【第四章】天宮に潜む鬼
第十六話 鬼姫、宮中殺人事件の謎を追う!
赤い花びらが舞っている。やけにゆっくりと、重たい水の中を泳ぐかのように。
いや、花びらではない。
これは、人の血だ。臭いでわかる。
真っ赤な鮮血が、まるで花びらのように
そして、床に伏してこちらを向く女の顔に、長くて黒い髪がまとわりついている。
私は、その女の傍へ膝を進めると、顔にかかった髪を振るえる手で払ってやった。
そこには、憎悪に顔を歪め、血の涙を流す女の苦悶する表情があった。見ているだけで女の無念な心が伝わってくるようで胸が痛い。
それは、かつて私の知っている人の顔とは別人のようであった。
はぁ、はぁ、と私は、気付けば肩で息をしていた。心臓が耳の内側でどくどくと脈打つのが聞こえる。なぜか視界がひどく狭い。
「なぜ……どうして……」
無意識に口から零れた言葉を、私は傍に立っている人を振り仰ぎ、再び声に漏らす。
そこには、天色の
刀身には、赤い筋が出来ていた。光彰の直垂にも、赤い鮮血が飛び散っている。
それらが何を意味するのか、私は分かりたくなかった。無意識に首を横に振る。
「どうして……」
どうしてこんなことになったのか。必死に記憶の糸を辿ってみる。
たぶんそれは、私の所為だ――――。
*❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*
ある日の午後、私は、清澄に宛てて書いた文を持って、文司を訪れていた。文待ちの列に並んで順番がくるのを待っている。
文を書くことは、これまで起こったことを整理するのに丁度よいのだ。ただ、私と光彰の関わりについては記していない。自分の中でもどう書いてよいか分からないからだ。
(まさか光彰が皇王の息子であったとは……)
その名を聞いた時、同姓同名の別人だろうと疑った。とてもではないが、大倭国一強いと言われる皇王の息子には見えなかったからだ。
だが、無情にも真実は、吉綱によってもたらされた。光彰からの文を持って現れたのだ。
『主の温情をこれ以上袖にするなら拙者が貴様を斬る!』
吉綱にやられる私ではない、と言い返してやりたかったがやめておいた。吉綱の言い分は
光彰からの文には、これまで自分の生まれについて黙っていたことを詫び、私のことを気遣う想いで溢れていた。
秀好が送ってきたような艶めいた内容ではなかったが、そこには光彰の誠実さと優しさが浸み込んでいるような気がして、それを読んだ私の胸は熱くなった。光彰が私のことを考えながらこの文を書いてくれたのだと思うと、嬉しくない筈がない。
だが今の私には、この文への返事を書くことが出来ない。自分の気持ちを言葉で表すことが、こんなに難しいとだとは知らなかった。
吉綱は、文だけ置いて戻って行ったが、そのうち返事の催促に来そうな勢いだった。
(どうしたものか……)
はぁ、と知らず知らずのうちにため息を吐く。
すると、私のすぐ傍で、女の声がした。
「出すなら早く出してよ。出さないならさっさとどいて」
自分に声を掛けられたのだと気づき、はっと顔を上げた。目の前には、文を入れる文箱と記帳、そして不機嫌そうな顔でこちらを睨む
どうやらいつの間にか、私の番が回って来ていたらしい。しばし文箱の前でぼーっと物思いに
「……す、すまぬ。この文を、
慌てて持っていた文を箱へ入れ、宛て名を告げた。
繁子は、じろりと私の顔を見ると、記帳に小筆を走らせる。
「……まぁ、今日はそこまで混んでないからいいけど」
心なしか繁子の口調は、以前にここを訪れた時よりも穏やかに感じられた。
今ならば、過去の記帳を見せてもらえるかもしれない。そう思った私は、繁子に向かって口を開いた。
「すまぬが、今まで書かれた記帳を見せてはもらえないじゃろうか?」
「どうして?」
繁子は、手元に開いている記帳から目を離さずに答えた。さらさらと滑るように小筆を動かしている。
「話せば長くなるのじゃが……人助けだと思って、この通りじゃ!」
私は、顔の前で合掌して拝んで見せた。単に説明するのが面倒だっただけだ。
繁子は、ちらと文待ちの列に目をやってから答えた。
「……私が見ている横でなら、いいわ。その代わり、少しだけよっ」
私は、繁子に礼を言って、部屋の奥にある記帳棚へ向かった。壁に沿ってずらりと並べられた棚には、これまでの文の出入りを記した記帳が山のように積まれている。
(むむ……この大量の巻物の中から探すのは骨が折れそうじゃな……)
記帳は、日付順に並んでいるものの、花智子がいつ亡くなったのかすら知らないのだから探しようがない。片っ端から探していくしかないだろう。
正直げんなりしたが、これも花智子を想う清澄のためだ。
それからしばらくの間、私は、女官の仕事が終わると文司へ行き、花智子が文をやりとりした記帳がないかを探し続けた。
気の遠くなる作業だったが、自分の目的を失ってしまった私にとって、やれることはそれしかない。
この人の后にと望んだ相手は、顔すら見ることもなく、この世を去ってしまったのだから……。
「……何を探しているの?」
突然、すぐ傍で声が聞こえ、驚いて顔を上げた。そこには、腕組みをした繁子が、不機嫌そうな顔をしたまま立っていた。
「手伝ってくれるのか?!」
「勘違いしないで。こう毎日毎日来ては後ろで、あーうーぬぬぬ……とか不気味な声を出されてちゃ仕事に集中できないからよ。棚をめちゃくちゃにされたくないし。今日は、人も少ないから……ほら、何を探していいるのか、さっさと言いなさいよ」
「か、花智子がやりとりしていた文の記帳を探しているのじゃ。……あ、花智子というのは鳳凰院の女御で、既に亡くなっておるのじゃが、後宮から文を出していた筈で……」
私は、繁子の気が変わらぬうちにと慌てて説明した。その所為で、うまく順序立てて説明することが出来なかったが、繁子は私の意図を汲んでくれたようだ。
「カチコ……鳳凰院様の女御様ってことは、ちょうど二年前くらいかしら。その時、私は
繁子の目が、からかうように私を見る。
「秀好?
「あら、だってあなた……秀好様といい仲なんでしょう?」
「違うっ!! 断じて違う!! 大きな誤解じゃ! 一体どこからそんな話が湧いて出てくるのじゃ!!」
「やぁだ、冗談よ。ちょっと意地悪したくなっただけ。あなたって見掛けによらず
くすくすと色めいた笑みを浮かべる繁子は、美人と言われるだけのことはあって、女の私が見てもどきりとしてしまう。
(うぅ……なぜそのような意地悪を……私は繁子に嫌われているのだろうか?)
思い当たることがないか自分の胸に手を当てて考えてみるが、さっぱり思いつかない。きっと私の気の所為だろう。
「秀好様なら、この後宮にいた女性の名前を全てそらんじることが出来るわよ」
「それは
「ぶっ……! あははっ! あなた面白いわね。……本当ね。あんな男、猿以下……」
腹を抑えて笑う繁子は、今までのキツイ印象を払拭するほど、親しみやすい顔つきをしていた。目元が潔子と似ている気がする。やはり姉妹なのだ。
繁子が、目尻に溜まった涙を拭い、ふぅと息を吐く。
「私の夫、妾がいるのよ」
(夫がおったのか……?!)
繁子の顔は笑っていても、目が笑っていない。
「私は正妻だけど、妾のところへ出掛けて帰ってこない夫を待つのは、やっぱり辛くてね……そんな時に秀好様から文が届いたの。私のことをたくさん褒めてくれて、必要とされているのだと思えた。最初は、夫への当てつけみたいなものだったわ。でも段々と本気になってしまって……姉からは散々やめなさいって言われていたけど、どの口が言うのって感じでしょう? 自分だって
今日の繁子はよく喋る。私には、いつも仏頂面をしている顔しか思い浮かばないので意外だった。仕事をしている時以外は、ふつうの
「……ここ、笑っていいのよ」
「あ、あはは……」
(笑えるかっ!)
「でも今は、あの人から離れてみてよくわかったの。私も秀好様と同じだったんだって。ただ埋められない心の隙間を……寂しさを紛らわせていただけ。それに気付いてからは、な~んか虚しくなっちゃって。今は、仕事に打ち込むことにしているの。前は、ひどい言い方しちゃってごめんなさいね」
そう言って微笑む繁子の顔は、輝いて見えた。自分の仕事に自信を持っている、そんな印象を受ける。どことなく孝子にも似ている気がする。
(私も……孝子や繁子のように、己に自信が持てる仕事を持ってみたい……)
ふいに沸いてきた想いに、自分でも驚いた。そうか、私は自分の居場所を探しているのかもしれない、そう思った。
「歌合で、あなたの詠んだ歌とっても素敵だったわ。私にも、そんな真っすぐな愛を詠っていた頃が確かにあった筈なのに……ね…………あら」
話しながら記帳を捲っていた繁子の手がふと止まる。
そして、ある一か所を指さして私の方へ見せてくれた。
「これ、その花智子って人じゃないかしら?」
「……あっ! そうじゃ花智子じゃ! 清澄へ宛てて書いておる!」
「よかったわね。これで目当てのものは見つかるかしら」
「ああ、助かった。この付近の記帳を当たって探せば、他にも見つかるやもしれん。繁子、本当にありがとう!!」
私は、心から感激して繁子に礼を伝えた。一人で探していたのでは永遠に見つけられなかったかもしれない。
繁子は、にっこりと美しい笑みを浮かべると、最後に一言こう付け加えた。
「あ、でも……巻物は破らないでね」
その後、見つかった付近の記帳を探してようやく突き止めたのは、花智子が清澄以外にも文のやりとりをしていた相手が二人いた、ということだ。
一人は、鳳凰院。
そして、もう一人は、
(菅原 道仁と花智子は、一体どういう関係があるのじゃろうか……まさか繁子のように他の男と……)
記帳には、文を出した日付と受け取った日付、その送り主と宛先しか書かれていないので、どのような文をやり取りしていたのかまでは分からない。
(考えても仕方がない。ここは、直接会って聞いてみよう)
道仁は、確か和泉の学士を務めていると言っていた。であれば、和泉のいる
都合の良いことに、明日は久方ぶりの休日だ。一日たっぷり使って、調べものができる。文司へ通うようになってから和泉とも最近会うことが少なくなっていた。久しぶりに遊んでやろう、と少しだけ明るい気持ちで明日を迎えるのだった。
*❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*
「……で、何故お主がこんなところにおるのじゃ」
翌日、和泉のいる桐佳殿へ向かった私は、庭先で和泉の馬になっている光彰を見つけた。
聞けば、尚侍である藤原 倫子様から逃げて来たのだという。
「お主……大倭国の王が子供の馬になり下がるとは……」
「何を言う。子は国の宝だ。俺には、馬くらいがちょうどよい」
そう言って光彰は、手についた砂を払いながら立ち上がると、朗らかに笑った。
そんな光彰を見て私は、文の返事で悩んでいたことがばかばかしく思えてきた。
光彰の瞳には、月光の下で見た時の陰など一つもなく、出会った時と同じように青い空を映している。
「貴女はどうしてここへ? 共に馬になるか?」
それとも馬に乗りたかったかな、と悪びれなく尋ねてくる光彰が滑稽で、私は思わず声を上げて笑ってしまっていた。久しぶりに大声で笑った気がする。
私がここへ来た事情を話すと、光彰は子供のように目を輝かせて同行を申し出た。理由を尋ねると、何だか楽しそうだという。
どうなっても知らぬぞ、と私が言っても聞かない。まるで王らしくない光彰を見て、なぜか私は心が明るくなるのを感じていた。
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