第十九話 鬼姫、失恋する。
「いいえ。私の要件は、こちらにいらっしゃる女房の大江 孝子 様に話があって参りました」
「タカコ……? あら、そんな名前の女房がいたかしら。ねぇ、あなた知っていて?」
敦姫は、傍に控えていた女房の一人に声を掛けた。
「……はい、確かに大江 孝子という名の女房がおります」
尋ねられた女房が、頭を低く伏せながら答えた。その表情は私から見えない。
「そう。では、その孝子とやらをここへ連れて来てあげてちょうだい。輝夜様が御用だそうよ」
屈託なく女房に告げる敦姫を見て、私は、なんとなく居心地の悪い気持ちになった。出されたお茶もお菓子も美味しく、あたたかな陽射しの入る藤香殿には、心安らぐ匂いに満ちているというのに、そのことが逆に切なく感じる。
「敦姫様…………こちらの御殿は、とても良い香りがしますね」
「あら、そう? 気付かなかったわ。ずっと
そう言って、敦姫が無邪気に笑う。
私は、それを聞いて胸が苦しくなった。今すぐにでも声を大にして伝えたい言葉があった。
でも、きっと敦姫に悪気はない。何せ、まだ十四歳なのだ。周りにいる大人が教えてあげなければ、きっと気付けない。そう思い直した私は、ぐっと唇を噛んで孝子が現れるのを待った。
しばらくして、女房に呼ばれた孝子が姿を見せた。床に平伏したまま声を掛ける。
「敦姫様、私に何か御用でしょうか」
その声が、どことなく嬉しそうに聞こえて、私は喉の詰まるような想いがした。
「いいえ、用があるのは私じゃないの。輝夜様があなたに御用だそうよ」
え、っと顔を上げた孝子の目が、私を見つけた。その黒い目の中に、戸惑いと僅かな怒りの色を見た気がして、胸が痛くなる。
「……これは輝夜様。私に御用とは……一体何でございましょうか?」
孝子は、いつも私に向ける笑みを浮かべて言った。口調は穏やかだが、突然の来訪に戸惑っているようにも受け取れる。
私は、単刀直入に聞くことにした。
「孝子、急に訪れてすまない。お主……あの香袋をまだ持っておるか」
「え……ああ、輝夜様とご一緒に作った香袋ですか。はい、今も持っておりますが……それが何か?」
それは、世界に一つしかない香袋だ。孝子だけが配合を知っている、唯一無二の練香が入れられている。
身体の弱い敦姫の慰めにと思って孝子が作った薫物でもある。今の藤香殿には、その孝子の想いがこもった香りで満たされている。
そして、昨晩殺された女の寝所でも同じ匂いがした。
「お主じゃな。昨晩、平 秀好と一緒にいた女官を殺したのは」
孝子が、何のことか解らないという風に首を横に振る。
「一体何の話でございましょう。私には、何のことだかさっぱり」
「知らないのも無理はない。
自分も一緒に行こうと言ってくれた貞晃には、私が一人で行くと言って断った。
孝子には世話になったし、私が直接行って、話を聞きたかったからだ。
それに、まだ少年とは言え、男である貞晃が居ては話せぬこともあるかもしれないと思った。
「このような場所ですまない。じゃが、このような場であるからこそ、言える話もあるのではないかと思うたのじゃ。女同士、心を割って話せたらと思うのじゃが……どうかその胸の内を、私に話してはくれないだろうか」
私は、ちらと敦姫の様子を伺いながら話した。敦姫にも聞いて欲しかったからなのだが、その本人は、青い顔をして茫然としている。
「……一体、何を打ち明けるというのでしょう」
そう答える孝子の声は、硬い。必死に冷静を装うとしているのが分かる。
「無理をするでない。何か心に秘めた辛い想いがあるのじゃろう。そうでなければ、生霊になってまで秀好の寝所へ現れる筈がない。本当は、お主も気付いておるのではないのか」
孝子は答えない。俯いて、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめている。
「私は、孝子の力になりたいのじゃ。孝子は、慣れぬ私に、優しく薫物を教えてくれた。まるで自身の妹のように、私の言葉を諫めてくれた。私は嬉しかったのじゃ。私は、そんな孝子のようになりたいと……」
かっと目を見開いて、孝子が私を見る。その目は充血して、真っ赤だ。震える身体から絞り出すように声を出す。
「人を馬鹿にするのも大概にしてくださいっ!」
私は驚いた。冷静で穏やかな気質だと思っていた孝子に、このような熱い一面があったとは思わなかったからだ。
「あなたが私のようになりたいですって? あなたは……あなたは……私にないものを全て持っているではありませぬかっ!」
「一体、何のことじゃ……?」
(孝子が抱えていた辛い想いとは、秀好のことだと思っていたのじゃが……)
「秀好様も……敦姫様も……潔子も……繁子も……皆、あなたに惹かれ、口にするのは、あなたのことばかり! あなたの名を聞かぬ日が、私には一日もありませぬ。いくら私が想いを込めて薫物をこさえても、私の名など誰も口にはしてくださらないのに……っ!」
もしかするともしかしなくとも、孝子の心を乱していたのは…………私だったのか――――っ?!
「ちょっ、ちょっと待て! 秀好は違うぞ、あやつは女なら誰もいいのじゃ!」
「いいえっ! 決してそのようなことはございませぬ。それならば、秀好様からの文が途絶えることも、私からの文に返歌すら頂けないなんて……そんなことがありましょうか」
孝子の目に涙が浮かぶ。同時に、私の心にも怒りが湧いた。
(なんと最低な男じゃ……秀好……あとでシバク!!)
「わかった。秀好のことは百歩譲ってもじゃ、敦姫……は論外として、潔子はお主になついておろう。姉妹なのじゃから。それに繁子も……繁子は~……」
(どちらかというと嫌われている気がしていたのだが……)
「……とにかく、私は孝子のことを見て知っている。まだ知り合って間もないかもしれぬが、姉のような友だと、憧れだと思っているのじゃ。誰も孝子の名を呼ばぬというなら、私が孝子の名を叫んで後宮中を回ってやろう!」
我ながらうまいことを言った、と思ったが、孝子は聞いていなかった。
目は血走り、身体が震え、口の端から涎を垂らしている。これではまるで……人間が絵巻に描く鬼のようではないか。
「あなたが……あなたが現れてから……私は…………」
孝子は、急に立ち上がると、私に向かって掴み掛かってきた。
咄嗟のことに、私も手が出る。孝子の両腕を掴んで押し返そうとしたが、孝子の勢いに負け、床に押し倒されてしまった。
敦姫の叫び声が聞こえた。
女房たちが騒ぎ、人を呼びに外へ出てゆくのが視界の端に見えた。
端から見れば、私の上に馬乗りになった孝子が、私を襲おうとしているように見えただろう。
孝子の爪が突然伸び、その鋭い先端が私の首元を狙う。
寸前で避けたものの、爪先が私の頬を掠り、血が流れるのがわかった。
「孝子っ、落ち着け! 正気を取り戻せ!」
しかし、孝子に私の声は届かない。
私は、掴んでいた孝子の手首をそのまま押し返そうとした。
だが、びくともしない。
(おかしい。人間の女の力ではない……これは……)
その時になってようやく私は、孝子の身体から立ち昇る邪気のようなものの存在に気付いた。それは、孝子の身体から流れ出て、黒い
孝子の額に血管が浮き出て、何か硬いものがそこから浮き出てくるのが見えた。
孝子は今、鬼になろうとしているのだ。
私は、人が鬼になることもあるのだと、その時初めて知った。
だが今はまだ、鬼ではない。人の心を取り戻せれば、きっと元の心穏やかな孝子に戻ってくれるはず。
私が本気を出せば、孝子を吹き飛ばすことは簡単だ。だがそれには、妖力を使わなくてはならない。こんな明るいうちに、人の目がある場所で妖力を使えば、私の正体がバレてしまうことになるだろう。
それに、孝子を傷つけてしまう可能性もある。
(ぐっ……私は孝子を傷つけたくない。どうすれば……)
その時、どたどたと駆け寄って来る足音が聞こえてきた。女房たちが衛士を呼んで来たのかもしれない。これでは益々、力を使うわけにはいかなくなる。
「何をしているっ!!」
その声は、光彰だった。
光彰は、私の上に
そして光彰は、自身の腰に下げていた刀を抜くと、迷うことなく孝子の背に向けて振り上げた。
「やめろーっ!!」
私の叫び声も虚しく、鮮血が
それはまるで赤い花びらのように見えた。やけにゆっくりと、重たい水の中を泳ぐかのように、空を舞っている。
そのまま私の身体の上へ倒れ込むかのように見えた孝子だったが、急に自分の頭を抱えて苦しみ始めた。
孝子の身体を覆っていた黒い靄が溶けて、何かが焼け焦げるような嫌な臭いが鼻につく。
私は、孝子の身体の下から抜け出すと、上体を起こした。
「孝子? ……孝子!」
苦しむ孝子を見ていられず、孝子にしがみつこうとする私の手を、横から伸びてきた光彰の手が奪った。
「離れろっ!!」
光彰は私を無理やりその場からどかすと、再び孝子に向かって刃を向けた。
止める暇もなかった。全ては、私が茫然と見ているうちに終わってしまった。
胸に光彰の刀を受けて、孝子がその場に倒れ込む。
私は、助けようと倒れた孝子に膝を寄せた。だが、既に息はない。
孝子の身体に触れた私の手が、真っ赤な血で染まっている。明らかにこれは、人間の血だ。人間の血の臭いだ。
「なぜ……なぜ、孝子を切ったのじゃ?!」
私は、刀を握ったまま立っている光彰に向かって怒鳴った。腹の底を流れる真っ赤な血が、ごうごうと音を立てて流れているのが分かる。この感情が怒りなのか悲しみなのか、私には理解できなかった。
「人に仇なすモノへと成ったものを、そのまま放っておくことはできない。それが俺の宿命でもある」
頬に飛び散った孝子の血を拭いもせず、光彰は言った。その眼光は鋭く、これまで見たことのない光彰の暗い一面を知った気がした。
「宿命? 宿命とは何だ? 孝子は……孝子は、お主と同じ人じゃぞ。鬼ではないっ! 鬼では……っ!」
人と鬼では、血の臭いが違う。だからこそ、孝子がまだ人であったと私にだけは分かる。でも、それを光彰に伝えることは出来ない。それに伝えたところで、もう孝子は戻ってこない。
私の頬を流れていくものがあった。
先程、孝子によって傷つけられた血は、とっくに塞がっている。では、この頬に流れるものは一体何なのか。
「鬼になりかけていた。だから切った。あのまま放っておけば、やがて魂を
光彰は、持っていた刀を顔を前へ持ってくると、眩しいものでも見るように目を
「この刀は、鬼を切るために存在する。貴女が探していた源頼光の持っていた刀だ。〝
「鬼斬丸……」
私の心臓がひりつく。
知っている。私は、その名を知っている。
物心つく頃から何度も何度も……父母から寝物語として聞かされて育ってきたのだ。知らない筈がない。
鬼斬丸。それは、源頼光の鬼退治に出てくる刀だ。鬼を切ることの出来る刀。
なぜそれを光彰が持っているのか。
(……ああ、どうして今頃になって気付くのじゃ……)
彼が自分の真名を口にした時に、何故その可能性について考えなかったのか。
わかっている。浮かれていたのだ。天宮へ来て、橘 輝夜という人間としての生を与えられ、別人に生まれ変わったような気がしていたのだ。
友と呼べる者たちと出会い、見目の好い男たちにも囲まれて、平穏な日々に慣れ、自惚れていた。
だから気付けなかった。
彼の名は、
つまり彼は……
「俺は、源頼光の血を継いでいる。鬼を切ることが、俺の宿命なのだ」
その言葉は、やけにはっきりと私の耳に届いた。
ぺたん、と床に座り込む。身体が痺れて動かない。なぜだろう。
「私も……もし、私が鬼になったら……同じように私を切るのか? ためらうことなく、私を切るのか?」
私の声は、自分でも驚くほど弱々しく、震えていた。
光彰は、刀を見据えたまま答える。
「……切る。いかに親しい者でも身内でも……もしも、貴女が人に害をなす鬼となれば。それが俺の宿命だ」
まるでその宿命が己の魂を削っているかのように、苦し気な声音で言い放つ。
どうして私は、この男と出逢ってしまったのだろう。
出逢わなければ良かったのだろうか。この男に出逢わなければ、こんな想いをすることはなかったのだ。
(でも、出逢ってしまった――――っ)
ただ今は、どうしようもなく胸が痛い。
私と光彰は、切り合う宿命に生まれていたのだ。
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