野名紅里俳句一句鑑賞まとめ
姫野みさき
一句鑑賞
風船を離したくなる恋である 野名紅里
全てがどうでもよくなる瞬間がある。アルバイトに行く前の「飛んじゃおうかな」飲み会後の「化粧落とさず寝ちゃおうかな」そして恋愛における「もう別れちゃおうかな」といった悪魔のささやきである。
風船をもらった瞬間のご機嫌な気持ちは、そのうちそれを手に持ち続けないといけない苛立たしさに変わってしまう。だからといって、そこで手を離すとあんなに欲しかった風船は空へと消えていき、二度と戻らない。
恋人のこと、将来のこと、ふっとどうでもよくなるのを堪えて、風船を確かに握り直す。
生きるのが下手でしやぼんだまが上手 野名紅里
この前散歩していたら自転車が前から走ってきて、避け方がうまく分からず道にぴたりと立ち止まってしまった。あれ、なんか私、生きるのに向いてないのかなあ、とふと思った。生活の中でフリーズしてしまったり、言葉がうまくでてこなかったり、食べ物をぽろぽろこぼしてしまったり…うん、やっぱり生きるのが下手だ。
じゃあ生きるのが下手なのってどうやってカバーしたらいいのだろう。人一倍努力をする?容姿を磨いて芸能人並に綺麗になる?もちろん、「石鹸玉を吹くのが上手」なんてことでは、そのマイナスは埋められないだろう。不器用な人間が器用に石鹸玉を飛ばしている姿は、少しおかしくて、少し切ない。
少年が上から覗くチューリップ 野名紅里
チューリップの絵を描きなさい、と言われて上から見たチューリップを描く人はまずいないだろう。例えば、私がチューリップという言葉から連想するのは折り紙を三角に折ってさらに両端を折り曲げて作ったようなあの、簡略化されたチューリップである。これは、現実のどこにも咲いていない、空想のチューリップだ。
少年がチューリップを上から覗き込んで、へぇ、チューリップって実はこんな風になってるんだと発見したとき、チューリップは概念ではなく、本物としてそこにある。想像のチューリップを壊して、目の前のチューリップと向き合うことを私達はこれからもしていかなければならない。
間違へて幾度と春の海に着く 野名紅里
目的地は、春の海ではない、どこか。しかし、誘われるように春の海に行き着いてしまう。波は穏やかだが、泳ぐには冷たい春の海を前にして、あれ、この道のはずなんだけどな、と引き返す。
一度ならまだしも、幾度と着くというところに、春の海の大きな引力のようなものを感じる。足が無意識に春の海の方に向いてしまうのは、もしかしたら、自分にとってその景色が必要だったからなのかもしれない。
方向音痴の作者の事実をそのまま書いた句ともとれるが、心象風景の句として読んでも味わい深い。
堂々と花の写真に写り込む 野名紅里
花見の主役はもちろん桜。しかし、みんなが桜の写真を撮る中、堂々とそこに写り込む人がいる。堂々と、というくらいだから、写真の真ん中にどんとその人が、それこそピースでもしながら笑っていて、画面のほとんどを占めてしまっているのだろう。
この句の面白いところは「堂々と」という言葉と「写り込む」という言葉のちぐはぐさだと思う。どんなに自信満々で人が写っていても、所詮花の写真に入れてもらっている立場で、主役はあくまで桜なのだ。
生活のとほくへ風船が昇る 野名紅里
空に小さく飛んでいく風船を見ているときの、あの、どこか哀しく、どこか羨ましいような気持ち。私達は生きている限り、生活から切り離されることがない。衣食住を確保して、他人と関係を築いて……もちろん楽しい時間も多いけれど、しんどい時間だってある。そんなとき、私達の住む世界から遠く離れて、ぐんぐんと昇っていく風船を見たら、その自由さが、きっと眩しくなるだろう。逆に生活を愛しく思っているときにこの句を読むと、空へ消えていく風船が寂しそうに見えるのかもしれない。
健康な恋人が買ふシクラメン 野名紅里
元気なときにお花を買って、案の定、元気がないときに枯らしてしまう。自分と一緒にぼろぼろになった花を見て、悲しいのと情けないのでいっぱいになる。私には、そのようなことが確かにあった。
ここに書かれている恋人は健康なので、そんな心配はしなくていい。シクラメンだ、綺麗だ、買おう。自分の面倒も、花の面倒もしっかり見て、生活の側に美しいシクラメンを置くことができる。もちろん健康な恋人にも、悩みや抱えている問題はあるだろうが、この句からは、当たり前に結婚して、子供を育てて、幸せになりそうな恋人に対する心の距離のようなものが感じられる。
菜の花とそれと私も描いてほしい 野名紅里
こんなことを言われたら思わずドキっとしてしまいそうだ。スケッチブックを広げ、絵を描いている。「何か描こうか?」なんて訊ねてみたら、菜の花という返答が返ってくる。菜の花を描こうと指を動かすと、続けて「それと私も」との注文。この不意打ちはすごい。ついでのように付け足された「私」の存在感にたじろいでしまう。
菜の花自体の素朴さや可憐さもこの句にしっかりマッチしていると思う。菜の花の揺れる公園や川沿いで、こんなやりとりが行われていたら、なんとも微笑ましい。
春の鹿歩く何処かの安全へ 野名紅里
人間にとって安全な場所、安全だったらいいなと思う場所はやはり「家」だと思う。もちろん家にいれば絶対に危険に脅かされることがない、というわけではない。それでも、毎日安心できるように、人々は工夫を凝らしながら生活している。
では、春の鹿にとっての安全とは何なのだろう。どうすれば、飢えに苦しむことなく、何かに脅えることなく、日々を過ごすことができるのだろうか。
ぼろぼろの鹿が、安全を求めて歩いている。そのように感じてしまうのは、作者もまた、安全を心から必要としているからに他ならない。
恋猫と音楽が傷ついてゐる 野名紅里
恋猫と音楽という、柔らかく尊いものが傷ついている。と、作者は感じたわけだ。
音楽というものは目に見えるものではなく、広い概念で、一見、そこに傷をつけることは不可能のように思われる。一方、恋猫が傷つき憔悴した姿や、悲痛な鳴き声というのは、生活に身近なものだ。恋猫が傷つくように、音楽も傷ついていると、この句は言っている。
音楽を傷つけるものは、他の雑音かもしれないし、思想かもしれないし、音楽自身かもしれない。それが何かは分からないが、恋猫と音楽が持つ繊細さを確かに書いた一句だと思う。
春宵のあなたを常緑と思ふ 野名紅里
恋愛句として読んだ。きっとここで書かれている「あなた」は作者にとって、一年を通して健やかで、鮮やかな存在なのだろう。もちろん、日が落ちてきたからといってそれは損なわれることはない。春宵の中でも、その人は「緑」だったのだ。
JPOPの歌詞などで度々「言葉にできないほど好き」といった表現が見られる。恋心というのはあまりに複雑で、言葉の不完全さを目の当たりにしてしまう。自分が相手に抱いた感情をぴたっと言い当てる言葉がどこにもないように思えてしまうのだ。
「常緑」という言葉を得たことによって、「あなた」に対する気持ちはより明確なものとなる。恋をしているときこそ、言葉への感度を上げていきたい。
やはらかくケーキ倒れて春の星 野名紅里
三角形のケーキをフォークで切りながら食べていると、ケーキが自立できなくなって倒れる瞬間がある。あの、ゆっくりとケーキが倒れていく時間と空気感を、この句は春の星と取り合わせることで表現している。
春の星、というのだから時間は夜。もしかしたら、何かの記念日を祝うケーキなのかもしれない。スポンジ生地のケーキがバランスを崩して、お皿に倒れる。春の星が空気に滲んで、瞬く。やわらかいケーキに、やわらかい光。「倒れて」という緩やかな接続で、春の夜空へと景色が広がっていくのが気持ちいい。
春きざす秒針の無き町の時計 野名紅里
長針と短針だけしかないシンプルな時計が大雑把に町の時間を刻む。まだ寒いが少しずつ春の気配が近づく町で、作者は時計を見ている。
なんとなくこの句を読んで、待ち合わせのイメージが湧いた。人を待ちながら、ちょっと薄着すぎたかな、なんて考えたり、行き交う人々を眺めたりする。今日一日の予定を思い浮かべて、何度も大きな時計を確認する。この句からそんなわくわく感を感じてしまうのは、やはり「春きざす」という季語の力だと思う。
町の時計が動くその速さで、春がやってくる。町が色づいていくような、そんなあたたかさを感じる句だ。
ずれながらつながるずれてゆく余寒 野名紅里
感覚の言葉に、感覚の季語。何も書いていないようで、この句はしっかりと書いている。
そもそも生きていくというのは、どこかへずれていくということなのだと思った。私達は常にずれ続けていて、その中で繋がっていく。そして繋がりながら、またずれていく。ずれて、繋がってを何度も繰り返す。
それは、目に見えないけれど、感覚として私達の中にあるものだ。そこに余寒という、目に見えないけど、確かに私達が感じているものを合わせる。「感覚」という、それぞれがそれぞれに持っているものが、この句を読んだときにきっと確かにつながるのだ。
麗かに卵の殻の積まれけり 野名紅里
割った後の卵の殻が、春の日を浴びて輝いている。卵の殻というのは丸い形をしているから、まっすぐ綺麗に積まれているのではなく、絶妙なバランスで重なっているのが想像できる。偶然にうまれたその形が、芸術作品のように美しい。
女性俳人の家庭の句が「台所俳句」と揶揄された時代もあったが、生活に根付いた明るい俳句はやはり読んでいて気持ちがいい。男女問わず台所に立つようになった今、こういった句は多くの共感を呼ぶだろう。
バレンタインデーお好みでブランデー 野名紅里
バレンタインの楽しい雰囲気が、句を読み上げたときのリズムからも感じられる。2月14日に向けてお菓子を作っている、もしくは材料を買いに行っているのだろう。レシピを見る。チョコレート、400g。生クリーム、1パック。ココアパウダー、適量。ブランデー、お好みで。「お好みでブランデー、と」なんて言いながらブランデーの瓶を手に取る。大切な人に喜んでもらえるかな、と考えながらのお菓子作りは、何とも言えない嬉しい気持ちになる。鼻歌を歌いだしたくなるような、そんな気分でふっと出来た俳句なのかもしれない。
独唱の男の眉や流氷期 野名紅里
歌っている男の眉に注目した句だが、なんだかその歌声まで聴こえてくるような感覚がある。それは「眉や」という詠嘆から見えてくる男の表情や「流氷期」という季語が持つ壮大なイメージのおかげだろう。
独唱というのは聴いていて気持ちいい。歌っている方も、きっと気持ちいいのだと思う。静かな会場に、響き渡る声。たくさんの人の視線が、独唱している男性に集まっている。もしくは、目をつぶって酔いしれながら、その歌を聴いている人もいるだろう。作者は、男の眉について書き留めた。そのときの空気感がしっかりと伝わってくる。
恋人に習ふポーカー春の雨 野名紅里
雨の日には雨の日の楽しみ方がある。部屋の中でトランプをするというのもいいだろう。この句では、恋人からポーカーを教えてもらっている姿が書かれている。ポーカーには様々なルールがあり、役の数も多い。「習ふ」というかしこまった表現からは、恋人の説明をしっかりと聞いている作者の様子が想像できる。もしかしたら、恋人は相当ポーカーが得意で、簡単なルールだけでなく、こういう場合はブラフをかけた方がいい、などと、熱く語っているのかもしれない。外ではしっとりとした春雨が降る中でポーカーを好きな人とする、というのは、なんて明るい時間なのだろう。
春立ちて牛の涎の泡細か 野名紅里
商いは牛の涎、ということわざもあり、牛は唾液をたくさん出すというイメージを持っている人も多いだろう。この句では、その牛の涎の泡について書いている。涎という物自体は、あまり見ていて気持ちいい物ではないが、細かい白い泡からは春の綻びのようなものが感じられる。
この句がコミカルにならずに、読者の頭の中にリアルな映像として現れるのは、やはり「泡細か」という確かな写生によるものだと思う。まだ寒い中に感じられる春の兆しと、細かいホイップ状になった牛の涎の取り合わせ。ほがらかな気持ちになる。
すつぴんに終へる一日チューリップ 野名紅里
化粧というのはとにかくやることが多い。化粧水をコットンで塗り、肌を整える。下地を塗ってファンデーションを塗ったと思ったら今度は眉を描いたりアイシャドウを塗ったり……途方に暮れる作業だ。朝というのはただでさえ時間がないのに、女性というのは忙しい生き物だな、と思う。
それを考えると誰にも会わず、すっぴんのままで終える日というのは、かなり楽だ。肌もいろんなものを塗りたくられずにすんで、喜んでいる感じがする。そんな一日の瑞々しさがチューリップと呼応している。
ちりめんのたくさんの口黙りをり 野名紅里
器に盛られているちりめんじゃこの数だけ、口がある。その口が、何か喋り出すでもなく、ひたすらに黙っているのだ。茹でられ、干されたちりめんじゃこが黙っているというのは当然だが、それを書くことで、食べられるちりめんじゃこのむなしさのようなものが感じられる。
食事をする前、私達は手を合わせ「いただきます」と言う。食事を作ってくれた人への感謝でもあるが、第一に食材に対する感謝だ。しかし、「いただきます」も毎日繰り返していると、感謝の気持ちが薄れ、形骸化していく感覚がある。この句から見えてくるちりめんの表情に、思わずはっとさせられた。我々は尊い命をいただいて生きている、という当たり前のことを、当たり前と思わず意識していきたい。
蝶々の群れを武力で威圧せよ 野名紅里
写生句がそこにあるものをリアルにありありと書くのに対し、この句は逆に蝶々の個としての存在感を薄めるような書き方をしていることに危うさと面白さを感じた。
戦争というものは、人の命を数として捉え、一人一人を匿名にしてしまう。想像力を殺して、人間を人間として見ないように。罪のない蝶々は、罪のない人々を思わせる。
柔らかい蝶々が群れになって飛んでいる。その美しい塊を武力で威圧せよという横暴な言葉はは人間の残酷さを明るみにする。
デージーが終はりの中で始まりたい 野名紅里
春というのは新年度が始まる、別れと出会いの季節だ。たくさんの終わりがやって来る中で、何かが始まる。この世には数えきれないほどの終わりと始まりがあるが、この句では主語を「デージー」としている。そして、「が」という助詞からは、他の何者でもなく、デージーが、という強い主張が感じられる。
終わりの中で始まりたいと感じたのは、デージーを見た作者だ。しかしそれを、デージーの意思として書いたことで、なんともいえぬ読後感を生み出している。「始まりたい」という字余りには、どきどきするような余韻がある。
貝寄風や引いて解体するリボン 野名紅里
「解体」という硬い言い回しと、リボンの持つ柔らかい性質とのギャップが面白い。リボンが解かれて一本の紐に戻る様子はさながら魔法のようであるが、この句からは、綿密に組み立てられたものを分解するようなニュアンスが感じられる。
しゅるしゅると解かれるリボンと貝寄風の持つ明るいイメージが響き合う。強い風と、それによって吹き寄せられた貝殻。どこか神秘的なこの季語により、リボンの存在感は一層際立っている。
足音で母だと分かる二月かな 野名紅里
部屋で過ごしていると、こちらへと向かう足音が聞こえる。その瞬間、それが母だと気付く。
母親というのは、かわいい。母親の足音もまた、なんとなく、かわいい。他の家族の足音と比べて、母の足音というのは、言葉では説明しにくいが異質な感じがする。
二月。まだ寒い中に春が見え隠れするこの季節に、母の足音がのそのそと近づいてくる。扉を開けた母は「もうすぐご飯よ」なんて言って、同じリズムの足音でリビングに帰っていくのだろう。
階段の裏側白く猫の恋 野名紅里
普通に生きていたら気にすることのない階段の裏側だが、土足で踏まれる表側(表、というのも変だけれど)に比べて、誰にも汚すことのできない領域、という感じがある。その色が白だったなら尚更だ。階段の裏の潔白さは恋猫と対比になっているような気もするし、恋猫の比喩になっているような気もする。
人間が忙しく階段を駆け上がるその下で、恋猫だけがその裏側の白さを知っている。猫の恋、というのもまた人間が関わることのできない一つの領域なのだろう。
キッチンのひかりの鈍さ二月尽 野名紅里
キッチンの、特に水回りは曇った銀色でできていることが多い。そこに二月の終わりの光が差し込んでくる。鈍く反射する光が、キッチン全体の明るさとなる。
キッチンは、言うまでもなく料理を作る空間である。食材を洗ったり、切ったり、煮たり……私達の生活を作る場所であるキッチンが、鈍く、優しい光に包まれてるというのは、なんて気持ちがいいのだろう。「ひかりの鈍さ」という表現は、生々しさもありつつ、美しさを感じさせる。
薄氷をまた見る床屋までの道 野名紅里
床屋へ向かう道の途中で薄氷を見かける。そして、そこを通りすぎるまでにもう一度見る。そんなほとんど無意識での行動を、この句では書いている。
電車などに乗っていると、凄まじい速さで窓の奥の景色が変わっていくが、徒歩での移動ではその眺めというのはなかなか変わらない。「あ、うっすら氷が張ってる」と発見をしてからしばらくは、薄氷が視界の中に入っている。薄氷が気になるが、ずっと真剣に見ているわけではない。薄氷という存在に対する作者の距離感が見えてきて、面白い。
麗かにビーズを透けてゐる糸よ 野名紅里
淡く色がついた、半透明のビーズを想像した。ビーズを繋ぎ止める役割である糸が、ちょうど中心を通っているのが透けて見える。小さなビーズ中の細い糸がこの句の中でくっきりと存在感を持っている。
麗かという季語から、ビーズが照らされて輝いている様が伝わってくる。なごやかな春の日に、ビーズでブレスレット等を作ったり、ビーズのアクセサリーを手に取ったり……そんなきらきらした時間。ビーズの真ん中に影を作っている糸を書くことによって、ビーズ自体の質感もしっかりと感じ取れる。
春風邪の教官に怒られてゐる 野名紅里
何かを人に教える立場である教官が春風邪を引いているというのはなんだかまぬけな光景だが、そんな教官に怒られている自分というのはもっとまぬけな感じがする。
真面目に説教をしている教官が、途中で「ちょっと失礼」なんて言ってくしゃみをする。そして、また真面目な顔を作り直して説教を再開する。そんな奴より自分の立場ははるかに下ということも含めて、面白い。
おかしくて呆れるような、惨めで泣き出したくなるような、いろんな感情が溢れてくる、そんな俳句だ。
啓蟄の唇に色選びたる 野名紅里
唇の色で顔の印象はかなり変わる。お化粧をしていても、リップを塗るまではなんとなく「未完成」、リップを塗ってしまうと「完成」という感じがするのは私だけだろうか。私はそんなにたくさんの口紅を持っているわけではないので、色の選択肢は少ない。それでも、どれを使おうかな、と悩むのは嬉しい気分になる。
春になって動物達が動き出す中、私達も動き出す。最近では、コロナにより長い間マスクで口元を隠す生活が続いていたが、そろそろマスクから解放されそうだ。リップの色を選ぶのも一層楽しくなるだろう。
のどけしや便箋三種各二枚 野名紅里
俳句は短いから、物の色や形、大きさなど全てを書くことはできない。当然だが、書かれていないことは読者の想像にお任せすることになる。この句では、便箋の柄や色には触れず「三種各二枚」というセットで売ってあったということだけが書いてある。たしかに、そういう風に売られてある便箋もあるだろうな、と思う。全部で六枚という少ない枚数の中に三種類も柄がある、というのは少しお得な気分になる。あの人にはこの柄を使おう、なんて考えるのも楽しい。なんとなく、淡い色のかわいい便箋を想像してしまうのは、「のどけし」という季語の効果だろう。
そこに寝て梅が散らしてある眼裏 野名紅里
目を瞑ると、さっきまで見ていた梅が眼裏に浮かぶ。その残像のようなものを「散らしてある」と表現したのは、なるほどなぁ、と感じた。梅の花ひとつひとつの可憐な様子や花の中のたくさん飛び出た雄しべの具合が思い出される。
「そこに寝て」という始まり方も面白い。上五だけ見ると「どこだよ!?」と疑問符が浮かぶが中七以降を読むと、ああ、梅の近くにこの人は寝転がったのかな、と分かる。野名紅里には「眼裏の赤に似てゐる薔薇を探せ」という眼裏の句もあり、そちらも味わい深い。
麗かや来た人に出すパイプ椅子 野名紅里
会議室のようなところを借りて句会等の集まりをしているときによく見る光景だ。後からやって来た人に気付いた人がさっとパイプ椅子を持ってきて、極めて自然に、人の輪の中に新たな人が入る。
例えばこの句に読み込まれているのがパイプ椅子ではなく座布団だったら、座布団の持つ柔らかくあたたかい感じと、それを来た人に出す優しさ、そして麗らかな様子、という組み合わせに意外性がない。パイプ椅子という無機質なものが、この句の中で優しい空気を帯びているところが面白いと思った。
化粧水どぼどぼ使ふ目借時 野名紅里
どぼどぼと音が鳴るほど、化粧水をたくさん使うというのはなんとも贅沢だ。化粧水を使うのは大抵、一日の始まりか一日の終わりだが、私は朝のお出かけ前を想像した。もう少し布団で寝ていたい中、なんとか起きてきて、今日も一日頑張るぞ、とたっぷり化粧水を塗る。それも、コットンに染み込ませずに、手のひらに出して豪快に顔に浴びるように塗る、そんなイメージだ。
化粧水が肌に染み込んでいく気持ちよさと、蛙が鳴く時期の眠ってしまいそうな気持ちよさがリンクする。
黒山羊と白山羊出会ふ万愚説 野名紅里
まど・みちおの「やぎさんゆうびん」は童謡にもなっており、広く知られた詩だ。黒山羊と白山羊が互いに手紙を送り合うが、二匹とも読む前に食べてしまい、手紙の内容は結局明かされない。「さっきの てがみの ごようじ なあに」のやりとりは半永久的に続いていく。
エープリルフール という、嘘が許され嘘で溢れる日に、本来手紙のループの中から抜け出すことのないはずの黒山羊と白山羊が出会う。これは七夕に織姫と彦星が出会うようなロマンティックなものではなく、ちょっとした歯車の狂いのようなものではないだろうか。
ついに出会った二匹。手紙の用事は結局なんだったのか。物語性のある俳句だ。
凡庸な躑躅といへばさうだけど 野名紅里
本来、重要なことというのは逆接の後に書かれる。しかしこの句では、「だけど」のその先は書かれていない。
そこに咲いている躑躅の色や形はありふれたものであったのかもしれない。それを「凡庸」と言ってしまうのは簡単だ。しかし作中主体は、凡庸という言葉には収まらない何かをその躑躅に感じているのである。その感覚はきっと非言語的なもので、だから、あえて説明しない。というか、できない。
「さうだけど」と発した後、口をつぐみ、唾を飲み込む。この躑躅の「良さ」を正確に表す言葉なんて、きっとない。
さくらさくら歌ふ女と呼ばれまして 野名紅里
春になったら春の歌を歌い、例えば街中で猫を見かけたら猫の歌を歌う。きっとそんな、歌が大好きな人なのだろう。花見のときも、もちろん歌っている。
字余りの句だが、上六になっている「さくらさくら」は桜の風景を想起させつつ、あのメロディーを印象付ける。そして下六の「呼ばれまして」という言い方にはくすぐったいような嬉しさを感じた。周りから「さすが歌う女」と言われて、照れて笑いつつ、また歌う。お花見ならお酒も飲んでいるかもしれないが、この人は素面でもいつも陽気に歌っている気がする。
物種を蒔くふと父に褒めらるる 野名紅里
おしゃべりで陽気な父親でなく、無口な父親を想像した。あまり他人を褒めない父が、物種を蒔いているときにふいに、話しかけてくる。内容ももしかしたら、大したことではないかもしれない。それでもなぜか、父に褒められたことが、心の隅にずっと残る。
うちの家には、男は父だけで、おしゃべりな母、私、妹の女三人に対して寡黙な存在だ。喋ったと思ったらテレビの内容やお母さんの言い間違いに対する揚げ足取り。ひねくれ者なのだ。真剣にではなく「ふと」褒めるというのが、父によく似合う。
借りてゐる服の大きさ土筆摘む 野名紅里
誰の服かは書かれていないが、恋人の服として読んだ。恋人の家に泊まって、服を借り、朝には二人で散歩をする。袖や裾の余りが愛おしく、大好きな人の大きさの服に包まれて幸せいっぱいという雰囲気だ。
そんな二人の初々しさを、土筆が引き立てている。ささやかな季語からは、ささやかな幸福を感じ取れる。家に帰ったら摘んだ土筆を料理して、食卓を囲むのだろう。同棲や結婚をすると忘れてしまいそうな付き合いたてのきらめきが、一句の中に閉じ込められている。
アネモネ咲くこんなに伝へそこねてゐて 野名紅里
言葉をずっと扱っているからこそ、愛しているからこそ、言葉の不完全さというものも嫌というほど知っている。ここで書かれている「こんなに」というその度合いは、作者にしか分からない。しかし、「アネモネ咲く」という季語が手伝って、その「伝わらなさ」というものがしっかりと伝わってくるような、そんな気がした。
書けば書くほど遠くなっていくような寂しさを、この句の字余りが強調する。伝えるためには、でも、やはり、不器用に話し始めるしかないのだろう。
三月の真先に暮るる美術館 野名紅里
もちろん実際には、美術館から先に日が暮れていくというわけではない。しかし感覚として、美術館での時間の流れは、他と違っているように思う。そこには、はるか昔の作品も現代の作品も、同じように物質として存在している。美術館という空間およびそこに飾られている絵や芸術品は、時の流れを早めたり、遅らせたりするような、そんな不思議な雰囲気を纏っている。美術館を出て、日が落ちていて、この街はここから暮れるんだ、と考える。三月の空気も相まって、なんとも気持ちがいい。
たんぽぽの綿毛もぞもぞ崩れけり 野名紅里
一つずつではなく、綿のいくつかの塊ごとにゆっくりと風に流されていくたんぽぽの姿は、まさに「もぞもぞ崩れけり」としか言いようがない。たしかな写生でありつつ、たんぽぽが意思を持ったような気持ちいい錯覚を覚える。
一吹きの風で一斉に飛ばされるのではなく、まちまちに崩れていく綿毛と中途半端に残された綿のかたまり。たんぽぽの種子を遠くへ運ぶという役割を担った綿毛達がもぞもぞと茎から離れていく様子がもどかしくも美しい。
ざらざらと閉まる引き出し入彼岸 野名紅里
ざらざらという擬音語から、その引き出しの質感がありありと伝わってきた。ASMRと呼ばれるものに近いのだろうか、木の擦れる音は耳だけでなく、脳がぞわぞわするような不思議な感覚がある。その生きている実感のようなものが先祖と繋がる彼岸の入りと響き合う。
引き出しを閉めるという日常的な行動と彼岸という非日常が調和する不思議。俳句の二物衝撃の良さは、取り合わせた二つのものがどこか深いところで結びついているように感じてしまう気持ちよさだと思う。
眼裏の赤に似てゐる薔薇を探せ 野名紅里
明るいところで目を瞑ると、瞼の裏は真っ赤に染まる。この、黒が混じったような激しい赤を、たくさんの薔薇の中から見つけろと作者は言うのだ。
探せという命令形も、眼裏の赤色そのものも、過激な感じがする。だけど、目的の分からないその指令に従いたくなってしまう不思議。今すぐにでも、私達はそれを探しに行かなければいけない。句から漂う緊迫感に思わず目を閉じて、開く。
涼しさよ瓶がラベルを剝がされて 野名紅里
ラベルを剥がされた瓶が、そのことを喜んでいるように感じるのは、上五の「涼しさよ」があってこそだろう。
中に飲料を入れられパッケージを貼られた瓶が用途を終えて、ベリベリとラベルを剥がされ、無名に戻る。
思えば人間も生きている限り、さまざまなラベルを貼られ続ける。性別、年齢、職業……自分自身から逃れることのできない私達が、名や役割を失ってきらきらと輝く瓶を見たとき、うまれる感情は何だろう。清々しさかもしれないし、もしかしたら、羨ましいと思う気持ちかもしれない。
君が寝て君が残した缶ビール 野名紅里
恋人が寝息を立てている横で、自分は起きている。「君」がさっきまで飲んでいた缶ビールを片手で持ち上げると、まだそこそこ中身が入っていて、飲んでみたらやっぱりぬるい。その夜に缶ビールと自分だけが取り残されてしまったような感覚がある。
眠れないときの頭に浮かび上がってくるいろいろや、君への愛しい気持ちを、「君が残した缶ビール」が際立たせる。その苦さや、ぬるさが、感情に似てくる。
印象的な「君が」の繰り返しはキャッチーで、それでいて俳句としての味わい深さがある作品だと思った。
日焼子がバスの後ろの席で泣く 野名紅里
特別な技法は何も使われていないのに、いや、そのストレートな書き方だからこそ、涙の味がこみ上げてくるような臨場感がある。
大会で負けて、帰りのバス。1番後ろの端っこの席で、誰にもばれないようにこっそりと、声を押し殺して泣く。まるでドラマのワンシーンのような光景を思い浮かべてしまう。
悔しい、悲しいといった気持ちはふとした瞬間溢れ出てくる。移動のバスの中で、いろんな思い出が駆け巡り、堪えきれなくなってしまった「日焼子」は、いつかの私達だったようにも思えてくる。
通りすがりのペガサスに聞く虹のこと 野名紅里
現実離れした内容に頭がくらくらする。まず、通りすがりのペガサスというワードが強烈だ。無論、ペガサスは伝説上の生き物で、その辺をうろついている存在ではない。しかし、この句の作中主体はたまたまそこを通ったペガサスを引き止め、虹について訊ねている。すごく不思議なことを、当たり前のように俳句にしているので、読んでいるこっちはたじろぎながらも、引き込まれるのだ。そもそも、ここにはペガサスが虹のことを知っているということが前提にある。ペガサスだけが知っている虹のこととはいったいなんなのだろう。
俳句は写生だ、なんて言うけど、それ以前に、俳句は、十七音は自由なのだなと思い知らされる。
編むやうで解けるやうで夏の川 野名紅里
編むことと解けることは言わば真逆だ。しかし、夏の川とそこにある波は、確かにそのどちらの性質も持っているように思われる。
夏の暑い時期の川のあの涼しげな様子。波と波が細かくぶつかる。その流動が、何かを紡いでいるようにも、何かから綻んでいるようにも見える。だまし絵を見ているような不思議さもありつつ、やはり気持ちいい。編むという行為の大切と、解けるということの解放感。
不思議なことを書いているようで、いかにもこれが写生だと言いたくなる説得力がある。
紫陽花や言葉の中で話し合ふ 野名紅里
「言葉の中で話し合ふ」というフレーズには言葉の中でしか話し合えない我々の、切なさのようなものが滲み出ているように感じた。
当たり前を書くことは、当たり前を揺るがせることだ。話し合う行為が言葉によるものであるのは、当たり前に思える。しかしそれを書くことで、人間は本当は言語を越えたところで分かり合いたいのではないかいう叫びのような思いが浮かび上がる。
言葉を愛しているからこそ、言葉の不完全さを知っている。言葉以前になることができない私達と、ただそこにある紫陽花の取り合わせに胸が締めつけられる。
薔薇咲いて思ひ出す絵の薔薇がある 野名紅里
桜を見れば桜の句を、雪を見れば雪の句を思い出すということの、なんとも言えない幸せがある。それは絵画や音楽でも同じで、そのモチーフといえばこれ、という自分の中のイメージがあると思う。例えば、私はジンジャーエールを飲むたびにくるりの「ばらの花」の「ジンジャーエール買って飲んだ こんな味だったっけな」という歌詞を思い出す。そのフレーズを思い浮かべることで、そこにあるジンジャーエールがより好きになる。
大切な記憶を呼び起こす装置として薔薇が咲き、薔薇の絵が目の前の薔薇に特別な愛着を持たせる。目の前の薔薇と記憶の中の絵の薔薇が呼応するのだ。
肩車されて祭の上を行く 野名紅里
「祭」というものは儀式であり、祭囃子や神輿、夜店、浴衣の人々等、祭を祭らしくしているものはあるが、具体的な姿は持たない。すると「祭の上」という表現は、感覚的なものと言えよう。
この「祭の上を行く」が、情景を的確に表している。祭が行われている中、肩車をされて人混みの上を通っている、という把握ではこの全能感は生まれないだろう。祭の上という書き方だからこそ、作中主体である楽しそうな子どもの特別な感情が立ち上がってくるのだ。
白シャツの背を真先に忘れたし 野名紅里
忘れたいと強く思うのは、その背中が一番印象的で、一番好きだったからに他ならない。
真先に、というくらいだから、顔や表情よりも、声よりも、その背中を大切にしていたのだと思う。心に焼きついて離れないの後ろ姿を、やはり忘れなくてはならない、切実。
失恋の句なのに悲壮感がなく鮮烈なのは、白シャツの色の純潔さと、「忘れたし」という強い言い切りになると思う。こんなに激しく忘れたいと感じること自体が、思い出を忘却から遠ざけていく。
愛するひと愛されるひと月も星 野名紅里
月という日本人が大昔から詩にしてきた特別な衛星を、この句では数多ある星の一つとして書いている。
愛する人も愛される人も、芸能人も一般人も、老若男女すべてが、同じ命を持ち生活を営む人であること。「月も星」という言葉は優しく、あたたかく、人間たちに語りかける。
月を詠みこんだ俳句の中ではちょっと異質な俳句だが、月も星であるという発見が、月をより愛しいものにしている気がする。
どの秋果に似てゐる心なのだらう 野名紅里
桃、梨、柿、葡萄、林檎…秋の果物にはいろいろあるが、「秋果」をこんな風に俳句にするなんてユニークだ。秋の果実がバスケットに盛られていたり、積み上げられて売られていたり……そんな光景を見たことはあるが、心がどれに似ているかなんて考えたこともない。
そもそもほとんどの人は心を形のあるものとして捉えていないのではないだろうか。くっきりと輪郭を持った果物は、一見心とかけ離れて思える。考えれば考えるほどあやふやになる「心の形」と美しい果物。この俳句はそんな不思議を我々に問いかける。
はじめからある海いまは秋の海 野名紅里
ずっとそこにある海が、季節によって表情を変える。この句は、海の長い歴史の中の今という点を晴れやかに詠んでいる。
「秋の海」は動かない。「春の海」でも「夏の海」でも駄目だ、と私は思う。夏の賑やかさが去って、秋の海は少し寂しい。誰も泳いでいない、静かな海を見て「秋」を感じる。そして、しみじみとその海が「はじめからある」ことに気付くのだ。その「はじめから」という遠さと、そこにある「秋の海」の表情が面白さになっている。海の途中を我々は生き、海にそれぞれ意味を見出すのだ。
月光に知る公園のかたちかな 野名紅里
公園の「かたち」というものを意識したことがある人が、どれほどいるだろうか。作者もきっと普段はそんなことは考えておらず、月光に晒される公園を見てふとそれを意識したのだと思う。昼に子供達が遊び回っているときとは、全く異なる姿。静かな公園には、息をのむような美しさがある。
大きい公園でなく、町の中に組み込まれたささやかな公園を想像した。公園にはジャングルジムがあったり、ブランコがあったり、凸凹も多い。月光がそれらを神秘的に包み込んでいる。
朝寒や植物園にそつと鳥 野名紅里
植物がメインである植物園で鳥に向けられた優しい眼差しと、秋の朝の空気感。
この俳句のポイントはやはり「そつと」にある。鳥自身はこそこそとしているつもりはないと思うので、この「そつと」には作者の意識が表れているのではないか。植物達の空間を乱さないように、静かに鳥が存在している。面白い捉え方だ。
作者のちょっと変わった視点により植物園の脇役である鳥は、この句の主役になるのだ。
干す柿の影となるまで話しけり 野名紅里
黒い影になった干し柿の映像が浮かぶとともに、そうなるまでの時の流れを想像させる。
庭先で話し込んでいたら時間があっという間に経っていた、ということはほとんどの人が体験したことがあると思う。この句では「日が暮れた」等と言った直接的な表現を使わずに、干し柿にだけ焦点を当てて書いている。
中七下五の内容に「干す柿」がぴったりで、しみじみとした趣が引き立っていると感じた。その相性の良さの理由の一つとして、干し柿というもの自体が時間とともに完成する物だからなのかもしれない。
混ぜるたび湯気新たなる茸飯 野名紅里
ほかほかの茸飯が炊き上がったときの、あの嬉しさ。湯気からいい匂いがして、しゃもじで混ぜると、またそこから白い湯気が立ち上がってくる。こちらの視覚だけでなく、嗅覚までも刺激する俳句だ。
「新たなる」という言葉がいい。「湯気」というものを新しいという視点で捉えたことで、なんとも言えない喜びが表現できている。しかも、普通は「新しさ」というものは長続きしないがこの句においては混ぜるたびに何度も新しいのだ。茸飯もこんなに美味しそうに詠んでもらえて、喜んでいるのではないだろうか。
台風や抱けば小さき犬となり 野名紅里
シャンプーの後の犬を見ると、「あんたこんなに小さかったの!?」とびっくりする。とくに脚なんかは折れそうな細さだ。毛により増していた見た目の体積がぎゅっと減る感じだ。
抱きしめたときの犬も、ぎゅっと凝縮された感じになる。台風の不安と、たしかにそこにいる犬の安心感。
もこもこの犬が、自分の腕の中で小さく小さくなっている。その温度が、確かに伝わってくる俳句だ。
蜩の声ふくらんでまとまつて 野名紅里
秋の空気の中での蜩の声の動きを、確かに書き留めている。音というのは目に見えないが、感覚的にこのように感じることがある。蜩のかなかなと鳴く声が、大きくなったり、小さくなったり……まさに「ふくらんでまとまつて」を繰り返しているのだ。
声という柔らかいものを表すのに、このひらがな表記は効いている。「膨らんで纏まって」と書くよりも「ふくらんでまとまつて」の方が情景に近い。この句を読んだ後に聴く蜩はなんだかいつもより立体的だ。
晴れやかや書けば一人となれる秋 野名紅里
人との関係というものは、時に煩わしい。人は一人では生きていけない、というのは一つの真実だが、どうしても一人になりたい時間というのも確かに存在する。
「晴れやかや」と堂々と詠嘆して、おや、何だと期待させる。そこに、「書けば一人となれる秋」とくる。何かに没頭しているとき、唯一、周囲との繋がりを忘れられる。この人にとってその瞬間は書くときだったのだ。
人によって、それが音楽を聴くことだったり、絵を描くことだったり、いろいろあるだろうが、この晴れやかさは揺らがない。
切実な噓なら許す柿たわわ 野名紅里
思わず、切実な嘘というのを想像してみる。嘘をつかなければ自分や相手が深い傷を負ってしまうという場面で、痛みを伴って吐かれる嘘を誰が責められるだろう。そういった嘘を口にする人の心苦しさを作者もまた知っているのかもしれない。覚悟を持った嘘なら、こちらも覚悟を持って許そうというのだ。
嘘をつく方も切実なら、許す方も切実だ。柿の重さにしなる枝に、その切実を投影してしまう。S音が続き、響きも痛切な十二音を「柿たわわ」が受け止めている。
忘却といふ爽やかな浜に寝る 野名紅里
忘れる、ということの清々しさ。嫌なことも、いいことも、全部忘れて、寝る。「爽やか」という季語が心地いい。
記憶というものは、私たちが起きている間、常に付き纏う。ふとしたときに幼少期のことを思い出したり、職場で怒られたことが一日中頭の中を支配したりする。「忘れよう」と思って忘れることほど、難しいことはない。
言葉の意味すら忘れて、真っ白になっていくような、そんな浜を想像する。逃避したい現実の有無に関わらず、忘却は美しい。
透明や皮より葡萄出づるとき 野名紅里
上から順番に読んでいったとき「透明や」という上五からは、具体的な景を思い描くことができない。しかし、中七下五の「皮より葡萄出づるとき」まで読めば、この透明は深く印象付けられる。
紫色の皮から押し出されるように出てくる葡萄は、実際には多少濁っているかもしれないが、感覚的に透明である。「出づるとき」と書いているので、その瞬間のみ透明であるというようなニュアンスもある。葡萄の色を写生したというより、何かが生まれるときの透明感を書いているように思えた。
秋雨や砂場へ続くすべり台 野名紅里
雨の日の公園は、遊ぶ人も少なく寂しい。それが秋雨となると、余計に哀愁がある感じだ。
すべり台の着地点が砂場と繋がっている公園は、言われてみると確かに見たことがある。砂場「へ」という助詞が広がりを見せていて、すべり台から新しい世界に飛び込むような気持ちになってわくわくしそうになるが、この句は雨の景なのだ。すべり台をすべり終えたからだを受け止めるはずの砂場は、流れ落ちる雨粒に濡れていく。本来の役割を失った公園の遊具達には、やるせない美しさがある気がする。
その柚子に全部見られてゐるやうな 野名紅里
見る、という言葉からは目を連想する。人形や、動物を描いた絵画に対しその目に「見られている」という感覚に陥ることは度々あることだ。しかし、柚子に見られているというのは不思議だ。柚子の存在そのものが目となって、または柚子の内的な目によって、自分を取り巻く全てを見ている。たしかに、そんな気がしてしまうような雰囲気が柚子にはある。
柚子にすら見られていると感じてしまううしろめたさを、我々は心のどこかに抱えているのかもしれない。
廃校の記事を案山子に着せてゐる 野名紅里
「着せてゐる」という捉え方に面白さがあると思う。そこに誰かの意図があるような書き方だ。勝手に意味を着せられた案山子のことを考えてしまう。
廃校の記事が載っている新聞を案山子が纏う、というその「エモさ」のようなものを作者は簡単に受け入れることができないのかもしれない。これでは出来過ぎだという意識が、「案山子が着ている」ではなく「案山子に着せてゐる」という表現にさせたのではないだろうか。
秋の虹きれい消えても飽きないよ 野名紅里
繰り返される「き」の音が虹の儚さを掻き立るとともに、どこか力強さも感じさせる。音と内容が噛み合っている句は魅力的だ。
消えても飽きないという表現の不思議。消えてしまったらそもそも飽きようがない気がする。既に目の前にない虹をずっとそこにあるかのように扱っているのだ。読者がそれを受け入られるのは、「秋の虹きれい」とそのまま書いてしまう純粋さや「飽きないよ」の口語表現に説得させられてしまうからかもしれない。
まあ、結局共感させたもの勝ちなので、どんなにぱっと聞き変なことを言っていようが、この句は「わかる」。秋の虹は心地よく頭の中に残り続ける。
読み終へて表紙明るし一位の実 野名紅里
表紙というのは本の第一印象でもあるが、本を読む前と読み切った後ではまた抱く感想も変わってくるだろう。明るく感じたということは、よい読書体験ができたということだ。
内容ももちろん大事だけど、紙の本の重さや手触りというものは尊い。この句から伝わってくる本への愛おしさは紙ならではだ。本を閉じた後、くるりとひっくり返して改めて表紙を見る。一冊を読み終えた充実感がまた、表紙を明るく見せているのかもしれない。
その明るさと一位の実が持つ明るさが優しく響き合う。
秋風や数へる指を折り返す 野名紅里
書かれているのは、日常で行われるとても些細な仕草である。指を折りながら1、2、3…と数字を数える。5まで来たら今度は6、7、8…と折り返し指を立てる。それだけのことだ。それだけのことが、俳句になるのだ。
しみじみと秋の風が吹く中、一体何を数えているのだろうと考えるのも面白い。楽しみな予定までの日数等が考えられる。指を折るで思い出すのは〈七夕やまだ指折つて句をつくる 秋元不死男〉だ。俳句を始めたての人が、指を折りながら俳句を作っている景と捉えてもまた、趣がある。
脱ぐ靴のくたびれてをり草の花 野名紅里
靴の質感を表した「くたびれてをり」が秀逸だ。脱いだ靴がくたびれていると感じたのは、もしかしたら自分自身もくたびれているからなのかもしれない。履きつぶした靴に自分を投影してしまう。
草の花という素朴な存在が、そんな自分を励ましてくれているような感じがする。名前も知らない草達が健気に咲いていて、それに肯定されているような心地いい気分だ。頑張った一日の終わりを草の花が彩る。これが名のある花だったら、こんなに寄り添ってはくれなかっただろう。
キッチンにはりついてゐる西瓜の種 野名紅里
子供の頃の記憶がよみがえる。台所で立ったまま食べる西瓜は美味しい。その余韻のような句だ。
西瓜の種という黒い点が、画としてもはっきり浮かぶ。その黒い粒が目に入り、なんだこれ、と顔を近づけたら、西瓜の種だった、というのはあるあるではないだろうか。
それは祭の後のような、なんとも言えない哀愁だ。芽が出ることのないその種は、いったいいつからそこにはりついていたのだろう。
椿の実いつかよくなることいくつか 姫野みさき
「いくつか」だから、中にはよくならないこともある。でも、いくつかはきっとよくなる。そんな希望が明るいリズムで綴られている。
生きている限り、我々の悩みが尽きることはないのだろう。体調が悪いとか、お金がないとか、恋人とうまくいかないとか……一生付き合っていかなければならない辛さもあれば、自然に消えていく辛さもある。
椿の実のさりげなさと、t音とk音の繰り返しの心地よさが、どうにかなる、と思わせてくれる。
人のかたちを知るために毛糸編む 野名紅里
時間をかけてセーターなどを編んでいるのだろう。「知る」ということは、知識を入れるということではない。手間をかけること。身を削ること。強く実感すること。見ればすぐに分かると思われる「人のかたち」を本当の意味で知るために、この人は手を動かすのだ。
もちろん、そんなことを目的に編み物をしている人は実際にはほとんどいないだろう。しかし、服を編むにあたって、肩幅はこのくらい、腕の長さは、ウエストは……と考えるとき「人のかたち」というものはきっと意識されている。この句を読むと、「人のかたち」を知りたくなる。もちろん方法は、手間と時間をかける他にない。
おでん煮るいぢわるがなくなりますやうに 野名紅里
呪文のような「いぢわるがなくなりますように」という言葉。こんな優しい切実な願いが、おでんの中に溶けていく。
なんでこの句を読んで泣きそうになるか考えると、きっと他人のことを思って書かれた言葉だからだ。大好きな人の周りから、もしくはこの世の中から、悪意が消えるように。
大根が柔らかくなって、卵が色付いて、こんにゃくに出汁が染み込んでいく。それぞれの具材がじっくり煮込まれて美味しいおでんになっていく。そんな風に、意地悪なんてない優しい世界ができたらいい。
冬のある日提出物を全部捨てる 野名紅里
これは優等生の句だ。劣等生はこんなことはしない。宿題をやったりやらなかったりしながら、先生に怒られながら、なんとか卒業する。そんな劣等生の処世術を、優等生は持ち合わせていない。
完璧にこなしながら、少しずつストレスが積み重なっていく。そしてある日。ぷつん。何かが切れる。全てがどうでもよくなる。提出物を片っ端からゴミ箱に突っ込む。
俳句は短いから、作中主体の前後は分からない。何があってそうなったのか、その後どうなったのか。
物語性のある俳句だが、この句に書かれているのは誰もが持ち合わせている衝動だと思う。
剝き終へて何にも似ない蜜柑の皮 野名紅里
普通なら、蜜柑の皮が何かの形に見えたことを書く。「何にも似ない」というのは、あまりに切なすぎる。
星の並びや、雲の形が何かに見えるのは、脳が補正するからだ。大抵の場合、脳は自分が見たいものを見せてくれる。ご機嫌のときに夜空を見上げればきっと「トイプードル座」や「寿司座」が見えてくることだろう。
「ロールシャッハテスト」というテストでは、インクの染みが何に見えたかを解答させ、そこから心理を読み解く。あるものが何に見えるかには、人間の心が反映されるのだ。
しかし、この句の中で蜜柑の皮は子猫にも悪魔にも似ていない。蜜柑の皮のかたちがどうであるということではなく、作者の想像力が疲弊してしまっている悲しさが表れている気がする。
柚子風呂の柚子ふくよかに姉嫁ぐ 野名紅里
2021年の11月18日、私は結婚した。この句は「柚子風呂の柚子ふくよかに/姉嫁ぐ」とも「柚子風呂の柚子/ふくよかに姉嫁ぐ」ともとることができる構成になっている。「ふくよかに」が柚子と姉、どちらにもかかってくるのだ。
柚子風呂の柚子が湯を吸ってふっくらとしている。なんとなく、幸せそうな感じがする。そして「姉」。実際の私は好きなだけ好きなものを食べて不健康な太り方をしているが(笑えない)この句の中では柚子同様幸せそうだ。
結婚おめでとう、という思いを家族からたくさん受け取った。気持ちのこもったご祝儀も、紅里の描いてくれたウェルカムボードも嬉しかったが、この句を読んだときの喜びは筆舌に尽くし難い。
結婚三年目。この句を胸に、幸せな家庭を築いていきたい。体重の方は、これ以上増えないように注意しつつ。
雪が降るのかわたくしが昇るのか 野名紅里
空から降ってくる雪を見上げていると、からだがぐんぐんと昇っていくような、不思議な感覚になる。それを「雪が降るのかわたくしが昇るのか」と問われてしまうと、答えはもちろん「雪が降る」なのだけど、いや、もしかしたら、本当に私が昇っていっているのではないかと思えてしまうのだ。
雪が天から降ってくる「事実」と自分が雪の方へと浮かんでいくような「感覚」。俳句は写生と言われているが、人間は感覚を通さずに物を見ることなどできない。となると、雪を見上げているときの「感覚」を言語化してくれるこの俳句は、やはり心地いいのである。
手袋を外す重ねる話しながら 野名紅里
ここに書かれている「外す重ねる」というのは、人がほとんど無意識でやっている動きだ。
室内に入る。「こうやって集まるの久しぶりじゃない?そういえばこの前さ、」なんて言いながら、コートを脱いだり、手袋を外したり、さらにそれを重ねたりする。意識はもちろん、会話の方に集中している。
俳人の仕事の一つがその無意識を意識の内に取り込むことだと思う。人の動きは面白い。特に喋っているときは、無意識の動きが発動しやすい気がする。身振り手振りがつく。髪をいじる。机の上のハンバーガーの紙袋を小さく畳んでみる。人間ってなんか愛おしい。そのことを、ちゃんと気に留めてやりたい。
耳当の外より道を聞かれけり 野名紅里
耳当越しのくぐもった声の質感が呼び起こされる。「耳当の外」ということは自分は「耳当の内」の世界にいたということだ。ここに耳当特有の感覚がある。車や電話ボックスの中に入って「内と外」が出来上がるのは分かるが、耳当を付けただけで「内と外」が出来上がるのはすごい。「聴覚」というものが、どれだけ大きな役割を果たしているかが分かる。
耳当が左右の耳をじんわり温めてくれる。周りの音がぼんやりと遠い。どこかふわふわした気分でいると「すみません」と声をかけられる。そのすみませんも、なんだかぼやけている。耳当を取って聞き返すと、そこにはいつもの世界がある。
校門に置いていかれる雪だるま 野名紅里
生徒が登校中に作った雪だるまだろう。通学路の雪を集めたら、結構な大きさになるはずだ。二つ重ねて、なんなら、木の棒で両手を作る。どんなに良い出来でも、当然、学校内に持ち込むわけにはいかない。
この句からは生命を持たないはずの雪だるまの感情のようなものが見える。なんだか、少し寂しそうだ。もしかしたらこの雪だるまは、みんなと一緒に椅子に座って授業が受けたかったのかもしれない。
雪だるまが日に晒されてゆっくりと溶けていく。生徒に忘れ去られる雪だるまを、この俳句はちゃんと書き留めてくれたのだ。
みんな居てみんな黙つて冬の星 野名紅里
確かにここに皆が居るという安心が、沈黙を心地いいものにしている。喋る必要がないから、喋らない。そのことが言葉より、もっと深いところで分かりあうことに繋がる。
冷たくて澄んだ空気の中に星の光が真っ直ぐ届く。冬の星の句といえば、〈ことごとく未踏なりけり冬の星 高柳克弘〉がある。その遠さに、輝きに、圧倒される。
皆の目が、空一面の冬の星を見上げる。お互いの顔を見て熱く語り合うことも大事だが、何も言わずに、ただ同じものを見るということもまた、大事なのである。
鰰はとつくにずつと踊つてゐる 野名紅里
この、脳を直接揺さぶられるような衝撃。「鰰は」「とつくに」「ずつと」「踊つてゐる」。思わず繰り返してしまう。
人間は時に踊る。遠い昔から、現代まで何かにつけて人類は踊ってきた。それは本能的なものであったり、また、誰かの真似や誰かからの強制であったりする。
私は踊るのが下手だ。手と足で別の動きができない。ステップが踏めない。リズム感がない。学校行事のダンスも、なんとか適当にごまかしてきた。上手く踊れる人が羨ましかった。
でも、踊れる人よりも今は鰰が羨ましい。「鰰はとつくにずつと踊つてゐる」。そうか、鰰は踊っているのか。誰に言われるでもなく、これまでも、これからも。
極月の象は地球を家として 野名紅里
象の大きな体を想像する。象に相応しい家は、動物園の象舎でもなく、サバンナの砂漠でもなく、地球そのものなのかもしれない。
十二月の冷たい空気の中を歩き、私達は毎日家に帰る。家に帰ればあたたかく、一息つくことができる。家族との関係が悪かろうが、もしくは一人暮らしであっても、私達は家に守られている。象の家が地球だとしたら、象にとってこの家は安全だろうか。
この壮大な句が、私達に「家」とは何かを問いかける。きっと屋根があって壁があれば家、というわけではない。
山茶花と意訳に近いあなたの絵 野名紅里
この「絵」は山茶花を描いているとも、何か別のものを描いているとも取れるが、私は山茶花の絵として読んだ。
絵を「訳」と捉えたのが面白い。訳というものは、異なる言葉を通じさせるものだ。「あなた」は絵を通して山茶花を自分に通じるように訳した。しかもそれが「直訳」ではなく「意訳」に近い。
その人のフィルターを通して描かれた山茶花は、目の前の山茶花とまるで違う。そこにある山茶花とその人の世界に訳された山茶花。どちらも確かに、山茶花なのだ。
雪の白さを心臓が考へる 野名紅里
「心臓が考へる」という感覚。雪が降って、なんとなくドキドキする。不思議なくらい真っ白な景色。そんなとき考え出すのは、もしかしたら脳ではなく、心臓なのかもしれない。
雪が白い理由を考えるのではなくて、その雪の白さに思いが巡っていく感覚。心臓が脳より確かに、雪の白さを感じ取る。
「心」がどこにあるのか、いまいち分からない。でも心に変化が起こったとき、それを教えてくれるのが心臓だと思う。心拍数があがったり、締め付けられる感覚がする。「雪の白さを心臓が考へる」。雪と心が触れ合うようで、なんだか心地いい。
手袋が上手にめくる週刊誌 野名紅里
主語を「手袋」としたことで、手袋自体が意思を持って週刊誌をめくったような不思議な雰囲気が感じられる。
手袋をしたまま雑誌をめくるのは難しい。普通なら何回か失敗した後、諦めて手袋を外してしまう。それを、その人は上手にめくった。魔法のような手つきに思わず釘付けになる。
なんとなく、駅のベンチや電車の中を思い浮かべた。手袋を外すのも忘れて(もしくは、外す必要をそもそも感じていないのかもしれない)夢中で週刊誌をめくる。
どつしりと冬服を干す時間かな 野名紅里
人が着ているときの冬服ではなく、洗濯した後の冬服に着目した句。
夏服は薄く、また日差しが強い季節なので乾きやすい。それに比べて冬服は、分厚い上に重ね着などをするので量も多い。水を吸った冬服はまさに「どつしりと」した重さだ。
更に、詠嘆されているのは冬服を干す「時間」である。ハンガーに冬服を一枚ずつかけていく。夏服と違い一つあたりの質量が大きいので大仕事だ。その代わり、大物をやっつけてしまえば一気にかさが減り、作業は残りわずかになる。こんな時間が、どことなく、愛おしい。
千両や言ひ返せずに幼子は 野名紅里
親や保育園の先生に怒られているのだろうか。歯を食いしばり、必死にそのときを耐えている。「でも」「だって」と言いたくなる気持ちを必死にこらえて。
幼子は多くの言葉を持ち合わせていない。それをいいことに大人は理屈で言いくるめる。「〜だから駄目でしょ」「〜したら〜が困るでしょ」幼子の大切な感情は、その理屈に簡単につぶされてしまう。
言い訳をせず、黙っている幼子は美しい。それは千両の美しさに似ていると思う。
百貨店にトルコブルーの日記買ふ 野名紅里
句集のタイトルにもなっている『トルコブルー』の句だ。百貨店に売られているトルコブルーの色をした日記帳を買う。それだけの句だが、来年への決意や明るさのようなものが感じられる。
「百貨店」というのがいい。日記は本屋にも売ってあるが、百貨店の賑やかさがトルコブルーの美しさをより一層引き立てる。もしかしたら目当ては別のもので、ふらっと寄った日記コーナーのその背表紙に強く惹かれ、思わず手に取ったのかもしれない。
綺麗な緑がかった青。その色が象徴するような、清らかな年になるといい。
バス停や白息交はらず流る 野名紅里
横に並んでいる二人の白い息が風に流されていく。息同士が交わることはなく、その白は空気の中に消える。
バス停という場所を見せてから、そこでの事象を書く。光景がありありと浮かぶ。その時点で、この句は成功しているのだが、ついつい邪推してしまう。この交わらない切なさが、この二人の関係を現しているのではないかと。
普段は目に見えない「息」に、冬が色を与える。魂にも似た白は交わりそうで、やはり、交わらない。
あんなところにからうじてつもる雪 野名紅里
雪はどこに積もっているのか、読者の想像を掻き立てる句である。看板、電線、仏像が持っている名前を知らない物体……かろうじて雪が積もる「あんなところ」を思い浮かべる。
字面も面白い。ひらがながずっと続いて、曖昧なことが書かれて、最後につもる「雪」が出てくる。内容と表記がマッチしているのだ。
私が勝手にこの句と対になっていると思っているのが、同じく『トルコブルー』収録句の〈バスケットゴールの縁に雪積もる〉である。どちらも雪が積もる内容だが、片や抽象的に、片や具体的に書き、両方とも成功しているのがすごい。
父親と上手く巻けないマフラーと 野名紅里
父親の描写は何もないのに、上手く巻けないマフラーが父親との関係性や父親というものがどういう存在であるかをきちんと表してくれている。
私達が中学生か高校生のとき、父が誕生日プレゼントに組み立て式のカメラをくれたことがあった。父は一所懸命私達が喜びそうなものを考えてくれたのだろうが、私も紅里も説明書を読んだり細かい作業をしたりするのが得意ではなく、乗り気じゃなかった。結局父が1人で二人分のカメラを組み立てた。父は完成したカメラで早速写真を撮りに行こうと提案したが、思春期の私達にとって親子で散歩をするというのはハードルが高いことだった。私達が断ると、父は悲しそうな顔をした。この句を読んでそんな出来事をふと、思い出した。
牡蠣殻のバケツの底に響きけり 野名紅里
牡蠣小屋での光景だろうか。牡蠣を焼く机の下に置いてある、あの四角いバケツ。食べ終わった後の牡蠣殻を放り込むと「ガコッ」と音がする。この「響きけり」に納得させられる。確かに、バケツの底に当たった牡蠣殻の音は、鈍く反響する。
牡蠣はおそらく、紅里の一番好きな食べ物だ。にも関わらず、いや、だからこそなのか、味についてではなく、食べ終わった後の描写までしてみせる。こういった地味な牡蠣のシーンを書けるというのが、牡蠣の全てを愛している証拠なのかもしれない。
胸の高さにクリスマスプレゼント 野名紅里
俳句は短い。「クリスマスプレゼント」という言葉を入れようと思ったら、自由に使えるのはあと七音分しかない。そこをこの句では「胸の高さに」という表現で勝負した。奇を衒わず、クリスマスプレゼントへのときめきを素直に書いている。
プレゼントというものは、嬉しい。相手が喜んでくれる顔を想像しながら選ぶのも、渡すのも、もちろん、貰うのも。クリスマスプレゼントを持っているのが、ちょうど胸の高さだという、それだけを書く。それだけで、クリスマスプレゼントの特別さをきちんと言い得ているのである。
早送りやや巻き戻し炬燵猫 野名紅里
録画していた番組、もしくは映画や動画などをテレビで見ているのであろう。倍速や3倍速で早送りをしているとつい目的のシーンを過ぎてしまって、少しだけ巻き戻す。炬燵でぬくぬくしながら過ごす時間は、いい。炬燵は家族団欒にふさわしいものであるが、テレビと猫まで加わったら完璧だ。
テレビの中の人間がすごい速さで動いたり、逆の動きをしたりする。そんなときでも猫は、ゆったりと猫の時間を過ごしているのだ。
白い部屋マスク分別して捨てる 野名紅里
捨てているのはきっと鼻の部分を変形できるワイヤー入りのマスク。ワイヤーはプラスチックのものや金属のものがあるが、作者はきちんと取り外してマスク本体と別々に捨てている。
なんだか真っ白な俳句だ。部屋も白ければマスクも白い。頭の中まで白くなっていくような感覚。部屋には当然白以外のものもあるのだろうが、俳句の省略の性質により、想像するのはとにかく何もかもが白い空間だ。「マスク分別して捨てる」という機械的な書き方が、ますますこの句を白くしている感じがする。
冬の蝶とは踊るのをやめた蝶 野名紅里
蝶がぱたぱたと飛んでいる姿は確かに踊っているように見える。それに対してあまり動かない冬の蝶を「踊るのをやめた蝶」と定義したのがこの俳句だ。
「踊れなくなった蝶」ではなく「踊るのをやめた蝶」であるところに、蝶の意思がある。意思があるということは踊るのをやめた理由もあるということだと思う。疲れたから、飽きたから、踊るということが嫌になったから……いろいろ考えられる。冬の蝶につい自己を投影してしまう。
福寿草ひと温かく柔らかく 野名紅里
人間が好きじゃないと詠めない句だな、と思う。この温かさと柔らかさは人間の外面と内面、両方を言い得ている。そこにめでたい「福寿草」をつければ、温かさも柔らかさも倍増するような感覚だ。
新年。年賀状を出し合ったり、「あけましておめでとうございます」とかしこまった挨拶をしたりする。帰省する人も多いだろう。会う人も会わない人もみんな温かくて柔らかい。優しくて、この句自体に体温がある気がする。
たいやきを向かひ合はせて並べけり 野名紅里
向かい合ったたいやき同士がお互いに挨拶をしているような、和やかな風景だ。出来上がったたいやきをそのように並べるのは、たいやき屋さんにとっては毎日行っているただの作業かもしれない。でも、見ている方からすれば、たいやきの顔と顔が向き合っている様子はとても微笑ましい。
それにしても、たいやきなんて誰が考えたのだろう。魚のかたちの菓子なんて不思議だ。この句からは、たいやき一匹一匹の表情が見えてくる。
たたんではひらく手紙や鴨眠る 野名紅里
すっかりメールやSNSの時代になったけれど、手紙というものはやっぱり良い。便箋と封筒を買って、手書きで文字を書いて……手間や時間をかけてくれたことも嬉しくて、何度も読み返してしまう。
そんな手紙をもらったときの温かい気持ちに「鴨眠る」がぴったりだ。水に浮きながら寝ている鴨は幸せそうだ。読み終えて、畳んで、また開く。
手紙をもらうのも好きだけど、書くのも好きだ。字は下手だけど、たまには手紙を書いてみようかしら。渡した手紙がこんなふうに読んでもらえたら、それ以上の喜びはない。
ともだちも私も大人しやぼんだま 野名紅里
シャボン玉を吹いて遊んでいた頃はとうに過ぎて、誰かが吹いたシャボン玉を友達と見ている。気付いたら大人になってしまっていることに心がついていかない。こどもだった友達が大人になっていて、ということは一緒に年をとっているはずの私も大人になっている。さびしいとかうれしいとかより、不思議な感じが勝つ。こどものとき思い描いていた大人と、今の自分はなんだかかけ離れて思える。成人することやお酒を飲めるようになることが大人になるということでは、たぶん、ない。
「ともだち」「私」「大人」「しやぼんだま」こどもでも分かる簡単な言葉で書かれているからこそ余計、自分が大人であることに対するちぐはぐさが際立つ。
夕暮のミモザが語彙に晒される 野名紅里
私達は言葉によって世界を見ている。故に、言葉が世界を見えなくさせることもある。言葉は省略する。言葉は誇張する。言葉にした瞬間、失われるものがある。
作者が見たミモザがそのまま100%読者に伝わることはない。テレパシーでも使わない限り、そんなことはできない。私達は自分の語彙で精一杯表現しようとする。その試みは尊い。しかし、言語に晒されることにはある種の「取り返せなさ」がある。
言語化されたミモザはもとには戻せない。ゆで卵を生卵に戻せないように。語彙に収まったミモザはすでに元のミモザではないのである。
かつてカフェたくさん春の鳥が来る 野名紅里
そこがカフェだった頃、毎日たくさんお客さんが来て、それぞれの時間を過ごしていたのだろう。カフェはなくなって、その跡地にたくさんの春の鳥がやってくる。その明るさが、希望なのだと思う。
私がいつかこの世からいなくなっても、駅の外装が変わっても、いろんなものがデジタルになっても、人間が争いを繰り返しても、季節は巡る。春になれば囀りが聴こえてくる。
句集『トルコブルー』はこの句で終わる。これから何があっても、紅里も世界も大丈夫だと思える。
野名紅里俳句一句鑑賞まとめ 姫野みさき @himenomisaki
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