刑事と鑑識

 翌朝、九時に鬼政が迎えに来た。

「裏が取れた」と鬼政が言う。

 軽自動車に乗り込みながら、「裏って何ですか?」と尋ねた。

「寿司屋や。兄ちゃん、井上家で寿司を食ったって言うてたな。寿司屋の名前は加根寿司、ちゃうか?」

「はい。そうです」

「加根寿司に確認を取った。一昨日、大口の出前は、辻花家だけやったみたいや。兄ちゃん、あんたが寿司屋の名前を覚えていたお陰や」

「やっぱり辻花家だったのですね」

 寿司屋のことなど、すっかり忘れていた。流石は鬼政だ。些細な事柄でも疎かにしない。昨日、あれから駆け回ってくれていたのだ。そう言ってくれれば、一緒に走り回ったのだが、足手まといに思われたのかもしれない。

 車をスタートさせながら、鬼政が尋ねる。「連絡はあったか?」

「ありません。携帯電話は電源が切れたままですし、僕は勿論、事務所やご両親にも連絡はないそうです」

 鬼政が迎えに来る前に、事務所に電話をかけて確認してあった。

「さよか。あんたらが辻花家にいたと確認が取れたところで、兄ちゃん。考えてみな。行方不明になって一日、経過したのに、未だに連絡があれへん。誘拐ではなさそうや。あんたのボスは大の大人や。姿を消したくなる理由があったのかもしれへん。

 現時点で事件性を疑うには根拠が薄弱やけど、あんたのことが引っかかる。気がついたらホテルで寝とったと言うたな。大の男をホテルまで抱えて行くなんてえらいこっちゃで。わざわざそんな難儀なことをやった意味は何やねん?」

「さあ、僕にも分かりません」

「あんたが邪魔やったからや。せやけど、あんたに恨みはあれへんかった」

「ええ、はい・・・と言うことは、弓月に恨みがあったということになります。弓月はどうなってしまったのでしょうか?」

「平野署でわいのこと、聞いたやろ?」

「はい。優秀な刑事さんだったとお伺いしました」

「はは。他にも散々、悪口を聞かされたはずや。まあ、ええ。わいは一課で殺しを専門に扱っとった。どうしても、悪い方に考えてしまう。せやけどまあ、単に行方を晦ましただけかもしれへん。その可能性だってある。せやけど誘拐や下手すりゃあ殺されとる可能性だってある」

「はあ・・・」正直、弓月は殺されてしまっており、もうこの世にいない――とは想像できなかった。常に自信満々で横柄な男だ。憎まれっ子世に憚るというが、その典型のような男だ。弓月が殺されたとは、どうしても思えなかった。

「さて、殺されたとすると死体はどうなった。死体を処理せなあかん。兄ちゃん、あんたならどないする?」

「どうするって・・・山にでも埋めるか、海に捨てるか――ですかね」

「せやな。死体を遺棄する必要がある。出来れば見つかれへん場所に。例え見つかっても、自分とは関係ないと言い切れる場所がええよな」

「そうですね」鬼政は何を言いたいのだろう。

「死体を遺棄するには、当然、人気の無い場所がええ。捨てる現場を見られては一大事やからな。近くに防犯カメラがあってもろては困る。できれば遺体が見つからへん場所がええ。自宅の庭だとか、私有地だと理想的や。せやけど、万が一ってことがある。遺棄した死体が見つかった時のことも考えておかなならへん。庭から遺体が出れば、誰がやったか直ぐに分かる。ほんで、ある程度は人が自由に出入りできる場所がええ」

「はあ・・・」

「署で辻花家の資産状況を調べた。遺体を遺棄するのに相応しい場所がないか探してみたんや。流石に地主だけあって、私有地をぎょうさん、持っとった。その中からいくつか選んでみた。そこに行ってみよう」

 平野署で姿を消していた間に辻花家のことを調べていたのだ。

「はい」と頷く。

「どや? えらいもんやろう。おう、せや。兄ちゃん、あんた白眉って言葉、知っとるか?」

「勿論、知っています。優秀だっていう意味でしょう?」

「そうや。三国志の時代、馬家には五人の兄弟がいて、長男の馬良が最も優秀やった。その馬良の眉毛に白い毛があったことから、白眉っちゅう言葉が生まれたらしい」

 また三国志だ。

「へえ~」興味がなかったが、感心する素振りはしておいた。

「じゃあ、兄ちゃん、泣いて馬謖を斬るって言葉、知っとるか?」

「聞いたことがあります」

「諸葛孔明が魏に攻め込んだ、北伐や、馬謖は孔明に可愛がられ、将来を嘱望されとった。才知に富んだ若者やった。一軍の将に任命された馬謖は孔明の命令を守らず、大敗を喫してしもうた。人材不足に悩どった蜀やけど、孔明は軍法に照らして馬謖を斬罪に処した。そのことから、泣いて馬謖を斬るっちゅう言葉が生まれた」

「はあ・・・」何となく分かった。

「だがな。さっきの白眉の馬良は馬謖のお兄ちゃんやった。兄弟で一番、優秀なのがお兄ちゃんやったとしたら、馬謖はそれほど優秀じゃなかったのかもしれへん。実際、下手を打って処刑されとるし。まあ、処刑されたのではなく、獄中で病死したっちゅう説もあるそうや」

 昨晩、ジムで出会った男から、今晩もホテルに泊まるなら、ベンチプレスを一緒にやりませんかと誘われた。会田と名乗った男はサラリーマンで、明日、名古屋に戻るらしい。ホテルに宿泊するのは今晩までだ。

 ベンチプレスの効果の高さに驚いた。今日は筋肉痛だ。筋トレを極めている俺にしては珍しい。筋肉は破壊と再生を繰り返す。筋肉痛は筋肉が痛んでいる証拠だ。筋肉を休ませた方が良いのは分かっていたが、ベンチプレスは魅力的だった。それに、会田に負けたくない。

 途中から、筋トレのことを考えていたので、上の空で鬼政の話を聞いていた。すると、突然、「ひとつめがここだ」と鬼政が言った。現実に引き戻される。

 住宅街の真ん中に小山があり、草木が鬱蒼と茂っていた。だが、一目見るなり、「ここはちゃうな」と鬼政が呟いた。

「何故です。穴を掘って埋めれば分かりませんよ」

「兄ちゃん。見てみな。勝手に人が入らへんように柵で囲ってある」と鬼政が言う。確かに道路脇に二メートル以上ありそうな金網の柵が設けられてあった。「死体を抱えて、あの柵を乗り越えるのは無理や。ちごたな、ここは」

 なうほど、その通りだ。鬼政は一瞥しただけで、車をスタートさせた。

「まあ、こんなもんよ」と鬼政は言う。

 警察の捜査など、外れを繰り返し引くことで、当たりを引く確率を上げるようなものだ。そして、「兄ちゃん。弓月って言うあんたのボス、どない人間や?」と聞いてきた。

「う~ん」と考えた後で、「まあ、一言で言うと傲慢な人間ですかね」と答えた。

「はは。兄ちゃん、苦労しとった訳やな」

「でも、憧れの人物でしたから。傲慢なのも、個性だと思っていました」

「ほう~兄ちゃん、あんた偉いな~若いのに、なかなか人間が出来とる。兄ちゃん、生まれつきオーラのある人間なんて、おらへん。オーラってのはな、実績を積み重ねて初めて纏えるものなんや」

「弓月にはそんなオーラがあったような気がします」

「さよか。ああ、ここや。ここが二つ目の候補地や」と言って、鬼政は小さな神社の境内に車を停めた。

 見ると道路の片側に畑が広がっていて、反対側には池があった。畑に水を供給する為のため池のようだ。

「神社からため池にかけて、辻花家の所有地らしい。ちょっと降りてみよう」

 見晴らしは良いが民家が無い。付近に防犯カメラは見当たらなかった。交通量が少ない道路だ。夜になると人通りは絶えるだろう。人目につかない。

 こういったため池で水難事故が発生することが多い。勝手に人が入り込まないようにため池の周りには鉄柵が張り巡らせてあった。だが、道路の向うにある畑に水を供給する為に、一部が橋になっていた。道路が橋になっていて、下を用水路が走っている。この用水路の入口辺りには柵がなかった。背の低い欄干があるだけだ。

 鬼政が近づいて来て言った。「この辺は民家から距離がある。このくらいがええ」

「そうですね。雨の多い季節になると、用水路に水があふれるでしょう」

「うん?兄ちゃん、ここを見いや」鬼政が指さす。

 鉄柵と欄干の間に、人一人通ることができる隙間があった。

「これは・・・」鬼政の言わんとしていることが分かった。

 ため池の土手に雑草が生い茂っている。それが欄干と鉄柵の間、隙間のある箇所だけ、雑草がなぎ倒されていた。何か重たいものを引きずった跡に見えた。

「あんた、ついとるな。二カ所目で、早速、怪しい場所が見つかった。日頃の行いがええんやな。普通、こないなことはおまへん。道路から死体を引きずって、池にドボンってとこかな。おっと、兄ちゃん、悪いな。あんたのボスやった。悪い、悪い。全く、テレマカシーが無いよな」

 デリカシーだろうと思ったが、口に出すのは止めておいた。テレマカシーは確かインドネシア語でありがとうの意味だったはずだ。

「どうします?」

 鬼政は愉快そうに言った。「そりゃあ、池を浚ってみるしかないわな。まあ、暫く放っておけば、遺体は腐敗が進んで、体内で発生するガスの為に膨張し、浮かび上がってくる。それまで待ってられへんよな?」

「はい」一刻も早く、弓月の行方を知りたい。

「こないな時、国家公務員だと、勝手に私有地に押し入って、探す訳には行かへんねん。空き地やけどな。そやけど、わいはもう一般人やからな。池で遊んでおって、死体を見つけてしもたら、それはもうそれでしゃあないこっちゃ。ちゃうか?兄ちゃん」

「はあ~で、どうやって池を浚うのですか?」

「そりゃあ、兄ちゃんに決まっとる。池に潜って死体を探すんや。心配せんでええ。ロープで体を括っておけば、端っこを持っといてやる――と言いたいところやけど、ため池ってやつは意外に危険や。大人でも溺れてしまうことがある。ここは専門家を呼んだ方がええ」

 池に潜れと言われるかと思った。

「専門家ですか?」

 弱った。金がかかりそうだ。だが、私有地に勝手に専門家なんか呼んで大丈夫か。

「何や楽しくなってきたな」鬼政は携帯電話を取り出すと電話を掛け始めた。「ああ、わいや。政や。うん、その話はまた今度な。おもろい事件があるんやが、力を貸してくれへんか? 人探しや。うん。ちょっと池を浚いたんやけど、何とかなるかな?えっ、さよか。流石はマコっちゃん! うん。辻花の辺りや。ああ、分かった。勿論、覚えとる。ほな、そこで待っとる」

 鬼政は電話を切ると、にっと笑ってから言った。「心強い味方が来てくれる。ほな、兄ちゃん、移動や。今、人目については元も子もない」

 ため池があった場所から車で十五分ほど走ると、住宅街になり、鬼政は一軒の花屋の前で車を停めた。つむぎと看板が出ている。「おう、ここや。若いの、降りてくれ」

 花屋にいったい何の用事があるのだ?ずんずん花屋に入って行く。後に続くと、店内の一角にテーブルと椅子が置いてあった。鬼政は椅子に腰かけながら「兄ちゃん、こっちや」と手招きした。

「いいんですか、勝手に座って」

「ええねん。ここは喫茶店もやってんねん。美味しいコーヒーを飲ませてくれるんや。さあ、兄ちゃん、はよ座りいや」

 椅子に腰掛けると、「あらまあ、嫌やわ。お得様にお茶をお出ししているだけやのに、喫茶店やなんて」と女主人が現れた。

「マイちゃん」鬼政の笑顔がはじける。

 鼻の下が伸びすぎだ。かつて犯罪者を震え上がらせた男とは思えない。

 女主人を見て驚いた。美人だ。細面で人形にように整った顔をしている。どう見ても三十代にしか見えないが、笑うと寄る目じりの皺から、実際はもっと年上のようだ。四十代、いやひょっとしたら五十代かもしれない。

「はは。悪いね、マイちゃん。マコっちゃんと待ち合わせてんねん。暫く場所を借りるで」

「はいはい。何時ものコーヒーでよろしいですか?」

「うん」と鬼政が子供のように答える。

 女主人が「漆原うるしはらと申します。今後とも、よろしく御贔屓に。あなたもコーヒーでよろしいかしら?」と挨拶して来た。

「あっ!はい。何でも結構です」と答えると、「おいおい、兄ちゃん。何でもええは無いやろう。なあ、マイちゃん」と鬼政が口を挟んだ。

 花屋の女主人にメロメロのようだ。

「待ってな。じきにやって来る」

 ここで専門家と待ち合わせなのだ。専門家がやって来るまで、結構、待たされた。その間、鬼政は女主人に夢中になって話しかけていた。

 やがて、色黒で体格の良い中高年の男が店にやって来た。丸坊主にしているが、額が見事にM字に禿げあがっている。

 何だか体が膨れ上がって見える、ごわごわとした格好をしていた。

「何や、何や。人を呼びつけといて、マイちゃんとの話に夢中になって、来たのに気がつきもしぃひん」M字禿げが店に入ってくるなり、鬼政に向かって吠えた。

「おう、マコっちゃん。遅かったやんけ」

「遅かったやんけやあらへんがな。池を浚うんやろう。支度に時間がかかってんねん」

「そりゃあ、悪かったな。ほな、行こか」

「おい、おい。待てよ。何て自分勝手なやつや。わいにもマイちゃんのコーヒーを楽しむ時間くらいくれや」

 M字禿げが隣の椅子に腰を降ろす。

「おう、さよか。われもコーヒーを飲みたいってか」

「マイちゃん。悪いが何時もの美味しいコーヒーを一杯もらえるか?」

「ほな、わいももう一杯、もらおうかな」

「コーヒーばっかり飲んどると、小便、近なるで~」

 二人の言い合いに女主人が割って入った。「コーヒーを煎れて差し上げますから、喧嘩しないで下さいね。お兄さん、あなたももう一杯、いかがかしら?」

「あっ、いえ、僕はお腹いっぱいです」

「ああ、そやった。紹介がまだやったな。こいつは鴨志田誠かもしだまことって言うて、府警時代の同期よ。こう見えて、鑑識課長を勤めとったんやで。まあ、ゴマすりが得意やったからな」と鬼政がM字禿げを紹介してくれた。

 元鑑識官だ。これで元だが刑事と鑑識が揃った。

「ふん。われと違ぉて一般常識があっただけや。何時まで経っても大人になれんと上司と喧嘩ばかりしとったやつに言われたぁない」

「一般常識⁉ それこそ、ご飯にマヨネーズをかけるようなやつに言われとぉないわ!」

「ご飯にマヨネーズをかけて何が悪い!あの芳醇な旨さを知れへんだけのくせに。いっぺん、やってみな~病みつきになるから」

 まるで子供の喧嘩だ。

「相変わらず仲が宜しいこと」と女主人が割って入った。

「マイちゃんも座りなよ。どうせ暇やろう?」

「あら、暇だなんて失礼な」と女主人を加えて、賑やかな会話が続いた。

「最近の携帯電話、うちらには、もう難しくて~うちに若い人でもいればええのに」と女主人が言う。

 試されているのだろうか?携帯電話くらい人並み以上に扱える。俺のこと、筋肉バカだと思っているのだろうか?

「僕で良ければ教えましょうか?」と言うと、「おっ!兄ちゃん、携帯電話に詳しいのか?」と鬼政まで意外そうな顔をした。

 闘争心に火がついた。いや、何と戦うのだ?

「どこが分からないのです?」と携帯電話の使い方を教え始めた。「助かるわ~」と喜ぶ女主人を鬼政がとろけそうな顔で見ていた。

 最初は興味津々といった様子で、鬼政は俺が女主人に携帯電話の使い方を教えるのを、隣で茶化していたが、その内、飽きてしまった。「あい変わらず、飲み方が汚い」と鴨志田を弄り始めた。

 やがて、コーヒーを飲み終わった鴨志田が「ほな、ぼちぼち行こか。日が暮れると難儀や」と言い出し、やっと花屋を後にした。

 花屋を出ると、鴨志田が乗って来たのだろう。軽トラックが泊まっていた。荷台に幌が掛けられていたが、大量に荷物を積んで来たようだ。

「ほな、案内したれや」

 鬼政の軽自動車を先頭に、鴨志田の軽トラックが続く。

「面白い人ですね」とハンドルを握る鬼政に言うと、「腐れ縁や。ああ見えて、鑑識官としては一流や。右に出るものがおらへん。任せておいて大丈夫や」と嬉しそうに答えた。

「劉備と孔明みたいなものですね」と三国志好きの鬼政に言ってやると、「水魚の交わりってやつやな。お互い切り離せへん関係にある――って、ちょっと待て。どっちが劉備で、どっちが孔明や。あいつ、そんなええもんやあらへんがな」

 目指すため池に到着した。

 神社に車を停める。「ここか。思うたより小さいな。これなら一人で十分や。こんな重装備は必要なかった」と言いながら鴨志田が軽トラックから降りて来た。がばと上着を脱ぐと下にダイビングスーツを着込んでいた。

 衣服の下にダイビングスーツを着ていたのだ。道理でごわごわして見えると思った。鴨志田は荷台からボンベや水中眼鏡等、潜水用具一式を降ろすと、手際よく身にまとった。

「ため池と言うてなめちゃあいけん。いっぺん、落ちると這い上がれんようになる」と俺に言うと、鬼政に向き直って言った。「ほな、ちょっくら様子を見てくる。政よ、後は頼んだで」

「分かっとる」鬼政が頷く。

 鴨志田は土手に腰かけると、ずりずりと尻で滑り降りて、ざんぶと池に身を投じた。

「さてと」と鬼政は荷台から上着を引っ張り出すと、羽織ってヘルメットを被った。そして、手に赤い誘導灯を持つと、「兄ちゃん。これを着て、これを被って、これを持って」とジャケットとヘルメット、それに誘導灯を荷台から投げて寄こした。

 ジャケットを着てヘルメットを被り、それに誘導灯を手に持つと、一見して工事現場などにいる交通誘導員に見える。

 鬼政はため池のフェンスと用水路に掛かった橋の欄干の隙間部分に立ち、「ほら、兄ちゃんはここに立って」と道路の反対側に俺を立たせた。

 交通量の多くない道路だが、それでも車が通ることがある。運転手はため池で何か工事をやっているのだと思うことだろう。

「なあ、兄ちゃん。あんた、酒がダメなのかい?」

 滅多に車など通らない。鬼政が道路を挟んで話しかけ来た。

「はっ⁉ いいえ、どちらかと言えば強い方だと思います」

「さよかい?昨晩、酔って記憶を無くしたんやろう? ホテルに運び込まれたことさえ覚えていひん。なんぼ疲れとったとしても、意識を失うほど酔うなんて変だと思わへんか?」

「思います。あれくらいの酒で酔っぱらってしまったなんて、信じられません」

「一服、盛られたんやろうな」

 このガタイだ。酒は弱い方ではない。確かに疲れてはいたが、弓月の警護があったのに、あれだけの酒で前後不覚となったなんて信じられなかった。

「弓月に何かあったら、事務所のみんなに会わす顔がありません」

「そう気にするな。兄ちゃんのせいやあらへん。あんた、まだ若いから、周りのことがよう見えておらへんだけや。そうや、兄ちゃん、三国志に出て来る司馬懿仲達って知っとるか?」

「確か、諸葛孔明のライバルだった人じゃなかったですか?」

「そうや。曹操が建てた魏の国は、司馬懿に乗っ取られてしまう。晋ちゅう国になってしまうんやが、司馬懿は屈強の私設軍隊を持っとんてん。私設軍隊の兵士はな、司馬懿の為なら命も要らんちゅうほど、忠誠心に溢れた軍隊やってんやて。どうやって私設軍隊を作ったと思う?軍隊から生きのええ戦士を引き抜いて来た訳やないで」

「さあ、分かりません」

 車が一台通った。運転手は不審を抱いた様子もなく、通り過ぎて行った。

「司馬懿はな、戦災孤児を拾って来ては戦士として育てたんや。その数、三千人。やがて彼らが一人前の戦士となると、司馬懿の為なら喜んで死地に赴くような最強の戦士となってんねん。司馬懿にとっちゃあ、都合のええ戦士や。だがな、彼らにだって人生はあったはずや」

「はあ・・・」鬼政が言わんとしていることが、何となくだが理解できた気がした。

 弓月に忠誠を誓うのは良いが、自分の人生だ。盲目的になるなとでも言いたいのだろう。

 背後からざぶんと音がして、「おお~い」と声がした。鬼政が振り返る。ため池の中から鴨志田が顔を覗かせていた。

「どや?」と鬼政が近づくと、「あった。見つけた。遺体や」と鴨志田が顔をごしごしと手で拭きながら答えた。

 あまりに自然な様子だったので、深刻さが伝わって来なかった。まるで、不法投棄されたゴミでも見つけたような口ぶりだ。

「やっぱり出たのか」

 何だ、何が出たのだ!遺体なのか? 弓月なのか⁉ 思わず駆け寄った。

「弓月ですか⁉」

 池の中から鴨志田が答える。「さあてな。兄ちゃん、あんたには後で面通ししてもらう必要がありそうや。政、通報してや。それと荷台にあるロープを投げてくれ」

「OK、了解。ああ、兄ちゃん、もうええぞ。その服とヘルメットを脱いでも。さて、あいつらが駆けつけて来るまでに言い訳を考えておかなくちゃあな」

 鬼政はそう言って悪戯っぽく笑った。私有地だ。勝手に池を浚った理由が必要なのだ。しかし、死体だ。大騒ぎになるだろう。

 鬼政が通報する。通報を受けて、直ぐに警官が駆けつけて来た。現場に鬼政がいることに気がつくと、「あっ!」、「おっ!」、「えっ!」と警官は皆、一応に奇声を上げた。そして、鴨志田を見て、また「えっ!」と驚きの声を上げた。

 鬼政が「ほれ、規制線を張れ」、「こら、鑑識が来るまでその辺、踏み荒らすな!」と現場を仕切り始めた。鬼政は一般人のはずだ。

 俺は鴨志田と少し離れた場所で、軽トラックに寄りかかりながら作業を見守っていた。

「兄ちゃん、とんだ事件に巻き込まれたなあ~それはそれで運の悪いことやけど、せやけどあんた、ついとるで。偶然とは言え、政に巡り会うなんてな。あいつに任せておけば大丈夫や。きっと犯人を見つけてくれる」

「お二人は長い付き合いなんですね」

「腐れ縁ってやつよ。憎まれ口を叩きながら、張り合ぉて来たんやけど、気がついてみたら長い時間が経っとった」

 鬼政と同じようなことを言う。

「色々、ありがとうございます。お二人に出会わなければ、どうなっていたか。考えただけでぞっとします」

「気にしなさんな。政もわい定年で警察を放り出されて暇を持て余しとる。丁度ええ暇潰しになりよった。特に政はやもめやから、警察辞めて、何をしたらええか分からんかったはずや。好いとった三国志を研究するとか言うとった」

 それで三国志なのだ。

「やもめ? ご家族はいないのですか?」

「十年前に病気で奥さんに先立たれとる。捜査で看取ってやることが出来なんだことを、未だに後悔しとる。子供はおらんかった。花屋のマイちゃんに惚れとるのは分かっとるんやが、亡くなった奥さんに義理立てして好きやと言われへんでいる」

「そうなのですね」

 人間、誰もが複雑な事情を抱えている。

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