あるべきはずのもの
矢追の話が続く。「辻花殺害で、弓月は返り血を浴びていた可能性がある。一旦、アパートに戻ったのかもしれない。そして、準備を整えてから蛭間を尋ねた。自分が殺されようとしているとは夢にも思わない蛭間は、何時も通り弓月を部屋に迎え入れた。そして、隙を見て弓月は蛭間を殺した。絞め殺した」
「でも、自殺と絞殺では首に残る痕が違うんじゃなかったでしたっけ?推理小説でそんなの、読んだことがあります」
「まあな。これは俺の考えだがな」と言って、矢追が説明したのは、被害者の首にロープを巻きつけ、足で首四の字固めをしながら絞殺する方法だ。
「こうすれば、首筋に吉川線と呼ばれるためらい傷が残らない。ああ、吉川線と言うのは――」と矢追が吉川線の説明をした。
吉川線とは被害者の首に見られるひっかき傷のことだ。苦し紛れに首を掻きむしることにより生じる。被害者の抵抗によって生じた防御創だと考えられており、これが見られた場合、他殺の疑いが強くなる。
「このやり方なら覚悟の自殺に見えるだろう。狭い蛭間のアパートでは天井から首を吊ることが出来なかった。そこで弓月は玄関のノブを利用し、座った形での縊死を偽装することにしたのだ。ロープは恐らく、弓月が準備したものだろう」
「自殺に見せかけた殺し方は分かったのですが、弓月は一体、どうやって密室を作り出したのでしょうか?」
「密室を作り出す為に、弓月は第一発見者にならなければならなかった。そう考えると真相が見えて来る。玄関から出たのか? ドアに鍵は掛かっていなかったが、蛭間の遺体が塞いでいた。一度、外に出て遺体でドアを塞ぐことなど無理だ。廊下でそんな細工なんて出来ないしな。となると、どうなる?」
「確か、蛭間さんの部屋はアパートの一階でしたね。床下から外に出ることは出来なかったのですか?」
「ダメだ。部屋はフローリングになっていた。それに、床板を剥がして床下に潜り込めても、外に出られない構造になっていた」
「排気口とか、無かったのですか?」
「あったが人が通れる大きさじゃなかった」
「じゃあ、窓から外に出るしかありませんね?だけど、窓には鍵が掛かっていたんじゃなかったでしたっけ?」
「そうだ。しかも鍵に弓月の指紋はついていなかった」
「う~ん。わかりませんねえ・・・」
「ふふ。俺もそうだった。刑事としての感が、弓月が犯人だと言っていた。だが、密室のお陰でやつの犯行が立証できなかった。だがな。当時の捜査資料を見返していて、大事なことに気が付いた。当然、あるべきはずのものが無いってことにな。ああ、分かっている。もう焦らすのは止めるよ」と矢追は手で制しながら言った。「ドアノブだよ。ドアノブに指紋が残っていなかったんだ。弓月のな」
一瞬、矢追が言ったことが理解できなかった。ドアノブに弓月の指紋がなかったことが、何でそんなに大事なんだ? だが、「蛭間の遺体を発見したのは弓月だった」と矢追に言われて、その重要性に気が付いた。
ドアノブを回し、遺体が廊下に転がり出て来る――モサイク処理されていたが、その光景をテレビで何度も見た。弓月が世間に転がり出た瞬間でもあった。その時、ドアノブを回したのは弓月だった。
「分かったか。あの日、ドアを開けて遺体を発見したのが弓月だった。その模様はテレビ・カメラに収められていた。間違いない。だが、弓月が握ったはずのドアノブに指紋が残っていなかったのだ」
「ど、どういうことでしょうか?」
「やつが手袋をしていなかったことは確かだ。遺体発見時の映像が残っているからな。となると指先の指紋を消していたことになる。指先に透明なシートを貼っていたのか、或いはニスでも塗っていたのか」
「切り傷に塗る液状の絆創膏があります。それを使って、部分的に指紋を消したんじゃないでしょうか」
「恐らくそういったものを使ったんだろうな。やつは指紋を消しておいてから、蛭間のアパートを訪れた。密室を完成させる為に、第一発見者に成りすまし、部屋に一番乗りしなければならなかったのだ。第一発見者として部屋に入り、窓の鍵を掛けた」
分かってみると簡単なものだ。
「なるほど、なるほど」と言葉が漏れてしまった。
ふと井上家で、いや辻花邸で弓月が言ったことを思い出した。密室の話になった時、弓月は得意そうに言った。密室を作り上げるには、高い知性が必要なのだと。弓月のことだ。どうだ!俺の作り上げた密室を見ろ! と声を大にして言いたかったに違いない。自慢したかったはずだ。だが、それを言うことは自分が犯人であると告白することに等しい。もどかしかっただろう。
「これが蛭間の事件の真相だと思っている。弓月の実家から白骨遺体が出たんだ。当然、過去の事件、辻花良悦と蛭間昭雄の事件も注目を浴びることになるだろう。再捜査となる可能性が高い。あんたが白骨遺体を見つけてくれたお陰だ」
話が終わると、矢追は「さあ、忙しくなりそうだ」と言ってカップに残ったコーヒーを一息で飲み干してから、「勘定は済ませておく。俺のおごりだ」と席を立った。
「あっ!矢追さん」と立ち上がった時には、矢追の姿は無かった。
「困ります」と奈津は言った。
小柄で顔が小さく目が大きい。美人だ。ゆで卵にように白くて張りのある肌をしている。柔らかく丸いマシュマロを思わせた。
橋本奈津に会いに来ていた。辻花良悦の恋人だった女性だ。弓月の学生時代の知人を回り、彼女が大学を卒業してから、丸の内にある大手都銀で働いていることを突き止めた。
学生時代の友人に訪ねて回ったことが、噂となって彼女の耳に届いていたようだ。
「ただでさえ、色々あったのに・・・会社の人に、また、何かあったんじゃないかと思わてしまいます」と奈津は批難の眼差しを向けた。
それでも、こうして会ってくれたのは、弓月の事件のことを聞きたいからだろう。弓月と一緒に働いていたことは伝えてあった。
「会社が終わってから、近くのファミリーレストランで良いですか?」と言うので、先に来て座った場所をチャットで送って奈津を来るのを待った。少々、待たされたが、妖精のように軽やかな足取りで奈津がやって来た。
奈津の姿を見た途端、デートでもないのに、胸がときめいた。
「ご存じでしょうが、大学のサークルで一緒だった弓月、いや、斎藤と言った方が良いですかね。彼、亡くなりました。遺体を発見した時、僕もそこにいました」
「事件のことは、ニュースで知りました。ため池から遺体が見つかったって。事件、事故の両面から捜査が行われていると言っていましたが、溺れて亡くなったのですか?」
「いえ。ため池から遺体が見つかったことは事実ですが、死因は溺死ではありませんでした。絞殺です。絞め殺されたのです。そして、後ろ手に縛られ、池に沈められていました」
「まあ・・・!」と奈津が目を見張った。
ただでさえ大きな目が一層、大きくなる。
「事件は大阪府警が捜査しています。でも、彼の地盤はこちらですからね。大阪府警で手が回らないことを、警察の捜査に協力する形で調べています。そこで、こうしてお話しをお聞きしたくて参上した次第です」
大阪府警から捜査協力を依頼された訳ではないが、府警OBの依頼で動いているようなものだ。あながち嘘ではないだろう。
奈津が警戒心を解くのが分かった。
「それで、お聞きになりたいのは、辻花君の事件のことですか?私の知っていることは、全て警察にお話ししましたけど」
「はい。辻花高寛君、ご存じですよね。良悦さんの弟さん、あなたが彼に話したことくを彼から聞かせてもらいました」
「ああ、では、もう何も申し上げることは無いと思います」
奈津はまだ蛭間が良悦を殺害し、その後自殺したという警察発表を信じているはずだ。その前提がひっくり返れば、また違った話が聞けるかもしれない。
「橋本さん。実は――」と声を潜めた。
軽々しく人に話すことではないが、俺は警察官ではない。誰に何を話すか、制限などないのだ。俺は調べた事実を残さず奈津に伝えた。
奈津は表情をくるくると変えながら、俺の話に聞き入っていた。
途中、注文を取りに来た店員に、ハンバーグ定食を頼んだ。朝から、ろくなものを食べていなかった。猛烈に腹が減っていた。奈津にも、「何でも好きなものを注文して下さい」と言ったのだが、「食事は家に帰って済ませます」と奈津はコーヒーを頼んだだけだった。
恥ずかしかったが、空腹には勝てなかった。
長い話が終わると、奈津は「大変でしたね」と優しい言葉をかけてくれた。また、胸がときめいた。「そう言えば」と奈津は言う。何か気が付いたのだ。
「辻花君、蛭間君、斎藤君の三人がもういないなんて、信じられない気がします。誰が誰を殺したのかなんて、正直、もうどうでも良いのです。そんなこと分かっても、辻花君が帰って来る訳じゃありませんから。
三人、仲が良くて、何時も一緒でした。三人共、親元を離れているし、学生ですから、仕送りを使い果たすと、アルバイトをしたり、お金を貸し借りしたりして生活していました。辻花君は実家が裕福だったので、仕送りが十二分にあって、アルバイトは彼らとの付き合いでやっていただけでした。社会勉強だって、よく言っていました。そんな辻花君にお金を借りるのが、嫌だったんでしょうね。蛭間君と斎藤君の二人は、お互いによくお金の貸し借りをしていたみたいです」
その話は聞いたことがあった。良悦は実家が裕福であることを恥じていたふしがある。蛭間や弓月同様、金のない学生生活を送りたがっていたのかもしれない。
「蛭間君はミリタリーナイフを集めていたり、スニーカーが好きだったりで、多趣味でした。趣味にお金がかかるので、常に金欠状態でした。斎藤君はしっかりしていましたから、蛭間君が斎藤君からお金を借りることが多かったと思います。お金を借りる時、質を、担保を入れていたようです」
「へえ~学生同士の金の貸し借りなのに、しっかりしていますね」
「斎藤君、その辺もしっかりしていましたから」
学生時代からよく言えばしっかり者、悪く言えばセコイ男だったようだ。
「ふと思い出したのですが、蛭間君のアパートのあったスニーカー、あれ斎藤君が履いていたものでした。事件の後、病院に来た刑事さんがスニーカーの写真を見せてくれた時、蛭間君のものだって答えました。蛭間君のものだったから。でも、借金のカタに蛭間君が斎藤君に渡していたことを思い出しました。斎藤君、スニーカーには興味が無いと言いながら、気に入ったようで、事件の前は何時もあのスニーカーを履いていました。蛭間君、お前が気に入ったのなら、金は返さなくて良いよな、なんて言っていました」
「借金のカタ? あのスニーカーは弓月が履いていた?」
だとすれば靴の中底に良悦の血痕が残っていたことも頷ける。弓月はあの日、あの靴を履いて良悦を尋ねた。そして、良悦を殺害し、足の裏に血液が付着した。靴を履いた時に、それが中底に移ってしまった。
「事件の直前に蛭間君がお金を返してスニーカーを取り戻したのかもしれないませんね」と奈津は言ったが、弓月がスニーカーを履いていたのだと思った。恐らく、あのスニーカーは弓月がわざと蛭間のアパートに残したのだ。
状況証拠に過ぎないが、またひとつ、弓月が犯人であることを裏付ける証拠が出て来た。
「それに――」と奈津は言う。
まだ何かあるのだ。「蛭間君がゲイだったと聞かされた時、ああ、やっぱりと思いました」
「知っていたのですか?」
「いえ、そうじゃないかと思っていたものですから。何かあったという訳ではありません。何となくそうじゃないかと思っていました。女の感です。だから、蛭間君が私をストーキングしていて、それがバレそうになって辻花君を殺したという話は信じていませんでした。辻花君が殺された時――」と言って奈津は顔を歪めた。まだ事件のショックが尾を引いているのだろう。
「蛭間君、自らの思いを辻花君に打ち明けたのかもしれないと思いました。それを辻花君に拒絶されて、彼を殺してしまった。漠然とですが、そう考えたことがあった気がします」
「ということは、つまり――」
「私、蛭間君が辻花君に思いを寄せていることに気がついていました。彼が特別な思いを込めて辻花君のこと、見つめていたことを知っていました。だって、私もいつも彼を見つめていたのだから」
蛭間昭雄は辻花良悦のことが好きだった。辻花良悦と奈津が付き合い始めた時、蛭間昭雄はショックを受けたのだろう。だがそれは、奈津が好きだったからではなく、辻花良悦が好きだったからだった。
「辻花さんは、そのこと、知っていたのですか?」
「いいえ。彼は気がついていなかったと思います。仲の良い友人、蛭間君のことはそう思っていたはずです。それ以上でも、それ以下でもなかった」
「そうですか・・・」
奈津は辻花と蛭間、二人の名誉を守りたかったのかもしれない。
「就職が決まり、三人でスキー旅行に出かけました。戻って来てから、辻花君の様子がおかしくなりました。すっかりふさぎ込んでしまい、訳を聞いても押し黙ったままで、何も答えてくれませんでした。急に実家に帰ったりして、スキー旅行で何かあったことが直ぐに分かりました。でも、その時、私、てっきり蛭間君との間で何かあったのだと思ってしまったのです。三人で旅行するのも最後です。蛭間君が自分の気持ちを打ち明け、優しい辻花君はそのことで悩んでいるのだと思っていました。それが・・・」
「スキー旅行の帰り道、事故を起こして人を死なせてしまっていたのです」
「彼は優しい人でした。事故とは言え、人を殺してしまったのなら、そのことに耐えられなかったと思います。しかも、その事実を隠蔽してしまったのなら、尚更です。罪悪感に苛まれていたことでしょう。辻花君は何時もの辻花君ではなかった」
そう言った奈津の右目から一筋、涙が零れ落ちた。
美人の涙は破壊力抜群だ。「だからと言って、彼の命を奪う権利なんて誰にもありません。弓月がやったことは、卑劣で許せないものです。あの・・・もし・・・もし、良かったら、僕で良ければ、何時でも話を聞きます。呼び出してもらえば、飛んで来ます」
言った途端、顔が赤らむのが分かった。まるで愛の告白だ。
奈津はにこりと微笑むと、「ありがとう。あなたも優しいのね」と言った。
ああ、この人を守ってあげたい、心からそう思った。
鑑定により白骨遺体が十代の少女であることが確認された。
あれから、青木涼香の遺体を探していたことを千葉県警に打ち明けた。「困るねえ~君。そういうことは、事前に言ってもらわないと」と油を搾られたが、勝手に他人の家に押し入って庭を掘り返すことを警察が認めてくれるはずがない。これで良かったのだ。
DNA鑑定が行われている。遺体が青木涼香であることが分かるのも時間の問題だろう。
弓月、辻花、蛭間の三人はスキー旅行の帰りに青木涼香を車で撥ねた。
あろうことか、瀕死の重傷を負った青木涼香をトランクに押し込み、死なせてしまった。そして、遺体を弓月の実家近くの流山の小山に埋めた。
やがて辻花良悦が良心の呵責に耐え切れなくなって告発文を書いて、自首しようと弓月に訴えた。生かしておいてはマズいと弓月は考え、良悦を殺害し、その罪を蛭間に着せ自殺に見せかけて殺した。全てを闇に葬った――はずだった。
天網恢恢疎にして漏らさず。悪事は必ず露顕する。
何時だっただろう。弓月と映画を見に行った。どういう経緯だったか忘れてしまったが、二人きりだった。当時、流行っていた映画で、孤立した洋館に呼び寄せられたゲストが一人、また一人と殺されて行くミステリー映画だった。
映画の途中で、「誰が犯人だか分かりますか?」と小声で尋ねた時、弓月は憮然とした表情でこう答えた。「誰が犯人だとしても、頭が悪いよ。洋館に集まった全員を殺せば良い。皆殺しにするのさ。そうすれば、誰が犯人かなんて、関係なくなる」
「そんな小説が海外にありましたね。でも、それだと生き残った人間が犯人だということになりませんか」
そう言うと、「馬鹿だな。皆殺しにした後で、自分がいた形跡を徹底的に消せばよい。どの道、目撃者はいないのだ。自分がその場にいたことを、誰も証明できないだろう。これで完全犯罪の成立だ」と嘲笑された。
弓月の声が大きかったので、前列に座っていた男性が振り向いた。
皆殺しなんて無茶苦茶な発想だと思った。弓月のことが怖くなった。今になって思うと、弓月は青木涼香の事故のことを知っている人間を皆殺しにしている。それも友人たちを。しかも、その一人に罪を押し付けて。
弓月はモンスターだった。
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