第5話「無力」

 *


 創作意欲が全くもって湧かなくなったことはあるだろうか。


 私はある。


 その文言を見ると作家としては致命的だが、前述にも(多分後述もする)ある通り、私は職業作家ではなく作家志望の端くれである。書けなくなったからといって、生活が立ち行かなくなるということは無い。ただ、絶望感に打ちひしがれるというだけで。

 

 いや、絶望、もしないのだが。


 何度も言うように私は作家志望なので、書けなくとも、どうにか日常生活を組み立てていくことはできるのである。人によっては、それは趣味の延長線上のことだとか、志望しているとは言いつつも実際に受賞できると思っているわけではないのだろうとか色々と邪推してくる方もいるようだけれど、まあ、何でもいい。


 私にとってそれは、絶望ではない。


 それだけの話だ。


 たまにその時期は、来る。


 それこそ、前々から私のことをフォローして下さっている方には、時期は明瞭だろう。


 ネット上での短編小説の投稿が止まり、エックスも稼働しなくなった時期こそが、そうである。


 創作意欲が湧かなくなると、文字通り書けなくなる。書けないにも色々と種類があるのだろうが(そして私自身はそういうカテゴライズがあまり好きではないのでここでは詳らかにはしないが)、私の場合は、小説に関する全ての事象への思考がストップする、というものである。一篇の小説を書く前に、必ず「プロット」やそれ以前の「素案」を作ってから執筆に向かうのだが、それすら構築できなくなるのである。


 書けない。


 この書けないというのが厄介で、例えば「書けない気持ちを小説にしよう」としても、そもそも書くことができないのだから、それは成立しないのである。


 枯渇――とは、少し違うように思う。


 今は枯れていても、私の小説の源泉は、少しずつ満たされている。


 飽き、ともまた違う。


 小説を書くことに飽きているのなら、とっくに中学時代で辞めているだろう。社会人になってもまだ執筆を続けているということは、多分、飽きとか、面倒とか、もうそういう領域の話ではないのだ。


 生活の中に、組み込まれている。


 社会人になってからは、仕事終わりで疲弊しているので、休日の落ち着いた時に書いているけれど、続いている。


 ならば――そんな重要な役割を果たす事柄への意欲が減退、もしくは消失するというのは、大事ではないか――と、そう思うやもしれない。


 そう、多分、大事なのである。


 小説を書くことができなかった日は、不要な自責の念に駆られることがある。


 どうして書けなかったのだろう。


 何をしていたのだろう。


 私は馬鹿ではないのか。


 貴重な休日を、小説の執筆以外に利用するなど、愚の骨頂だろう。


 等々、である。


 多分というのは、私自身が、私のことをまだ分かっていないことを示す。


 これは、自己理解の物語でもあるのだ。


 よくよく考えれば、別に小説を書かない日があっても良いのだろうが、書かなければ書かないで、何か胸を掻き立てられるというか、焦燥感に囚われるのである。本当面倒な身体である。学生時代は、何かを成し遂げなければ、小説を書き続けられない自分など許せないと、雁字搦めに自分を縛っていたけれど。


 それと比較すると、落ち着いたものである。


 書けない自分も、自分だし。


 まあ、いつか書きたくなるだろう。


 そんなことを考えつつ浪費する休日も悪くはないと。


 私は思った。




(続)

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一代の擱筆 小狸 @segen_gen

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