第二章

消えた名探偵

 水戸黄門のような老人は、大政明徳おおまさめいとくと名乗った。

「平野は広い。歩き回るとエライこっちゃで。どれ、車で案内してやろう」と大政は車庫から車を出して来た。軽自動車だ。新車ではなさそうだが、車内に驚くほど生活を感じさせる物がなかった。大政の性格なのだろう。

「その辺、いっぺん、ぐるっと回ってみるんで、見覚えがないか、よう見といてや。その間、訳を聞かせてくれ」大政がハンドルを握りながら言う。

「はい」景色を伺いつつ、弓月とここに来た経緯、それに昨晩の様子を打ち明けた。大政は「ふむ、ふむ」と相槌を打ちながら、俺の話に耳を傾けてくれた。

 話を聞き終わった大政は「なるほどね。井上家の殺人事件の調査に来た探偵さんって訳や。それなら、井上家に行ってみるか」と言った。

「井上家をご存じなのですか⁉」

「ああ、知っとる。公になっとれへんが、地元の人間なら、みな、知っとる。せやけど、平野やない。どうや、見覚えのある場所はあったかい?」

 窓を通り過ぎる景色はよくある住宅街の景色だった。注意して見ていたが、見覚えがなかった。昨晩、訪れた場所はもっと広々としていた。こんなに住宅が密集していなかった。井上家は広大な敷地の中にあった。

「いいえ。ありません。電話番号はデタラメでした。住所もデタラメだったのでしょう」

「ほな、井上家に行ってみるけど、ええか?」

「是非、お願いします」

「ガッテン、承知の助」陽気に言うと、大政はスピードを上げた。

「お忙しいところ、すいません。お仕事、大丈夫ですか?」と尋ねると、「兄ちゃん、髀肉ひにくたんって言葉、知っとるか?」と聞かれた。

「皮肉? さあ、知りません」

「脾肉というのはもも肉のことや。三国志やで。曹操と争って敗れた劉備が劉表のもとに身を寄せた。ある日、便所に行くと、太ももにぜい肉がついとった。昔の武将は皆、馬に乗っとったからな。太ももにぜい肉なんぞつかへん。それを見て劉備は、わいは何をやっとるんやと嘆いたって話や。

 わし、定年を迎えたばかりでな。暇やねん。家にいてもすることがあれへん。何をしてええのか分からへん。髀肉の嘆やな。兄ちゃん、あんたにゃあ悪いが、丁度ええ暇つぶしや。気にすることはおまへん」

 大政は六十歳だと言うことだ。

「弓月知泉って名前、聞き覚えがある」と大政が言うので、弓月が有名になった辻花良悦の殺人事件の話をした。

 昨晩も話題になった。辻花良悦殺人事件の犯人が蛭間昭雄であることを見抜き、弓月は一躍、時の人となった。

「ああ、あの事件かいな」と大政が頷く。

「ご存じでしたか。結構、世間を騒がせましたからね」

「ふん。確かに話題になったけど、事件を覚えとるのは別の理由や。ああ、ここや。あの家や。あれが井上家や」

 大政が車を停めて前方を指さした。大政の指さす先には平屋の家があった。

「あれが井上さんのお宅ですか?」

「そうだ。あれが事件のあった井上家や」

「そんな・・・昨日、お邪魔したお屋敷は、もっとこう・・・」

 豪勢な井上家とは似ても似つかない庶民的な平屋の一軒家だ。見間違う訳がない。

「もっと立派な屋敷やったっていうことやな」

「ええ、そうです。言葉は悪いけど、あんなちっちゃな家ではありませんでした」

「さよかい。まあ、そうやろうな」

「えっ、どういう意味ですか?」

「井上晴秀さんの事件なんやけど、あれ、まだ警察は発表しとらんが、犯人の目星はついとんねん」

「犯人の目星がついている⁉ どういうことですか?」

「せやから、犯人が誰なのかもう分かっとんねん。井上さんの事件は、当初から居直り強盗の線が濃厚だと考えられとった。ほんで、前科者を中心に捜査が行われた。ほなら、捜査線上に一人の男が浮かんで来よった。藤原明久っちゅう前科者や。空き巣の前科があって、この近所に住んどった。土地勘があった訳や。家族はおらず、事件後、捜査員が自宅を尋ねたら姿を消しとった」

「そんなやつがいたのですか⁉」

「まあ、その辺は捜査機密や。捜査員以外、誰も知らん。事件が起こる三か月ほど前に、ムショ仲間やった永田敦司っちゅうやつが出所しとる。こいつと示し合わせて空き巣を繰り返しとったようや。この辺りで他に幾つか被害届が出とった。前科者の二人が空き巣に入って、井上晴秀さんと遭遇した。もみ合いになって、殺してしもうた。そんなところや」

「その藤原という人物が犯人で間違いないのですか?」

「間違あらへん。公になっとれへんが、現場で犯人の遺留品が見つかっとんねん。その遺留品から犯人を特定することがでけた」

「遺留品?何が見つかったのですか?」

「う~ん」と大政は呻いてから、「まあ、ええか」と遺留品がハンカチであることを明かした。

「ハンカチですか⁉」

 空き巣がハンカチを残していったなんて妙だ。

「妙なやつでな。奇麗好きでもないのに、藤原はハンカチを持ち歩いとった。盗みに入って、井上さんと鉢合わせて焦ったんやろうな。井上さんを殺害した後、ハンカチで汗を拭いた。ほんで、ポケットになおす時に落としてもうた。もみ合うた際に顔に傷でもついたんやろう。汗と共に微量だが血液がハンカチに残っとった」

「へえ~」ハンカチで汗を拭くなんて、行儀の良い泥棒もいたものだ。

「そ、その藤原という人物は捕まっていないのですか?」

「ああ。せやさかい、事件が未解決のままになっとる。つまりは、二人が捕まれば、井上晴秀さん殺害の犯人確保として大々的に報道されることになる。それまでは捜査機密やねん」

「はあ・・・」と感心した後で、ひとつの疑念が浮かんだ。「そんな捜査機密を何故、あなたはご存じなのですか?」

「なあに、ちょっとしたコネがあるのよ」と大政は笑った。

 警察関係者にコネのある人物のようだ。ついている。偶然とは言え、頼りになりそうな人物に巡り合えた。弓月を探すのに、力になってくれそうだ。

「さて、ここがお目当ての場所じゃなかったとなると、兄ちゃん、あんたが連れて行かれたのは井上家ではなかったことになる。あんたが連れて行かれた場所に心当たりがあるんだ。どや、行ってみるか?」

 おお~流石は警察関係者にコネがある人物だ。頼りになる。

「はい! 是非、連れて行って下さい」

「あいよ~」大政は車をスタートさせた。

 移動中、「もう一度、連絡を取って見ます」と弓月の携帯電話に電話を入れてみた。相変わらず電源が入っていない。

 何処に行ってしまったのだろう? このまま弓月が見つからなかったら、探偵事務所はどうなるのだろうと心配になった。弓月の知名度でもっているような事務所だ。弓月が失踪したとなると、顧客は逃げ出してしまう。

「まあ、そうくよくよしなさんな。大丈夫、きっと見つかるよ――なんて、気楽な言葉をかける気はないが、若い頃は色々、あった方がええ。自分みたいな年になった時に、思い出が多くて楽しいもんや。あんた、見てんところ、えらい若いな。まだ二十代やろう?」

「はい」と頷く。

「諸葛孔明は知っとるか?三国志で有名な天才軍師よ」

 また三国志だ。どうやら三国志が好きなようだ。

「はい。名前くらいは。ゲームとか、漫画で知っています」

「さよかい。ゲームねえ~自分なんか、吉川英治先生の三国志を読み耽った世代やけど。へえ~ゲームでも諸葛孔明は有名やねんな。うん。その孔明が三顧の礼で劉備玄徳に迎えられた時、いくつやったと思う?」

「さあ、二十歳そこそこじゃないですか?」

「二十七歳やった。劉備玄徳は四十六歳やった。随分、年の差があった訳や。諸葛孔明は二十七歳から世に出て、歴史に名を遺した。劉備玄徳が尋ねて来おへんかったら、田舎で朽ち果てとったかもしれへん。まあ、自分が言いたのは、あんたもこれからだってことや」

「ありがとうございます」と答えた時、見覚えのある建物が目に入った。

 アパートだ。確か、井上家に向かう途中にあったような気がする。俺が東京で住んでいるアパートに似ていた。ああ、似たようなアパートがある。この辺だと家賃はいくらなんだろうと思ったから、印象に残っていた。

「大政さん、あのアパート、見覚えがあります」

「さよかい。予想通りやな」

「ここは何処ですか?」

「この辺はな、辻花って言う場所やねん」

「辻花!」聞いた名前だ。

「ほら、あんたのボスが解決した事件、被害者の名前が辻花やったやろう。辻花良悦、彼はこの辺りの人間でね。せやさかい、東京で起きた事件のことをよく覚えとんねん」

「ああ~そうでした。殺されたのは辻花さんでした。辻花さんはこちらの出身だったのですね。しかし、地名が辻花だなんて、凄い偶然ですね」

「そうやあれへん。辻花家は坂上田村麻呂の末裔やそうや。代々、この辺りを収めてきた豪族の子孫らしい。坂上田村麻呂の子孫が枝分かれして、平野七家になりよった。そのひとつが辻花家や」

「坂上田村麻呂? そう言えば、昨晩、坂上田村麻呂の話が出ました。井上家は坂上田村麻呂の子孫だって、晃君や輝秀さんが言っていました」

「井上家を騙ってみたものの、ご先祖様の自慢だけはしたかった訳やな。黙っとればええもんの、マズかったな。墓穴を掘った格好や。ほな、よう見ておいてくれ。あんたが昨夜、訪ねた家がないか」

 やたらと事件に詳しいようだ。警察にどんなコネがあるのだろうと思った時、見覚えのある建物が目に入った。

「あっ! このお屋敷は・・・間違いない! 大政さん、ここです。昨日、連れて来られたのは、この屋敷です。凄い、大政さん。何故、分かったんです」

 間違いない。大屋根を頂く数寄屋門がある。ここから屋敷へ入った。こんな豪華な門を構えた屋敷など、そうそうあるはずがない。

「兄ちゃん、もっと褒めてえや~そんなんじゃあ誉め足りへん」

「大政さん、超絶、凄いです。信じられません。で、ここは、ここはどなたの屋敷なのですか?」

「ここは辻花本家の屋敷や」

 俺の話を聞いた時から、辻花本家ではないかと見当をつけていたようだ。「実はな。あんたが泊っとるホテル、あれ、辻花本家が大株主を勤めとる。つまりや。辻花家の人間ならホテルから人一人、消してしまうことが出来たんやないかって考えた訳や。それに、数寄屋門のある家なんて、寺を覗いたら、辻花家くらいしか知らへんねん」

「辻花家の人間が弓月を騙して大阪まで連れて来た? 何故? 弓月は事件を解決してくれた恩人だったはずじゃあ・・・」

「事件の匂いがプンプンすな。辻花の人間があんたのボスを呼び出すのに偽名をつこてん。何故や? 辻花の名前だとやって来おへんと分かっとったからや。ほな、何の為に?復讐か?復讐やとすると、なんで、辻花の人間があんたのボスに復讐する? あんたの言う通り、恩こそあれ、恨みは無かったはずや。辻花良悦の事件、ほんまはまだ片付いておらへんちゃうか?」

 犯人が自殺したことで幕を閉じたはずの辻花良悦の事件には、隠された秘密があったのかもしれない。

「大政さん、どうしましょう?」

「せやな・・・不意を襲ってみてはどうや? 彼ら、まさかあんたが尋ねて来るとは思っとれへんやろう。ボロを出すかもしれへん」

「分かりました」車を降りた。

 緊張する。だが、車から大政が見守ってくれている。心強い。

 チャイムを鳴らしてみる。「はい」と返事があった。暫くして、長身で痩せた中年男性がドアを細く開けて顔を覗かせた。顔の真ん中に鷲鼻が長く伸びている。長い鷲鼻のせいで顔が細く見える。見覚えのない顔だ。この家で間違いないはずなのに、見知らぬ人間が顔を出した。少々、焦った。

「あの、藤川と申します。弓月探偵事務所の人間です。こちらに弓月はお邪魔していませんでしょうか?」

「いいえ、うちに弓月さんという方はおりません」と男は怪訝な表情で答えた。

 いない。間違えたのか?不安が広がる。

「昨日、弓月と一緒に、こちらにお邪魔したのです。晃さん、いらっしゃいますか?彼なら何か知っているかもしれない」

「うちに晃という人間もおりません。どなたかとお間違えじゃありませんか?」

 晃もいない。人違い、いや家違いなのか。

「間違いありません。こちらのお宅でした。そうだ! 玄関にデッカイ熊の置物がおいてありますよね? 中に入れももらえませんか?」

 玄関を入って直ぐのロビーに北海道産だろう、かなり大きな木彫りの熊があった。

「・・・」一瞬、沈黙があった。

 あるのだ。木彫りの熊があるのだ。もう少しドアを開けてもらえれば、中が見える。俺はドアの隙間から中を見ようとした。

 それに気が付いた男は、「とにかく、うちに弓月さんという人はおりません!井上晃という人間もおりませんので」とバタンとドアを閉めた。

 万事休す。

 車に戻ると、大政はどこかに電話をしていた。何だ。ちゃんと見ていてくれていた訳じゃなかった。

「ほな、よろしゅう頼むわ」大政は電話を切ると、「おう、兄ちゃん。どやった?」と聞いた。

「門前払いを食らっちゃいました。見知らぬ中年の男性が出て来て、家に入れてもらえませんでした。最初は家を間違えたのかと思ったんですけど、あの家で間違いありません。突然、僕が訪ねて来て慌てたのでしょう。ボロを出しました。僕は晃さんいますかと尋ねただけなのに、彼、井上晃という人間はいませんと答えました。苗字を知っていたなんて妙です。それに玄関にあった熊の置物のことを尋ねたら、いきなりドアを閉められました。きっと、熊の置物があるのだと思います。僕に見られたくなかったのでしょう」

「ふふ。あんた、なかなかやるな。さて、現時点で、素人の自分たちにできることはこれくらいや。無理矢理、家に押し入ることは出来ひんし、この辺りの防犯カメラの映像が見てみたいが、そんな力もない。ここから先は警察の力を借りた方がええ。平野署に捜索願を出しに行ったらどや?」

「そうですね。その方が良いなら、そうします。あの~すいません。平野署まで乗せて行ってもらえますか?」

「勿論や。どうせ暇や。とことん付き合おたる」

「ありがとうございます!」


 平野警察署に足を踏み入れた途端、異様な雰囲気を感じた。

 俺を見た署内の警察官が皆、固まってしまうのだ。一様に、強張った表情を顔に張り付けて、ぎょろぎょろと目を動かして、俺を見つめる。まるで、幽霊に出会ったかのようだ。

 どういうことだ。俺が何をしたって言うのだ?

「お久しぶりです!」と年配の警察官が駆け寄ってきて敬礼をした。やっと事情が呑み込めた。俺に敬礼をしているのではない。後ろから歩いて来る大政に驚いているのだ。

 どすどすと足音を立てて、巨大なヒキガエルのような男が飛んで来た。「今日は一体、どういったご用件でしょうか?」

 平身低頭、ゴマでも擦りそうだ。

 大政が鷹揚に頷く。「ああ、岡本さん、お久しぶり。この若い筋肉兄ちゃんの話を聞いてやってくれ。連れが行方不明らしい。捜査願を出しに来た」

 上から目線、横柄だ。大政は一体、何者なのだ。しかし、筋肉兄ちゃんって。

「行方不明?」

「弓月知泉っていう、ちっとは名の知られた人間や。ほれ、あの辻花家の事件で名を上げた探偵さんや」

「事件ですか?」

「ひょっとすると、ひょっとするかもしれへん。この筋肉兄ちゃん、弓月の関係者やけど、昨夜から連絡が取れないらしい。色々、妙な点があってな。まだ、分からんが、大化けしそうな気がする。まあ、筋肉兄ちゃんの話を聞いてやってくれ」

「分かりました。じゃあ、筋肉兄ちゃん、こっちに来てくれ」

 ヒキガエルが腕を掴んで、ぐいと引っ張った。いつの間にか、筋肉兄ちゃんになってしまった。筋肉兄ちゃん呼ばわりは勘弁してもらいたい。

「あ、あの大政さん!」急に心細くなった。

「大丈夫や。二、三、片づけてから顔を出す。兄ちゃん、彼に昨日のこと、もう一度詳しく説明してやっとくれ」

「はい」部屋に連れ込まれた。

 取調室だろう。思い描いていた通りの部屋だ。窓の無い部屋で、壁に大きな鏡がはめ込まれている。部屋の中央にテーブルがあり、向かい合わせで椅子が置かれてあった。

「さて、兄ちゃん、先ずは、あんたの住所、氏名から聞かせてくれ」ヒキガエルに聞かれた。

「藤川世一と言います。住所は――」と答えた後で、思い切って「あの~刑事さん。あの人、大政さん、一体、どういう人なんですか?」と尋ねた。

「何だ。大政さんの知り合いじゃなかったのか。兄ちゃん、あの人が誰だか知らずに、一緒にいたのか?」

「はい。すいません」

「別に謝る必要はない。大政さんはつい半年前まで、大阪府警の捜査一課で、鬼政の異名を取った名刑事だ。鬼政の名前を聞いただけで、犯罪者たちは震え上がったものだ。いや、犯罪者だけじゃない。我々、警官だってそうだ。府警の捜査一課で、鬼政さんの教えを受けていない刑事なんていない。みな、鬼政さんには畏敬の念を抱いている。我々の中では、伝説の刑事なのだ」と答えると声を潜めて、「怖い人だったけどな」と言ってヒキガエルが笑った。

 驚いた。警察にコネがありそうだとは思っていたが、一課の刑事だったのだ。道理で井上晴秀殺人事件の詳細に詳しい訳だ。恐らく事件を担当していたのだろう。

「さあ、話を聞かせてくれ」と言うので、平野に来た経緯から説明した。

「弓月さんは何故、その仕事を引き受けたのですか?」、「ホテルには車で迎えに来てもらったのですね?」、「どうやってホテルに戻ったのか覚えていないのですね?」

 何度も同じ質問を繰り返された。同じ質問を繰り返すことで、証言に嘘が無いか確認しているのだ。一通り説明が終わると、ヒキガエルの要望で、再度、弓月の携帯電話に連絡を入れてみた。事務所にも弓月から連絡が無かったか、確認を取らされた。

 結果、弓月の携帯電話は電源が入っていないままになっていた。

「調べてみましょう」弓月の携帯電話番号を教えた。

「弓月さんのご家族に何か連絡が入っていないか、確認してもらえませんか? その、お金の要求とか無かったかどうか」

 ヒキガエルに言われて気がついたが、弓月は誘拐された可能性があるのだ。もう一度、事務所と連絡を取って、弓月の家族に確認を取ってもらった。独身だが、両親は健在だ。

――何の連絡もないそうです。

 阿部から返事があった。ちょっと抜けたところのある子だ。ちゃんと確認したのかどうか気になったが、誘拐事件だとすると、家族には警察には知らせるな! と誘拐犯から要求があったはずだ。本当のところは分からない。

「弓月の家族は何も知らないようです」

 ヒキガエルが「ふうむ」と唸った時、勢いよくドアが開いて大政、いや鬼政が入って来た。人の良い好々爺に見えるが、これで鬼政と呼ばれて恐れられた伝説の刑事だったのだ。

「兄ちゃん、事情聴取は終わったかい?」

「はい。大体、分かりました」俺に代わってヒキガエルが答える。

「どや?」

「大政さんの言う通り、ひょっとするとひょっとするかもしれませんね」

「事件性がある――そう見る訳やな」

「ええまあ。捜索願を出しますか?」

「兄ちゃん、どないする?」

「はい。事務所にも確認しましたが、僕に一任すると言うことでした」

「ほな、早い方がええ。さっさと書いてしまいな」

「分かりました」

 地獄に仏だ。とにかく鬼政に従っていれば間違いない。きっと弓月を見つけ出すことが出来る。


 ホテルにジムがあった。

 これは助かる。筋トレは日課になっている。ジム用の運動着を持って来ている。タンクトップに半パンに着替えると、ジムに向かった。

 平野署で捜索願を出した後、鬼政がホテルまで送ってくれた。

「悪いな。兄ちゃん、もう少し調べたいことがある。夕食、付き合えなくて悪いが、美味しい店を教えたるよ」と言って、ホテル近くのお好み焼き屋を教えてもらった。確かに美味しかった。

「明朝、迎えに来たる。心配しな。あんたのボス、わいが見つけたる」

 時間を約束して、鬼政は走り去った。

 ジムに降りて行くと、先客がいた。中年の男性だ。発達した胸筋を見れば、日頃から体を鍛えていることが分かる。短く刈り上げた髪を七三に分けているところから見て、サラリーマンだろう。出張に来てホテルに宿泊しているといった感じだ。

 眉間にくっきり縦皺が刻まれている。ストレスの多い仕事なのだ。だから、筋トレに精を出しているのかもしれない。

 男はちらりと、視線を寄こしたが、俺を無視してトレーニングに励んでいる。まあ、ジムなんてこんなものだ。誰もが黙々と汗を流す。

 そう広くはないが、器具は揃っている。まだ早い。たっぷり汗を流せそうだ。男がバタフライマシンという大胸筋を鍛えるマシンを離れたので、直ぐに座った。俺も今日は徹底的に大胸筋を虐めたい。

 ジムのあるあるだが、前の人間が使ったマシンの重量が、自分が使っている重量より軽いと勝った気がする。重量を重くしながら、心の中で、ガッツポーズをしてしまう。サラリーマンの重量は俺と同じだった。ううむ。なかなかやる。

 もうひとつ。ジムのあるあるなのか、俺の性格なのか分からないが、ジムで他人と仲良くなったことがない。都内のジムには二年以上通っているが、ジム仲間などいない。いや、顔は知っているが、話をしたことがないやつらばかりだ。狭いジムに男と二人切りなのが、少々、気が重かった。

 だが、重量は気になる。マシンで彼に重量で負けたくない。

 男はランニングマシンに掛けてあったタオルで汗を拭うと、つかつかと俺に歩み寄ってきた。何だ。まさか、話しかけて来るつもりなのか。俺にその気はないぞ。

「あの~すいません」と男が話かけて来た。

「へっ⁉」と間の抜けた返事をしてしまった。つい構えた。

「ベンチプレスをやりたいのですが、一緒にやりませんか?私がやる時、見ていてもらえたら、あなたがやる時に手伝います」

「ああ~」ベンチプレスは上半身を鍛えるトレーニングだ。

 長椅子に仰向けに寝て、バーベルを持ち上げる。筋トレの定番と言える。筋トレマニアはいくら重量を上げることができるのか競い合う。これもジムのあるあるだ。

 これが意外に危険なトレーニングで、重たいバーベルを何度も上げ下げしている内に、力が入らなくなって首に落ちてしまうことがある。ギロチンと同じだ。死亡事故も起きている。

 だが、筋トレ効果は抜群だ。

 ジムに仲間のいない俺は、あまりベンチプレスをやったことがない。学生時代、アメフトをやっている時、隣に陸上部の部室があって、前にベンチとバーが置いてあった。一人でベンチプレスをやっていて死にかけてから、トラウマになってしまった。

「ベンチプレスは、あまりやったことがありませんが、それでも構いませんか?」

 興味はある。いや、前からやってみたかった。

「構いませんよ。教えます。怪我しないように、サポートしてもらえれば助かります。じゃあ、先にやって下さい。私がサポートします」

 男が笑った。日焼けした顔に白い歯が映える。これも筋トレあるあるかもしれない。

「そうですか? 最初はどれくらい、挙げたら良いんですかね?」

 やる気満々だ。好奇心を押さえ切れない。

「男性のベンチプレス平均は四十キロだそうですが、あなたならもっと行けそうですね。そうだな~先ずは六十キロくらいでどうです?」

「やってみます」

「十回、三セット、やりましょう。インターバルは五分で」

「はい」楽しくなってきた。

「ひとつ聞いても良いですか?」と男が尋ねた。

「ええ」と頷くと、「何故、筋トレをやるのです?」と今まで考えてもいなかったことを聞かれた。

「学生時代、アメフトをやっていましたので、筋トレは習慣になっています」と答えておいたが、果たしてどうだろう?

 深く考えたことなど無かった。

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