第39話 今だけは
ーそれを確認した俺は、すぐに玄関へと向かった。ー
靴も履かずドアを開け外に出ようとすると
向こうからもドアを引かれる。
「…凛央さん……。」
そこにただ
心なしか少し荒いように見える。
しかし動揺を見せまいとしてか彼女が口元に浮かべているのは、状況にそぐわない不自然な笑みだった。
「あはは…。……こ…こないだ届けた絵に
不備あったみたいで…買い主の人がわざわざ来てくれたんだ……。
あはは…ドジだなぁ…私……。」
もう語らずともいいだろう。
無論そんなのは嘘に決まっている。
ではなぜ嘘をつくのか。
それはきっと俺を心配させないためなんだろうな。
「…嘘つくなよ…」
「……」
「なんで嘘つくんだよ。」
「………」
凛央さんは何も答えない。
俯いたまま黙っている。
俺に彼女を詰める権利なんて無いはずなのに
俺は言葉を止められなかった。
こんなことが前にもあった。
結局は身勝手。
俺はどこまでいっても傲慢で身勝手。
そう分かっていても、俺は彼女を詰めるのをやめることはできなかった。
俺は大声をあげようと息を吸った。
しかし凛央さんは素早く俺の唇に人差し指を押し当て、それを制してきた。
「………………ウソじゃないよ…。」
絞り出すかのようにそう発した彼女の呟きは
俺の胸に効いた。
心強くて頼もしい…たった一人の俺の見方。
そんな凛央さんが弱っていると思い知らされたような気がして、気勢が削がれてしまった。
そしてそんな彼女をさらに追い込んでいるのは俺。
ここでようやくドアを閉め、靴を脱いで家に上がった凛央さん。
照明に照らされた彼女の顔は、喋るのさえ辛いと言わんばかりの仄暗さを帯びていた。
「…ごめん…。…今夜カップ麺でもいい?」
「……え……?」
凛央さんは手を洗ってから、鍋に張った水を沸かすのを止め、キッチンで処理をしていた鶏肉や野菜も容器にしまいはじめた。
俺が皮を剥いたじゃがいもも見境なく。
夕飯はどんな美味しい凛央さんの手料理が
食べられるのかと勝手にワクワクしていた
だけに、俺は少なからず落胆させられた。
でもそれはどうでもよかった。
凛央さんの調子がおかしくなったのに
えも言えない焦燥感を覚えていた。
…戻ってほしい。
何が起きたかは定かじゃないが、
こんな状況でこんなことは無理だとは思う。
でも頼む。
いつもの凛央さんに戻ってくれ。
俺はそう叫んだ。
しかしその声は凛央さんには聞こえない。
なぜなら不安で俺も押しつぶされそうだったから。それゆえに声が出なかったから。
心の中で叫ぶのが精一杯だった。
「………凛央……さん……」
「……ポットそこにあるでさ、好きなの食べて……。…私は要らないから……。」
そう言って凛央さんは冷蔵庫を閉め、棚の
取っ手を引いた。中に積んである何種類かの容器がカップ麺か。
それをちらりと見た後すぐ、俺は視線を凛央さんに戻した。
見れば部屋を出ていこうとしている。
………やめてくれ……。
どこにも行かないでくれ。
この部屋から出ていくなという意味ではない。
今凛央さんがどこかに行ったら、もう戻ってこないような気がした。
凛央さんがどこか遠くに消えてしまうんじゃないかという気さえした。
………俺のそばから離れないでくれ。
「凛央さん……」
凛央さんが振り返る。
しかし彼女はまたしても、力無く笑うだけだった。
「……凛央さ「のりお。」
今度は一際大きな声で彼女の名前を呼ぼうとした。でも、二度目はなかった。
明らかに故意ととれるタイミングで遮られてしまった。
「頭痛いんだ。」
俺はバタンというドアの閉まる音を遠くに
聞きながら、その場にしゃがみ込んだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
それから何分が経っただろうか。
俺は心此処にあらずといったようにぼんやりと、木質の壁を眺めていた。
さっきまでは感じていた空腹感が毛ほどもない。
人の怒りや楽しい気持ちが伝染するように
元気のない彼女に当てられてしまった俺は
すっかり眠り込みたいような気分になってしまった。
凛央さんの後を追おうか。
それは野暮な気がする。
もしかしたら、それは一番やってはいけない選択かもしれない。
でも俺は餓鬼だ。
どうしようもない糞餓鬼なんだ。
そう言い聞かせることでそれを免罪符にして、凛央さんの様子を見に行くことに決めた。
そして大きなため息とともに立ち上がる。
優しい凛央さんのことだ。きっとあのベッドでは寝ていないだろう。
案の定ベッドの部屋に彼女の姿は無い。
探検するようで申し訳ないが、少々部屋の
ドアを開けて周らせてもらった。
そのうちの一つ。
クッションの乗ったソファーがある小さめの部屋。
そこに彼女の姿はあった。
「……のりお……?」
凛央さんはそのクッションを枕にして横に
なっていた。電気は極々微量。
辛うじて彼女の気配と存在が捉えられる程度だ。
「……なんで来たの……。」
俺はたじろいだ。
俺の知っている彼女には似つかわしくない
棘のあるぶっきらぼうな言い方だった。
でもここで退くことはできなかった。
いや、退きたくなかった。
不安なのはきっと凛央さんも同じだ。
そう信じ、俺は体を起こした凛央さんに
抱きついた。
お互い暗闇に目が慣れてきた頃だった。
凛央さんはひたすら驚いているか
俺の無神経への怒りかで、声も発してこなかった。
俺はというとひたすら安堵していた。
凛央さんが居る。
俺が今抱きしめているのは凛央さんだ。
可愛くて、強くて、優しくて、大好きな
凛央さん。
…浜岡凛央さん。
俺はもう…アンタ無しじゃ生きてけねぇ。
胸の中でそうやって言葉を並べた。
それだけでは凛央さんに伝わらないと分かっていても、彼女を想う言葉を並べ続けた。
アンタの笑顔が好きだ。
アンタの料理が好きだ。
凛央さんの声も、顔も、乳も、考え方も
「凛央さん。」
「……」
「…………好きだ……。」
「…………………………………」
きっと
俺の胸の内の
………0.1%は伝わったのかもしれないな。
凛央さんは涙を流しはじめた。
まるで子どもみたいに、ハンバーグ屋の俺
みたいに、嗚咽をこらえながら泣き出した。
「………ご…ごっ……ごめんっ……
ごめんねっ………。ごめんねぇ……
……………のりおぉ……………。」
凛央さんも俺を抱きしめ返してくれた。
そして凛央さんに押し倒されるようにして
二人じゃ狭いソファーに横になった。
凛央さんは俺の胸に顔を擦り付けるようにして泣いた。
ひとしきり泣いた後も、胸に顔を擦り付けてくる。
よく見たら耳を俺の胸に押し当てている。
「……あったかい……。」
……。
「のりおの…心臓の音……。
……のりお……、……生きてる………。
今だけは……私のそばにいて…。」
んだよ…また泣き出しちゃ叶わねぇぞ…。
まったく…いつになったら泣き止んでくれるんだよ……………………。
マジでいつになったら……
俺の涙腺も締まってくれるんだよ…………。
この人をどれだけ愛おしいと思えば…
満足できるんだよ………………。
いつの間にか彼女はすぅすぅと寝息を立て始めた。
……これでよかったんだろうか。
野暮だと思った凛央さんを追っかけるという選択が、こんな風に転ぶだなんて思っても
みなかった。
そういや…凛央さんが寝てんの…初めてみたな。
さながらその様子は天使だった。
俺の腕で眠る天使。
愛らしい顔で眠る、俺より背の高い天使。
この世でたった一人の、俺だけの女神様。
そう思いながら俺は、女神様が眠る前に
ほんの一瞬だけ浮かべた
何かを決意したかのような力強い表情
を思い起こしながら目を閉じた。
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