第二話 鬼姫、海を渡る。

 母は、幾つかの廊下を抜けて、桜宮の一角にある自室へと入って行った。

 私も後からついて中へ入る。


「その髪では目立つ。黒く染めていきなさい。

 ……本来であれば、鬼の妖力を使って風貌などいかようにも変えられるものじゃが……今からその術を教える時間はなかろう」


「では、その術を習得してから出立いたします」


「それはならぬ! 今すぐ出て行ってもらわねばならぬのじゃ!

 ……いや、習得するには何年かかるか分からぬからなぁ。変化の術というのはそれほど高等な技術なのじゃ。妖力も食う。

 それに伴侶を探すのであれば、出立は早い方がよい。決して、そなたに早うここを出て行って欲しいと思って言っているわけではないぞっ」


「……わかっております」


 私は、内心では嘆息しながら、母の言葉に合わせておいた。


 母は、引き出しから何かの麻袋を取り出して一度部屋を出ると、髪染めの支度を整えてから戻って来た。


 それを見た私は、ふと疑問に思ったことを口に出して尋ねてみる。


「かかさまは、変化の術を習得されておりますのに、なぜそのような物をお持ちなのですか」

「……大人には、聞いてはならぬ事情というものがあるのじゃ。やたら滅多に何でも聞くでない」

「失礼しました」


 私は、母に促され、鏡台の前に腰を下ろした。昔、舶来の船から奪ったというこの鏡台を、母はいたく気に入って大事にしている。幼い頃、私が母を真似てこの鏡台を使おうとして、こっぴどく叱られたものだ。


 つややかに磨かれた鏡には、白金色の髪と紫水晶の瞳を湛えた妖艶な美女が映っていた。頭から二本の角が生えている。


 我ながら、他の鬼たちと比べても抜きんでて美しい……と改めて思う。


 とくに紫色の瞳は、鬼の一族の中でも最高の力を持つと言われている。滅多に生まれることがなく、今この鬼雅島にいる数百人の鬼たちの中で、紫色の瞳を持っているのは私一人だけだ。


 母が手に刷毛はけを持って、私の髪を黒く染めてゆく。


 刷毛を持つ母の手は、すらりと長く血管が浮き出ているが、肌はきめ細かく美しい。その手に抱かれていたのは、いつまでだったろう。


 遠くから、父と女の楽し気な声が耳に届く。何を話しているかなど、容易に想像ができる。厄介者の娘が一人、ようやく巣立つことを喜んでいるのだろう。蒼牙との婚約が決まった時も、同じように喜んでいたのを聞いたことがある。


 母は、最後に私を産んでから子を産めぬ身体となってしまった。そのため、この桜宮には今、父の側女そばめが幾人も住んでいる。


「かかさまは、ととさまと一緒になられて幸せですか」

 

 ずっと聞きたいと思って聞けずにいた言葉が、ぽろりと口から突いて出た。


 つい先程、注意をされたばかりなのに、やはりとがめられるだろうか。


 だが、今聞かなければ、もうこの先二度と聞けない気がする。 


 母は、しばらく無言で刷毛を動かしていたが、やがて観念したように大きく肩で息を吸って吐いた。


「……結婚とは、終わりではなく、始まりであり、遠き目的へと向かう道半ばにある駅のようなもの。結婚までの道のりよりも、結婚してからの方が長く……それを乗り越えられるのは、目指すべき場所が相手も共に同じであると知っているから……。

 私の幸せは、源頼光への恨みを晴らせた時にこそ手に入れることが出来るのです。その為ならば、どんな修羅の道であろうと進んでゆける……」


 母の瞳に青い炎が揺らめくのを見て、私は、はっとした。


 父が源頼光を恨んでいる理由については、生まれた時から聞かされて育っているため嫌と言うほどよく知っている。


 だが、母がそこまで源頼光を恨む理由については、今まで聞いたことがない。そのことを今更になって気が付いたのだ。


「なぜ、そこまで源頼光にこだわるのですか。もう百年以上も昔の話ではありませぬか。敗北した恨みというものは、それほどまで心に深く根を張る生き物なのでしょうか。私には、わかりませぬ……」


 生まれた時から最強の鬼の力を持ち、誰からも負けたことのない私には、その屈辱さを想像することしか出来ない。


 すると、母は、刷毛を動かす手を止めて、鏡越しに私へ向かって鋭い視線を投げた。


「そなたは、蒼牙どのの不義を責めておるようじゃが……それは、いつか時が経てば捨てされる想いだと思うか」


 私は、母の言う意味が分からず、鏡越しに母を見返した。


「それは……まだ、分かりませぬ。ですが一体、それとこれとは、どういう関係があるのですか?」


 すると母の長い睫毛が伏せられ、痩せた頬に影を落とす。


「……そうじゃな。紫焔には、もう話してよい頃じゃろう」


 そう言って母は、とある昔話を語ってくれた。悲しい恋の物語を……。



  *❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*



「お~い、紫焔。待ってくれ!」

「気安く私の名を口にするな。下賤げせん者めがっ」


 すっかり旅支度を整えた私は、ちょうど小船に荷を乗せたところだった。背後から追いついて来た蒼牙が、興奮した様子でまくし立てる。


「どうして急に旅に出るだなんて言ったんだ?!

 それも、婚約者である俺に一言の相談もなく……って、お前その頭は一体どうしたんだ? 真っ黒じゃないか」


 私は、自慢の白金色に輝く髪を漆黒に染め、二本の角が隠れるよう髪を結って、飾り花付きのかんざしを挿している。これならば、誰が見ても人間の娘に見えるだろう。


「……うるさいのぉ。婚約を解消したお前には関係ないことじゃ。

 そのことなら、ととさま……鬼王様も承諾済みじゃ。お前もあの場におったではないか。お前の私は、新たな伴侶を見つけに行かねばならぬのじゃ」


 しかし、蒼牙は、私の嫌味にも気付かず、話を蒸し返す。


「婚約解消なんて、そんな一方的に……俺は納得していないぞ!」


「お前……よくその口でそのようなことが言えたな。それなら、鬼王様の前ではっきりそう異議を唱えれば良かったのじゃ。

 ……もうよい。お前の顔など見とうもない。早うね! 見送りは不要っ」


「待ってくれ! まだ俺の話は終わってない」


「さっさと穴ぐらへ戻るが良い。……ああいや、密会に使っておった穴ぐらは、私が破壊してしもうたのだったな。ふむ……じゃが、もう私もいなくなるのだから、これからは大っぴらにイチャつけば良かろう」


 これにはさすがの蒼牙も、返す言葉がないようで、元々青い顔を更に青くして押し黙った。


 そこへ、今度は黄依が息を切らしながら駆け寄って来た。洞窟に生き埋めにされたにしては、ぴんぴんとしている。おそらく蒼牙が守ってやったのだろう。


「しぃちゃん……!」

「その口で、私の名を気安く呼ぶでない……黄依きえ


 私は、自分の心が冷たくなっていくのを感じた。石のように固く、これ以上何も感じないように――――。


「私をあそこへ呼んだのは、黄依じゃろう。あのような勿体ぶった文など送りおって……私がお主の筆跡を分からぬほど愚かだとでも思うたか。

 ……いや、違うな。むしろ、敢えて分かるようにしたのだな。お主の考えそうなことじゃ。わざとらしい……自分だけが被害者になったつもりか。恥を知れっ」


「ひどいわっ、私は何も…………」


 黄依は、顔を手で覆って泣くような仕草をする。それが嘘泣きであることは、幼馴染の私が一番よく知っている。


「そんな言い方はないだろう。黄依は悪くない」


 蒼牙が黄依を庇うように前へ出るのを見て、私の心に、ふつふつと加虐心が沸き起こる。


 黄依は、とくべつ容姿に優れているわけでも、何か突出した異能を持っているわけでもない。ただ異様に愛嬌だけはよく、誰彼かまわず好かれる性質を持っている。


 それ故、私とも親しくしていたのだが、彼女には、私しか知らない最大の欠点があるのだ。


 私は、蒼牙に向かって、にやりと笑って見せた。


「ほぉ、そうか。では、そんなお前によいことを教えてやろう。

 黄依は、他に何人もの男と関係を持っておるのじゃぞ。それを知っても同じことが言えるのか?」


「なんだって?! ……おい、黄依。それは本当か?」


「なっ……う、嘘よ、そんなこと!

 私が愛しているのは、蒼牙さんだけよ。信じて!」


「では戻って、黄虎きとら藍牙らんがに聞いてみるとよい。あの二人も、きっと今のお前と同じような顔をするであろうな。……あぁ、翠鋭すいえいもであったか。多すぎて覚えてられぬわ」


 からからと私が声を上げて笑えば、黄依がさっと表情を変えた。私を燃えるような目でにらんでいる。


「藍牙だと……? お前、俺の従弟いとこにも手を出していたのかっ!」

「ちっ、ちがうわ! 誤解よっ!」


 慌てる二人の様子が滑稽で、愉快だった。


 それなのに、なぜか私の心は晴れない。


「……最後に、一つだけ聞いてもよいか、蒼牙。なぜ、私を裏切った?

 『紫焔を愛している』と言っておったのは、嘘だったのか」


「う、嘘ではないっ……嘘では……ただ……」


 蒼牙が目を伏せる。一瞬だったが、私はそこに、蒼牙の私へ対する恐れの感情を読み取った。それだけで答えは充分だった。


「……そうか。よくわかった。聞いた私が愚かであったな。忘れてくれ」


(男は皆、自分より弱いおなごが好きなのじゃ)


 黄虎きとら藍牙らんが翠鋭すいえいも、十人並みの容姿と能力しか持たない黄依を選んだ。


 鬼は、強ければ強い者ほど美しく尊い、と言われている。


 その強さも美貌も持ち合わせて生まれてきた私は、父が言うように、完璧であっただろう。


 私の最大の欠点は、ただ――――。


 だが、いくら鬼でも性別は変えられない。


 私は、暗い気持ちを振り切るように、勢いをつけて小舟へ飛び乗った。


「紫焔、一人で行く気か。せめて、誰か供の者を……」


 最後に優しさを見せる蒼牙を振り返り、私は、毅然とした態度で高らかに言う。


「そんなものは不要じゃ。私を誰だと思っておる。

 この鬼雅島で一等強い鬼姫じゃぞ」


 果たして私は、二人に向かって、堂々と笑えていただろうか。


「出してくれ」


 私が黒鬼の漕ぎ手に声をかけると、小舟は、船着き場を離れ、ゆっくりと海の波間を進んでいった。


 波は荒々しく盛り上がっていたが、水の力を司る黒鬼に任せておけば、安心だ。彼らは、誰よりもこの海に詳しい。


 背後に離れて行く鬼雅島の気配を感じながら、私は振り返らなかった。


 父には、伴侶をつれて戻ってくるようなことを言ったが、何となく、もうここへ戻ってくることはないような気がしていた。


 思い残すことは何もない。あの島で一番強い力を持つ私は、誰にも理解されず、常に孤独であった。


 それなのに、この胸の内にひりひりと焼けつくような痛みは何なのだろう。


 郷愁という念を捨て、私は、ただ前だけを見据えた。


 しばらく海を進んでいくと、漕ぎ手が私に向かって申し訳なさそうに言う。


「姫様、あっしは近くまでお送りすることは出来ますが、陸に船を着けることは出来ませんで」

「何故じゃ」

「古くからのそういう約束でして……」

「構わん。泳ぎは得意じゃ」


 平然と漕ぎ手に言い返しつつも、内心では、どいつもこいつも頼光頼光と情けない、と歯がゆい気持ちでいっぱいだった。


 出立する前、母から聞いた話を思い出す。


 母は、かつてあの源頼光と恋仲であったそうだ。


 しかし、母の正体が鬼であることを知った頼光は、母を捨てて逃げたのだという。


 鬼を退治した頼光が母から逃げたというのはおかしな話なので、おそらく自尊心の強い母の誇張が多分に入っているのだろう。大方、頼光に退治させられそうになったので母の方が鬼雅島へ逃げた……と、そういうことだと私は推測した。


 それでも、分かったことが一つある。母の頼光への深い恨みは、愛を裏切られた女の恨みだったのだ。


(それほどまでに母は、源頼光のことを深く愛していたということなのか……それに比べて私は、蒼牙のことをそこまで深く想っていなかったのかもしれぬな……)


 元々、親同士が決めた結婚のようなものだ。鬼王の娘である私と、島で一番腕が立ち顔も良い蒼牙の二人を結婚させることは、誰もが考えうる自然なことだった。


 私には、伴侶を得て、強き子を産む運命さだめがある。相手は誰でもいいというわけにはいかない。


(源頼光……一体どのような男なのじゃろうか)


 荒々しく揺れる海の波間に、私は、別れた男のことではなく、まだ見ぬ男のことを想っていた。



  *❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*



(やれ、困ったことになったな……)


 私は、砂浜を逃げて行く男の背中を見送りながら、どうしたものかと考えあぐねていた。

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