第25話 異変

 風呂から上がり、後片付けを済ましてからミキは真っ直ぐ兵舎に戻った。

 兵舎というと立派だが、実際は掘っ立て小屋のような物である。しかし中には簡素とはいえ寝台と寝具があり、前線の陣地に比べると豪邸のようだ。

 もっともこの狭い小屋に兵士を詰め込めるだけ詰めているので中は恐ろしいほど窮屈である。二段になっている寝台以外は自分のスペースなどなく、上下共に荷物を兵士が寝ているので蚕棚のようだ。

 真ん中を突き抜ける狭い通路には装具や背嚢が置かれているので通行するにはかなりの無理をしなければならない。ミキに割り当てられた寝台は奥の方だったので、そこに行くだけで一苦労であった。

「アナタの分もとっておいたわよ」

 ミキを見るなり、寝台に寝転がっていたキクリが紙包みを渡す。

 何かと開けてみると、中には白い小石のような物がコロリと入っていた。

「氷砂糖? 何処で手に入れたの?」

「お前が出ている間に支給があったんだよ」

 キクリに代わってアサキが説明する。

 どうやら風呂に入っている間に危うく貰い損ねるところだったらしい。

 預かって置いてくれたキクリに感謝しつつ、ミキは紙袋から取り出した氷砂糖を口の中に放り込む。

 何しろ最後に食べた甘味といえばマイハマに貰ったドロップスくらいだ。あまりにも甘味という物に縁が無さ過ぎたせいか、口の中に砂糖の甘みが広がった瞬間、思わず目が潤んで来た。

 口内一杯に甘みが広がるの釣られるように、目に涙が溢れてくる。

「莫迦。なに泣いてんだよ」

「だって…………だって……!」

 何度拭ってもボロボロと大粒の涙が零れる。

 口の中の氷砂糖が無くなっても、しばらく涙が収まる事はなかった。

「あー! ゼンザイがベニキリのこと泣かしたー!」

 誰かが茶化し、やいのやいのと皆がアサキに野次を飛ばす。

「ばッ……ちげぇよ!」

 アサキが弁明するが、皆はわいわい騒ぎながら茶化す。

 僅かとはいえ前線から離れ、寝食にある程度の充足してきたからか兵隊たちの顔にも余裕が見られるようになっていた。

「そんなに泣いたのだから味解らなかったんじゃない?」

 珍しくキクリが茶化しを入れる。

「そんな事ないよ。味わったから泣いたんだもの」

 そう強がったものの、実際はほとんど涙の味と混ざってよく解らなかったのは内緒だ。しかし勿体ないとは思わなかった。この涙と砂糖がブレンドした味は生涯忘れる事はないだろう。

「上官ッ」

 唐突に出入口近くの兵隊が大声で号令をかける。慌てて全員寝台から降りて整列しようとしたが「そのまま」という声が行動を遮った。

 ミキのいる位置からでは見えないが、声から察するにどうやら指揮班付の見習士官であるようだ。

「先ほど連隊命令が出た。撃退した敵はマムシ高地に撤退し、現在陣地を構築している様子だ。そのため第二大隊は明日の正午にここを出発し、マムシ高地の敵を掃討する」

 兵隊たちの顔から表情が消えた。

「手負いとはいえ、敵はまだ充分な兵力を有していると思われる。絶対に気を抜かないように。詳細は追って知らせる。終わり」

 話しはそれで終わった。

 先ほどまで茶化し合っていた兵隊たちは皆沈鬱な面持ちで自分の寝台に潜る。もう先ほどのような明るい雰囲気はなく、暗い雰囲気の中を愚痴や文句が飛び交っていた。

「休暇も終わりか」

 ミキも寝台に横になる。残念であるが、しかし仕方のない事だ。何しろまだ戦争は終わってないのである。

「ちょうど良いじゃないスか」

「え?」

 少しミキが顔を上げると、隣の寝台で銃剣を研いでいるアカツキの姿が目に入った。

「ちょうど良いって……何が?」

 アカツキは答えない。ただひたすらに自分の銃剣を研いでいる。

「…………傷は大丈夫なの?」

「軍医にはもう少し安静にしていろって言われたッス」

「じゃあ休んでいれば?」

 アカツキは答えない。

 ミキは酷い違和感を覚えた。割り切ってこそいるが、アカツキはミキと同様に「命令」だから戦争をやっている口である。

 だから怪我が癒えてもいないのに復帰するだけでなく、今から銃剣を研ぎ直すほど「やる気」になっているのが不思議だった。

「……何かあったの?」

「…………」

 やはりアカツキは答えない。

 ミキは訊ねるのを止め、改めて寝台に横になる。

 しかし銃剣を研ぐ音は消灯時間になるまで止む事はなかった。

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