第四話 鬼姫、桃の君と出逢う。

「鬼? 鬼って……あの昔話に出てくる鬼のことかい?

 何だって、そんなものを探しているんだ?」

「どうやらそれが、見たもんがいるらしい」

「そんなばかなっ。何かの見間違えだろう」


 村人たちの会話を聞いた私は、はっとした。鬼というのは、私のことではないだろうか。

 先ほどの武士男が逃げて行った方角もこちらの方だった。あの男が、私のことを伝えたのかもしれない。


(そういえば、かかさまが人間に鬼とバレてはいかぬと言っておったな。あれは、こういうことじゃったのか。

 べつに鬼であることがバレたところで、返り討ちにしてやろうと思うておったが……大倭国に行けなくなるのは困る)


 私は、気付かれないようにそっと列から離れて、道から逸れた木立の中へ身を紛れ込ませた。そのまま林の中を進み、村を避けていけばいい、そう考えていた。

 ところが、いくらも歩かないうちに、私の鼻腔を何か甘い香りがくすぐり、思わず足を止めた。


(なんじゃ……この匂いは……かいだことのない匂いじゃ)


 きゅう、と腹が鳴る。空腹だった。先程、追い剥ぎたちに向かって妖力を使った所為だろう。

 私の足は、自然と匂いにつられて進んで行く。

 しばらく進むと林が途切れ、樹木が均等に植えられた場所に出た。樹木には、丸い実が幾つもっている。

 どうやら匂いの元は、この実から漂っていたようだ。


 ごくり、と唾を飲み込む。


 見たことも食べたこともない実なのに、甘くてかぐわしい匂いが私をいざなう。

 そして私は、引き寄せられるままに、その実へ手を伸ばした。


「おい、こら泥棒っ! その実が誰のものか知っているのか?」


 空から低い男の声が降ってきた。私は驚いて、伸ばした手を引っ込める。

 周囲を伺うが、誰もいない。


「ここだ、ここ。今、そちらへ降りる」


 〝降りる〟という言葉に私が顔を上げた瞬間、目の前に男が降って来た。

 いや、樹の上から飛び降りたと言ったほうが正しいだろう。男は、私がここへ来るよりも前から、この樹の上にいたようだ。


「なんだ、やけに美人な泥棒だな。悪いが、ここは、吉備きびの領主さまが大事に育てている果樹園なのだ。勝手に実をとっていかれちゃ困る」


 赤銅色の長髪を後ろで一つに結び、天色の直垂を着た男が立っていた。すらりとした長身に、精巧な顔立ち。

 男と視線が重なった時、私の胸は、ひと際大きく跳ね上がった。男の瞳に、見たことのない鮮やかな青い空を見たからだ。


(なんと美しい男じゃろうか……こんな男を見たのは生まれて初めてじゃ)


 私は、しばし男に魅入みいった。そのため、油断していたのだろう。


 ぐりゅるるる……


 その場に、盛大な腹の音が鳴り響いた。

 咄嗟に自分の腹をおさえるが、男の視線は、私の腹部に向けられる。


「なんだ、腹が減っていたのか」


 ぷっ、と男が笑う。

 空腹から人の実を盗もうとした、卑しい女だと思われてしまったようだ。

 私は、顔が熱くなるのを感じた。まさか人が世話しているものだとは知らなかったとはいえ、情けない。私は、恥ずかしさを誤魔化すため、男に言い返した。


「……お、お前はよいのか。大事な樹なのだろう。登って、枝が折れてしまったらどうするつもりじゃ」


 男は、まるで今そのことに気付いたかのように、自分が登っていた樹と私を見比べて、目をしばたたかせた。

 次に、眉をしかめて困った顔をつくると、傍に生えていた樹の枝へ手を伸ばす。そこに生っていた実を二つ掴み取り、その一方を私に向かって投げた。

 空中で弧を描く丸い実が、私の手の中へすっぽりと納まるのを見て、男は、にやっと笑う。


「……これで、共犯だ」


 そう言って男が、手にした実をひとくちかじった。口の端から滴る透明な果実の汁を、手の甲で拭い、口で吸う。その仕草が、男であるのにとても色っぽく、私は、ぼーっと彼に見惚れた。

 耳の奥で、どくどくと脈動の早まる音がする。

 私は無性に、今目の前にいる男の名が知りたくなった。


「……名は……名は、なんという?」


 私の問いに、男は、なぜだか妙な顔つきで眉をしかめる。


「……ん? 〝桃〟だ。なんだ知らんのか」


「桃……」


 私は、そのつぶやきながら、手にした実を一口齧った。白っぽい皮に、ほんのり薄紅色がかった部分は、まるで恋を知ったばかりで恥じらう乙女のようだ。

 が、その実は、とても甘く、少しだけ渋かった。


「……まだ渋いな。もっと改良して、甘い実をつくらなければ、これじゃ売れん」


 男は、手にした齧りかけの実を見て、渋い顔をする。


「お前が作っておるのか、この実を」


「ん? ……あー……いや、作ってはいないな。ただ見ているだけだ」


「なんじゃそれは。では、そのような物言いは、作った者に対して失礼じゃろう。 作物を育てることの大変さは、とんでもない努力と犠牲の上に成り立っておるのじゃ。まして、このように甘い実を作るまでには、さぞ苦労がいったであろう。感謝して食わねば」


 私は、手の中にある実を大事そうに両手で抱えながら見つめた。このように甘い果実を食べたのは、生まれて初めてだ。


 周りを荒れ海に囲まれ、一年のほとんどが分厚い暗雲に覆われている鬼雅島では、ろくな農作物が育たない。いかに作物を育てることが出来るか、皆が知恵と苦労を重ねていたのを、幼いころから端で見て知っている。僅かな食料を巡って争うことも少なくなかった。


(まぁ、私は一等強かったから、食い物には困らなかったがな)


 ふと視線を感じて顔をあげれば、男が、ぽかんとした表情で私を見ている。


「……なんじゃ、私の顔に何かついておるか?」


「いや……そのようなことを言う女子おなごに初めて会ったので驚いている」


「それは……恵まれておるの」


「……そうだな。感謝して食わんとな」


 そう言って男は、愛おしそうな顔で、手に残っていた実を口に頬張った。


 私も、ありがたく実をいただくことにする。

 一口齧る度、口の中に瑞々しい甘みが広がり、頬が落ちてしまいそうだ。

 思わず夢中で実を齧っていると、ふいに視界が暗くなった。


「……こぼれているぞ」


 男の低い声が、すぐ耳元でした。


 顔を上げたすぐ先に、空色の瞳がある。

 男は、私のあごから口端までを自身の指先でなぞった。

 それが、私の零した果実の汁をぬぐったのだということに、寸刻おいて気付く。


 男がぺろり、と濡れた自身の指を舐めた。

 その仕草が妙になまめかしく、私は、耳まで熱くなる。


「なっなっなっ……」


 私の鼓動が、ばくばくと激しく高鳴る。

 男は、そんな私の動揺を楽しむかのように、ふっと笑みを零した。 


「……赤いな」


 頬が熱い。

 私の心臓は、おかしくなってしまったのだろうか。


 しかし私は、ふと男の言葉に違和感を覚えた。


「……っ?! ……こ、この実のことかっ。〝桃〟というのは……」


 男が眉をひそめる。


「そうだが……何の名前だと思ったんだ?」


 私は、自分が大きな誤解をしていたことに気付き、顔を伏せた。

 ところが、男の手に、顎をくいと持ち上げられる。


「変わった瞳の色だな。……美しい。まるで螺鈿らでん……いや、紫水晶のようだ」


 私は、じっと瞳を見つめられて動けなくなった。

 男の空色の瞳に囚われてしまったかのようだ。


「どこから来た?」


 男は、詰問きつもんするふうではなく、ただの好奇心から聞いているとわかる柔らかな声音で尋ねた。

 それに私は、顎を掴む男の手を払ってから答える。


「……海の向こうから」


「舶来の者か」


 詳しい場所を教えるわけにはいかない。

 更に追及されるかと思ったが、男は、それで納得したらしい。


「何か目的があってこの地へ?」


大倭国やまとのくにを目指している。……そうじゃ、大倭国へは、どの方角へ行けばよいか、お主は知っておるか?」


 私の質問に、男は、目を丸くして答える。


「これは驚いたな。貴女あなたは一体、ご自分が今どこに立っておられるのか、御存知ないようだ」


 男が、おかしそうに笑う。

 でも、不思議と馬鹿にされた感じはしない。

 男の笑みには、気品と優しさがあった。


「それは、どういう意味じゃ?」


 わけがわからず私が再び訊ねると、男は、悪戯っぽい笑みをたたえて答えてくれる。


「貴女は今、立っているのですよ。その大倭国に」


 私は、男が冗談を言っているのかと思った。物を知らぬ私をからかっているのかと。

 なぜなら、私が想像していた大倭国とは、かけ離れていたからだ。


「ここが、大倭国……?

 大倭国は、もっと大きな国かと思っていたのじゃが……」


 私が訝しみながら確かめると、男は、快活そうに声をあげて笑った。


「はははっ……なるほど確かに。大倭国のは、ここよりもっと広大で、美しい建物が多く建造されている。

 だが、この小さな村も、果樹園も、大倭国の一部なんだ」


「大倭国の一部……」


 男の答えは、私の想像を遥かに超えたものだった。

 私は、言葉を失った。大倭国の広大さに。鬼雅島という小さな島で生まれ育った私には、それが一体どれほどの広さなのか、まるで想像がつかない。


「都へ向かっているのか? ひとりで?」


「ああ、そうじゃ」


「理由を伺っても? ……ああ、妙な誤解はしないでくれ。

 ただ、個人的な興味本位で聞いているだけだ」


 男は、人の良さそうな笑みを浮かべて、両の掌を上げてこちらへ見せる。敵意がないことを伝えたいのだろう。


「よき伴侶を探しておるのじゃ。私よりも強き男を」


 私は真面目に答えたのに、なぜか男は、おかしそうに笑う。


「貴女よりも強い? それではまるで、貴女が強いと言っているようだな」


「そうじゃ私は……あ、いや……強い男が好きなのじゃ」


 思わず〝私は強い〟といつものように言ってしまうところだった。先ほど私を見て逃げて行った武士男の背中が頭に浮かぶ。ここは不本意だが、か弱き女を演じていた方がよいのだろう。


 私がふと逸らした視線の先に、男の腰に差さった刀があった。


「お主……武士か。では、源頼光という男を知らぬか。この大倭国一強い男よ」


 源頼光という男は、鬼を退治して、この大倭国を平安に導いた伝説の男とされている……と、島で聞いて育った。もちろん、私たちの立場からすれば、憎いかたきではある。

 ここが大倭国であるならば、きっとこの男も知っているに違いない、そう思った。


 男は、眉をひそめながら笑って言う。


「その男を知らない者など、この国にいるものか」


「どこにいる? どこへ行けば、その男に会えるのだ?」

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