第十五話 鬼姫、恋文をもらう。(壱)

 黒くて丸い月のような練り香を指先で摘まみ、掲げて見た。

 これは、どこからどう見ても……


「なんじゃ、シカのふんみたいじゃな」


 すると、私の言葉にぎょっとした顔で大江 潔子きよこる。


「きゃ~! ちょっと輝夜やめてよ~! ……思ってたけどー、ちょっと思ってたけど言わなかったのにぃ~!」


 涙目になりながら叫ぶ潔子の顔は、笑っているのか泣いているのかよく分からない。最初は取っつきにくい印象を持っていたが、こうして話してみれば、よく笑いよく泣く、楽しい女子おなごだ。人の懐に入るのが上手いのは、三女らしい。


女子おなごがそのような言葉を口にしてはなりませぬ」


 それに引き換え、大江 孝子たかこは、落ち着いた様子で私の言葉をたしなめた。歌合の時にも思ったが、とても粛々とした大人の空気を感じさせる女人だ。さすが長女というところだろう。


「むーじゃがのぉ~……」


 私は、口を尖らせて、丸めた練り香を器へ放った。器に黒い丸薬のような練り香りが溜まってゆく。やはりシカの糞にしか見えない。


 今日は、孝子に薫物たきものの作り方について教えてもらいに、梅華殿ばいかでんへ来ていた。藤香殿とうこうでんの北側につづく殿舎だ。


 薫物とは、幾つかの香料を混ぜて蜂蜜で練ったものを丸薬の形にまとめ、小さな袋に詰める。これを着物の袂や胸元に忍ばせておくことで、いつでも好きな香りを身に纏うことが出来るのだ。


 そうは言っても、私は人よりも鼻がため、このように匂いのキツイものを身に纏うことはしたくない。


 だが、返歌の礼だからと潔子に誘われては、断ることが出来なかった。先日の歌合の時に約束をしてから、返歌をつくるのを手伝ったのだが……果たして本当にあの内容で良かったのだろうか。


(あの返歌の相手は、おそらく……)


 相手の名までは聞いていないが、私の頭の中に、大人の色香を漂わせたあの色男、蔵人頭くろうどのとうの容姿が浮かんでいる。一見、人の好さそうな顔をしてはいるものの、何人もの女を手玉に取り、挙句泣かせているのだと知り、私の印象は最悪だ。なぜ、あのような男が女に好かれるのだろう。


(光彰も……そうなのだろうか……)


 平 秀好たいら の ひでよしの見目とは違う、光彰の端麗な容姿を頭に浮かべてふと思う。秀好が池に泳ぐ鯉だとすれば、光彰は清流の中を泳ぐ鮎だ。きっと周りの女子たちが放ってはおかないだろう。そう考えて、何となく胸の内がもやもやとする。


「敦姫様は、とっても輝夜様のことをお気に召されたようで、先日の歌合ではお顔を尊顔できたと大層喜んでおられました」


 孝子が嬉しそうに言う。それを見て私は、背中がむずがゆいような気がして、居住まいを正した。


「……敦姫様とは、言葉すら交わしておらぬが……そうか、それは照れくさいのぅ」


 皇王すめらぎおうの后候補と言われる敦姫は、どうやら私を前にして、負けを認めたようだ。これこそ私には、力以外にも魅力があるという証明になるだろう。


「とても静かで控えめな御方なのです。憧れる方と言葉を交わすことは愚か、離れた場所からそっと見つめて楽しまれるような、そんな奥ゆかしい御気質で……良ければまた、お顔を出して頂けたらお喜びしますわ」


「敦姫様も、今日ここへ来られれば良かったわねぇ。今は、蘭芳殿らんほうでんにいらっしゃるのでしょう?」


 潔子の残念がる様子に、孝子が困ったように笑う。


「ええ。先日の歌合で藤香殿とうこうでんが落雷に遭いましたでしょう。ですから、今はきょを蘭芳殿へ移しているのです。今日は、体調が優れぬようでしたので、こちらに参加できず、残念がられておいででした」


 孝子が私にも解るよう説明してくれる。蘭芳殿は、この梅華殿の北側につづく殿舎だ。後宮の最北西に位置している。


「そうか、それは難儀じゃのう。孝子は、敦姫様の女房であろう。付き添っておらずとも良いのか?」


「敦姫様の女房は、私以外にもたくさんいらっしゃいますので……それに、この作った薫物を敦姫様の枕元へ置いて、少しでもお慰みになればと思いまして」


「そうか、ならばよいが……敦姫様に、早くよくなるよう伝えてくれ」


「ありがとうございます。敦姫様は、生まれつきお身体が弱く……ですからこそ、輝夜様の活発なご様子を目にして、とても感じ入っていらっしゃいました。輝夜様のようになりたい、といつも仰せで……」


 私は、自分の鼻がどんどん高くなってゆく気がした。


「そ、そのような身体で、皇王の后になど務まるものかのぉ~。やめておいた方が良いのではないかのぉ~」


 私は、孝子から目を逸らしながら言った。これならば、敦姫の身体を案じているふうにもとれ、自然を装いながら敵を蹴落とすことができよう。


 しかし、孝子の反応は、私が思っていたのとは違っていた。


入内じゅだいの御噂をお聞きになられたのですね。実は……ここだけのお話ですが……皇王様は、病をわずらっておいでなのです。次の王太子には和泉いずみ様を……とのお考えから、ご自身の御身内を皆、臣籍に降下させ、後宮に后すらお持ちではありません。今後、后を持つこともございませんでしょう」


「なっ、なんじゃとっ?! では、和泉が次の王になるのか?!」


 それが本当なら、私が皇王の后になることも難しくなってしまうではないか。


 和泉様は、私と鬼ごっこをして以来、ちょくちょく顔を出して遊べとせがんでくる。歳の離れた弟が出来たようで、私も嬉しく思っていた。さすがにそんな和泉様を相手にするのは忍びない。


 ところが孝子は、これにも首を振る。


「わかりません。関白様には、また別のお考えがあるようでして……まだ決まってはおりませぬ故、この話は、他言無用としてくださいませね」


 それに、と孝子は続ける。


「夫を持つことだけが女の幸せではありませぬ。藤原 倫子ふじわら の ともこ様も、私と一緒で夫を亡くしていらっしゃいますが、尚侍ないしのかみとして後宮で今も尚、輝いていらっしゃる。私も、倫子様のように凛とした強い女でありたいと、常々思うておるのです」


 そう言った孝子の姿は、私から見れば、既に凛として輝いているように見えた。


(夫を持つことだけが女の幸せではない……か。私にも、何かできることがあるじゃろうか。この後宮で……)


 そんなことを考えながら、練り香を小袋へ詰めていると、潔子がにやにやしながら顔を近づけてきた。


「ふふっ。それ、例のへ渡すのでしょう?」


「時月の君? ……なっ、あれは違う!」


 私が先日、歌合の時に詠んだ倭歌やまとうたのことを言われているのだと気付き、思わず声を荒げてしまった。


 今でもあの夜のことを思い出す度、胸が騒ぐ。それでも、あれが恋なのかどうかと聞かれても、正直なところまだよく分からない。


 光彰のことが気になる気持ちは認める。あの男を前にすると、何故か平常心ではいられなくなる。あれは、月の光だけが原因ではないのだろう、と思う。


 でも、このまま光彰の手を取ってしまえば、何か自分の中から大事なものが奪われてしまうような気もするのだ。それが何なのかは、まだ分からない。


「その香り……時月の君を想って、作ったのでしょう? 渡さなければ、もったいないわ」


 潔子に言われて、私は手にした香袋こうぶくろを見つめた。


 孝子から、好きな香りを混ぜて好きなように作って良いと言われたので、あの夜、光彰の腕の中で匂った香りを思い出しながら作ってみたのだ。あの匂いだけは、嫌いではない。


 光彰が纏っていた匂いと全く同じとは言えないものの、何度か作るうちに自分でも、近しいものを作ることが出来たと思っている。


(これを渡せば、光彰は喜んでくれるだろうか……?)


 光彰が喜ぶ姿を思い浮かべて、胸がぽっと熱くなる気がした。

 

 でも、渡すにしても、当の光彰の所在が分からない。吉綱に聞けば、分かるかもしれないが、あの男が素直に私からの贈り物を主へ渡すとは考えにくい。必ず皮肉を言われるに決まっている。


(あの夜に、せめて身分くらい聞いておけば良かったかの……)


 私は、孝子に礼を言って、潔子と梅華殿を後にした。藤香殿と後涼殿を通り過ぎ、温明殿へと向かう。

 そして、ちょうど蔵人所の殿舎を通り過ぎようとした時、見覚えのある顔が向こうから歩いて来るのが見えた。


 平 秀好たいら の ひでよしだ。


 潔子の返歌が頭に浮かび、慌てて前をゆく潔子の様子を伺った。

 しかし潔子は、つんと澄ました顔で秀好の傍を通り過ぎてゆく。


 内心はらはらしながら、私は潔子の後を追った。秀好の傍を通り過ぎようとした私の袖が、くんと引っ張られた。秀好だった。


「文は読んでもらえたかな?」


 何をする、と私が口にする前に、秀好が言った。


「……ああ、あの意味の解らぬ歌が書かれた文か。破いて捨てたわ。なぜあのような文を送って来たのじゃ」


 露骨に嫌悪感を露わにして答えたが、秀好は嬉しそうに微笑んだ。


「ほら。先日の歌合で、ずっと私に熱い視線を送ってくれていただろう?」


(熱い視線? ……いや、あれは睨んでいたのだが……まさか妙な誤解をしておるのか、こやつはっ)


「いやっ、あれは……」


 私が反論しようと口を開くも、秀好は、私の手を取り、顔を近づけて言う。


「あんなに熱のこもった視線をもらったのは、生まれて初めてだよ。文を送らずにはいられなかった」


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