達谷の悪路王

 酒が進むにつれ、宴席が乱れてきた。思い思いに相手を見つけ、愚にもつかない話で盛り上がっていた。

 事件の話が終わると、潮が引くように弓月の周りから人がいなくなった。時折、晃がグラスにビールを注ぎに来るだけだ。

「いいか。物事は表面だけを見ていてはダメだ。裏の裏まで読まないと、真相には辿り着けない」と俺は弓月からありがたい教えを受けていた。「期待しているから、小うるさいことを言うんだ」と言われると、大人しく耳を傾けるしかない。

「体と一緒に頭も鍛えろ!」

 一番、言われて欲しくないことを言われてしまった。俺のこと、筋肉バカだと思っているのだ。

「おおい、弓月さん! 晃、大変だ」輝秀がビールを片手にやって来た。

 ほっとした。これで弓月の説教から解放される。先ほどまで、輝秀は田上と青田を相手に趣味の競馬の話題で盛り上がっていたはずだ。

 弓月が怪訝そうな顔をする。「どうしました?」

「青田さんが、うちに来しなに、家の前で変な男を見てん言うんや。その男と言うのが例の――」と言葉を切ると、晃と弓月の顔を交互に見回して言った。「特徴の無い、のっぺりとした顔をした男やったみたいやで!」

「のっぺりとした顔をした男ですか!?」晃の声が大きくなる。

「ああ、せや。身長は百七十センチ前後、長髪でのっぺりとした顔をしとったらしい。わいが目撃した男と同一人物やないかと思う。家の前の道路から、うちの様子を伺っとったらしい。青田さんが声を掛けようとしたら、慌てて逃げて行ったみたいや」

「そんな・・・何故、今になって・・・」晃が呟く。そして、弓月に気がつくと、「そうか! やつは、弓月さんがうちにやって来たことを知って、様子を見に来たのかもしれない。弓月さんが事件の謎を解き、正体を暴き出してしまうことを恐れているんですよ」と興奮気味にまくしたてた。

「まあ、落ち着いて、晃君」弓月は晃をなだめると、「晃君、これは陽動作戦なのだよ。騙されてはいけない。のっぺりとした顔をした男と言うのは、犯人が作り上げた虚像だと思って間違いない。未だに、お父さんを殺害した犯人が捕まらないのは、犯人のかく乱戦法に警察が踊らされているからなのさ」と言って片方の眉を上げた。

「かく乱戦法・・・ですか?」

「そうだ。のっぺりとした顔をした男は、恐らく金で雇われて、家の周りをうろついていただけだ。犯人が仕掛けたトリックに引っ掛かってはいけない」

 弓月の言葉に晃が黙り込む。静寂が食卓を覆った。

 弓月の言葉に納得できないのか、輝秀は「なんしか、わい、いっぺん、家の周りを見て回って、その怪しい男がおらんか探してみるわ」と言って、部屋を出て行った。

 輝秀の後姿を見送ると、晃は「大丈夫でしょうか?警察に通報した方が良いのでは無いでしょうか?」と弓月に尋ねた。

「心配ない。僕を信じて」と弓月は短く答えた。

 弓月はこの事件の真相が分かっているのだろうか?

「弓月さん、ひょっとして、親父の事件の真相が分かっているのではないですか?」と晃が同じ疑問を口にした。

「そうだね、ある程度、目ぼしが付いているよ。こちらに来る前に、部下に調査を依頼して来た。その調査結果が僕の推理通りだったならば、事件は解決だと思っている」

 驚いた。初耳だ。誰に調査を頼んで来たのだろうか?

「どんな調査なのですか?」

 弓月はこういう質問に答えない。名探偵の常として、全ての材料が出そろわないと、推理は披露しないものだと思っている。弓月には関係者を一室に集めて、滔々と謎解きをやりたい、という思いがある。

 案の定、「はは。晃君は僕の仕事に興味があるようだね。僕の中で全ての謎が解き明かされ、真相がはっきりしたなら、誰が君のお父様を殺した犯人なのか教えて上げるよ。現時点では、まだ正確なことを言えない。事件の真相を導き出す為の最後のピースが埋まっていないからね」と弓月は答えた。

「そうですか・・・」

「まあ、お父さんの事件の背後に潜む問題の裏付けを取っている、とだけ言っておこう」

「その調査結果は何時頃、分かるのですか?」

「早ければ今晩中に報告があるはずだ。でも、明日になるかもしれない。明後日になるかもしれない。その間、暫くこちらに滞在することになりそうだ」

「勿論、調査をお願いしたのはこちらです。気のすむまで滞在して頂いて結構です。滞在費は全て負担します」と晃が言い終わった時、輝秀が戻って来た。

 輝秀は真っ直ぐに弓月のもとへ歩み寄ると、「玄関先にこないなもんが落ちていた」と一枚の紙片を差し出した。

「は?」弓月は優雅に指を動かして、芝居がかった仕草で紙片を受け取った。メモ用紙だ。四つに折り畳んであった。

 紙片を開くと、「何だ?これは・・・」と弓月が眉をひそめた。

「何て書いてあるのですか?」晃が弓月の手元を覗き込む。

 弓月は目の前の寿司皿を俺の寿司皿に重ねてスペースを作ると、「詩のようだ」と言って紙片を広げた。


 ――悪路王に捧げる鎮魂歌


 達谷の悪路王、鶏の黒尾を頭巾に飾り、

 大刃を片手に大将軍と戦った。

 武運拙く、大将軍の捕虜となり、

 縄を掛けられ、京の都に連れて行かれた。

 大将軍の嘆願空しく、悪路王は首斬られ、

 悪名だけを世に残し、悪路王は風になった。

 悪路王は風になった。


 紙片には癖のある字で詞のようなものが書かれてあった。まだ続きがあったのかもしれない。破かれた跡があった。

「これ、どういう意味なのでしょうか?」晃が首を捻る。

「鎮魂歌とあるので、歌詞のようだね。悪路王って、何だろう?」

 携帯電話で悪路王について検索してみた。意外にあっさり見つかった。「悪路王とは平安時代、岩手県の岩手山に棲んでいた鬼の頭領の名前のようです。蝦夷の首長であったアテルイと言う人物と同一人物であると言われているそうです」

 俺がそう言うと「アテルイ!? アテルイだったら、僕も知っています」と晃が答えた。隣で輝秀も大きく頷いた。

「なるほど、蝦夷だ。皆さんが良く知っているということは、坂上田村麻呂に縁のある人物なのですね?」

「はい。流石は弓月さん」晃が坂上田村麻呂とアテルイの関係について説明した。「アテルイは陸奥国と言うので、今の岩手県の胆沢地方を支配した蝦夷の族長で、軍事指導者でした」

「阿弖利為」と漢字表記される。

 平安時代、律令国家への道を歩み始めた朝廷は、東北地方で産する金に目を付けた。東大寺造立を企図していた聖武天皇は、廬舎那仏を黄金で覆う為に、東北の金鉱脈の支配を目指し、紀古佐美を征東将軍とする朝廷軍を派遣した。

 朝廷よりの武力制圧に対して、蝦夷の民は結束を強めた。アテルイを首長に頂き、朝廷軍に激しく抵抗した。軍事の才に秀でていたアテルイは、圧倒的な兵力を誇る朝廷軍に対し、地の利の生かし、大打撃を与えた。

 延暦八年(七八九年)のことで、これを巣伏村の戦と言う。

「アテルイは今でいうゲリラ戦を繰り広げた訳だ」弓月が口を挟んだ。

 歴史は勝者によってつくられる。だが、敗者がいてこその勝者だ。史書に名前が登場するものの、実際にアテルイがどんな人物であったのか分からない。

「僕は当時の朝廷軍は、蝦夷の民を殲滅しようとしていたのではないかと思っています。皆殺しとなると、蝦夷の人々はそれこそ必死で抵抗したことでしょう」

 蝦夷の抵抗に手を焼いた朝廷では、紀古佐美に代わって、坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣する。

「紀古佐美がとった強硬一辺倒の戦術が上手く行かなかったことから、坂上田村麻呂は硬軟両様の戦略を用いました」

 先祖のこととだ。話に熱が入る。

 坂上田村麻呂は十万を号する大兵力で、蝦夷軍を一蹴すると、胆沢に城を造営した。巨大な胆沢城の造営は蝦夷の民に無言の圧力を加えた。

「そして、坂上田村麻呂はアテルイに投降を呼びかけたのです。朝廷軍に投降すれば、蝦夷の民の命までは取らない。そう約束したのでしょう。アテルイは五百の蝦夷の民の命と引き換えに、田村麻呂の捕虜となりました」

 延暦二十一年(八○一年)四月、アテルイは副将のモレ(盤具公母礼)と共に、ついに投降する。投降を受けた田村麻呂は喜び、一族の命を保証すると共に、アテルイとモレの助命を朝廷に嘆願した。

 田村麻呂はアテルイとモレに縄をうったまま上京する。道中、アテルイとモレの助命の嘆願を続けると共に、「彼らに東北経営を任せるべきだ」と朝廷に進言した。だが、朝廷はアテルイを「野性獣心、反復して定まりなし」と決めつけ、田村麻呂の嘆願を退けた。

 同年八月、河内国杜山でアテルイとモレは処刑された。

「このアテルイが悪路王なのです」

 ネット検索を続けていた俺は面白いものを見つけた。「宮沢賢治は原体剣舞連という詩で、悪路王のことを読んでいます。鎮魂歌はこの詩と似ていますが、別物のようです」

「でも、何故、このメモが家の前に落ちていたのでしょうか?」

「のっぺりとした顔をした男が、これを持っとったんちゃうか! やはりあいつ、事件に係わりがあるんや」輝秀が興奮して叫ぶ。

「まあ、まあ」となだめながら、「のっぺりとした男がこのメモを落としていったとは限りませんよ」と弓月が言った。

 輝秀が「ううむ・・・しかし、玄関先に落ちていたんや」と呻いた。

「これも陽動作戦のひとつなのでしょう。僕の調査を混乱させようとしているのです。これは罠です。犯人の手に乗ってはいけません」

「これも陽動作戦なのですか!?」

「間違いない。晃君。僕が、みんなの前で、事件の真相を解き明かしてみせる。僕が暴き出した真実を知れば、あっと驚くだろう」

 弓月は自信満々だ。

 弓月の笑顔が霞んで見えた。変だ。視界に靄がかかっているようだ。瞬きを繰り返してみたが、弓月の顔がはっきりと見えない。頭の奥で、とろりとした液体が流れているような感じがした。

 眠い。急に瞼が重くなってきた。

 いかん。このところ忙しかったし、今日は朝から移動で疲れている。日頃、あまり飲まないビールを飲んで、酔いが回って来たのだ。こんなところで寝てしまうと、後で弓月から何を言われるか分からない。

 頭を振って眠気を払った。

 弓月の体がゆらゆらと揺れて始めた。いや、違う。錯覚だ。揺れているのは弓月じゃない。俺の体だ。俺の体が揺れているのだ。体に力が入らなくなって来た。

 弓月の体がずりずりと椅子から滑り落ちて行くように見えた。

 慌てて、弓月の体を支えようと、立ち上がった――つもりだった。急激に床が傾いて行く。立ち上がったつもりだったが、目の前に床があった。椅子から滑り落ちていたのは俺の方だった。どうと床に転がった。そして、意識が飛んだ。


 ずきずきと頭が痛んだ。

 痛む頭を抱えながら体を起こすと、ベッドの上に寝ていた。自宅のベッドではない。見覚えのないベッドだ。昨日のことが思い出せない。何故、こんなベッドで寝ているのだろうか?

 半身を起こす。辺りを見回した。

 ああ~ホテルにいるんだと分かった。途端に、洪水のように記憶が押し寄せて来た。

 昨日、弓月と共に大阪にやって来た。井上邸での殺人事件の調査の為だ。探偵事務所とは言え、殺人事件の調査依頼など、滅多にあるものではない。必然、弓月は張り切っていた。

 井上邸で関係者から話を聞き、現場となった書斎を見せてもらった。そして、夜は宴会となった。

 そうだ。のっぺりとした顔の男の話になって、そこに変なメモが届いたのだった。確か、悪路王のなんとかいう詩だった。

 そこまで思い出してから、何故、俺はホテルのベッドの上にいるんだ? と不思議に思った。そこから記憶が無くなっている。昨日は妙に疲れていた。井上家で寝てしまったのだろうか? そうすると、誰かが寝ている自分をホテルまで運んで来てくれたことになる。

 俺みたいなものをホテルまで運んで来るのは大変だっただろう。全く、みっともない。立派なガタイをして酔いつぶれてしまったようだ。ホテルに担ぎ込まれる自分を想像して恥ずかしくなった。そもそも酔い潰れてしまっては用心棒として失格だ。

 弓月の激怒している顔が目に浮かぶ。

 ふらつく頭で立ち上がった。

 顔を洗ってすっきりする。ひとつ深呼吸をしてから、弓月の部屋に電話を掛けた。昨日、チェックインした時に、部屋番号を控えておいた。隣の六百二十五号室だ。内線電話を使う。だが、応答がなかった。

 まだ寝ているのか? 迷ったが、携帯電話に電話をしてみた。井上邸で酔って運び込まれたとすると、怒っているに決まっている。だが、電源が入っていないのか、電波の届かないところにいるようだと自動応答があった。

 どういうことだ? 不安になった。

 昔、居間で携帯電話を充電して、寝室で寝ている間に弓月から電話があり、電話に気がつかなかったことがあった。後で弓月から「携帯電話は寝る時も傍に置いて、肌身離さないようにしろ!」と怒られた。二十四時間、何があるか分からない。常に臨戦態勢を忘れるなというのが、弓月のポリシーだ。

 変だ。手早く着替えをすませて、フロントに降りて行った。

「六百二十五号室の弓月さんはお出かけですか?」と尋ねると、小柄で八重歯が覗く受付の女性が「六百二十五号室ですか・・・六百二十五号室は空き部屋になっています。どなたも宿泊なさっていません」と怪訝な表情で答えた。

 えっ⁉ チェックアウトしたのか?焦った。

「あの、僕と一緒にチェックインした弓月知泉ですが、もうチェックアウトしてしまったのでしょうか?」と重ねて尋ねると、女性はカタカタとパソコンを操作して、「ユヅキチセン様という方は現在、当ホテルに宿泊しておりません」と答えた。

 ああ、そうか。思い出した。弓月知泉は芸名だ。本名は斎藤和幸さいとうかずゆきという平凡な名前だった。チェックインの際に、本名を使ったのだろう。

「すいません。斎藤和幸ではどうですか? 昨日、僕と一緒にこちらにチェックインしているのです。僕は六百二十四号室に泊まっている藤川です。まだ暫く、こちらに滞在する予定だったのですけど」と食い下がった。

 受付の女性は「藤川様のお名前はございますが、ユヅキ様やサイトウカズユキ様のお名前はございません」と冷たく言った。

 ――そんな馬鹿な!

 容易ならざる事態を迎えていることが分かった。

 俺に黙って、弓月は姿を消してしまった。何か、気に入らないことがあって、俺を置いてホテルを出て行ってしまった。心当たりは・・・ある。酔って寝てしまったことだ。それに腹を立てたに違いない。どうする?

 だが、腹を立ててホテルを出て行ったとしても、携帯電話が繋がらないのはおかしい。東京の弓月探偵事務所に連絡を取ってみた。何かメッセージがあるかもしれない。出張中は俺が秘書代わりだが、事務所にちゃんと秘書がいる。弓月の秘書をやっている阿部実来あべみくを呼び出した。

 弓月と連絡が取れなくなったことを伝えると、「どうしちゃったんでしょうね~弓月さん」と間延びした答えが返って来た。

 彼女なりに心配しているのだろうが、のんびりした子だ。

 まあ、でも、彼女の声を聞いただけで、少し落ち着けた。

「連絡が取れないので心配しているんだ。ホテルにいないみたいだし。ほら、調査依頼のあった井上さんのお宅、結構な豪邸だったので、ホテルをキャンセルして、あちらに泊まったのかもしれない。阿部ちゃん。井上さんの連絡先、教えてくれない?」

「井上さんですかあ~」阿部は連絡先を知らないと言う。

「調査依頼書を見てくれない? 依頼の際に連絡先を記入してもらうことになっている。そこに書いてあるはずだよ」

「ああ~そうですね~そうでした。ちょっと待って下さい」

 調べてから電話をかけなおしてくれと思うほど待たされてから、「ありました。井上晃さんですね。住所は大阪市平野区平野仲町――」と住所と電話番号を教えてくれた。

「ありがとう」と電話を切り、教えられた電話番号に電話を掛けてみると、「はい。吉田です」と女性の声で応答があった。「井上さんのお宅ではありませんか?」と尋ねると、「いいえ。吉田です」と答える。弓月のことを尋ねてみたが、まるで知らない様子だ。

「すいません。間違えました」

 どうやらデタラメな電話番号を教えられたようだ。

 もう一度、阿部と連絡を取る。「どうやって井上さんと連絡を取り合っていたの?俺たちのホテルの予約とか井上さんがやってくれたはずだ。その連絡はどうしたの?」と問い詰めると、「はい。メールを頂きました」と答えた。早く言ってくれよ。

 どうせフリーのメールだろう。メールだと、居場所までは分からない。こうなれば、足を棒にしてでも井上家を見つけ出すしかない。

「あの人のことだ。事件が解決したら、ひょっこり戻って来るかもしれない。事務所に戻ったら、連絡してください」と阿部に頼んで電話を切った。

 ホテルの前でタクシーを捕まえた。「平野区の平野仲町――番地までお願いします」と告げると、「平野仲町? 平野に仲町なんて無いよ。本町じゃないの?」と藪睨みの運転手に怪訝な顔をされた。

「じゃあ、本町の同じ番地までお願いします」

 近くまで行けば、何か分かるかもしれない。後は記憶を頼りに歩き回るしかない。

 タクシーに連れて行ったもらった場所は見も知らぬ場所だった。井上家は大阪市内とは思えない、ゆったりとした敷地を持つ日本家屋だった。数寄屋門を構え、庭に庭園まであった。屋敷は建て増しを繰り返したようで、長い縁側で繋がっていた。

 目の前にあったのは、何処にでもありそうな普通の平屋の一戸建てだった。年季を感じさせる木造の家屋だ。背の低い壁越しに猫の額ほどの庭が見えた。そこで、小柄な老人が雑草をむしっていた。

「違う。ここじゃない・・・」

 電話番号がデタラメだったのなら、住所もデタラメだった。まあ、そうだろう。昨日、井上家に連れて行かれた時、ホテルから車で案内されたが、何処をどう走ったのかなど覚えていない。土地勘のない場所だ。井上家を見つけ出すのは骨が折れそうだ。

「あんた。うちに用かい?」

 自宅の前で茫然と立ち尽くす俺を不審に思ったのだろう。庭で草むしりをしていた老人が声を掛けて来た。

 遠目に、小柄な老人に見えたが、意外に若い。まだ六十代だろう。ポロシャツにズボンというラフな格好だ。足腰が頑強なようで、足取りが軽い。日焼けした黒い顔に卵型の綺麗なごま塩頭が乗っている。小さな目に大きな口、老人の顔を見ていると、ふと昔、テレビ・ドラマで見た水戸黄門を思い出した。

「ああ、すいません」と謝ってから、平野仲町の住所を伝え、そこを探していると伝えた。

「番地は合うとるが、平野に仲町なんて無いで。本町じゃ無ければ上町かいな?で、どんなお宅なんや?」と老人が尋ねた。

 地元の人間だ。何か分かるかもしれない。藁にも縋る思いだった。「井上さんというお宅で――」と屋敷の様子を説明した。

「ふふん。若いの、事情がありそうやな。良ければ話してみぃや。わいに出来ることやったら、力になってやるよ」老人が笑った。

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