【習作】泥の少年

アヤバ

泥の少年

 硝煙燻る荒地のど真ん中。少年は独り、降りしきる雨に顔を打たれながらぼんやりと空を眺めていた。

 耳を澄まさずとも、彼方から銃火の炸裂音と誰のものとも知れぬ悲鳴は彼の耳に轟く。


 ――戦場とはこういうところなのか。


 あまりにも遅れて来た実感に、少年は曇る思考の中で微かな自嘲を漏らした。

 世は戦時。謀略と政治の絡み合った混沌とした世界に産み落とされ、時の巡り合わせで戦地に放り込まれた若き少年は、人の世の煩雑さを知る間も無く、罪深くも無垢な「敵」と相対あいたいすることとなった。

(……寒いなぁ)

 秋と冬の狭間であったはずのこの季節の空気が、何故か少年には凍えそうなほど冷たく感じられた。その原因がしきりに降り注ぐ雨水のせいなのか、はたまた胴体にいくつか空けられた風穴から漏れ出る血液のせいなのかは、彼の理解の及ぶところではなかった。


 彼は孤児であった。幼い頃から両親の顔も知らず、受け取るべきだった無形の何かを受け取ることも無く、彼はただ時に身を任せて生きるほか無かった。

 そんな中、彼の住んでいた国と隣国での摩擦が顕著になり、幾許かの不穏な情勢の後いくさの火蓋が静かに切られた。数年間矛を交え続けていた両国は消耗戦に陥り、戦場に送られる者の齢はどんどんと低くなっていった。

 彼もまた、消耗しつつある両国の崇高なる犠牲生贄とするべく送られた人間の一人だった。孤児院に届いた徴兵の手紙を手にいくつかの街を経由し、鉄道駅でしきりに少年たちを鼓舞する上官と思しき人間を横目に通り過ぎ、すし詰めの三等車に乗り込んだ。輝かしい目をしている者もいれば、何かしらを懐中に抱きながら喘鳴ぜんめいを漏らす者もいた。これが「少年」なのか、などと考えながら、その暗澹たる現実を眺めていた少年は、今、その時と全く同じ目で泥濘の中に沈んでいた。


 大気を揺らす銃砲の音を掠れゆく耳で聞きながら、そして痺れたかのように感覚を失っていく四肢で身体じゅうを犯す泥水と血の流れを感じながら、少年は只管ひたすらに天を仰ぐ。

 ――死。

 彼の脳裏にぼんやりと浮かぶその言葉は、彼にとって明確な輪郭を伴わない抽象的な肖像だった。

 思えば、孤児の頃から「死」という概念はそう遠くないものだった。路地裏で雨風を凌ぎながら、少ない日銭を稼ぐために朝から晩まで重労働に従事する。人災、事故、病気、快楽殺人者。様々な危険が蔓延る世界で幾年も暮らし、孤児院に拾われても暴力と隣り合わせの日々。彼の心には、「死」というものを恐れるに足るだけの感性が無かった。

 しかし今、彼は今、明確に死への道行きを一歩一歩進んでいる。今まで彼の眼前に横たわっていた一線を明確に超えた未知の旅路。彼はその事実を認識しつつ、しかし同時に彼の思考を覆う非現実感のベールが、或いは「死」を身近に感じ続けてきた経験が、その重さを推し量るだけの明瞭な感性を喪わせていた。

(僕は死ぬのか……路地裏と殆ど変わらない、こんなゴミ溜まりの中で)

 首をかしげれば、そこには彼と同じく泥濘に沈む骸の数々。微かに動いている者もいるが、その者もまた幾許もしないうちにただの肉塊へと成り果てるだろう。

 人が見るという走馬灯とはどんな物なのか、人は今際いまわの際で何を思うのか。骸の山を薄らぼんやりと眺めていた少年は、ふとそんな事を考えた。

 走馬灯。言葉のうえでは知っている。しかし今までの人生で走馬灯のようなものに出会ったことはなく、また走馬灯に現出するであろう煌びやかな記憶も無い。そんな少年は、ひとつ思案し、またひとつ思案し、そしてまたひとつ思案する。こんな思考を重ねるごとに、少年は自らの人生の空虚さを次第に実感し始めていた。

 親がいない。

 帰るべき家が無い。

 生に固執するだけの理由も無い。

 こんな人生に何の価値があっただろうか。擦り切れつつも純粋であった少年は、ゆっくりと薄れゆく意識の中で無意味な思考を反芻していた。


 そんな思考を重ねてどれくらい経っただろうか。未だどんよりと漂い続ける雨雲を眺めていた少年は、ふと命を吹き飛ばす轟音が消えていたことに気付いた。

 鼓膜を叩き続けていた轟音が消え去り、翻って痛いほどの静寂が耳に響く。

 ――平穏とはこんなに苦しいものだったか。

 ――一時ではあれど、平和が訪れたことがこんなにも悲しいことだったのか。

 荒野の真ん中、独りうち捨てられた少年は、耳朶を打つ静寂に恐怖した。

(――嫌だ、死にたくない)

 口を動かしたつもりだったが、彼の想いが体の外側へと出て行くことは無かった。声を発することもできない程「死」に近付いていたことに驚愕を覚え、少年は動かない体を戦慄わななかせた。

(――死にたくない。まだ、何もしていない)

 自らの空虚な人生を振り返ったばかりの哀れな少年は、突然襲い来る恐怖の衝動に震えていた。


 そんな折。

 彼の視界に、金色の光の粒子が瞬いた。

(……何だ?)

 雨粒に混じってゆっくりと降り注ぐ金色の瞬き。「非現実的」としか形容し得ないその光景を、体の自由を喪った少年はただ見入ることしかできなかった。

 時が経つにつれ、その瞬きは数を増していく。それと同時に、彼の思考は段々と明瞭になってきた。

 ――不思議だ。

 ――神秘的だ。

 ――柔らかい。

 ――暖かい。

 終わりの無い円環から零れ落ちた彼の思考は、数を増し続ける金色の粒子へと導かれていた。

 この光は何なのだろうか。今際の際に見る幻覚なのだろうか。

 いや、それにしてはあまりに明瞭だ。「幻覚」と断じて切って捨てるには、あまりに「現実的」だ。

 ――「現実的」であり、「理想的」だ。


 幼い頃、蝶の羽化について聞いたことがあった。

 蝶は幼虫から成虫になる過程でさなぎへと姿を変えるが、その蛹の中では不定形の何かが渦巻いて美しい翅を持つ体が造られているのだという。

 明瞭な輪郭こそあれど、その中は不定形で流動的。

 金色の粒に魅入られている彼の思考は、まさに羽化を迎えんとする蛹のようであった。

 ――「現実的」であり、「理想的」。

 少年にはこの言葉が孕む矛盾に気付くだけの余力は無く、そして同時に残酷ながらも救いある多幸感に心奪われる程には荒み、擦り切れていた。


 鱗粉のような金色の光が視界と感覚を覆い隠した頃、少年の頭にふと言葉が過った。

「――母さんに、会いたいな」

 母親。

 自分を産み、棄て、消えていった存在。

 彼の思考に介在していなかった、曖昧で無意味な存在。

 そんな存在に、不思議と彼は心惹かれていた。

 彼がその言葉を口に出すや否や、金色の鱗粉は風に乗せられたかのように舞い始めた。

 視界いっぱいの鱗粉が緩やかに流れ、集まり、次第に何かの姿を描き出す。

 あれは、人の手だろうか。しなやかで繊細な、美しい女性の指。

 そしてあれは……髪の毛だろうか?細く艶やかで、微風そよかぜなびく綺麗な髪。

 彼の視界の中で、確実に何かが形作られてゆく。

 暖かい光の輪郭で創られた、見知らずとも心安らぐその姿。

 間違いない。あれは、自分の母親だ。



 次第に強まる哀しみの雨の中、少年はその光へと手を伸べた。

 雷鳴轟く泥濘の中、少年は肉体を棄て、心地良い浮遊感と共に意識を手放した。

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