【第一章】鬼雅島の姫君

第一話 鬼姫、婚約を破棄する。

(……――女の匂いがする)


 暗くてじめじめとした洞窟の中を進んで行くと、蝋燭ろうそくの灯りに照らされた一対の男女の姿が目に飛び込んで来た。二つの影が重なり、まるで頭が二つある怪物のようだ。地面に脱ぎ散らかされた着物の上に身を投げ出して、互いの身体をむさぼるように肌を重ねている。


 荒い息づかいに、すえた女の匂い。


 蝋燭の灯りが、二人の顔をさらしだす。


 男には二本、女には一本、頭から角が生えている。


 どちらも見た顔だ。それも私がよく知っている――――男の方は、私の婚約者で、女の方は、親友の女だ。


 私は、くらりと眩暈めまいを覚えて、ふらつく頭を手で支えた。指先が、固い角に触れる。


(ああ、そういうことか……)


 ここへ来る直前に、他の鬼たちが浮かべていた表情を思い出し、合点がいく。私に向けられていたあれらの表情は、憐みと、黙っていたことへの後ろめたさ。そして何より、自分は関わりたくないという卑怯な自己防衛本能だったのか。


 目頭が熱い。


 私は、ひとりだ。どうしようもなく、ひとりきりなのだ。


 今すぐ、目の前で絡み合う男女に向かって火炎を吐き出してやりたい思いに駆られたが、生憎私にそのような力など備わってはいない。


 ただ、暗闇でもはっきりと細部まで見渡せる鬼の目が憎らしい。


 男は、かつて私に向かって愛をささやいていた口で、私の親友に口づけていた。


 私の視界が紫色の炎に包まれる。沸き上がる強い怒りが身体を熱くし、抑えることが出来ない。


(私は、敗者ではない――――)


 意識を地面に落ちている小石に注ぎ、 さっと掌で空を撫でた。すると、手を触れることなく小石が宙に浮き、男の片方の角に当たる。


 はっと顔をこちらへ向けた男の目が私を見つけ、驚愕に見開かれた。同時に、その顔に恐怖の色が浮かぶ。


「……し、紫焔しえん! どうしてここに……」


 男が私の名を口にした。女もこちらを向き、慌てて男の方へ自分の裸体を隠すように身を寄せる。肩を震わせ、か弱き女のごとき仕草が男の庇護欲ひごよくを買うのだろう。


「し、しぃちゃん……」


 かつて私の親友女は、熱を帯びてうるんだ瞳を私に向けた。男の一方的な行為でないことは明らかだった。


 恐怖におののく二人の様子を見て、余計に腹の底が煮えくり返る。


「私への裏切り、万死ばんしに値する」

「待ってくれ紫焔、話を聞いて……」

「問答無用っ、ね」


 言葉と共に、莫大な力が私の中から煙のように吹き出し、二人を襲う。


 それは、二人だけでなく、周囲の壁や天井をも巻き込み、辺りは紫煙しえんに包まれた。


 頭上にあった岩が崩れ落ち、二人の姿も見えなくなる。


 全てが終わると、先ほどまであった洞窟は、ただの崩れた岩山へと変貌を遂げていた。私の周りだけ、岩が避けたかのように何事もない。


(まぁ、これくらいで死ぬこともなかろうが) 


 鬼の頑丈さが今だけ腹立たしい。


 力を放ったことで身体の熱は引いていたが、目頭に残った熱を感じて、空をあおいだ。そこには、いつもと変わらぬ暗雲が広がり、雷光と雷鳴がとどろいている。


 私は、喉の奥から込み上げてくるものをぐっと飲み込んで、岩山を後にした。



  *❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*



「ほんまに行くんか……」

「はい。もう決めました」


 私は、畳の上に三つ指をついて下げていた頭を上げた。


 目の前に胡坐あぐらをかいて座っている赤い巨漢は、この鬼雅島おにがしまを統べる鬼王。私の父だ。頭には二本、角がある。


 桜宮おうきゅうへ帰って来た私が婚約破棄といとまを告げると、父は、渋い顔をしながら自身のあごをさすった。


「いやまぁ、紫焔の言うこともわかる……じゃが、何も婚約を破棄する必要はないんじゃないか」


「何故そのような無体なことを仰りまする。己が娘を侮辱ぶじょくされましたのですぞ。決して許すべきことではありませぬっ」


「一度や二度の過ち、ゆるしてやってはどうか。ほれ、蒼牙そうがも反省しておるようじゃし……」


 そう言って父は、部屋の隅で肩身を狭くして座っている男を見た。着ている服はボロボロで、身体中傷だらけだ。一度は愛した男だったが、洞窟で目にした光景が焼き付いている今は、ただの汚物おぶつにしか見えない。なぜこのような男と……と我が身を掻きむしりたくなる。


「私の親友と通じておった男ですぞ。ありえません」


「じゃがなぁ……蒼牙ほど腕の立つ若鬼は他におらぬぞ。お主も、一緒になるなら強き男がいであろう。そうじゃ、お主も他に男をつくるが良い。それで、どっこいどっこいじゃ。孫はたくさん欲しいからな」


「ととさま……本気で言うておるのですか」


「わしは、いつでも本気じゃ。憎き源頼光みなもとのよりみつを倒すまで、強き鬼の子を残すことが我らの宿命。そして、いつかあの頼光の首をへし折ってやるのよ……っ!」


 父は、赤い顔を殊更赤くして、拳を震わせる。その時の屈辱を思い出したのだろう。いつものことなので私は、いい加減辟易していた。


「それに、お主また短気を起こして、歴史ある洞窟を破壊しおったじゃろうが」


「源頼光に負かされた洞窟ではありませぬか。そのような負の遺産は、全て消し去るべきです」


「かつての悔しさを忘れぬようにまつっておったのじゃ。……まぁ、壊してしまったものは仕方がない。せめてお主がの子に生まれておったらのぉ~……いやぁ実に惜しい……」


「強き女は悪ですか」


 私は、膝の上に乗せていた手をぐっと握りしめた。私が強くのは、私の所為ではない。


「そうは言っておらん。じゃが……この鬼雅島に、もうお主を嫁にしてくれる男は他におらんでな。皆、怖がっておるのじゃ。このままでは嫁の貰い手がないと……ごほんっ。じゃから、その血を後に継げんことが口惜しいのじゃ……」


「ですから、この島の外へ行って、強き男子とちぎり、強き子を産んでみせます……と申しておるのです」


 背後で蒼牙が何か言いたそうに身じろぎしたが、私はそれを無視した。私が桜宮へ帰る途中、後から追いついて来たものの、今の今までずっと黙ったままでいる。


(謝罪の言葉すら言えぬのか……情けなしっ)


 ふつふつと再び身体の奥から込み上げてくる熱を私は、残っていた僅かな理性だけで抑えた。今ここで力を放出してしまっては、桜宮を破壊してしまう。


 そうなれば、父を怒らせてしまい、私の希望が通るどころか、地下牢に閉じ込められてしまうだろう。


 もちろん、閉じ込められたところで牢を破壊して逃げることなど造作もないのだが、疲れるし面倒なので、出来れば穏便に素早くここを立ち去りたい。


 父は、先ほどから何か考え込むように腕組みをして、天井の黒い梁を見つめている。私は、じっと黙って父の言葉を待った。


「……本来であれば、この島を出ていくことは、源頼光との約束を反故ほごにすることになる。もし、お主が大倭国へ渡ったことが人間に知られたら、人間どもは、お主を敵としてみなして牙を向けるであろう。この鬼雅島も、無事では済まなくなるかもしれん。じゃが……」


 うーむ、と父は、大きな音を喉の奥から搾り出す。


「……じゃが、いつかこの島を出て、源頼光を倒す……それこそが我ら一族の悲願でもある。お主ほどの強さがあれば、それを遂げることが出来るやもしれぬか……」


 そう言って父は、分厚いまぶたを閉じた。その胸中に、少しでも娘である私との別れを惜しむ情があれば、私もこの島を去ることに少しは逡巡しただろう。


 だが、父の頭の中にあるのは、源頼光を倒すためにより強き子を残すことと、鬼の王として一族の安全を考えることだけだ。


 だからこそ、迷っているのだろう。


 特に私は、他の鬼たちの中でも一等力が強い。より強い子を産む可能性のある私を他所へやりたくないのだ。


 ただ普段の言動からそれが解るからこそ、私も遠慮なく島を出ることが出来る。


 それに父は、私が一度決めたら絶対に意見を変えないことをよく知っている。だから、これ以上自分が何を言っても無駄だと思ったのだろう。やがて嘆息し、膝を叩いた。


「あい、わかった。じゃが、いつでも帰って来て良いのだぞ」


「ありがとうございます。ですが、私がここへ帰って来る時は、立派な伴侶を見つけた時だけです」


「源頼光をて。紫焔よ。我が一族の無念、晴らしてくれ」


 腹の底から力を込めて響く父の声に、私は無言で瞳を伏せた。


 

  *❀*✿*❀*✿*❀*✿*❀*



「紫焔、入りますよ」


 私が自室で旅の支度をしていると、襖の向こうから落ち着いた女の声が聞こえた。続けて襖が開き、中へ入って来たのは、瑠璃色の髪を後ろで束ね、勿忘草の花の色を溶かしたような肌が美しい一人の鬼女だった。頭には、一本の角が生えている。


 女の表情には、何かを覚悟した者の決意と、感情の震えを無理やり押し込めているような危うさが同居して見えた。おそらく父から話を聞いたのだろう。


 私は、母の方へ向き直り、畳みに三つ指をついて頭を下げた。


「かかさま、今までお世話になりました」


 母は、そんな私の前に膝を折って座った。


「……引き止めはしません。いつかこのような日が来ることを私も望んでおりましたから」


 私は、そっと顔を上げて母の表情を盗み見た。


 毅然とした声と態度でいるが、母の眼尻に光るものが見える。母は、そっと着物の袖から半紙を取り出して、目元を抑えた。


「よぉ決心してくれました。母は……母は………………」


 そこまで言うと母は、感極まった様子で顔を覆い、おいおいと泣き崩れた。


「……よぉやくこれで枕を高くして眠れる……あいや、これでもう他所よそのお宅に頭を下げることもなくなるかと思えば、ほっとする……いやいや、そなたに会えなくなると思うと寂しく……さみしく……」


「かかさま…………」


 何度も言い直す母の言葉に、私は、肩を落とす。


 わかっている。この女は、娘との別れを惜しんで泣いているわけではない。


「何か要件があって参られたのでは」


 敢えて話を変えた私の冷静な口調に、母が涙を拭って顔を上げる。


「そうじゃ。この鬼雅島を出て、そなた一体どこへ行く気じゃ」


 その声は、朗々とはっきりして聞こえた。先程の涙は一体どこへいったのだろう。


「それはもちろん。源頼光を探しに、大倭国やまとのくにへ参ります」


 私の答えを聞くと、母は、やはりな……と呆れた顔で嘆息する。


「そのままの恰好で行くつもりか」


「はい。普段着の方が慣れておりますし、動きやすうございます。

 とくべつ華美に飾る必要もないかと……」


 そう答えながら私は、自分が今身に着けている服装を見た。上衣は花柄の小袖、下衣には、赤色の絞り袴を身に着けている。確かに年頃の女子が身に着けるには色気が足りない気もする。だが、旅に出るにはちょうど良い。


 ただ母は、常日頃から礼儀にうるさい。門出にふさわしい装いをしろと叱られるのだろうか。


 しかし、私の予想は外れた。母は、眉をしかめて首を横に振る。


「そうではない。その頭のことじゃ。まさか、そのいかにも鬼だとわかる風貌で行く気であったのか。そなたは、この島の外のことを知らぬから致し方ないが……もし人間に鬼だと知られれば、たちまち切り殺されてしまうぞ」


「向こうが切りかかってくるならば、迎え討ちます。ご安心ください。私は強いですから、人間などに殺されることはありませぬ」


「人間を侮るでないっ。我ら鬼の一族が、あの口に出すのもおぞましいに、どのような仕打ちを受けたのか……そなたは知らぬからそのようなことが言えるのじゃ」


「はぁ……まぁ、私が生まれる前のことですし……」


「紫焔、こちらへ来なさい」


 そう言いながら母は、すっくと立ちあがり、私に背を向けて部屋を出ていく。

 私は、言われるまま母の後をついて行った。

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