第十三話 鬼姫、月下での逢瀬。

「息災であったか」


 桃男は、月光の下、柔らかな笑みを浮かべて言った。相変わらず端正な顔立ちをしている。月灯りが陰影を作っている所為か、その相貌は以前よりも増して魅惑的に見えた。


「な、なぜお主が後宮こんなところにいる?!」


 あまりに驚いた所為で、私の心臓がばくばくと音を立てている。


 以前、若い女官たちが、後宮へ通ってくる男がいると話していたのを思い出した。まさか、この男もそうなのだろうか。


「見舞いだ。床から起き上がることすら出来ないのでな。こちらから出向くしかないのだ」


 桃男が困ったように笑う。


 私を心配させまいとしているのだろう。よく見れば、その顔つきは少しやつれていて、これから女の寝所へ向かう途中という浮ついた空気は微塵も感じられない。


 私は、自分の思い違いに、身のすくむ思いがした。


 このような夜更けに見舞うということは、その相手はよほど切羽詰まった状態にあるのかもしれない。そこまで重篤な人がいる話を耳にしたことはないが、後宮は意外と広い。これまで幾つかの仕事を経験した私でも、まだまだ知らない人や情報で溢れている。


「そうか……それは難儀であったな」


(なんだ見舞いであったか……)


 私は、ほっと胸を撫でおろした。


 ……はて。なぜ私は、ほっとしているのだろうか。


「貴女は、どうしてこのような場所に? 女人にょにんが一人でうろつく時間ではないぞ」


 桃男が、からかうような視線を私に向けた。その瞳に月光が反射してキラキラと輝いて見え、首の後ろあたりがざわざわとする。


「わ、私は、ただ眠れなくて散歩しておったのじゃ」


 とっとっとっ、と心臓がいつもより少しだけ早く脈を打つ。


 この男の笑みは、危険だ。何故だか、私の心を落ち着かせなくする。


 桃男は、俺も似たようなものだ、と言って儚く笑った。


 そのまま二人並んで庭を歩く。桃男は、何も言わなかった。それでも彼の横顔は、どこはかとなく嬉しそうに見える。


 庭には、名も知らぬ木々や花が植えられ、月光により青白く照らされている。昼間とは違う印象を受ける光景に、まるで違う世界へ来てしまったかのようだ。


「……なぜ逃げたのかと、聞かぬのだな」


 私の方が沈黙に耐えきれなくなり、口を開いた。何も言わずに桃男の前から姿を消したのだ。吉綱のように文句の一つも言われて致し方ないと思うのに、この男はそれをしない。なぜだろうか。


 すると桃男は、意外そうに目を丸くして言う。


「聞いて欲しいのか?」


「いや…………助かる」


 私の胸の内に、もやもやとした影が落ちる。自分から蒸し返すのではなかったと、今更ながら後悔した。


「噂は色々と聞いている。なかなか後宮でものようではないか」


 おそらく吉綱あたりから聞いたのだろう。一体どんな話をしたのか……男の楽しそうな笑みを見る限りでは、あまり聞かない方がよさそうだ。


皇王すめらぎおうの妻になるためだからな」


 私は、精一杯の強がりを言ってみせた。


 おそらくそれでも、この男には、何でもお見通しなのだろう。吉綱から聞いているというだけではなく。桃男の堂々とした態度と、何でもわかっているぞという風な瞳が、私をそのような気にさせるのかもしれない。


 しかし、桃男はふいに私から視線を外し、足を止めた。その表情に陰が射す。


「そうか……」


 そう言って俯く桃男の横顔が、私の胸を締め付けた。私は、何かいらぬことを言ってしまったのだろうか。


「一つ、聞いてもいいか?」


 そう言って、桃男が顔をあげた。改めて聞くのだから、私が逃げた理由についてではないだろう。


「なんじゃ?」


 先ほどから私は、この男の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくが気になって仕方ない。なぜだろう。


「何故、そこまでして伴侶が欲しいのだ? 一人で寂しいからか?」


「何故って……」


 突然、桃男に問われる意図がわからず、私は戸惑う。


 寂しいから……?


 あまり深く考えたことはなかったが、そうなのだろうか。


「寂しいなら、俺のところへ来ればよい。このようなところで苦労をせずとも、そなた一人くらいなら養える」


 私は驚いた。一瞬、喉の奥が詰まる。


 天都では、妻の家に男が婿入りするのが常らしい。舶来で独り身だと話していた時にその言葉を聞いていれば、さぞ心強く、頼もしく聞こえただろう。


 だが今の私には、橘家という後ろ盾がある。それをこの桃男は、家令である吉綱から聞いて知っている筈だ。


 養うからうちへ来い、というのは一体どういう了見だろう。


「まぁ、俺は弱いがな」


 桃男がぽつりと呟く。どこか投げやりで、他人事のようにも感じられる声だった。


「弱い?」


 一瞬、何のことか解らず、思わず聞き返した。


 桃男が言葉を続ける。


「ああ。強い男が好きなのだろう。だから、俺では駄目なのか」


 そういえば、初めて会った時にそのようなことを口にした気がする。まさか気にしていたのだろうか。


「私は……」


 答えようと口を開いたが、言葉に詰まる。


(私は……なぜ、伴侶を探しているのだろう)


 思い返してみれば、生まれた時から両親に、強い男とちぎり、強い子を産めと言われて育ってきた。だから、男と一緒になることが当然の義務だと思っていた。


 だが、よくよく考えてみれば、そもそも強い子を産む目的は、源 頼光を倒すためだった筈だ。


 大倭国やまとのくにへ来て、源 頼光が既に死んでいると聞かされた時、私の目的は既に果たされていたのではないか。


 その時、はっと私の視界から霧が晴れていくような心持がした。


 気が付けば、自然と口から心の内を明かしていた。


「私には……婚約者がいたのだ。でも、私の親友と密通しておった」


 桃男は、だまって私の言葉に耳を傾けてくれている。


 なぜ私は、このような話をこの男にしているのだろう。


「私は……私を見る、男の目を見るのが恐い。そこに、私への愛がないと気付くから……」


 蒼牙の目。私を見る、あの怯えたような気まずいような目。


 わかっている。どれだけ表面上は取り繕っても、綺麗な言葉で私を褒め千切っても、幾度となく愛を囁かれても、あの私を見る目をひとたび見れば、気付いてしまう。


――ああ。この男は、本心から私を愛してくれてはいないのだ。


 その時ようやく私は、自分の本当の気持ちに気が付いた。


(……そうか。私は、ただ愛されたかったのじゃな……)


「その男は、貴女よりも強かったのか?」


 桃男の言葉は、私の胸の深い傷をえぐってゆく。


「……いや。あやつは、私よりもずっと、ずーっっとっ…………弱いっ!!」


 喉の奥が熱い。腹の底から絞り出した声が、言葉が、夜気に触れて、溶けてなくなってしまえばいい、そう強く思った。


 私は、いつの間にか結んだ両の拳に力を込めていた。爪が掌に食い込む痛みで、それに気付く。


 視界が歪む。夜だから、ではない。今晩は、月が明るいのだから。


「ならば、俺にもはあるな」


 にっと笑う桃男の顔は、ふざけているようにも本気で言っているようにも、どっちにも受け取れた。まるで腹の底が見えない男だ。すとんと肩の力が抜けていく。


「……お主は変わった男じゃの。男は、自分より弱い女子が好きなのであろう」


 すると桃男は、意外そうな顔をして、う~んと考え込んだ。まるで今初めてそのことを考えたでも言うかのように。


 やがて桃男が出した答えを、ぽつりと言う。


「……俺は、弱い女子おなごは好かん」


「えっ」


 どきん、と私の胸が高鳴る。


「俺の伴侶になる女は、強い女がいい」


「それは……なぜじゃ」


 期待はするな。どうせこの男も、口先だけに決まっている。蒼牙がそうであったように……。


「俺の母は、弱いから死んだ。強くなくては、この天都では生きてゆけない。だから、俺の伴侶になる女には、強くあってもらわねば俺が困るのだ」


 桃男の顔と口調には、確固たる決意の色があった。嘘偽りを言っているようには見えない。


「俺たちは、まだ知り合って間もない。貴女の欲する〝愛〟にはまだ足らないかもしれないが、俺は貴女のことを気に入っている」


 そう言った桃男の優しい目が、私の心を貫く。真実を言っているのだと分かる目だ。


 昼の明るい空の下で見た時には、青い空が映っていた。


 でも今は、桃男の瞳に満月が輝いているように見えた。


(強い……このような私でも、よいのだろうか……)


 ふつふつと身体中の血が沸き立つように駆け巡るのが分かる。腹の中でぐるぐると渦巻く熱の塊が、私に妙なことを口走らせてしまいそうだ。


 何故こうもこの男は、会う度に私の心をかき乱すのだろう。


(きっと、この満月の明かりの所為じゃな……)


 私は、誤魔化すように空を見上げた。雲一つない真っ暗な空に、太ったまん丸な月が私たちを見下ろしている。


「では、俺も一つ、白状しよう」


 桃男の思い切った声に、私は彼へ視線を戻した。


「とても大事に思う……世話になった人がいる。その人のために、ある決断をしなくてはいけない。でも、俺は自分が弱い人間だと知っている」


 だから迷っている、と桃男は言った。苦渋を迫られているように、その表情は暗い。


(自分のことを〝弱い〟と胸を張って言う男は、はじめてじゃ……)


 桃男が何を決断しなくてはいけなくて、何に迷っているのかは分からない。何故、自分のことを〝弱い〟と言うのかも。


 だから、今の私に言える言葉は、これしかない。


「お主は、一人ではなかろう。少なくとも吉綱や……私も、お主の味方じゃ」


 私の言葉に、男が意外そうな目で私を見つめる。


 丸くなった双眸がそっと細められ、柔らかな弧を描く。私の胸がきゅっと鳴った。


「……そうか。ありがとう」


 その時、突然桃男が私の方へ近付いて来た。

 何を、と思う間もなく、私の目の前に桃男の胸元が当てられる。そのまま力づくで、背後にあった殿舎の壁へ押し付けられた。


「な、何をするっ」

「しっ」


 桃男の肩越しに視線を辿ると、少し離れたところを衛士が歩いてくるのが見えた。夜の見回りをしているのだろう。


 このような夜半に、男女が密会をしていると思われても厄介だ。


 桃男もきっと同じことを思ったのだろう。だから、殿舎の陰に身を潜めるような真似をしたのだ。


(なんだ……私はてっきり……)


 少しだけがっかりしている自分に気付き、頬が熱くなる。これではまるで私が、何かを期待していたようではないか。


 私を抱く、桃男の身体からふわりと男の香りが漂う。少し甘酸っぱい桃のような、それでいて私に男を意識させる香りだ。くらくらする。


 先程から、私の心臓がうるさいほどに脈打っているのが分かる。こんな近くにいては、桃男に私の心臓の音が聞こえてしまうのではなかろうか。


(きっと月が明るい所為じゃ……)


 私は、自分自身へ言い聞かすように、そう何度も心の中で唱え続けた。


 それは、ほんの一刻にも満たない短い間だったに違いない。それでも私には、永い永い時間に思えた。


 衛士の姿が殿舎の向こう側へ消えていくのを見届けると、桃男はそっと私から身体を離した。


 夜気が私の火照った頬をさらりと撫でてゆく。心臓の音は、まだ静まらない。


「そういえば、まだ名乗っていなかったな」


 桃男は、今初めてそのことに気付いたかのように笑った。確かに、名などなくとも私たちは言葉を交わし、互いのことを知ることが出来た。


 それでもやはり、知りたいと思う気持ちは、ある。


「俺は、源 光彰みなもとのみつあきという」


(光彰……光彰……)


 私は、その名を忘れぬよう、胸に刻きこむように何度も心の中で呟いた。


「貴女の名を聞いてもよいか?」


「……吉綱から聞いているのではないのか」


「宮での名ではなく、真の名を聞いているのだ。橘 輝夜たちばな かぐやと名乗る前にあった名があるだろう」


 そんなことを聞いてどうするのか、とも思ったが、私は聞かないでおいた。


 もし、私が逆の立場で、彼に今とは別の真名まながあるのだとしたら、きっと私もそれを知りたいと思うからだ。


「…………紫焔しえんだ」


 光彰の瞳に、白い光が揺らめく。その形の好い唇が、私の名を紡ぐのをじっと見つめる。


「紫焔……よい名だ。覚えておこう」


 そう言って微笑む光彰の顔が、月の光に遮られ、陰をつくる。


 一瞬、時が止まったような気がした。

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