えると、この場を後にした。

 リハビリ室に俺と凪桜だけの二人きり。夕日の光が暖かく俺たちを包んでいく。

「ほんとに頑張ったね。私、ちゃんと見てたんだから」

「松葉杖を突いて歩けるところまでだけどな」

 気付けば凪桜は俺の頭を撫で始めていた。どいうつもりか、後ろから顔を近づけて春風のような優しい暖かな吐息が俺の耳を掠め、そっと囁いた。

「これはささやかなご褒美だよ」




 生活習慣の調律の賜物は、自然と早朝に目が覚めるという能力だった。

 横にはやはり凪桜が居て、夕焼けで町が普段と違う景色の時も、寝るときも当然の如く俺の横に居た。

 リハビリと称して彼女と病院の近くを松葉杖を突いて散歩する以外は、何一つとして変化の訪れない入院生活をしばらく続けた。

 そんな中で得たものは、次に隣人が何をするかを理解するのに言葉を必要としないほどの関係値だ。

 暇さえあれど凪桜とでは退屈はせず、これからも続いてほしいと切実に思うほど居心地がよかった。

 だからだろうか、一日が過ぎていくのは早かった。それと同時に街並みは色褪せ、夜に見える月は欠けて行く。一方で、何かは着実に満たされていっていた。

「今日で退院だね」

「そう……だな」

 その覆しようの無い事実を認めたくはなく、肯定に時間を要した。

 凪桜の顔を見た。初めて会った日と同じように浮かべた悪戯な笑み。しかし、初日とは違ってどういうことを考えているかは概ね予想が付いた。

「寂しいでしょ。私と寝られなくなるもんね?」

「そりゃ毎日一緒に寝てたからな~」

 凪桜の突拍子もない軽口は受け流す、または予想もしない返事が常である。

 これからはもうこんな……いつぞやに培った知恵で、馬鹿げた会話をする機会は減ると思うとなんだか淋しく、冷たい風がよりその気持ちを助長させた。

 俺を先導する少女が遠い存在になって、手の届かない存在になっていくような気がしてならなかった。

 それでも一度病室に戻り、退院の準備と忘れ物の確認をせざるを得ない。

「凪桜」

「ん?どうしたの?」

 小首を傾げた彼女に背を向けて、ドアハンドルを握った。

「……また来るよ」

「あ、ちょっと待って」

 凪桜のその声に俺は振り返ろうとしたが身動きが取れなくなった。

「え?」

 蚊の鳴くような弱弱しい声が漏れ、背中から母性が感じる柔らかさと熱が伝わってくる。凪桜の華奢な体躯が俺を包んでいた。

「なにして……」

 状況を理解した俺の鼓動が高鳴って胸と背中に心臓が一つずつ存在するかのようだ。

「抱きしめているだけだよ。嫌だった?」

 そんなことは訊いてない。何故こんなことをしている……。俺は凪桜の質問には短く否定して、彼女が喋り始めるのをだんまりを決め込んで待った。

「これで最期だから、もう私を忘れるんだよ。私はもう十二分幸せだったんだから」

 声のトーンがシリアス感を際立たせていたが、いつもの取るに足らない軽口だと思った。思いたかった。

 何を言えばいいのかも分らず、俺は抱き締められるがままとなって、堆積していく沈黙に溺れ始めた。

「……もういいかな。ありがとう。凪」

 凪桜が離れ、俺はようやく振り返ることができ、最初に目にしたのは今は見たくもない彼女の満足そうな笑顔だった。

 遂に色の消えた街を背景に、凪桜だけはまだ色を保っていたから表情は明らかだった。だから、俺はなんとなく全てを悟ってしまった。

「どういう……ことだよ」

「もう分かるでしょ。目を覚まして」

 言葉がなくとも互いの事の大部分は分かったが、これだけはどうにも……。困惑の表情と愛想笑いを混在させた。

「頼むよ」

 その時だった。コンコンと軽快な音が静寂を貫いた。今まで何度も聞いた響きで、その音を立てる人は断り無しに入ってくるのだ。

「凪君!今日で退院ですね!おめでとうございます!って入っちゃまずかったですかね?」

 雰囲気に極端に頭が冷やされたのか、苦そうな顔をした看護師が入ってきた。

「大丈夫だよ。お迎えに来たんだよね。モエちゃん? 」

「凪桜ちゃんは相変わらず理解が早くて助かるよ」

 時間切れだ。何も分からず仕舞いだが、明日にでも来て問い詰めることにしよう……。

「さてさて、凪君!行きましょうか!」

 屈託のない眩い笑顔。陽と陰のようなテンションの寒暖差。病室を出て廊下を歩いている間、ずっと凪桜の言葉を頭の中で反芻(はんすう)させた。

 そして、病院の出入り口の自動ドアを出て数歩。振り返ったら否応なしに閉じられる扉と共に、約二か月間の入院生活に幕が閉じられた。

 真っすぐ家に帰る気にもなれず、いつも見ていた海まで足を運んで黄昏た。

 感傷に浸る思いで、世界の境界線のような海の向こうにある地平線を目でなぞっている時、白黒となった街に寂寥となる雨が降ってきた。

 不意に【凪桜】と連絡先を交換したことを思い出して、ポケットからスマホを取り出し、いざトーク画面を開いてみたが……。

【『凪桜』が退出しました】

【メンバーがいません】表示された文字が雨で濡れてぼやける。

 画面を服で拭って改めて見たが、やはりそう書いてあった。

 ここで後悔をしたくない。その強い情動だけを原動力に、俺は踵を返して病院へと歩を向け始めた。

 目の前の歩行者信号のピクトグラムが発光したのを合図として、松葉杖を激しく突き始めると、無意識の内に足枷が外れたように走れていた。

 それに高揚したのも束の間、運動不足で上がる息、雨で肌にへばりつく服の不快感。病み上がりで思うように動かず空回りしてもつれる足が行く手を阻もうとするが、止まるわけにはいかない。

 人も車も電車も見かけないから、街の信号を無視して駆け続けた。

 病院の自動ドアを抜けて、階段をひたすら登る。踊り場から見える景色が徐々に広がって行く。

 凪桜の病室までの廊下を走り、勢いよくドアをスライドさせた。しかし、彼女が眠る筈のベッドには空虚が居座るだけで他には何もない。もぬけの殻だった。

 冷水を頭から浴びたように、一瞬呼吸が止まって酸素を渇望する口が開いて、大袈裟に肩を上下させて呼吸する。

 いつも横に居た筈の……あれ、どんな見た目だっけ?毎日耳にした声すらも思い出せない。凪桜というその名前と彼女の優しさだけは不自然な程に覚えているのに……。

 虚空を見つめて立ち竦んだ。色んな感情が込み上げてくる。『これで最期だから』……凪桜はそうった。

 俺はその場に跪いて床に滴っていく水滴だけを見た。

「大丈夫ですか?」

 いつしか、聞き覚えのある女性の声……よりかは少し低い声が背中から掛けられた。

「はい、大丈夫です」

 全ての感情を虐殺すようにして振り返った。そこには、やはり懐かしさ漂う面影があった。首から提げたカードケースの中に『モエ』と書かれた紙切れ一枚。

 頭の中に当時の朧気な記憶の映像が流れる。モエさんの顔も、凪桜らしい人影も、表情は灰色のもやが掛かって窺えそうにないが。

「どうされましたか?」

「モエさん。凪桜はどうなりましたか?」

「ナギサ……まさかナギナギのこと?」

「多分、あってます」

 俺の名前と凪桜の凪を取ってナギナギだろう。そう解釈して頷いた。

「ちょっと待っててね?」

 モエさんの若さを取り戻したように走る足音が廊下を伝播する。

 数分経過する頃には、沈着な判断ができるほどの平静を取り戻せていた。そして、モエさんは何かを抱えるように走ってきて、俺が使用していたベッドに腰を落とした。

「今更だけど、凪君なんだよね?」

「はい」

 モエさんは俺の滲んでくすんだような瞳の奥を捉えて確認すると、以前にも見たことがあるような無邪気な笑顔を浮かべて見せて、立ち尽くす俺を隣に座らせた。

「このノートは凪君が退院する時の忘れ物なんだけどね。凪桜ちゃんがまた会うからって預かっていたみたい。紆余曲折あって、私が預かる形になっちゃったんだけど」

「そうだったんですか」

「はい、これは返すね」

 日記を受け取り、ページ捲ると入院開始から二か月分くらいは俺の日記、その後は凪桜の入院生活が記されていた。

 一行の端から端まで余すことなく書かれた桁違いの文字の密度の影に哀愁が映る。これは六年ほど前の記録で、凪桜が大切にした記憶だ。

 凪桜はどんな子だったかと、ページを俺の日記まで戻したが、容姿、性格、出来事、他愛のない会話、彼女に関することは全て綺麗に消されてあったため、諦めて日記を読むことに……。

『置き忘れるなんてやっぱり締まらないわね。とにかく!何かいつもと違うような事を書こうかな?まず、凪が退院してから萌さんと話したわ。「寂しい?」って訊かれた時にようやく気付いたけど、確かに寂しいね。だからこれを書いているような気がするんだけど。そういえば、私の病気は今落ち着いていて、回復傾向なんだって!いつ治るかしら?』

 記憶のある状態であればそれで十分だったはず。昔の俺なら凪桜の一日をこれだけで補完することができる……。だが、分らなかった。俺はその少女との記憶がことごとく消えていた。

 数十ページにも渡る似つかわしい内容の日記を熟読した。時々、数日空く日の日記には、手術していたり一時退院をしていたり諸事情が書かれた。

 ふと、辺りを一瞥した時には、仕事に戻ったのか、萌さんは消えていた。それに、ここに着いた時よりも虚空の空間は広く感じながら、ノートの残りが薄くなってきた頃、よく日付が飛ぶようになった。どうやら手術でも無ければ一時退院でもない。

『薬の投与量が増えて来た。それに比例するように私の体調は悪くなっているわ。日記これも書く余裕はあまりない状態。それから、何度か面会を試みてくれてみたいだけど、私の事情で会えなくてごめんなさい。今日は雨が降っている』

 謝罪文や現状に嘆いて諦めるような内容に、何故か胸が締め付けられるような思いになった。無理して書くもんじゃないだろ。

 俺はもう一度凪桜の居たベッドを見た。やはり何もなかった。

 何か変化があったとするならば、先程走り抜けて来た街並みがおもむろに黒に支配されて、この世界から光が消え去ってしまったようだった。

 常闇の中、どこからともなくか弱い光が病室を照らした。同じサイズのベッドが適当に横並びになっている素朴な部屋に音は無く、静謐だけが空虚を満たすようだった。

 そして、孤独感を抱えながら再びページを捲る。

『もう余命宣告されちゃったから書きたいことだけ記すね。私はある少女に心臓を提供することにした。幸い私の病は心臓とは縁がないからね。命を繋ぐ、素敵なことだと思わない?……ああ、嫌だな。まだ生きたかった。でも、死だけは誰にでも平等。凪、今までありがとう。本当に感謝しているの。私の世界を彩ってくれたから。好きだった。ずっとここに居るから、寂しくなったら逢いに来て。別れの言葉は、いつか凪が私に贈って』

 白い面に揺蕩うような弱弱しい灰色文字の羅列。

 そこで凪桜の物語は終幕を迎えたように、文字の更新は途絶えた。生きているうちは書いてくれていたようだったから、そういうことだろう……。

 顔も何も思い出せない。だが、名前とその優しさだけは忘れずに覚えている。霞がちの少女の存在を悲嘆に暮れた。瞼に涙を仕舞い込むように、強く閉じた瞼から涙が零れた。

 唇を強く噛みしめて、衝動が喉元をせり上がり、視界は歪み、鼻奥が暖かく塞がる。哀惜の念に堪えず、胸が裂けて、粉々に砕けた部分に凄愴せいそうの風が吹き込んだ。何かが抜け落ちると同時に、身体の芯から冷されていくようだった。

 蝋燭ろうそくに息を吹きかけると激しく空間を踊って消える如く、人の中に灯る焔のようなものが心を黒くした。

 酷く静かだった。暗闇に吞まれていく病室。これ以上、涙が零れないように天井を見た。そこには、光の弱い白い新月と満点の星空。

 人が死ねば星になる。そんな言い伝えがあるが、あれはただの仮初の慰めに過ぎない。科学的証拠もない拙い好都合解釈は信じていないが、そんなものに今は背を預けたい気分だった。

「……俺も好きだったよ」

 感情に振り回されて揺さぶられてばかり。儚く脆い繋がりに、現実に期待はしてはならない。滑稽で馬鹿馬鹿しい……。

 こんなことを言っては、流石の凪桜にも怒られそうだ。今だけは、この不確かで不安定な感情と彼女に振り回されていたい。

 ふと横を見る。やはりと言うべきか、誰もいない。しかし、眠る直前のぼやけたような視界で捉えたのは、どこかで印象強く刻まれたあの悪戯な笑みだ。

 あれは、照れながらも喜んでいる表情。凪桜が口を開けて喋るなら、きっと「ようやく素直になった」と、呆れ顔で肩を竦めているはずだ。




 春の暖かな風がカーテンを揺らし、起きろと言わんばかりにその隙間を陽光が射す。

 久しぶりに時間感覚が狂うような長い夢を見たが、何を見せられていたのか……。

 何故か目尻に溜まった涙を拭って、曖昧な記憶の中を彷徨したが、思い出せる内容の断片すらもなかった。しかし、確かなことと言えば、漠然と何か大切な内容だったことを第六感が訴えているということだけ。

 今一度、風が吹いた。昨日とはまるで違ったような空気が蔓延しているのは本日執り行われる入学式が原因だろうか……。

 学校に行っては疲弊して帰宅。一時的な快楽のぬるめ湯に深く浸かって、無価値のままに時間を浪費し、寝床に就く生活が再開するのだと思うと朝から憂鬱な気持ちになった。

 不意に二度寝すれば、同じ夢が見られるんじゃないかと浅はかな思考が巡り、陰に寝返りを打って寝始めようとした矢先、その怠惰な惰性を許さずアラームが鳴り響いた。

 即座に鳴き止ませ、肺一杯に空気を吸って嘆息する。なんとか上体を起こし上げると、枕元にある最期の空白のページが開かれている古びたノートが目についた。

「これって、昔の……なんでこんな所に」

 手に取って、ページを遡る。『凪桜』と俺の日記だ。もう六年前の出来事だった。

 彼女が死んだその日に親御さんから連絡があって、あまりのショックにそれっきり凪桜との記憶のほとんどが消えたのは……。

 俺は今までずっと何かに囚われていた。顔も声も覚えていない少女、凪桜の存在が頭にこびりついて離れず、鎖で雁字搦めにされている気分だった。

 既に思い出となり果てた日記を机に置いてから階下に降りた。

 両親は共働きで朝早くに家を出ているため、静寂と生活感だけが残されている。締め切られたシャッターと遮光カーテンを全開にして、薄暗い部屋に快晴の空の光を取り入れる。

 すると、スタスタという足音が近づいて来る。足元には飼い猫がいた。

「たま、おはよう。今日も黒いな」

 白い飼い猫に皮肉の様に言いながら、屈んで丁寧に整えられた毛並みにそって撫でる。にゃーと猫らしく鳴いた。

 そして、トースターでパンを焼いている間に洗顔を済ませて朝ごパンを齧る。

「今日入学式なんだ。是が非でも行きたくないが、行かないとこれから始まる三年間の高校生活が上手くいきそうにない。ほら、最近の学生様たちは入学前にグループ作ってたりするんだぜ?そうではない類の人間たちは、初日が大事なのだよ。知らんけど。あーあ、面倒めんどくせぇ。そうだ!たまが鞄の中に入ってくれたら……ダメか」

 溜息を吐きながら、膝の上のためを撫で続ける。猫との会話は快適だ。否定も肯定も正論も何も言わないし、一方的に喋っても文句ひとつ言わない。しかし、時折ボケとツッコみを成立させないといけない難しはあるが……。

「って、もうこんな時間」

 寝癖を直して少し大きな制服に身を包んで身なりを整える間も刻々と時間は過ぎるもので……遅刻手前の時間。一番焦るタイミングだった。

 善と遅刻は急げ。家を慌ただしく飛び出し、駅まで春休みで怠けた身体を鍛え直すかのようにに走る。な判断だ……。

 ホームまでの階段を駆け上がって駆け込み乗車。やれやれ、と。車窓に映る自己の愚かさに溜息を吐きたくなる。

 電車に揺られ終わっても、走らないと間に合わない。そう考えるだけで疲労感が蓄積されていく。焦燥は一時も俺に安らぎを与えない。なぜか……レッテルは張られると剝がされることはないからだ。

 学校の最寄り駅の改札を通った近くにある交差点で、体躯に電撃が走り抜けるように今朝の夢を思い出した。目の前には、既視感のある少女のふくらはぎ。

 俺はあの子を助けて入院することになっているんだった。そんなひと昔のラブコメ序章プロローグ主人公にならないために、信号が青に変わる前に足は動いていた。

 信号が切り替わった瞬間、黒髪を揺らして走りだそうとする少女の右手をガシッと掴んだ。

「……っ!」

 それを合図にするかのように、眼前を一台の乗用車が風を裂くようにして横切った。

「……ありがとうございます?」

 刹那の出来事にどうやら頭が追い付かない様子の少女は俺に振り返って、首を傾げならの感謝を述べた。

 朱が特徴的な双眸。白く若々しい肌に、優しそうな相貌そうぼう。たおやかに揺れる黒髪。スラッとした女子にしては少し長身のスタイルの良さが、制服越しにあらわになっている。

「遅刻するよな?」

 少女が緊張感を宿した険しい表情を上下に激しく振って同意を示している。

 ということで、次に起こす行動は自然と決まった。

 俺は彼女の手を引くようにして少し先を走りだそうとした。登校時間に遅刻しない程度に速く、しかし少女の体力も鑑みて速く……。

「いつまで手を繋いでいるの?まさかどこかへ連れ込んで……なっ!」

 嗚呼、なんだか少し嬉しかった。こういう時は……。どこかで培った経験がそのまま走り出せと助言したが、確かに走りづらい。

「走るぞ」

 俺たちは額に汗を滲ませながら学校まで並走した。

「俺二組だから、じゃ」

「待って。私も二組だから一緒に行こうよ」

 そんな訳で、胸を激しく上下させながら一緒に階段を登った。

「「お、おはようございます」」

 人が居るのかと思わせる静けさの扉を開けたら、三十人程の視線が一気に注がれた。遅刻ではないが、居心地の悪さに声を出さずにはいられなくなり、隣人と声が重なった。

 座席は恐らく名前順のはず。教室の一番奥の席。所謂ラブコメ席が二席空いていた。

 もう一席廊下側に空席があるが、違うはずだ……。

 そんなことを冷静に考えているが、未だに刺し続けられている視線が痛い。少し  背を丸めるようにしてそそくさと歩いて着席した。

「……うん、まあそうなるよな」

 レシピ通りに作れば同じ料理が作れるのと同じだ。こういう展開はこうなるというのは自然の摂理なのである。俺は苦笑を浮かべて窓際に座る名も知らぬ少女に声を掛けた。

「なんとなく予想はしていたわ」

梶谷かじたに凪だ。よろしく」

「私は逢坂おうさか雪乃よ。よろしくね」

 これから三年通う学び舎に交友関係が芽生えた瞬間だった。そうこうしていると、時間になって式場の体育館に誘導され、そこで校長の気にも留められない冗長たる話を右から左、左から右へと流した。この大勢を前にして話すのだから、もっと有意義な話をして欲しいと心の中で退屈だと愚痴る。

 一時間にも満たない時間だったのに、随分と長い時間に感じた入学式を終え、校庭まで出てその日は解散となったが、既にSNSでグループを作っているような人たちは群れたり、写真撮影に興じていたり……。

 校門のところでは、記念撮影をしている親子も見られた。

 俺はそんな親もいないし、仲のやつもいない。自嘲したくなる気持ちはもうない。割り切ってしまえば特に羨ましいなんて思うことはなく、帰ることにした。

「あ!居た!」

 俺が校門を出た時、誰かが誰かを探している声が響いていた。そこまで声量じゃないのに、やけに透き通るような声が。

 一瞬、俺かな?なんて淡い期待が頭を過ったが、ここで振り返ってはいけない。勘違い野郎だと思われてしまう。

「凪ってば!待ちなさいよ」

 服の袖を摘まむようにして、引き止められた。その正体は、ここまで近くで喋られると振り返らずとも声でわかる。やはり雪乃だった。

「なんだ?」

「せっかくだし、写真撮ろうよ」

 一生のうちに、指で数えられる希少価値の高いイベント。少しは浮かれてもいいよな。

 了承した瞬間、雪乃はスマホを母親に預けた。二人で立て看板を挟むと、多少の人目が集まり、羞恥心が俺を殺し兼ねなかった。

「……なんだか照れくさいわね」

「そっちから声かけて来たんだろ」

「声かけてくれる人私以外にいなかったくせに」

 存在五分五分シュレディンガーの孤独(ボッチ)には、刺さりすぎる言葉だった。

「二人とも撮るよ~」

 その声に俺たちは、踏ん切りをつけて表情を取り繕い、雑音で搔き消されたシャッター音が一瞬を細切りに記録する。

 自分の顔なんて見たくなかったが、雪乃に釣られて確認することになった。

 そこに映っていたのは、雪乃の整った顔立ちを際立たせるかのように、筆舌に尽くし難いなんとも微妙な顔を湛えた俺だった。そんな歪な俺の表情に視線を落とした雪乃は、口角を持ち上げて目元を歪ませ微笑んだ。

「なにこの顔?」

「うるさいな」

「えっと、もう大丈夫かしら?私は仕事抜けて来ているから、戻らないといけないの」

「うん、ありがとう。頑張ってね」

 雪乃の母親が足早にこの場を去っていく背中を見送って、俺たちもその後はゆっくりと帰ると思ったが……。

「ちょっと付き合って」

「ああ、いいぞ」

 脊髄反射で答えた俺が連れらて来られたのは横に翡翠色の川が流れる桜の並木道。まるで桜のトンネルのようで、見るところ全てに桜色が散りばめらえている。

「綺麗だな」

「え、私が?」

 隣を歩いていた雪乃が俺の前まで出て来てはそう言う。視覚効果だろうか、ほんのり頬が桜色に染めて、既視感のある悪戯な笑み。けれど少し違うような気もする。上目遣いで無邪気な子供と大人びた狡猾さが滲んでいた。

「それもだな」

 少し口角を上げて目を瞑り、彼女の横を素通りしながらそう言って退けると、時が止まったかのように静かになった。が、川の流れと、散っては雪のように積もっていく桜の花びらがそれを否定した。

「……そ、そう」

「散ってるなぁ?」

 馬鹿だなと俺は笑いながら辺りを一瞥した。相変わらずの風景を現実かと疑って、自分の手の甲を抓る。痛覚がハッキリしていた。

 隣にはいつの間にか追いついた雪乃が髪を必要以上にイジって歩いている。そのまま桜並木の通りで再び写真撮影。駄弁りながら抜け、途中まで一緒に帰った。

 仲良くなった証ということで連絡先を交換して、すぐに先ほど撮った入学式の写真と、桜並木の道で撮ったものが送られてくる。

『自撮りしたり、鏡で表情作る練習はちゃんとしなさい』と、大きなお世話だった。

『通りで写真映りが良いわけだ』

『女の子はビジュが命なのよ。どの角度から、どんな表情でも、可愛く見られる必要がある生き物なの!』

 その後は、『ありがとな』とだけ送って終わらせた。

 新年度早々にそんなこんなで充実した午前を過ごして帰宅。夜になって、今日も今日とて日記を綴った。

 追憶に残る『凪桜』という名の少女。それは、顔も声も何一つとして直感的な感覚で捉えられない存在。しかし、大事な存在であったことは普遍的で絶対的。

 だからと言うのか、忘れられることは出来なかったが、新たな門出で良い機会だ。この際、覚悟と決心を。きっと凪桜はこんな俺を望んではいないだろう。

 凪桜にはもう逢うことも、逢えることもないが、その存在は俺からそこまで遠ざかってもいないような確信が今日持てた。どことなく、まだ彼女の《意思》を感じる。

 これは、凪桜。俺からお前への未来から贈るプロローグ。だから……。

 ――エピローグにはまだ早い。

 六年前の日記と称した彼女との思い出に幕を閉じて、未だ消えることのない過去の痛みを抱えながら、新たな日記に物語を綴っていく……。

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記憶の一縷を辿るヒロインはよく散る でんでん @denden_zzz

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