うす暗い獏な陽光

飛騨群青

うす暗い獏な陽光

 その日は、この地域には珍しい雲一つない晴天だった。夏なら歓迎してやったかもしれないが、年が明けたばかりの立派な冬だ。寒い。早く帰りたい。僕が通っていた底辺高校から、自宅までの道のりは、わずか400メートルほどのものでしかない。それでも僕は、耐え難い苦痛を感じていた。

 僕は寒いのが嫌いだ。嫌いなだけでなく、とても弱い。冬になると、すぐに風邪をひく。少し前も熱が出て、学校を休んでいた。で、僕が風邪で休んでいる間、僕のクラスに転校生の女の子がやってきたらしい。これはとてもおかしなことだ。

 ちょっと考えてみてくれ。あと2ヶ月か、そこらで卒業式だ。こんな時にやって来る転校生が、マトモな奴のわけがない。だが、この学校は社会の底辺にへばりつく、ウキウキモンキー達のラブパラダイスにすぎない。スネに傷があろうとも、前科が100犯あろうとも、そんなことを責める人間はいない。しかし、彼女は、薄毛のチンパン達に優しく迎えられたわけではなかった。薄汚い教室を見渡す限り、誰も彼女に関心が無いようだ。

 その最大の原因は、彼女の見た目が美人でも醜女でもなく、特に目立つ見た目をしていなかったからだろう。人は見た目が10割だ。しかし、彼女の容姿には、良いところも、悪いところも存在しなかった。端的に言うと、人の興味を惹くようなところが1つもなかった。僕も同じクラスでなければ、すぐに忘れてしまっただろう。これでは、園内一の人気者にはなれそうにない。

 外見もそうだが、中身の方も人を引きつけない理由だった。彼女は誰とも話さない、という訳でもないのだが、仲良くなろうとはしておらず、むしろ距離をとっていた。同じクラスの女子に遊びか、何かに誘われても、いつも断っているようで、実際に、そういう場面を見たこともある。僕には関係ないことなのに、なんとも言えない居心地の悪さを感じた。ああいうのを見ていると、関わるだけ無駄な奴、そんな印象しか持たれなくても、そりゃまあ仕方がない。

 見た目も地味、友好的でもない。そんな彼女に何かしようとする人は、光の速度でいなくなった。いじめたりなんかしないし、無視をしているわけでもないが、必要が無ければ相手にもしない。彼女のクラスでの扱いは自然とそうなった。それは、僕が高校生活3年間で築いた地位以上のものだ。彼女は僕より人に嫌われる才能があって、必死で努力もしたんだろうな。実に素晴らしい。

 そういうわけでクラスの誰もが、彼女に無関心になったわけなのだが、僕は右にならうわけにもいかなかった。どうしてか。それは彼女と僕の立場が似た者同士だから、ではない。彼女自身に魅力を感じたから、そんなわけがない。あまりにもベタな理由で、申し訳なさすら感じるのだが、彼女が僕の死んだ姉に似ていたからだ。

 姉が死んだのは、僕も姉も幼い頃だ。顔が似ているかどうかなんて、分かりはしないし、もう記憶なんかありはしない。しかし、雰囲気、見た目から感じる勝手なイメージ。それはよく似ていた。法律は遵守するだろう。社会の良識にも従っているだろう。同時に、弱いものに対する親切さ、優しさは全くないだろう。例えば募金なんか絶対にしない。道に迷った人は助けない。私にそんな義務がありますか。問題ありますか。そういうあなたはどうなんですか。ことあるごとに、そんなことを口にするような、起訴できない程度のいけすかない感じ。それが僕の姉によく似ていた。

 僕が、彼女のことをどう思っていても、校内で話しかけることはなかった。何故かというと、話す理由がないからだ。第一、彼女が姉に似てるからなんだと言うのか。イタコ芸でもお願いするのか。そんな必要がどこにあるのか。そういうわけで、彼女に話しかけるつもりなど毛頭なかった。だがしかし、人生は思いがけない、そして退屈なハプニングの連続だ。彼女と僕が話すきっかけは、すぐにやって来た。僕の家の真向かいは借家で、彼女がそこに住んでいたからだ。

 

 で、話は冒頭の「その日」に戻る。僕が寒苦に耐えて帰宅すると、僕の家の前(彼女の家の前でもある)にある路上で、僕の祖母に話しかけられている彼女を見つけた。祖母は、ボケとまではいかないものの、認知機能がいくらか弱ってきており、全く知らない赤の他人にも、まるで自分の孫のような口調で話しかけるようになっている。脳だけではなく、足腰も弱ってきており、家から離れることがほとんどないので、祖母の餌食になるのは、必然、近所の人になる。で、今日の獲物に選ばれたのが彼女だった。

 彼女は、祖母を無視できるほど意思は強くないようで、ただただ困惑していた。あなたとは話したくない。迷惑だ。やめてほしい。そんな雰囲気を醸し出しても、田舎の年寄りには効かないのだ。黙らせたかったら、殴るしかない。

 祖母は、彼女を瑛子と呼んでいた。それは僕の姉の名であって、彼女の名ではない。祖母を止めるのには慣れていた。

 おばあちゃん、その人は僕のクラスメートで、違う人だよ。迷惑をかけちゃいけないよ。祖母は、言い方さえ丁寧にしておけば、大して反発してこない。腕を結構、強めに引っ張っても、抵抗らしい抵抗もしない。代わりに話しかける相手が僕になる。実に面倒くさい。はい、はい、そうだね。と適当に相槌を打つ。聞いてはいないが、聞いているフリをする。祖母は、その違いを見分けることが、もう出来ない。だから、それでいいのだ。 

 彼女に軽く頭を下げつつ、祖母を家に入れた。彼女は不思議なものを見るような目で、僕と祖母を見ていた。

 翌日、祖母に捕まった路上で、彼女は、僕に話しかけてきた。わざわざ、待ち伏せまでしていたらしい。学校でいくらでも話せるのに、何故そんなことをするのか。彼女がそうする理由は分かっていたが、僕の自尊心が明文化を拒む。各自で想像してくれ。

 彼女は、昨日のお礼を口にしたが、僕の方は、ああそう、とだけ返した。どういたしまして。祖母が迷惑をかけて申し訳なかった。そんなことを答えればよかったのかもしれないが、僕にそんな社会性はない。よって、僕の回答に対する彼女の反応は、気まずい沈黙だった。僕は、人と喋ることが得意じゃない。言葉と言葉の間にある、この間というものに耐えられない。かといって、絶え間なく言葉を発するなんてことは、もっと出来ない。

 僕は、さっさと家に入ろうとしたのだが、彼女は、逃げる僕に浴びせかけるような口調で、瑛子とは誰なのかを僕に尋ねてきた。僕は言葉ではなく、視線を返す。なるべく生々しい感じになるように。本当に知りたいのか。楽しい話にはならないぞ。そう伝えるために。実際、楽しくはない。退屈な話だ。

 姉が死んだのは、いや、正確に言うと、僕が姉を殺したのは、僕が8歳の時の話だ。理由は色々あるが、その色々をきちんと説明するのは面倒だった。人間、生きていれば色々ある。8歳でも、18歳でも、80歳でも、色々あるのは変わらない。色々の量が増えたり、減ったり、忘れたりするだけだろう。多分。

 色々の、色々たる原因、長くて要点がどこにあるんだか、僕自身も上手く把握していない話を端折り、僕と何も共有していない人物、つまり他人に理解出来るように、極端なまでに単純化し、彼女に説明すべきだろうか。しかし、それをするのには抵抗があった。例えば、10000文字程度の与太話を100文字に要約したとして、それは本当に同じ話だろうか、僕はそうは思わない。それは違う話になる。嘘をつくのは簡単だが、気が咎める。つまるところ、嫌だった。しかし、面倒を避け、適当なことを言って誤魔化そうという欲求が、良心や誠実さ、そういった類いのものを上回ることは、生きていればたまに(1日に100くらいの頻度で)あるものだ。だから、僕はそうした。

 瑛子ってのは僕の死んだ姉だ。嫌な人でね。だから階段から突き落としたんだけど、祖母はそれを知っていて、僕と年齢が近い女の人はみんな瑛子って呼ぶんだ。多分、僕がしたことを忘れないようにしてくれてるんだよ。ありがたいことだね。

僕は、大体こんな風なことを言った。彼女は、僕を非難することはなかった。そう、とだけ呟いていた。返事をする必要はなさそうだったので、僕は彼女に背を向け、家の中に入った。

 過去の殺人を告白した以上、彼女が僕に話しかける機会は、もはやないように思われた。罪を犯した人間と関わり合いになりたがる奴は、頭がおかしい奴だけだ。彼女は少し変わっているが、そこまで変であるかのようには見えなかったからね。

 だがしかし、僕の目が節穴であることは、すぐに証明された。いつの間にやら、彼女は僕の家に入り浸るようになったからだ。祖母が家にあげたのかもしれないが、彼女は僕の部屋にいることが多かったから、勝手に上がり込んでいたのかもしれない。

 何の用だ。最初にそう聞けばよかったのかもしれない。しかし、なんとなくボサっとしてるうちに、適切なタイミングを逸していた。高校の卒業式まで、あと3日となった頃、さすがに話を聞いた方がいいだろうなと思ったのだが、彼女が祖母と話し込んでいるのを眺めている内に、聞く気がなくなり、いつのまにか高校を卒業していた。そういう感じで、僕が大学生になっても彼女はウチにいた。どうやって僕の進学先を知ったのか分からないが、彼女は僕と同じ大学に進学していて、家の中だけじゃなく、大抵の場合、僕らは一緒にいた。それは大学を出て、働くようになっても同様だった。

 その数年の間、僕らに何かあったのかと言うと、あったような気もするんだが、多分、いや、確実に何もなかった。これは惰性か何か、腐れ縁のように見えるが、実際は違っている。もしもこれが惰性なら、どんなに緩慢なスピードでも、たまに停止することがあっても、どこかしらの方向に向かって進んでいたはずだ。しかし、僕たちは進んでなどいない。道がなかったのか、行き止まりに直面したのか、それとも諦めたのか。 僕と彼女の置かれた状況、それを飾り立てる言葉はいくらでもあるだろうけれど、どの言葉を選んでも、大仰で、大げさで、過大評価だ。僕らは、人生で直面した問題に対し、その解決を放棄していたに過ぎない。迂回もできず、乗り越えることもせず、試みないから失敗もせず、すごろくのふりだしから1マスも進まず、賽も降らず、何もせず、僕らは、ただそこにいただけだ。

 そうこうしてるうちに祖母が死んだ。元気ではなかったが、特に悪いところもなかったので、寿命だったのだろう。祖母が死ぬと、この家には僕らしかいなくなった。

 ところでなんの用事だったのかな。僕は10年くらい前に聞くべきだったことを、今更になって口にしていた。彼女は、お姉さんを突き飛ばした階段を見たかったと言った。彼女の回答が奇妙だとは思わなかった。1回見ただけでは満足出来なかったのか。僕がそう聞くと、兄を思い出したと、彼女は言った。それだけで、彼女があのタイミングで転校してきた理由、彼女の置かれていた状況、彼女がここから進めない理由が、よく分かってしまった。もしかしたら、とんでもない勘違いをしているのかもしれないが、あれこれと細かい事を聞く必要もないだろう。僕らの人生の全ては些事だ。本来だったら、忘れてしまうような退屈な話に過ぎない。人が死んでるからといって、重大な話になるわけでもない。

 じゃあ、君が行くべきなのは、ここの階段じゃない気がするんだけど。そうね。ここはあなたがいる階段ね。いつの間にか、2人並んで、ウチの家の階段の一番上から、姉が落ちたところを眺めていた。落とさないの?。君は姉じゃないみたいだから、できないよ。そう。そんなことを言いながら、僕らは階段を降りた。段数を数えてみる。11段。恐ろしいほど短い階段だ。どうして姉はこんなところで死んだのだろうか。姉は運が良かったのかな。

 階段を降りて、彼女を見た。もう、彼女が姉に似ているようには見えない。

 

 家を出て、電車に乗っていた。3時間と少し、それくらい経った頃に着いた駅で降りる。土地勘が全くないので、行く先は彼女に任せるしかなさそうだ。

 その駅は海に近かった。そこから彼女が指差した方向、小さい山みたいなのがあるところへ向かって歩いた。なんだ、すぐそこじゃないか、最初はそう思ったが、目的地である小さな山は、ウンザリするほど駅から遠い。いつまで経っても、たどり着かない。

 この街の道は狭く、あっちこっちと不規則に曲がっていた。方向感覚は失われるのに、風景は変わり映えせず、見ていて、ちっとも楽しくない。平凡な住宅や、ちっぽけな雑木林、草がまばらに伸びた空き地、そんな程度のものが、代わる代わる現れるだけだ。もう1時間は歩いたが、まだ着かない。もしかしたら、タヌキか、キツネなんかに化かされているのかもしれない。彼女は、タヌキほど間抜けには見えないから、キツネの方なのか。でも女狐というほど、計算高くもないよな。そんなアホくさい空想を始めるほど、長い時間がかかり、眠くなった。

 そんな僕の様子を見たせいだろう。彼女は、ポツポツと自分と兄の話をしだした。彼女と彼女の兄は、仲が良かったらしい。しかし、夏祭りの日に、近所の神社の階段で、兄をふざけて突き飛ばしたら、そのまま帰らぬ人となってしまったらしい。想像していたより、つまらない話だ。ただの事故だ。珍しいかもしれないが、面白くはない。少なくとも何時間もかけて、こんなところに来てまで、聞きたくなるような話ではないことは確かだ。

 どうして彼女に付いて来てしまったのだろうか。僕には関係ない。勝手にしろ。そう言って、家で寝ていることもできたはずなのに、どうして自由を放棄してしまったのか。おそらく、一緒に階段を降りてしまったからだろうな。彼女と僕は、二人で、僕の階段を降りた。だから、僕も彼女の階段を降りなければならない。

 階段を降りる、その行為には何の意味もないはずだ。しかし、僕らは、そこに何かがあると思い込んでいる。何もないって事は分かっているのだろうけど、それをしないと、もうどうしようもない。生きていくことができない。そんなところまで心を追い詰めている。これは、なんだろうか。精神のリストカットだろうか。違う。そんな立派なものじゃない。

 退屈が極に達して、不感症になったころ、ずっと遠くにしか見えなかった山が、急に目の前に現れていた。そこに生えている粗末な鳥居をくぐると、彼女の階段はそこにあった。

 階段を登り終えた先には、廃墟のような神社が建っていたが、僕らは参拝をすることもなく、階段の最上段から下を眺めていた。僕の階段と違って、大きく、長い。そして、勾配は急だ。

 ここか。そう、ここ。落とさないのか。あなたは兄じゃないって分かったから、もう無理。そりゃ残念だ。そんなことを言いながら、僕らは階段を下る。段数を数えてみたが、30を超えたあたりで、よく分からなくなった。ここから突き落とされれば、確実に死ぬだろうな。彼女の兄はついてなかったんだろう。かわいそうにね。

 階段を降りた後、彼女は僕の顔を覗きこんだ。彼女から見て、僕が、どういう風に見えたのか。それは分からないし、聞くこともなかった。

 予想通り、何もなかった。階段を下りたからと言って、何かを得られることなどなかった。明確な何か。勝利のファンファーレも、乾杯の音頭も、核戦争もない。僕らは自分たちが人殺しであるという自覚はあっても、悔いるような気持ちは何もないのだ。もっと単純に考えてみよう、僕らは悪いことをしたのか。まあ、法律的にはそうなのかもね。でも反省の念は微塵もない。

 それでも何かが終わった。何かを成し遂げたわけでもないのに、僕らの足枷、呪縛のようなものが断ち切られたように思えるし、大事なものが失われたような気もした。それが何なのか分かることは、多分、永遠にないんだろう。

 僕らは、ボンヤリとしたまま、特に何も決めず、話し合うこともなく、何処かへ行くことにした。何処かとは、何処のことか。分かるわけがない。とりあえず駅の方へ戻って、海でもみていれば、気分はよくなるだろう。海なら、風も吹いているだろうしね。

 

 それから、僕らは、もうそこへ戻らなかった。人を殺したことも忘れ、退屈な人生を送ることにした。

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