婚約破棄で激しいビンタを食らって即死。公爵閣下、あなただけは絶対に許しません

藍沢 理

第1話

 レイモンド・クロフォード第三王子は、ペンを握る手に力を込めた。青い瞳に広がる公文書の文字が、蠢いているような錯覚を覚える。それはアストリア王国の王立図書館に保管されている、二年前の出来事を記した公文書だった。


 不可解な事件に心を痛めた国王陛下は、王族でありながら中立的な立場を保つレイモンドに、真相究明を密かに命じた。


 十九歳にして、王立学園の首席。聡明な彼に王室の特命調査官という重責が与えられたのだ。


 彼は今や、王国最大の謎に挑んでいた。ナヴァール伯爵家令嬢、マリー・ド・ナヴァールの死。公式には事故とされたその出来事の真相を、彼は執拗に追っていた。


「婚約破棄の宣言」


 そう記された見出しの下には、貴族たちの証言が並んでいる。レイモンドは眉をひそめる。これが事実なら、とんでもない事件だ。王族の一員として、また真実を追い求める者として、彼はこの謎を解かねばならない。


「レディ・マリー・ド・ナヴァールの御身に何があったのか。証言をお願いしたい」


 そう書かれた質問の下には、ある貴族の証言が記されていた。


「あれは悲劇としか言いようがありませぬ。ギデオン・ド・ヴァロワ公爵閣下は、突如として婚約破棄を宣言されたのです。レディ・マリーは驚きのあまり、その場に立ち尽くしておられました」


 レイモンドは、目を細める。婚約破棄。それも突然に。なぜだ? ギデオン公爵には何か秘密が、あるいは疾しいことがあるのではないか。そんな疑念が頭をもたげる。


「その後の様子は?」


 次の質問に対する答えは、さらに衝撃的なものだった。


「ギデオン公爵閣下は、レディ・マリーの頬を激しくビンタしたのです。『愚かな女め』と罵られ……。そして、レディ・マリーは、その場で倒れられ……」


 レイモンドは息を呑む。公の場での暴力。しかも、婚約者に対して。そんなことがまかり通るのか。なぜ公になっていないのか。アストリア王国の貴族社会は、一体どうなっているのだ。


 彼は羽ペンを走らせ、メモを取る。マリー・ド・ナヴァール、享年十八歳。ギデオン・ド・ヴァロワ、二十八歳。婚約破棄の理由は不明。そして、マリーの突然死。


「突然死? 証言では暴力が死因だ。が、これは事故として処理されている」


 レイモンドは小さく呟く。胸の奥に湧き上がる違和感は消えない。事故。そんなわけがない。


 彼は立ち上がり、図書館の奥へと足を進める。もっと調べなければならない。マリーの死の真相に迫るためには、さらなる情報が必要だ。


 薄暗い書庫の中、レイモンドの目に背表紙が飛び込んでくる。「隣国との同盟に関する覚書」


 彼はその文書を手に取り、読み進める。そこには、ギデオン公爵と、隣国エルダリア王国のイザベラ・フォン・ライヒェンバッハ王女との政略結婚の可能性が記されていた。レイモンドの目が見開かれる。


「これは……」


 彼の脳裏に、一つの仮説が浮かび上がった。ギデオンはマリーを愛していなかった。むしろ、彼女は邪魔な存在だったのではないか。そして、その邪魔者を排除するために……。


 レイモンドは、首を振る。まだ証拠が足りない。だが、この仮説が正しければ、マリーの死は単なる事故ではない。それは、心ない冷酷な殺人だ。


 彼は、決意に満ちた表情で羊皮紙にペンを走らせる。


「僕は、マリー・ド・ナヴァールの死の真相を明らかにする。たとえ、それが貴族社会の闇を暴くことになろうとも」


 夜が更けていく。レイモンドは、次なる調査の計画を立てながら、ヴァロワ公爵邸への訪問を決意した。真実は、そこにあるはずだ。


 *


 薄暗い石畳の道を、レイモンド・クロフォードの足音が響く。目の前に聳え立つ城塞は、彼を警戒するように、冷たい影を落としていた。


 ヴァロワ公爵邸。


 その名を思い浮かべた瞬間、レイモンドの背筋に寒気が走る。この城には、人知れぬ秘密が隠されているはずだ。そして、マリー・ド・ナヴァールの死の真相が、ここにある。そう確信していた。


「ようこそ、レイモンド殿下」


 執事が、無表情に彼を出迎える。その眼には、どこか虚ろな影が宿っていた。


 レイモンドは軽く会釈をし、城内へと足を踏み入れた。廊下に並ぶ肖像画の目が、彼を追うような錯覚に陥る。


「ギデオン公爵閣下は?」

「書斎でお待ちです」


 執事の言葉に頷き、レイモンドは案内されるまま進んでいく。


 重厚な扉の前で立ち止まる。ノックの音が、不吉な予感とともに響き渡った。


「どうぞ」


 重厚な声が聞こえてくる。レイモンドは深呼吸し、扉を開けた。


 書斎に一歩足を踏み入れた瞬間、レイモンドの鼻腔が、かすかな薔薇の香りを感じ取った。その甘美な香りの中に、何か異質なものがある。思わず眉をひそめる。


「クロフォード殿下、わざわざ足を運んでいただき恐縮です」


 ギデオン・ド・ヴァロワ公爵が、ゆっくりと顔を上げる。その表情には、微かな緊張の色が見て取れた。


「お忙しいところ、お時間をいただき光栄です」


 レイモンドは丁寧に礼を述べる。しかし、その眼は鋭く、ギデオンの様子を観察していた。


「伯爵家の令嬢、マリー・ド・ナヴァールのことで、お伺いしたいことがございます」


 その言葉を聞いた瞬間、ギデオンの瞳に一瞬の翳りが走る。それを見逃さなかったレイモンドは、内心で歯ぎしりする。


「あれは不幸な事故でした。それ以上でも以下でもありません」


 ギデオンの声は冷たく、感情を押し殺している。


「しかし、公の場でのビンタ。そして突然の死。これは……」


「噂話に惑わされているようですね、クロフォード殿下」


 ギデオンが言葉を遮る。その目には、いつの間にか冷たい光が宿っていた。


「マリーの死は、私にとっても衝撃的な出来事でした。ただ、それだけです」


 レイモンドは、ギデオンの言葉に首を傾げる。そこには何かが欠けている。真実の欠片が。


「閣下、城内を拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」


 突然の申し出に、ギデオンの表情が強張る。しかし、すぐに取り繕うように微笑んだ。


「どうぞ。ただし、立ち入り禁止の場所もございます。ご了承ください」


 レイモンドは頷き、ギデオンの後に続いて書斎を出る。


 廊下を進むうち、レイモンドの目に一つの扉が飛び込んでくる。他の扉とは違い、その扉には複雑な彫刻が施されていた。それは、防音の魔法陣だった。


「あの部屋は?」

「立ち入り禁止です」


 ギデオンの声に、わずかな焦りが混じっている。レイモンドは、その扉に目を凝らす。扉の向こうから誰かが彼を呼んでいる……。そんな錯覚に陥る。


 突如、背後で物音がする。振り返ると、老婆が立っていた。


「ジゼル・ルフェーブル。城の古参メイドをしております」


 その声には、どこか悲しみが滲んでいるように聞こえた。


「マリー様のことで、お話しできることがございます」


 ジゼルの言葉に、レイモンドの心臓が高鳴る。ここにも、真実への糸口がある。そう直感した。


 しかし、その瞬間。


「ジゼル!」


 ギデオンの声が鋭く響く。老メイドは、びくりと肩を震わせた。


「失礼いたしました。私は仕事に戻ります」


 そう言って、ジゼルは足早に立ち去っていった。


 レイモンドは、その後ろ姿を見送りながら、心の中で誓う。必ず、あなたの話を聞かせてもらいます。そして、この城に隠された真実を暴きます。と。


 城内を一通り案内され、レイモンドは帰ることになった。彼の脳裏には、あの彫刻の施された扉が焼き付いていた。


「では失礼致します」


 執事に礼を言って城を後にする。夜風に吹かれながら、レイモンドは思考の渦に飲まれていく。この城には、まだ語られていない秘密がある。そして、その中心には、マリーの怨念が渦巻いているはず。


 彼は、再びこの城を訪れることを心に誓った。真実を求めて。そして、マリーの魂を鎮めるために。


 *


 王都古書館の薄暗い書庫に、レイモンド・クロフォードの姿がある。彼の指先が、埃にまみれた公文書の背表紙をなぞっていく。目指すは、アストリア王国の歴史書だ。


「ヴァロワ公爵家の秘密」


 そう記された一冊を手に取り、レイモンドは息を呑む。ページをめくる音が、静寂を切り裂く。


「代々、非業の死を遂げた女性の霊が取り憑く……」


 その一文に、レイモンドの背筋が凍る。さらに読み進めると、より衝撃的な記述が目に飛び込んでくる。


「城の地下室には、秘密の部屋があるという。そこでは、代々の当主によって、おぞましい儀式が行われてきたとの噂がある。城の修繕時に、大量の人骨が発見されたとの記録も……」


 レイモンドは、思わず本を閉じた。マリーの死。それは偶然ではない。そう直感した瞬間だった。長年の伝統として続けられてきた、恐ろしい秘密の存在を感じ取る。


 公文書を閉じ、レイモンドは深く息を吐く。真実が見えてきた。だが、それは恐ろしくて悲しい真実だった。ヴァロワ公爵家の闇は、彼の想像を遥かに超えるものだったのだ。


 *


 夜になり、彼は再びヴァロワ公爵邸へと足を向けた。城に近づくにつれ、空気が重く澱んでいく。


 城門をくぐった瞬間、異様な雰囲気に包まれた。


「レイモンド様……」


 振り返ると、ジゼル・ルフェーブルが立っていた。彼女の顔は蒼白で、震える唇から言葉が漏れる。


「マリー様が……マリー様が……」


 そう言いかけたジゼルは、突如として崩れ落ちた。レイモンドは慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こす。


「大丈夫ですか? ジゼルさん!」


 だが、ジゼルの意識は朦朧としている。うわごとのように、彼女は呟き続ける。


「許せない……復讐を……」


 その言葉だけ声音が変わった。若い女性の声に。レイモンドの胸が締め付けられた。マリーの怨念。それは、確実に目覚めつつあった。


 ジゼルを他のメイドたちの助けを借りて部屋に運び込んだ後、レイモンドはギデオン公爵を探して城内を歩いた。書斎の前で足を止めると、彼の手が扉に触れる。ノックしようとする指先が、わずかに震えている。レイモンドは深呼吸し、決意を固めた。


「どうぞ」


 低く渋い声に促され、レイモンドは部屋に入る。ギデオンの姿は、以前よりも憔悴しきっていた。


「どうかされましたか? 公爵閣下」

「夢を見るんだ……マリーの……」


 ギデオンの声は掠れ、その目は虚ろだ。レイモンドは、彼の精神状態が限界に近づいていることを感じ取る。


「彼女は私を責める。許さないと……」


 ギデオンの告白に、レイモンドは息を呑む。やはり怨念は、確実にその力を増していた。


 突如、部屋の温度が急激に下がる。レイモンドの息が、白い靄となって立ち込めた。


「ギデオン……」


 か細い女性の声が、どこからともなく響く。ギデオンの顔がさっと青ざめた。


「マリーか?」


 レイモンドの目の前で、ギデオンが震え上がる。その瞳は部屋の隅、一点を見つめていた。彼には何が見えているというのか……。


「絶対に、許さない……」


 その声と共に、書斎の本棚が激しく揺れ始めた。本が床に落ち、紙片が舞い散る。


 レイモンドは咄嗟にギデオンを庇い、部屋から飛び出した。廊下に出ても、異様な現象は続いている。壁の肖像画が歪んでゆく。


「これは……」


 レイモンドの頭に、公文書で読んだ言葉が蘇る。非業の死を遂げた女性の霊。そして、その怨念。


 城全体が、マリーの怒りに包まれていく。レイモンドは、事態の深刻さを痛感していた。このままでは、ヴァロワ公爵家は破滅する。いや、それだけではすまない。


 レイモンドは、決意を固めた。この怨念を鎮めるには、真実を明らかにするしかない。そして、その真実こそが、マリーの魂を解放する鍵なのだ。


 彼は、再び王都古書館へ向かうことを心に決めた。そこには、きっと答えがある。マリーを救う方法が。


 夜空に、不吉な雲が渦巻いていた。レイモンドは、時間との戦いに身を投じる。真実の解明と、魂の救済。その重圧が、彼の肩に重くのしかかっていた。


 *


 ヴァロワ公爵邸の廊下に、レイモンド・クロフォードの足音が響く。その音さえ、重く澱んだ空気に吸い込まれていく。


 彼の目の前で、再び絵画が歪む。額縁の中の風景が、渦を巻いているように見える。レイモンドは思わず足を止めた。


「これは……」


 足元から振動を感じて言葉を失う。ポルターガイスト現象。それも、尋常ではない規模だ。


 突如、背後から悲鳴が聞こえた。振り返ると、若いメイドが青ざめた顔で立ちすくんでいた。


「マ、マリー様が……」


 レイモンドは、メイドの肩を抱く。


「落ち着いて。何があったんです?」

「廊下の突き当たりに、マリー様が立っていたんです。でも、顔が……顔が……」


 女中は言葉を詰まらせる。その瞳には、言いようのない恐怖が宿っていた。


 レイモンドは、廊下の突き当たりに目を向けた。そこには何もない。だが、確かに何かがいた気配が残っていた。


「グレゴリー神官に会わなければ」


 そう呟き、レイモンドは城を後にし、足早にアストリア大聖堂へと向かった。


 *


 大聖堂の扉を開けると、静謐な空気が彼を包み込む。ステンドグラスを通した光が、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


「クロフォード殿下」


 グレゴリー・デュボワ神官が、厳かな表情で彼を迎えた。


「事態は思った以上に深刻です」


 レイモンドの言葉に、グレゴリーは重々しく頷く。


「霊媒師を呼んでおきました。マリー様の霊と対話を試みましょう」


 二人は、大聖堂の奥へと進む。そこには、枯れ枝のような霊媒師が待っていた。男女の判別すらつかない。その目は白く濁っており、レイモンドではなく、遠くを見つめていた。


「始めましょう」


 グレゴリーの声を合図に、儀式が始まった。


「よろしいですね」


 しゃがれた声の霊媒師が、小刻みに震え始める。そして、その口から、か細い声が漏れ出した。


「ギデオン……許さない……」


 レイモンドの背筋に冷たいものが走る。その声は、霊媒師のものでは無い。間違いなくマリーのものだった。


「マリー様、どうか安らかにお眠りください」


 グレゴリーが諭すように語りかける。しかし、


「安らかに? 笑わせないで」


 マリーの声が、突如として鋭利になる。


「あの男に、私の人生を奪われたのよ。許すはずがないわ」


 その瞬間、大聖堂内の温度が急激に下がる。レイモンドの息が、白い靄となって立ち込める。


「レディ・マリー、あなたの怒りはよくわかります。でも、このままでは……」


 レイモンドの言葉を遮るように、激しい風が吹き荒れる。祭壇の蝋燭が一斉に消え、暗闇が訪れる。


「黙りなさい! あなたに何がわかるというの?」


 マリーの声が、怒りに震えている。


 突如、レイモンドの体が宙に浮く。見えない力に掴まれ、彼は壁に叩きつけられた。


「ぐっ……」


 痛みで顔をしかめる。それでも、彼は諦めない。


「レディ・マリー、お願いです。話を聞いてください」


 レイモンドの必死の訴えに、マリーの霊が一瞬躊躇する。


 その隙を見逃さず、グレゴリーが詠唱を始める。古代の言葉が、大聖堂に響き渡る。


「……」


 マリーの霊が、徐々に姿を現す。その姿は、美しくも悲しい。


「どうして……どうして私は死ななければならなかったの?」


 彼女の問いかけに、レイモンドは言葉が見つからない。ただ、心の奥底で誓う。必ず真実を明らかにし、彼女を救うと。


「マリー様、どうか怒りを収めてください。このままでは、あなたの魂が……闇の世界に取り込まれてしまいます」


 グレゴリーの言葉が、彼女の心に届いたのか。マリーの姿が、徐々に薄れていく。


「ギデオンに伝えて。絶対に、許さないって」


 その言葉を残し、マリーの霊は消えた。


 大聖堂に、再び静寂が訪れる。レイモンドは、壁にもたれかかったまま、深く息を吐く。


「これで終わりではありませんね」


 グレゴリーの言葉に、レイモンドは頷く。


「ええ。真実を明らかにし、レディ・マリーの魂を救わなければ」


 二人は、決意を新たにする。マリーの怨念を鎮めるため、そして、ヴァロワ公爵家の呪いを解くために。


 *


 王都古書館の奥深くに、レイモンド・クロフォードの姿があった。彼の手元には、黄ばんだ公文書が広げられている。目は、一行一行を必死に追っていく。


「これだ……」


 レイモンドの声が、静寂を破る。古代魔法書に記された儀式。それは、悪霊を浄化し、魂を救済する方法だった。


 彼は急ぐ。時間がない。マリーの怨念は、刻一刻と強まっている。王都古書館を飛び出し、彼は走り始めた。


 *


 ヴァロワ公爵邸に着くと、前よりも異様な雰囲気が漂っていた。空気が重く、息苦しく、まるで水中のように感じた。


「ギデオン公爵閣下、お話があります」


 レイモンドの声に、ギデオンが振り向く。その顔は、以前にも増して憔悴しきっていた。


「君もしつこいな。いったい何の用だ? クロフォード殿下」

「レディ。マリーの霊を鎮める方法を見つけました。ですが、そのためには閣下の協力が必要なのです」


 ギデオンの目が、わずかに揺れる。


「私に何ができる?」

「真実を語ってください。そして、儀式に参加してください」


 レイモンドの言葉に、ギデオンは目を伏せる。長い沈黙が続く。


「……わかった」


 ギデオンの声は、か細かった。だが、その中に決意が感じられた。


「すべてを話そう。マリーの死は……私の仕業だ」


 その告白に、レイモンドは息を呑む。予想はしていたが、それを聞くのは辛かった。


「政略結婚のため、私は彼女を殺した。だが、それ以来、私は地獄に落ちたも同然だ」


 ギデオンの声が震える。


「悔やんでも悔やみきれない。マリー、許してくれ……」


 レイモンドは、ギデオンの肩に手を置く。


「まだ遅くありません。レディ・マリーの魂を救う儀式に参加してください」


 ギデオンは、ゆっくりと顔を上げる。その目には、かすかな希望の光が宿っていた。


「やろう。彼女のために、私にできることをしよう」


 二人は、城の中庭へと向かう。そこには既に、グレゴリー神官が待っていた。


「準備はできています」


 グレゴリーの声に、レイモンドは頷く。


 儀式の準備が整う。古代魔法書に記された通り、魔法陣が描かれ、香が焚かれる。


「始めましょう」


 レイモンドの声を合図に、三人は詠唱を始める。古代の言葉が、夜空に響き渡る。


 突如、激しい風が吹き荒れる。魔法陣が輝きを放ち、中庭の空間が歪む。


「マリー!」


 ギデオンの叫びが、風にかき消されそうになる。


 その時、彼女の姿が現れた。マリーの霊だ。その表情には、激しい怒りが刻まれていた。


「ギデオン! 私は許すつもりなどない!」


 マリーの声が、怒りに震える。


「マリー、私は……」


 ギデオンが一歩前に出る。


「私は、本当に申し訳ないことをした。償いきれるものではないと分かっている。それでも、許してほしい」


 マリーの霊が、揺らめく。


「どうして……どうして私を殺したの?」


「愚かだった。権力と地位だけを追い求め、本当に大切なものが見えなくなっていた」


 ギデオンの声に、真摯な後悔の色が滲む。


「マリー、私はあなたを愛していた。それなのに、自分の欲望のために……」


 その言葉に、マリーの表情が和らぐ。


「ギデオン……」


 レイモンドとグレゴリーは、必死に詠唱を続ける。魔法陣の光が、マリーを包み込んでいく。


「もう、苦しまなくていいんだ。安らかに眠ってくれ」


 ギデオンの言葉が、マリーの心に届いたのか。彼女の姿が、徐々に光に包まれていく。


「ギデオン……あなたを許します。でも……」


 マリーの声が震え、その姿が揺らめく。激しい風が吹き荒れる。


「マリー! 私の罪を、この身に刻み込んでくれ!」


 ギデオンが叫ぶと、マリーの霊は悲しげな表情で近づいていく。


「ギデオン……私はずっと、あなたに愛されていたかった」


 ギデオンの目の前でマリーの声が優しく響く。彼女の霊がゆっくりと光に包まれていく。


「これからは、生きている人々のために生きて」


 その言葉と共に、マリーの霊は光となり、夜空へと消えていく。ギデオンの額に、十字の傷跡が刻まれていた。


「マリー……約束する。君の分まで、精一杯生きていく」


 ギデオンの目には、決意の色が宿っていた。



 儀式が終わった。三人は、疲れ切った様子で座り込んだ。


「終わったんだ……」


 レイモンドの呟きに、ギデオンが頷く。


「ありがとう、クロフォード殿下。そして、グレゴリー神官」


 ギデオンの表情には、晴れやかさが戻っていた。


「これからどうするんです?」


 レイモンドの問いかけに、ギデオンは静かに答える。


「公爵の座を譲り、贖罪の旅に出る。マリーの分まで、人々のために生きていこう」


 その決意に、レイモンドは深く頷いた。


 夜が明ける。新たな朝の光が、ヴァロワ公爵邸を包み込む。


 レイモンドは、この物語を「マリーの悲劇」として後世に伝えることを心に誓う。そして、人々が二度とこのような悲劇を繰り返さないよう、願うのだった。


 *


 朝霧の立ち込めるヴァロワ公爵邸の庭で、レイモンド・クロフォードは深い息を吐く。マリーの成仏から一週間が経っていた。


 城内の空気は、以前よりも軽くなっている。だが、どこか名残惜しさのようなものが漂っていると感じる。


「本当に終わったんでしょうか」


 レイモンドは、ぽつりとつぶやく。


 城の扉が開き、ギデオン・ド・ヴァロワが姿を現す。彼の表情は、以前とは打って変わって穏やかだ。


「クロフォード殿下、お待たせしました」

「いえ。お忙しいところ、時間を割いていただき感謝します」


 二人は、庭の石のベンチに腰を下ろす。ギデオンは深いため息をついてうつむいた。


「公爵位を譲る手続きは、すべて整いました」


 その声には、決意と共に深い後悔の色が滲んでいる。


「これから、どちらへ?」


 レイモンドの問いかけに、ギデオンは遠くを見つめる。


「まずは、マリーの故郷へ。彼女の両親に謝罪し、許しを請うつもりです」


 その言葉に、レイモンドは静かに頷く。


「その後は、王国の辺境にある孤児院で奉仕活動をします。私の罪を償うには、一生かかっても足りないでしょう。それでも……」


 ギデオンの目に、かすかな光が宿る。


「マリーが許してくれたように、いつか自分自身を許せる日が来ることを信じて、生きていくつもりです」


 レイモンドは、ギデオンの変化に感慨を覚える。マリーの魂は成仏したが、彼女が残した影響は消えていない。それどころか、より深く、より強く、生き続けているのだ。


「ギデオン様、お気をつけて」

「ありがとう、クロフォード殿下。あなたのおかげで、私は救われました」


 二人は固い握手を交わし、別れを告げた。


 レイモンドは、城を後にする。これから彼を待っているのは、この件を公文書として残す作業である。


 *


 数ヶ月後——。


 レイモンドの書斎。机の上には、完成したばかりの原稿が置かれている。表紙には「マリー・ド・ナヴァールの死に関する調査報告書」と記されていた。


 彼は、ペンを置き、深々と椅子に身を沈める。


「これでいいのだろうか」


 そんな疑問が、ふと頭をよぎる。公文書とはいえ、役人であれば閲覧できる。これを読んだことで、再びレディ・マリーの亡霊を呼び覚ましてしまうのではないか。そんな不安がよぎる。


 その時、部屋の空気が、かすかに揺れた。


「……マリー?」


 レイモンドは、思わず声を上げる。返事はない。だが、彼の中に確信めいたものが芽生えた。


 これは、マリーからのメッセージなのだ。この事件を、公文書として残してほしいという。


 決意を新たにした彼は立ち上がり、書き上がった原稿を手に取った。


 そして——。


 アストリア王国の片隅にある、小さな墓地。


 レイモンドは、マリーの墓石の前に立っていた。彼の手には、小さな花束が握られていた。


「レディ・マリー、安らかに眠ってください」


 彼は、静かに花を手向ける。そよ風が吹き、花びらが舞い上がっていく。


 レイモンドが空を見上げると、雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいた。


 *


 レディ・マリーの墓を後にしたレイモンドは、王都にある王立警察へ赴いていた。


 対応したのは、警視総監、サー・アーサー・ペンブルトン=スミス。六十代後半で、王族との結びつきもある人物だ。


 レイモンドが書類を取り出すと、かすかな薔薇の香りが漂った。サー・アーサーの鼻腔をくすぐるその香りの中に、何か異質なものが混じっている。彼は思わず眉をひそめた。


 サー・アーサーが書類を読み進める。彼の眉間に徐々にしわが寄っていく。目頭をもみながら彼は顔を上げる。


「殿下……誠に申し訳ありませんが、にわかには信じられません。この告発状に書かれた内容は本当ですか?」


 レイモンドはため息交じりに頷く。


 彼が提出した羊皮紙には、ギデオン・ド・ヴァロワ公爵の城に多数の人骨が見つかったと記されていた。


 別の羊皮紙は供述書だった。城には防音の魔法陣が施された一室があり、そこでは様々な拷問が行われていたと書かれている。


 署名はジゼル・ルフェーブル以下、多数の使用人のものである。

 これだけの署名があれば、大貴族であれ、逃れようがない。


 サー・アーサーは再び書類に目を通しながら、香りの正体に気づいた。薔薇の香りに紛れているのは、かすかな血の臭い。彼の背筋に冷たいものが走った。


「それでは殿下……これでヴァロワ公爵閣下を逮捕せよと?」

「いえ、放っておいても平気です……」

「えっ、それはどういう……」


 レイモンドは暗い笑みを浮かべながら立ちあがった。


「我らが手を下さぬとも大丈夫……という意味です」


 笑みを浮かべたその顔に、暗い影が差す。レイモンドは多くを語らないまま、その場を立ち去った。


 サー・アーサーは、去りゆく王子の背中を見つめながら、たびたび・・・・持ち込まれる不可解な事件にため息をつくしかなかった。

 そして、彼の鼻腔に残る薔薇の香りと血の臭いが、この事件の不吉な結末を予感させていた。


 *


 ギデオン・ド・ヴァロワ。彼は馬車に揺られながら、窓の外を見つめていた。


「レイモンド・クロフォード第三王子よ……君は本当に、人の心の闇を知らないのだな」


 彼の顔に刻まれた傷跡が、陽の光を受けて浮かび上がる。瞳に、かすかな赤い光が宿る。


「さあ、新たな舞台へ……」


 馬車は、アストリア王国の国境へと向かってゆく。


 窓の外はさんさんと光が降りそそいている。


 新しい門出だ。


 彼の亡命先にはすでに侯爵位が用意されていた。隣国エルダリア王国のイザベラ・フォン・ライヒェンバッハ王女との結婚も控えている。


 ニヤリと笑みを浮かべるギデオン・ド・ヴァロワ

 。


 そのとき、彼の表情が恐怖の色に染まった。


「――ま、待て。私は視察に行くんだよ」

「公爵閣下、あなただけは絶対に許しません。そう申し上げたはずです」


 座席から黒い影が滲み出ていた。


 ギデオンが叫び声を上げる。御者に馬車を止めろとわめく。窓の外に向かって助けを求める。

 馬車の中では激しい叫び声が響き渡っていた。


 しかし、それらは全て無駄だった。


 御者には何も聞こえていない。窓の外を歩く人々にも何も聞こえていない。


 ぽかぽか暖かい晴天の日。馬車は何も問題なく走り続けていた。



 =了=

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