第十七話 鬼姫、夜這いを受ける。

 私と光彰は、菅原 道仁が居るであろうという史書殿へ向かった。


 史書殿には、文司の他にも、王族に関わる書物を保管している蔵がある。蔵は、蔵司という部署が管理をしている。道仁はその蔵司に所属していて、和泉様に付き添っていない時は大抵そこで書物の整理をしているというのだ。


 和泉様も一緒に来たがったが、乳母である藤原 昭子ふじわら の あきこに見つかるなり、衣服を汚したことを責められて、桐佳殿へ連れて行かれてしまった。


 昭子は、和泉と初めて会った時に、私が斧を持っていたのを見て叫んだ女だ。


「久しいな、道仁。息災であったか」


 蔵で書物を整理していた背の高い道仁を見つけ、光彰が声をかけた。その口調には道仁への親しみを感じる。知り合いなのだろうか。


「これは光彰様……このような場所でお見苦しいところを……申し訳ありません」


 道仁が光彰を見て、驚いた顔をさっと深く下げた。他の官吏たちも光彰を見るなり慌てて平伏しかける。


 だが光彰は、彼らにさっと片手を上げてそれを止めた。そのまま仕事を続けろ、と目で合図をする。それを見た他の官吏たちは、一斉に蜘蛛の子が散るように蔵を退出していった。どうやら気を効かせてくれたらしい。


 私は、改めて光彰の身分を見せつけられた気がして、なんだか妙な心地がした。何せ和泉の馬になって喜んでいた男だ。


「いい。楽にしていろ。伽羅きゃらの国へ渡ったと聞いていたのだが、もう任期を開けて戻って来ていたのか」


「はい、お陰様で順調に工程を終えたため、早めに戻ってくることが出来ました」


「光彰は、道仁と顔見知りであったのか」


 私が横から口を挟むと、光彰がにっと嬉しそうな笑みを見せた。


「ああ、道仁はすごいぞ。よわい十八で文章生もんじょうしょうとなり、外記局げききょくで筆頭まで上り詰めた後、文章博士もんじょうはかせにまでなったのだ。俺も道仁から漢詩を教わったことがある。今は蔵司で和泉の学士を務めているようだが、蔵人頭へ推薦しておいた。しっかり俺のことを支えてくれよ」


 光彰が、道仁に熱い眼差しを送る。よほど強い信頼があるのだろう。


 それに対して道仁は、うやうやしく頭を下げた。


(もんじょう……げききょく……う~む、さっぱり分からん! じゃが、光彰の口ぶりからすれば、すごい男なのだろうな)


 そもそも天宮には、役職が多すぎるのだ。後宮のことですらまだ覚束ないのに、他の部署まで覚えられるわけがない。


「輝夜は知っているか。右近衛将監うこんえのしょうげんの橘 常則のご息女だ」


 光彰は、私と道仁が顔見知りであることを知らないのだろう。


 後宮で〝輝夜〟と呼ばれることに慣れてはきたものの、光彰にその名で呼ばれると違和感がある。〝紫焔〟として出会ったからだろうか。


 『紫焔』と呼んでくれた光彰の声を思い出し、胸がきゅっと鳴る。またあの形の良い唇で私の名を紡いでくれたら……と、私は自分で気付かないうちに光彰を凝視していたらしい。


 道仁が、私に向けて丁寧にお辞儀をしたので驚いた。


。私は、菅原 道仁すがわら の どうじんと申します。和泉様の学士を務めております」


 顔を上げた道仁は、私にだけ分かるように、ふっと微笑んでくれた。


 おそらく紹介してくれた光彰の顔を立てたのだろう。


「あ、ああ……輝夜という。其方に聞きたいことがあった来たのじゃ」


「何でしょう。私に答えられることなら、何なりと」


 道仁の声は低く、落ち着いた大人の魅力を感じさせてくれる。


(くっ……この大人の色香に、花智子は騙されたのだろうか……いやっ、うちの清澄の方が断然いい男……の筈っ!)


 私は、ぐっと腹の底に力を入れて、真正面から道仁を見据えた。もしかすると、道仁は清澄の好敵手なのかもしれないのだ。


「其方は、花智子と一体どういう関係なのじゃ?」


 〝花智子〟という名前に、道仁の瞳がすっと細められる。どことなく表情に陰が射すような気がした。


「花智子は、私の一人娘なのです」


「なんじゃとっ?! 花智子の父君であったのか?!」


(男ではなかったのかーっ!! ……しかし、なんとも若い父親じゃのう。三十ほどにしか見えぬが……)


 私は、道仁の顔をしげしげと眺めた。白い肌はきめが細かく、贅肉など全くついていない顎筋が、しゅっと清廉さを物語っている。鼻筋も通っていて、目には賢さが宿り、背筋がぴんと伸びて美しい。入内するような大きな娘がいるようにはとてもではないが見えない。


「うーむ……道仁は一体いくつで花智子を産んだのか?」


「いえ……私は男ですので、産むことは出来ませぬが、花智子が生まれたのは私が十九の時です。今の私の年齢を気にしておられるなら、今年で四十になりました」


「なんじゃとっ! 若いのぉ~……ということは、花智子は……」


 ひぃ、ふぅ、みぃ……と頭の中で計算をする。


 しかし、それよりも早く道仁が答えを出してくれた。


「花智子は、今も生きて入れば、二十一になっていたでしょう」


(ということは、清澄に文を出していたのが今から二年前だから……十九の時に亡くなったということか。私とそう歳が違わぬではないか……)


 急に花智子という人間が身近に感じられて、私は何とも言えない気持ちになった。そのように若くして亡くなったのであれば、さぞ無念であったろう。


「亡くなった時のことを聞いても良いか?」


 しんみりとした気持ちで、私は道仁に問うた。これを聞かなければ、始まらない。私は、花智子が亡くなった時のことを知らなさすぎる。


 話しにくいかと思ったが、意外にあっさりと道仁は口を開いてくれた。


「実は私も、娘の死に顔に会っていないのです。天宮から知らせがあり、駆け付けた時には、もう……」


「何か持病でもあったのか?」


「いえ、とくには……ああ、強いて言うなら、亡くなる直前によく頭痛がすると文に書かれておりました。季節的なものだろうと楽観視していたのですが、きちんと医師くすしに見せておけばあんなことには……」


 道仁の瞳に光るものが見えた。やはり二年経ったとは言え、亡くなった娘の話をするのは辛いのだろう。もしかすると、光彰に遠慮して平気なふりをしてくれていたのかもしれない。


(人間の父親というものは、このように情が厚いものなのか……私の父とはまるで違う)


 鬼の子は、産んで放っておいても勝手に育つ、と思われる風習がある。だから私も、大して父母の手を煩わせることなく勝手に育ったようなものだ。


 ただ、唯一〝源頼光を倒せ〟という教えだけは何度も何度も繰り返し聞かされてきた。それでも私が、源頼光を心の底から憎いと思えなかったのは、きっと私の心根が清らかだからだろう。


(むしろ、鬼雅島一強い父を倒したという源頼光に、私は憧れていた。あれは……初恋に似た気持ちだったのかもしれんな……)


 だが今の私には、父親がいる。母親も、兄もいる。


 橘常則ならば、きっと私の身を案じて涙してくれる気がした。久しぶりに文を出そうと思ったところに、優しい道仁の声が降ってきた。


「他に、何か聞きたいことはありますか?」


 はっと我に返り、私は自分がここへ来た目的を思い出した。つい物思いにふけってしまうのは、家を離れて寂しく思っているのかもしれない。


「花智子は、何かに怯えていたそうだが、何か聞いてはおらぬか?」


 すると道仁は、少しだけ考えるように俯くと、何かに思い当たったかのように顔を上げた。


「……そう言えば、鳳凰院様のことを文に書かれておりました。とても恐ろしい方だと」


「なんじゃと?」


以来、気が触れてしまわれたとか……おいたわしいことです」


 道仁の悲し気な表情を見て、私は自分の考えていたことが正しいのではないかという気がしてきた。


(やはり花智子が怯えていたのは、鳳凰院のことなのじゃろうか……)


「あの事件というのは、源将明のことか」


 それまでじっと黙って話を聞いていた光彰が口を開いた。


「お主、知っているのか?」


 そういえば、光彰は皇王の息子なのだから、その事件があった時も天宮に居た可能性はある。


「ああ。こう見えても俺は一時、鳳王様の下で働いていたこともあるのだ」


 へへん、と光彰が自慢げに胸を張って答えた。


 つい説明する手間を惜しんで、光彰には、のっぴきならない事情から道仁に聞きたいことがあるとしか告げていない。そもそもまず真っ先に、この男に聞けば済む話だったのではないだろうか。


「お主、もしや……花智子が死んだ原因を知っておるのか?」


 期待に胸を膨らませて尋ねると、光彰は困った顔で両手を上げて見せた。


「……いや、残念ながら俺は何も知らぬ。その時はもう天都にいなかったのだ」


「なんじゃ、知らぬのか……」


 期待してしまった分、落胆は大きい。そう簡単に答えには辿り着けないということだろうか。


「光彰様は、吉備きび受領ずりょうを務めるため天都を離れておりましたから、御存知ないのも無理はないでしょう。亡くなられた皇王様は、即位された際に、ご自身のご息女たちを臣籍に降下されておりますから。花智子が亡くなったのは、それからしばらく経ってのことでした……」


 吉備というのは、確か私が海を渡って来て初めて辿り着いた場所ではなかっただろうか。確か光彰がそのような名を口にしていた気がする。


(あの時の『吉備きびの領主さま』というのは、自分自身のことを言っておったのか……)


「輝夜様は、花智子の死に何か不信な点があると思われるのですか?」


「……わからぬ。じゃが、私の兄が気にしておるのだ。花智子と親しかったと」


「そうですか……兄君様というと、橘 真清たちばな の まさきよ 様のことでしょうか?」


「いや、そっちではなく次男の清澄の方じゃ。長男の真清は、たしか今、伊予介いよのすけとして伊予へ赴任しておるとか……」


 ただ話に聞いているだけで、私は顔すら見たことがない。受領の仕事は、地方へ赴任するため、長く家を空けることになるのだ。


「そうでしたか……花智子のことをまだ気にしてくださる方がいたとは……清澄様に、どうか宜しくお伝えください」


 そう言って道仁は、私に向かって深々を頭を下げた。道仁の真っすぐな背中からは、娘を想う父親の誠実さがひしひしと伝わってきた。


「しかし、困ったのう~……そうなると、これ以上探す手掛かりが……」


 史書殿を出て、私は大きなため息をついた。これからどうしたらよいのか、さっぱり分からない。


 すると、隣で私の方を面白そうに見つめている光彰が助言をくれた。


「花智子女御のことは分からないが、源将明の事件のことなら聞けるかもしれんぞ」


「本当かっ?! 頼む、何でもいいから教えてくれっ!」


 私は、藁にでもすがる気持ちで光彰の提案に乗った。



 *❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*



「あれは、鳳凰院が怪しいね。間違いないっ」


 平 秀好は、大仰に腕組みをしながら頷いて見せた。


 光彰の話を聞くところによると、源将明の死体を見つけたのが、この平 秀好なのだという。


(そう言えば真千子が以前、蔵人頭が見つけたとか何とか言っておったなぁ~……)


 秀好からその時のことを詳しく聞くことが出来るのでは、というのが光彰の出した案だった。


「まぁ~鳳凰院と言えば、色々と悪い噂が絶えない御人だったからなぁ~」


 秀好が、何やら勿体ぶるような言い方をする。やけに砕けた口調なのは、気のせいだろうか。


「悪い噂?」


 思わず私が聞き返すと、なぜか光彰がむっとした顔をして口を挟んだ。


「どの口が言うのだ。後宮に馬を引き入れて飼おうとし、鳳王様の宮を馬糞だらけにしたのは秀好だろう」


「それを言うなら光彰だって、鳳王様の御前で相撲をとった挙句、鳳王様の肘掛を壊したじゃないか」


「鳳王様の御前で、相撲をとろうと先に言い出したのはお前だぞっ」


 目の前で言い合いを始めた大の男二人を見て、私は嘆息した。


「あ~……つまり三人は、悪ガキだったということだな」


「ま、そんな俺が言うんだ。間違いないっ。それに、あの時の俺には、鳳王様がご乱心されて源将明を襲っているように見えたしな」


 堂々と胸を張って言う割に、秀好の口調は軽い。とにかく軽い。


 本当に何故このような男に、女が群がるのかさっぱり分からない。


「そうか、わかった。邪魔したな」


 そう言って私は、くるりと秀好に背を向けて帰ろうとした。


「あれ? そんなことを聞くためだけに来たの?」


「そうじゃ、他に何の用がある」


「つれないなぁ~……些細な言い訳をつくってまで、私に会いに来てくださったのでしょう? どうだろうか、今晩あたり……」


 秀好が、しっとりとした空気を纏って私に顔を近づけてくる。私は偶然を装いつつ思い切り顔を上げて、秀好の顎に頭突きを食らわせてやった。



 *❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*



 その日の夜、私が自室で眠っていると、誰かが部屋に忍び入ってくる気配がした。


(ぬっ……もしや秀好のやつ、本当に忍んで来おったのか……っ?!)


 私は、寝ているフリをして、じっと獲物を待った。


 今までは実際に何かをされたわけではないので直接手を下すことは出来なかった。


 だが、これはもう現行犯だろう。


(ふふふ……このような夜半に私の寝込みを襲うとは……何をされても文句は言わせぬ……)


 秀好のやつをどうしてやろうかと、楽しい思案に耽っている間に、侵入者は寝ている私の身体の上へと覆いかぶさってきた。


 咄嗟に私は足を蹴り上げて、侵入者を組み伏せようと上体を起こす。


 ところが、侵入者はさらりと身をかわして、飛び退くではないか。


(何っ……?! かわされただと?!)


 いくら何でも秀好にそんな条件反射と身軽さがあるようには思えない。もしあったとしたら、私は自分に自信をなくす。


 私の攻撃をかわした侵入者は、私の枕元にちょこんと身体を縮めているようだ。


 その時になってようやく私は、侵入者の身体が思っていたよりも小さいことに気付いた。


「なっ……お主は……?!」

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