あとは海が

芳岡 海

浅葱色

 水泳部のない放課後は退屈でしかなかった。

 いつもなら家からほんの一分で着くような海岸まで、足を引きずってではのろのろとしか進まずもう何もかもうまく進まないように感じられた。


 泳いでいての怪我ならまだしも、体育で捻挫したなんてまぬけすぎる。あさぎに話して笑い話にしようと思った。あいつなら笑ってくれるか、わざとらしく憐みの顔をしてみせるか、そうでなければ「血が出てないんなら泳いでも大丈夫でしょ」って泳ぎに誘ってくる。僕もそう病院で言ってみたものの、水中でキックすれば足首に負担がかかるし、せめて一週間、できれば二週間は安静に、と言われてすごすご帰ってきた。


 岩場がこんなに安定が悪いなんて考えたこともなかった。捻った右の足首をかばってそろりそろりと進んだ。

 いつもの場所まで来て、いつもより慎重に腰を下ろす。満ち潮だから波の飛沫がすぐそこまで来る。首に下げたホイッスルをワイシャツの襟元から引き出して、思いっきり吹くといつもの音がして僕を少し安心させる。


 しばらく波と風の音と、後ろの道路で軽トラが一台通る音がした。もう一度吹いたところであさぎが顔を出した。子供の頃に両親にもらったこのホイッスルが、僕があさぎと会うときの合図。あさぎの方が僕に会いたいときは(そっちのほうが少ないけど)、通学路の海岸に面したところで待ち伏せして石とか投げてくる。

海向かなた

 波間からあさぎが僕を呼ぶ。海の中は日差しが弱いからあさぎの肌は白く、水に濡れたその頬につややかな赤みがさしている。

「部活じゃなかったの?」

 あさぎが岩まで上がってきて聞いた。髪や背中から滴る水を彼女はまったく気にもしなくて、それはまるでたった今海水から生まれてきた姿に見える。

「捻挫して一週間安静って言われた」

 包帯で固定された右の足首を見せる。

「えー。水泳で?」

「いや、体育のハードル走で着地に失敗して捻った」

「あはは、なんだ。バカじゃん」

 あさぎが可笑しそうに尾びれで岩を叩いた。あさぎは僕の従姉妹で、小さいころから一緒に海で泳いできたライバルみたいな相手で、そして人魚だ。


 午後の海は静かだ。漁師の仕事は早朝だから。

 僕の家は漁師をやっている。父さんも、じいちゃんも、叔父さん叔母さん夫婦も、ひいじいちゃんも、じいちゃんの妹一家も、いわゆる先祖代々ってやつ。

 ここは漁港で、高校に進学するときに町を出る子もいるくらいの小さな町だ。

 僕の友達も何人か出たけど僕は残った。みんな、あさぎがいるから海向かなたはそうだよなって反応だった。将来は僕も漁師になるつもりだし、水泳部がそこそこ活発な高校に入れたから全然オッケーだった。二年になってタイムも伸びてきてってところで、今日の捻挫だよ。

 

「水に入れないの?」

 退屈そうなあさぎが、予想通りのことを聞いてくる。

「足首に負担かかるからしばらくは泳ぐなって」

 せめて一週間と言われたけど三、四日したら入ってみようかと、言いながら考える。

「ふーん。かわいそ」

 あさぎはそう言って、見せつけるようにするりと水に潜っていく。銀色の尾びれが飛沫とともにきらりと午後の日の光を反射させる。


 この岩の先はすぐに深くなっているから、うっかり岩でお腹をすりおろすこともなく水に入るとすぐに泳げる。あさぎがぷかぷかして僕が岩に座って話すのにもちょうどいい。水に入れない今の僕は、岩にしばりつけられている気分だった。


 僕の家系は代々、数世代に一度人魚が生まれる。前回生まれた人魚を知っている人はさすがにいないけど、ひいじいちゃんの子供時代にはいたらしい。ひいじいちゃんが聞かせてくれた昔話をじいちゃんや父さんたちは覚えていて、大人たちの話題に今でものぼる。

 昔から人魚に助けられて漁師をやってきたのだ。


 実は僕が生まれるときにそろそろなんじゃないかって大人たちは思っていたらしい。けれども僕は立派な両脚を持って生まれてきて、今日その右足を捻挫している。

 そして僕の二歳下で生まれた従姉妹のあさぎが人魚だった。


 小さな町だ。人魚に生まれたあさぎのことを町の人たちはひっそりと知っている。学校でも、海向くんの家にはあさぎちゃんがいるからね、って特別なことみたいにみんな知ってた。


 僕とあさぎはほとんど同時に海で泳ぎを覚え、潮の流れや風向きや波の高さを同時に覚えた。僕に脚があるみたいにあさぎにはたまたま尾びれがあるんだっていう、僕にはそれだけのことだった。


 海の中のあさぎは、泳いでるというより無重力空間に浮いてる。

 海の中にあさぎの動きを妨げるものはない。重たさも、疲れも、暑さも寒さもない。水の流れや波はすべて彼女と一体化している。ちょっと億劫な気分のときは腕を広げてその場にたゆたい、尾びれをめんどうくさそうに揺らしている。けれどその気になれば身をひるがえし、空間を切り裂くような動きであっという間に遠くまで行ってしまう。

 それが泳ぐってことなんだと僕は思う。


「あんな箱で泳いでも楽しくないじゃん」

 あさぎもプールに連れられて来たことがあるけど興味ゼロで、僕が水泳でタイムを伸ばしたことも喜んですらくれなかった。できるならあさぎのタイムも計ってみたいけど、たぶん真面目に泳いでなんかくれない。


 僕は海もプールもどっちも好きだった。海は実践でプールは理論というか。プールでいろんな泳ぎ方を試してそれを海で試してみたり、海で思ったようにいかなかったことをプールでやり直してみたり。

 そんなときにあさぎはいつもいい相棒で遊び相手だった。あさぎとならどんなに泳いでも退屈しなかった。

 正直言って、町の子供の中では僕が一番泳ぎは上手いと思う。歩く、走る、泳ぐ、が僕にとっては全部一続きのことで、海の町で育った子供はみんなある程度そうだけど、その中でも誰にも負けないつもり。

 人魚の家系だもんな、スタートが違うじゃん、とか嫌味を言われることもあるけど、結局海のある町では泳ぎがうまいやつが一番尊敬されるんだよ。

 ……まあ捻挫なんかしてたら尊敬も何もないけど。って、思考が全部右の足首に集結する。まだ痛いせいかも。


 岩の上に右足を投げ出して、水面の浅いところを遊びで泳ぐあさぎを見る。肩くらいまでの髪が水に沿って流れ、銀色の尾びれが気まぐれに水面を叩く。


 泳げって言われたことはないけど、泳ぐなって言われたこともないから(「いつまで泳いでんの! 夕飯無しよ!」って母さんに言われたりはしてたけど)、とにかく自分が泳げないことなんて考えたことがなかった。


 ねえ、あさぎが泳げなくなったらどうする? って聞こうとしたけどやめた。あさぎが泳げないことは、もうそのまま生きていけないことを意味するから。でも僕だって泳がずに生きてくなんてできないと思ってるんだけど。何が違うんだろ。


「海向くんは最初の壁にぶつかったんだよ」

 二週間も泳がなかったら干からびる。病院から帰ってきて不満をこぼしていたら、水泳部のコーチにそう言われた。

「今まで海向くんはひたすら前に向かって進むだけで良かった。でもそうじゃないときもあるんだよ。いい機会だから自分にとって泳ぐとはなんなのか、なんのために泳ぐのか、自分が何をやりたいのかよく考えてみな」

 わかることはわかるけどわかりたくないしわからない。


 あさぎはそんなこと考えたことないだろう。何のために泳ぐのかなんて考えるまでもないだろう。

 何をやりたいか? 泳ぎたいだけなんだけど。

 高校進学のときにみんなが悩んでる進路のことも他人事だった。泳ぎがめちゃくちゃ上手くなって、大人になったら漁師になる。それだけだったから。そのために海のことをもっと知る。船のことも覚える。漁師の仕事も覚える。

 あさぎには壁なんてないじゃん。

 なんで僕には乗り越えなきゃいけない壁なんてあるんだろ。


「いいなー」

 岩場から、小石を放って投げるみたいに声をかける。

「泳いでたら悩みなんてないよな」

 あさぎが水面から僕の不満そうな顔を見る。仰向けに浮かんで手を投げ出して、尾びれで上手く流れを制しているからどんなに水流に押されてもただ水面に寝転んでるみたいに見える。あさぎからしたら本当に寝転んでるのと変わらないんだろうけど。

「泳いじゃえばいいのに」

「だってダメって言われてるし」

「言われてるだけでしょ」

 ついーっとあさぎが岩場に近づき、その勢いのままふわりと僕の目の前まで上がってきた。両手をついて、腰を下ろしている僕とまっすぐに目を合わす。夏服の制服のズボンに海水がかかりそうだったけど僕は動かなかった。

「海向が泳げないことなんてないでしょ。海向いないとつまんない。海向くらい泳げる子なんていないんだもん」

 膝の上に置いていた僕の手をあさぎの白く細い手がつかんで引き寄せた。その手首から滴る海水が制服のズボンを濡らすのを足に感じた。


 そりゃもちろん人魚だから、人じゃないから、学校には行かない。家には帰らない。小さい頃にはあさぎも「パパ、ママ」って駄々こねて泣いてたし、今では同い年の友達と喋ったりするけど、やっぱり半分は人じゃないから、夜になったらすうっと夜の海に帰っていく。そして大人なるにつれて人魚は海へ還っていく。

 僕が漁師になる頃には、あさぎと会うのはもっと沖の海になるだろう。僕は船を操り、海の様子を見る。そこへあさぎが顔を見せる。海の話をする。陸の話も少しはする。たまにはこっちにも帰ってこいよって言う。


 包帯をしているために足元はサンダルだったからそれはすぐ脱げたものの、あとは着てる服そのまんまだった。

 手を引かれるがままに、ざぶりと飛び込んだ。一瞬だけ躊躇したけどあとはいつもの通りだった。ぬるい水温、落ち着く水の感触。自分の場所だと思う。

 服のまま海に入っちゃうとか小学校のころには何回かやったけど(そして母さんにめちゃくちゃ怒られるわけだけど)本当に数年振りだった。制服ってクリーニング出せばまた着れるだろうか、まあ着たら着れるでしょ、着れなきゃ冬服着るし。と水中で身体に服を絡みつかせながら考えた。服が重たく絡みつき、包帯を巻いた右足をかばって泳ぐのは人生で一、二位を争う難しさだった。


 あさぎが水中で僕の手を引く。


 その楽しそうな顔を見て、こっちの気持ちも知らないで、と僕は思う。

 こっちの身にもなれよ、ワイシャツ着たまま泳いでみろよと思う。あさぎは普段は人用の水着とか着てるけど、たまに可愛いから欲しいみたいな理由で普通の服も着てて、でも何を着ても関係なくすいすい泳ぐからやっぱり人魚にとっては全然問題ではないんだろう。


 水を吸った布はひどく嫌な感触でギシギシする。浮かんだままワイシャツのボタンを外してるとあさぎが手伝ってくれた。それすら何か悪ふざけみたいだった。まとわりつく服を身体から無理矢理引きはがして岩の上に放った。上半身は、首に下げたホイッスルだけになった。

 脱いだサンダルとワイシャツだけ放ってあって、外から見たら海に引き込まれたように見えたかもしれない。


 人魚が人を海に引き込む話がある。あさぎを見てるとわかるけどあれは悪意があるんじゃなくて、本当に海に入ればいいのにって思って誘ってるだけなのだ。


 もっと沖合いまで行って帰ってこれなくなったら、ホイッスルを吹けばいい。子供の頃に両親が「流されたらこれで居場所を知らせなさい」って持たせてきて、あさぎは持ってないのに僕だけ持たされるのが泳ぎの心配をされてるみたいで不服だった。

 でも、そりゃそうだよな。あさぎがもし浜に打ち上げられて戻れなかったら、っていうのと同じなのだ。

 プールのことを箱って言ったあさぎだけど、あさぎは海というデカい箱から出られない。僕は泳ぐことも泳がないこともできるのに、泳ぐことを選んだ。

 重たく絡みつくズボンの感覚にも徐々に慣れてきた。右足も無理なキックをしなければ大丈夫そうだった。あさぎが僕の方を見ながら、ゆらりと尾びれを揺らして微笑んだ。

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