第十二話 鬼姫、礼節を知らしめる。
私は、
慣れない女官の仕事をする合間に、花智子のことを尋ねてはみるものの、みな首を傾げるのだ。はて、誰だったかしらと。
真千子と奈津美が、互いの顔を見合わせる。やはり二人の記憶にもないのだろうか。
「カチコ様って……聞いたことはあるような……誰だったかしら」
真千子が、うーんと小首を傾げる。
「鳳凰院の后の筈じゃ。記憶にないか?」
私の説明に、奈津美が何か思い当たるような表情で片眉を上げた。
「……あぁ、たしか鳳凰院様の
「女御の一人? 鳳凰院の后ではないのか?」
私は驚いた。女御とは、王の后候補のような立ち位置で、正確には后ではない。女御は幾人もいるが、王の后は一人だけだ。
花智子がその他大勢いる女御のうちの一人であるならば、後宮で噂を聞かないのも納得だ。
「いいえ。鳳凰院様に正式な御后様はいらっしゃらない筈よ。在位の期間も短かったもの」
そう言われてみれば、清澄からはっきり〝后〟だとは聞いていない気がする。花智子が鳳凰院の后だと思っていたのは、どうやら私の早とちりだったらしい。難しい言葉がありすぎて、頭が追いつかない。
「鳳王から寵愛を受けていたと聞いたのじゃが……」
「あ~……
奈津美が小馬鹿にするように鼻で笑う。何か男に恨みでもあるのだろうか。
(まぁ、私も身に覚えがないわけではないが……)
嫌な記憶を思い出しそうになり、慌てて頭から締め出す。今は、花智子の情報を一つでも多く手に入れたい。
「後宮で亡くなったと聞いたのじゃが……その理由について何か知らぬか?」
私の言葉に、奈津美が目を丸くして答える。
「あら、お亡くなりになってらしたの。さぁ……私は分からないけど……どうして、あなたがそんなことを聞くの?」
「私の兄が、花智子様と親しくしておったのじゃ。それで気になってな」
奈津美は、うーんと考えるような仕草をした後で、その形の良い唇を開いた。女の私が見ても、どきりとしてしまう。
「それなら、私の
さらりと言いのける奈津美の言葉に、私は雷を受けたような衝撃を受けた。
「な、なんじゃと……奈津美、お主……婿がおるのかっ!」
「当たり前じゃない!
真千子が、横でがっくりと肩を落とす。年齢は、私と同じ十八歳だ。確か真千子の父親は、従八位下だと聞いている。
(奈津美は、十九歳だと言っていたな)
貴族の娘に限って言えば、早くて十四歳で婿をとることもあると聞くので、確かに婿がいてもおかしくはない
心底不思議そうに見てくる奈津美に、私は胸を張ってみせる。
「私は、大物を狙っておるのじゃ」
「大物って何よ。まさか和泉様を狙っているの? 藤原家が許す筈ないわ。無理よ、諦めなさい」
私は年の差を気にするような女ではないが、十にも満たない子供を狙うほど飢えてはいない……はずだ。全くの見当違いなので、諦めるも何もない。ただ、奈津美のあっさり決めつけるような言い方は気に入らない。
「何故、藤原家が許さないのじゃ?」
あなた本当に何も知らないのね、と奈津美が憐れむような目で私を見る。
気分はよくないものの、その通りなのだから返す言葉もない。
「鳳凰院様と和泉様の母君――
今の天宮は、
「関白?」
「太政大臣よ」
そんなことも知らないのか、と奈津美が鼻を鳴らす。それきり、もう寝るわと言って伏してしまった。
真千子もそれに習い、朝が早いからと横になる。
二人が眠ってしまったので、それ以上花智子の話は聞けなかった。
乳兄弟を殺したかもしれない鳳凰院。気が触れてしまったという話は本当だろうか。
(〝鬼〟が取り憑いた……か。花智子が怯えていたのは、まさか鳳凰様のことなのじゃろうか?)
もしそうならば、花智子を殺したのも鳳凰院ということも考えられる。
だが、今の段階ではまだ憶測でしかない。もっと情報が必要だ。
とりあえず今日はもう暗いので、明日、今わかっている内容を文にしたためて、清澄へ送ろう。……私の仕事ぶりについては、誤魔化して。
*❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*
翌日、私は、仕事を終えると
用意して来た文を文箱へ入れ、帳簿へ記帳をした。そこには、これまで後宮から出入りした文の記録が全て記録されている。
(そうじゃ、花智子も清澄に文を書いていた。もしかすると、他にも文のやりとりをしていた者がおるかもしれんな。調べてみるか)
私は、忙しそうに文を仕分けしている女官の一人に目を留めた。ここで働いていた時に見た顔だ。
「すまぬが、今まで書かれた記帳を見せて欲しいのじゃ。少しだけ借りていってもよいかの?」
その顔見知りの女官は、私の声に顔を上げると、きっと目尻を吊り上げて口をへの字にして言った。
「駄目に決まっているでしょ! あんたなんかに貸し出したら、大事な記帳が台無しにされて戻ってくるに違いないんだからっ! 用が済んだなら、さっさと出ていきなさいよっ!!」
弁解しようと口を開いたが、後ろから文を持った男が現れて、女官の意識がそちらへ向く。見ると、私の後ろに文待ちの長い行列が出来ていた。
忙しいことも相まって虫の居所が悪いのかもしれない。そう思うことにした私は、また日を改めることにした。
文司のある
はっと顔を上げて周囲を見渡すが、それらしき人物は見当たらない。
声は、史書殿の北西辺りから聞こえてきたようだった。
妙に切羽詰まったその声が気になり、私は、声のする方へ足を向けた。
史書殿の北側には、皇王の暮らす清涼殿がある。清涼殿の西側には、王に仕える女房たちが暮らす後涼殿と繋がっていて、声は、その先から聞こえてくる。
私は、後涼殿の西側――陰明門のある前を通って、更に北へ向かった。
門の前には、平時であれば二人の衛士が立っているのに、今は一人しかいない。何かあったのだろうか。
後涼殿の北側には、
その渡殿の前で、黒い官服を着た男が、地面に這いつくばっている従僕らしき男を足蹴にしていた。
「申し訳ありません申し訳ありません……どうかお慈悲をっ!」
「ええい、主よりも先に
手水というのは、手や顔を洗うために使う水のことだ。
従僕の傍には、水瓶が転がり、零れた水が地面の砂を泥に変えていた。
地面に頭をこすりつけている従僕の顔は、泥にまみれ、助けを求めて歪んでいる。
それでも主である男は、従僕の頭や背中を殴る蹴るの暴行を加え続けた。
(なんということを……なぜ誰も止めないのじゃ)
男の隣には、弓を持って突っ立ってる衛士の姿があった。だが、立っているだけで、男の暴挙を止めようとはしない。ただ黙って見ているだけだ。その表情には、従僕に対する哀れみと蔑むような感情が見てとれた。
渡殿の端から、女房たちが青い顔をして覗いているのが見えた。どうやら先程聞こえた叫び声は、女房たちの叫び声だったらしい。
(どいつもこいつも……これでは弱い者いじめではないかっ)
私の腹から沸々と怒りの感情が沸き上がる。思わず私は、男に向かって叫んでいた。
「何をしておるっ?! やめんかっ!」
官服を着た男が私に気付き、動きを止めた。傍にいた他の者たちが一斉に私を見るのがわかった。それでも、私の怒りは収まらない。
「……なんだ、お前は。我が
「そんなものは知らん。だが、道理ならわかる。その者は、謝っておるではないか。そこまでする必要はないであろう」
すると、藤原 兼時と名乗った男が、私を
「上に立つ者は、下の者へ礼儀を教える義務があるのだ」
「そんなものが礼儀なものかっ」
「お前のような下女には関係ない!」
真っ赤な顔で唾を散らす兼時に、私は泰然と笑ってやった。
「関係なら、ある。強き者には、弱き者を守る義務があるのじゃ。そのことをお主に教えてやるのが礼儀というものであろう」
すると、兼時が従僕から足を降ろした。
話が通じたのかと思いきや、兼時は、横にいた衛士が持つ弓と矢を奪い、なんと私に向けて弓を構えるではないか。
女房たちの甲高い叫び声が聞こえる。
さすがに衛士も青い顔をして、兼時を止めようと声をかける。
「兼時様っ、天宮を血で穢してはなりませぬっ。ここは、天子様の宮ですぞ!」
しかし、兼時は聞き耳を持たず、不敵に笑むと、私に向けて矢を射った。
私は瞬時に袖を
突風が辺りに吹き荒れ、私に向かって射られた筈の矢は突然向きを変え、今度は兼時に向かって飛んでゆく。
「きゃ~~~~!!」
「ぎゃあああ~~~!!!」
女房たちと兼時の叫び声が同時に響く。
矢は、兼時の烏帽子に刺さって動きを止めた。それを見た兼時は、腰を抜かして地べたに座り込んでしまう。
辺りがしんと静まり返る中、私は、自分がやってはいけない過ちを犯してしまったことに、ようやく気が付いた。
(しまった~っ! このように目立ってしまっては、私の正体がばれてしまうではないか~……っ!!)
しばしの沈黙。
そして、女房たちのうちの誰かが叫んだ。
「す、すごいわぁ! なんて凛々しく勇ましい御方なのかしら……素敵……!」
「…………は?」
女房たちが皆、私に羨望の眼差しを向けている。
「兼時さまに道理を説くお姿……心から感動致しましたっ!」
「偶然の突風に助けられましたねっ!」
どうやら私が妖力を使って風を起こしたことは、バレていないようだ。
思わず脱力してしまう。
「はは……偶然……そうじゃな……ほんまに助かったわ……」
私は、自分でも顔が引きつっているのが分かった。
その時、ふと誰かに見られているような気配を感じて、はっと周囲に目を配った。
私の背後には、いつの間にか集まった野次馬たちで埋め尽くされていた。中には、このようなことをしてただで済むわけがない、と皮肉る声も聞こえたが、その他大勢の拍手喝采によってかき消されてしまった。
皆、兼時の横暴に手も足も出せず、思うところがあったのだろう。
(天宮とは、ほんに……なんと難儀なところであろうか……)
*❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*
その夜、なかなか寝付けなかった私は、庭を散歩することにした。
空には、煌々と輝く満月が浮かび、私の身体に流れる鬼の血を騒がすのだ。
(鬼雅島にいた時は、こんなに綺麗な月を見ることなんてなかった……何故こうも胸がざわめくのじゃろうか)
まるで熱を帯びたように身体が火照って熱い。だからと言って、身体が不調を訴えているわけでもない。ただ、どうしようもない胸のざわめきが消えてくれないのだ。
あてどなく歩いていくと、暗がりの中、誰かがこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。それも男だ。弓を持っていないところから見て、衛士ではない。
(……ん? このような夜更けに、後宮を歩き回っているのは、どこの馬の骨じゃ)
日中の後宮では、官吏である男たちの姿を見ることはあっても、夜に出入りする男は、王族と衛士しかいない筈だ。
まさか後宮の女の元へ通っている男だろうか。そうだとしたら、とっ捕まえて衛士に突き出してやろう、と私は腕をまくった。
……が、その男の顔を見て私は驚いた。見覚えのある顔だったからだ。
「も、もももも桃…………っ!」
「なんだ、久しいな」
そう言って、にかっと屈託なく笑みを見せたのは、いつぞや私に桃をくれたあの男だった。
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