第九話 鬼姫、陰陽師に正体を見破られる?!
幽霊とは、死んだ者の魂が、この世に未練を残して現れる。そう老鬼たちが教えてくれた。
人の世では、それを〝
(それにしても人騒がせな。これで吉綱も、私には関係ないと分かって……)
……くれると期待して見つけた吉綱は、腰を抜かして地面に座り込んでいた。
幽鬼に立ち向かった男気は褒めてやってもいいが、やはり吉綱は吉綱か、と私は内心がっかりした。ただ刀を手放さないところだけは、武士らしい。
仕方ない、と私はため息をつく。
こいつをどうにかしなければ、帰してもらえなさそうだ。
女の幽鬼は、先程からじっと身動きせずに立っている。周りが見えていないのだろうか。
私は、ゆっくり歩いて女に近づいた。
顔がハッキリと見える距離まで近づいても、女はこちらを見向きもしない。
私も幽鬼を見るのは初めてだが、不思議と恐い感じはしなかった。
女は、血の気のない青白い顔をしてはいるが、黒いつぶらな瞳に可愛らしい顔つきをしている。生きていれば、さぞ男からモテただろう。
じっと
「お主、この世に何か未練があるのか?」
私が話し掛けると、女は何かに気付いたように顔を上げた。
しかし、その目は私を見ていない。黒い瞳が闇を見つめて震えている。
恐怖だ。何故か私は、その女から不安や恐れ、畏怖に似た感情を受け取った。
女の瞳が、必死に何かを訴えようとしているのが分かる。
(何かに怯えている……何に?)
女がすっと腕を上げた。白くて細い指が、真っすぐどこかを指し示す。
私は、女の指先を目で追った。そこには、暗がりの中、青白い顔でこちらを見ている清澄が立っていた。
「…………兄様?」
その時だった。
突然、闇を洗い清めるかのごとく清涼な男の声が響いて聞こえた。
「…………阿毘羅吽欠蘇婆訶、悪霊退散っ!」
謎の呪文と共に、女の幽鬼は白い光に包まれた。光は弾けて、散り散りになる。
その瞬間、私の耳に〝タスケテ〟という女のか細い声が聞こえた。胸の内に、熱い何かが流れ込んでくるのを感じる。でも、私にはどうすることもできない。
やがて光が消え、辺りに再び闇が戻ってくると、そこに女の姿はどこにも見えなくなっていた。跡形もなく消えたのだ。
突然のことに茫然としていた私の前に、闇の中から一人の男が姿を現した。
風が吹き、雲が晴れる。
隠れていた月明かりが、男の姿を照らし出す。
それは、黒い官服を身に纏った、まだ少年のあどけなさを持つ男のようだった。
先程の呪文は、この男が唱えたのだろうか。
「だれじゃ、お前は?!」
「人に名を尋ねる前に、己が名乗ってはどうか。人ならざる者よ」
「何のことじゃ」
私が答えると、謎の男はふっと口角をあげた。三日月の薄い光が、男の顔を青白く照らす。それは、まるでこの世の者ではないように見えた。
「
地面に腰をつけたまま、吉綱がつぶやいた。
その声に、私の身体から緊張が解けてゆくのが分かる。
陰陽寮…………どこかでその名を耳にした気がする。
「この程度の悪霊に腰を抜かすとは、やはり武官になど任せておれぬな」
男の冷たい視線が、地面に座ったままの吉綱に向けられた。
突然現れて、この男は一体何を言っているのだろう。
「…………すまぬ、助かった。礼を言う」
侮蔑されたにも関わらず、吉綱が礼を言って立ち上がる。
吉綱の、こういう潔いところは好ましい。
だが私は、吉綱の幽鬼へ立ち向かう姿を見ていた分、男の侮蔑に腹が立った。
(そうだ、兄様は……?)
私は、清澄のことが心配になり、先ほど彼が立っていた場所に目をやった。
清澄は、先ほどと変わらず、そこに突っ立ったままでいる。
ほっとしたのも束の間、清澄の様子がおかしいことに気付く。顔色が真っ青で、震えている。今にも倒れてしまいそうだ。
私は、慌てて清澄の傍へ駆け寄ると、彼の腕を支えた。
「ひとまず家へ帰りましょう、兄様。
……よいな、吉綱。私は、どこへも逃げはせぬ。用があるならば、いつでも橘家の屋敷を訪ねてくるがよい」
吉綱は、ただ一言「わかった」とだけ呟いた。
*❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*
昨日よりも少しだけ膨らんだ三日月が、庭木を優しく照らしている。
この橘家へ来た日に私が目にした赤い花びらは、
木肌がつるつるとして、木登りが得意な猿ですら滑ってしまうことから名付けられたらしい。
細くてしなやかに曲がった幹には、光沢があり、艶めかしい女の裸体のようにも見える。
百日紅の花言葉は、「饒舌」、「雄弁」、そして、「あなたを信じて待つ」。
喜久子は、百日紅の花言葉にまつわる話についても私に語ってくれた。
私がその時の話を思い出していると、風に乗って笛の音が耳に届いた。聞いたことのない曲だ。
(誰が吹いているのじゃろう……)
笛の音は、優しく宵闇に溶けて、悲しみの余韻を私の胸に残してゆく。
私は、音の聞こえてくる方へ歩いて行った。
笛の音は、清澄の部屋から聞こえてくるようだった。
庭伝いに歩いて行くと、
私は、しばらく庭に立ったまま、笛の音に耳をかたむけた。
高く緩やかな楽の調べは、聞いたことのない音なのに何故か懐かしい。
清澄の優しさと切なさが音に乗って伝わってくるような気がした。
しばらくして、私に気付いた清澄が笛から顔を上げた。驚いたように私を見つめる。
「…………輝夜……いつからいたんだい」
だが次の瞬間には、いつもの優しい清澄の笑みがあった。
私は、清澄に言われるまま、彼の隣に腰を下ろした。
そして、昨晩聞けずにいたことを聞くべきだろうかと思いつつも、無理に聞き出して、優しい清澄のことを傷つけたくはないと考えていた。
そんな私の心を見透かしたように、清澄が言う。
「気になっているのだろう。昨夜見た……あの幽鬼のことを」
「今日、吉綱がここへ来て教えてくれた。あの幽鬼は、先の王であった鳳凰院の后だそうだな。最近、亡くなったと……」
なぜ私に教えてくれるのか、と聞いた私に吉綱は、少し決まりが悪そうな顔をして答えた。
『巻き込んでしまったからな。お前には、知る権利があると思ったからだ』
鳳凰院の后は、名を
門兵から禁色の話を聞いて吉綱が考え込んでいたのは、そのことに思い当たったからのようだ。
しかし、吉綱も噂に聞いていただけで彼女の顔を見たことはなかったため、確信が持てなかった。後で、陰陽寮からその事実を知らされたのだという。
吉綱にも分からないことがある。なぜ花智子の幽鬼が建春門に出るようになったのかということと、清澄に何の関係があるのか、ということだ。
花智子がなぜ清澄を指さしていたのか、吉綱は清澄に話を聞きたがっていた。
それに対して私は、他の誰かと見間違えたのではないか、と返した。
あの時、門前に灯してあった篝火は消えていた。月も雲に隠れて、辺りは闇に閉ざされていたのだ。
鬼である私の目には、はっきりと見えていたが、人は夜目に疎い。
幽鬼ですら、己に振りかざされた刀に反応すら見せず、傍に転がっていた吉綱の姿も見えていない様子だったのに、通りを挟んだ向こう側にいた清澄の
私がそう言うと、吉綱は渋い顔をしながら帰って行った。
『何かわかったら教えてくれ』とだけ言い残して――――。
清澄の様子もおかしかった。
帰る牛車の中でも無口で、今の今までそのことに触れようとはしなかった。だから私も敢えて聞くことはしなかったのだ。
だが今の清澄は、昨晩と違って落ち着いているように見える。彼の中で何か気持ちに変化があったのだろうか。
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