小説家

海月^2

小説家

 解かれた髪の青さを、私は知っています。あの人が私を好いていないことを、私は知っています。あの人がきっと死に惹かれていることを、私は知っています。


 私があの人と出会ったのは、高校一年生の頃でした。文芸部の部室でただ淡々と小説を書く姿が、印象的でした。

 私はあの人の小説を知っていました。その手で紡がれる小説は非常に純文学的で、何周しても理解が及びませんでした。ですが、どこか良いのです。文体や描く世界が、ふと頭の中で色付き拍動を始めるのです。例えば、こんなところでしょうか。



『砂漏』

 夜、足音も立てず消えたり。回廊の人目のつかぬところ、男は座っている。

 新月の音にも臆さず。枯山水の僅かに動く時を待つ。

「酒盛りか?」

 今夜は徳利も傾く。服の裾の引きずるところは微かに黒く。身の汚さに目を伏した。

 男は徳利を受け取り口をつけた。喉仏が大きく上下する。

「良い夜だ。半刻もすれば雨に洗い流されてしまう。その前にこの夜に身を預けよう」

 男は徳利を返す。中に残った酒が揺れて、月の光を集める。

 男は懐から小さな砂漏を出した。立ち上がり、それを徳利の中に浮かべる。

「この砂漏が落ちきる頃、雨が降る」

 そう言って男は座り直した。丁寧に畳まれた足は、痺れなど知らぬように整っている。

 徳利は下げられて、男はまた一人になった。

 もうすぐ、雨が降る。この世の全てを濡らすための、雨が降る。



 拙いことは重々承知の上。ならばあの人の小説を載せれば良い? 許可も取らずに公開するはずもございません。そもそも話したこともない間柄ですから。ええ、尊敬はしていますよ。作る世界観の全てが冷たく美しいあの人を、梅雨の長引く小雨を思い起こさせるあの人を、尊敬しておりますとも。

 ですが、その尊敬で人一人救うことなど叶いません。ふふ、この例一つ考えるのに一時間は掛かるのですよ。模倣ですらそれだけの時間を掛け、徒労感を運んでくる物を、あの人は常に作っているのです。それは、正気の沙汰ではございませんし、人の脆さが顔を出すきっかけになったりもするのです。

 結果としては生きていますよ。悪魔に魂を売ったわけでもないですしね。ですが、確かにあの人は小説を書くことが嫌いになっていきました。

 ですから、あの人の最後の作品はもうすぐ眼の前まで差し迫っていたのです。そしてあの人の最後の部誌制作、読んで直ぐに分かってしまいました。あの人が、これ以上作品を書くつもりがないということを。しかし、あの人の最後の作品は部内選考を突破できず、部誌に載ることはありませんでした。あの人の作品は、私の手元にデータとしてしかありません。その儚さが余りにも悲しいのです。あの人の名前がどこにも残らず、筆を折る前の最後の作品は世に出ることすら叶わないのですから。

 この世は、理不尽で平等なのです。


 時折、街であの人を見かけます。赤く染めた髪で、私の知らぬ人たちと歩いています。それはとても楽しそうで、あの人らしくありませんでした。

 簡単な話です。最後の文化祭、私の小説家は死んだのです。

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小説家 海月^2 @mituki-kurage

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