第16話 魏軍最強の弓騎兵
徐公明将軍が子孝のおじ上を救援に行くさまを、孟徳のおじ上は「長駆直入」と絶賛した。
ぼくと暁雲もまさしく夷陵から「長駆直入」して、洛陽までたどり着いた。
季節はもう、夏にさしかかっている。
卞太后は、洛陽の中心から離れた邸に、ひっそりと暮らしていた。
彼女の身辺を守るのは、かつて後宮にひそんでいた、蘇の長女だ。
蘇は、暁雲の昔の仲間で、現在許昌で娼館を経営する女間者である。
ぼくたちが訪ねると、はちきれそうな体の彼女が飛び出してきた。
わけを話すと、二つ返事で引き受ける。
「ちょうど今、おいでになりますよ。あたし、取り次いで参ります」
すぐさま彼女は戻ってきて、ぼくたちを招じ入れた。
卞太后はもと、歌妓だったそうだ。今でもすらりとして、あか抜けた雰囲気がある。
「話は蘇から聞きました」
ぼくと暁雲はひれ伏したけれど、卞太后はぼくたちに起立するように言った。
「わたしからではなく、先に当たるべき者がいます」
「どなたでございますか」
ぼくが聞くと、卞太后は少しだけ眉をひそめた。
「郭皇后です」
暁雲が卞太后に問う。
「皇后は、甄皇后と伺っておりますが」
「前妻の甄氏は、自殺を命ぜられました」
ぼくたちは絶句する。
「陛下が郭皇后をご寵愛なさるので怨み言を述べたというかどだと聞いておりますが、ほんとうのところはわたしにはわかりませぬ」
ぼくは一歩前に踏み出した。
「ではなにゆえ、郭皇后に先に当たるべきとお考えになるのですか」
「陛下はかの者の言葉ならば、素直にお聞き入れあそばすからです」
卞太后は不満がありそうだ。
ぼくはそこで踏み込む。
「今、『彼女』ではなく、『かの者』とおっしゃいましたね。何かわけがあるのですか」
「かの者に会えばわかります」
卞太后はぼくたちをつれて、なんと、後宮へ入った。
「太后さま、ご準備整いました」
蘇の長女が声をひそめて、しかし元気よく報告する。
卞太后は、身支度を終えたぼくと暁雲を見て、にこりと笑った。
「よく似合いますね」
ぼくと暁雲が、どうしたのかって?
宦官の衣服を着たのさ。
後宮には、男は入れないからね……。
卞太后、蘇の長女、ぼく、暁雲の順で進む。
たどり着いた部屋の扉を、侍女たちがひらいた。
一人、ひざまずく人がいる。
顔を上げた。
ぼくは立ちすくんだ。
まつげの長い、大きな瞳がぼくたちを吸い寄せる。唇は紅い。
高い、かすれた声でその人は迎えた。
「皇太后殿下、ようこそおいでくださいました」
卞太后は冷ややかな声で応じる。
「郭皇后、そなたに頼みたきことがあり、訪ねております」
「どのようなことでしょうか」
「曹子廉を釈放するよう、陛下に働きかけていただきたいのです」
大きな瞳が、すうっと細くなる。
「ご子息がたが劉備の陣営の内情をご報告されてから釈放すると、陛下はお約束なされたはずでございます。それがお済みになれば、わたくしから申し上げる必要はないかと存じますが」
「その約束を守らぬかもしれません。それゆえそなたからも陛下に口添えを願いたいのです」
「陛下がお約束をたがえるとおっしゃるのでございますか」
「陛下は子廉や、その息子たちを、亡き者にしたいと考えておいでです。彼らがおのれの地位をおびやかすのではないかと、怖れておいでだからです。子廉は先王の命を救いました。それゆえ朝廷で力をもつのではないかと陛下は考えておいでであると、わたしは陛下から直接聞いております」
卞太后はきっぱりと言った。
郭皇后は眉を上げる。
「皇太后殿下。不穏なお言葉でございまするぞ」
「董卓を追撃する際、先王は大敗を喫しました。そこで子廉が先王を助けたからこそわたしたちの今日があります。その功臣が罪を犯しておらぬのに投獄するなど言語道断です。先王がいなければそなたも見いだされず、陛下の侍女となることもありませんでした。そなたの今の地位すらなかったのかもしれないのですよ」
郭皇后が色をなす。
「それはつまり、殿下の願いにわたくしが耳を貸さねば、わたくしを皇后の座から降ろすと?」
「その通りです。それに」
卞太后は、息を止めた。
すぐに息を吐き、鋭く言う。
「そなたが『男』だということを、天下に明らかにします。先王は気づかなかったようですが、わたしは知っていましたよ」
ぼくと暁雲、蘇の長女は、思わず声を上げかけた。
この人が、男?
どこにそんな証拠があるんだ?
郭皇后はおかしそうに声を立てて笑い、立ち上がった。そしてすたすたと近づく。
卞太后の正面で、郭皇后は口の片端を上げて目を細める。
「参りましたね、これは」
ぼくと暁雲、蘇の長女は、またもや声を上げそうになり、あわてて口を両手で押さえた。
その声はもう、高くなかった。
ぼくと同じ、若い男の声だった。
「いつ頃からお気づきになられたのです、皇太后殿下?」
「そなたが丕の『侍女』となった時にわたしに目通りしたでしょう? その時です」
「先王のお目に止まった時は、まだ下働きでございましたから、しゃべる必要もございませんでした。まあ見た目も女と変わりませぬし、何とかごまかしおおせたのですが、さすがは皇太后殿下でございますね。ご慧眼、感服いたしました」
「丕は女に興味がなく、家のために渋々甄氏を妻といたしました。不仲となったのは無理もありません」
「今、先の皇后さまが遺されたご嫡男は、わたくしが養育を任されております」
「ですから、『皇后』の座を、降りたくはないでしょう?」
「ええ。このまま天下をだまし通してご覧にいれまする。史官にもわたくしが『女』であったと記させることになっております。ところで、殿下のお願いをやりとげたあかつきには、それ相応の褒美をいただけるのでしょうね?」
「前払いいたします」
卞太后がぼくたちを振り返る。
やっと出番だ。
宦官のふりをしたぼくと暁雲は、袋を郭皇后に差し出した。
父上の財産から賈太尉が出してくれた軍資金と、徐公明将軍が贈ってくれた塩と、吾さんからもらった駄賃を魏の通貨に両替したものだ。
郭皇后はそれを見ると、喜色満面になった。
「必ずやりとげまする」
ぼくたちは全員、げっそりしながら退出した。
郭皇后から卞太后のもとに知らせが入った。
「成功したそうですよ」
ぼくたちは抱き合って喜んだ。
卞太后に付き添われ、ぼくと暁雲は、子桓に報告する。
「ご苦労であった」
子桓は憎々しげに言う。
まったく、いけすかない奴だ。今度同じことをしたら、矢の的にしてやる。
卞太后はまず確認した。
「子廉を釈放してくださいますね?」
「もちろんです、皇太后殿下」
「いつですか」
「今日の夕方釈放します」
「聞きましたか」
卞太后がぼくと暁雲を振り返る。
「はい!」
ぼくたちはひれ伏した。
「では、呉の征討に向かうとしよう」
子桓は言って、足取り軽く出て行った。
卞太后がぼくたちを笑顔で促す。
「さあ、子廉を迎えに行きましょう」
ぼくたちは子供のように明るく言った。
「参りましょう!」
卞太后は子桓を呼び戻した。
「まだご用があるのですか、母上?」
思いきり嫌そうに応じる子桓を睨みつけ、卞太后はただす。
「子廉の官職と財産、それに領地を没収したと聞いておりますが、それもすべて彼に戻すのでしょうね?」
「――そのことですか」
「どうするのです」
子桓はしばらく黙って下を向いていたが、顔を上げて答えた。
「官職は免じます。爵位は落とし、領地も削ります。財産は返します。つまり、政務には関与させない。軍務には携わらせてもよいと私は考えておりますが、恩賞は与えません。無官なのですし。すぐに手続きさせましょう」
卞太后が子桓に大きく一歩踏み出す。
「それほど子廉を怖れているのですか」
子桓の顔がこわばる。
卞太后はさらに詰め寄る。
「子廉があなたに何をしたというのです」
「母上のご要望は彼の釈放だけと承っておりますが、他にもお望みがございますのか」
「子廉にも、その息子たちにも、二心はありません」
「母上は何か思い違いをなされておいでのようですね」
子桓は口元をゆるませた。
皮肉な笑いが浮かぶ。
「子廉のおじ上はもう充分父上のために献身なさった。このあたりであとは息子たちに任せてはどうかと思っているだけですよ。飛将と暁雲にはこれまで通り武官として務めてもらいます。ただし、私の目の届くところで」
――何だって?
ぼくが子桓から目を離さないでいると、彼はぼくの視線を、斜めから受け止めた。
そして彼は言った。
「虎豹騎に入ってもらう。戦場では私を守り、私の命令で軍務に当たってもらう」
頭の中が真っ白になると、よく言うよね。
あれは、ほんとうなんだ。
今のぼくは、頭の中が真っ白だ。
虎豹騎とは、帝の親衛隊だ。騎兵の精鋭でもある。許仲康将軍が監督している。
つまりぼくたちは戦場で、子桓に張りついていなければならないということだ。
卞太后は、しばらく子桓と向かい合っていた。
そして、彼女は、告げた。
「これ以上語り合ったとしても、そなたの考えは、変わらぬようですね」
「ええ。残念ながら」
卞太后はぼくたちをつれて、父上がいる獄へ向かった。
獄から、金属音がする。
打ち合う音、かけ声も聞こえる。
獄卒にすでに連絡が行っており、すぐにぼくたちは門をくぐることができた。
庭が広がる。
そこで、獄卒たちが、上半身裸の男と剣で打ち合っていた。
その男は――父上だ。
赤壁の戦いでぼくは初陣したけれど、父上から受けた剣の稽古は、まるで父上から殺されるのではないかと思ったほどだ。
今、獄卒たちが、その稽古を受けている。
その時も父上は上半身裸だったけれど、今も同じだ。鍛え上げた肩と上腕、胸の筋肉は鎧のようだ。腹も引き締まり、割れている。腰から下はすらりと伸びている。
その様子を見守る男がいる。卞太后を見ると、すぐさま拳をもう片方の手のひらで包んで敬礼した。
「これは太后殿下」
「獄の長官、高ですね」
「はい」
「子廉が剣の稽古をつけているのですか?」
「ええ。獄卒たちがぜひにとせがみまして。彼らの鍛練にもなりますゆえお願いいたしましたところ、快くお引き受けくださいました」
「子廉」
父上が整った顔を、呼びかけた卞太后に向ける。
その手には、抜き身の剣が握られている。
父上の前にいるのは、獄卒たちだ。皆、額に汗を浮かべ、剣を構えている。
「稽古をつけていたのですか、子廉?」
卞太后はほほえみながら歩み寄る。
獄卒たちが一斉に平伏した。
父上は上着を拾い上げ、汗に濡れた肌にまとう。帯を締め、卞太后に向き直った。
「はい、義姉上。獄卒たちから頼まれまして」
「子廉、釈放されましたよ」
父上が切れ長の目をひらく。
「釈放――」
「ええ。飛将と暁雲が迎えに来ています」
父上がぼくたちを見た。
「馥――暁雲――」
父上の驚いた顔を見るぼくの目が涙で曇る。
「父上!」
ぼくは暁雲を見る。
暁雲の切れ長の目から、涙が流れ落ちる。
ぼくは泣き笑いの顔で彼の腕を取った。
「行こう」
「――うん」
ぼくたちは父上の厚い胸に飛び込んだ。
父上はぼくたちを抱きしめた。
「おめでとうございます、曹将軍」
獄の高長官がほほえみ、一礼する。
「ありがとう。この恩は忘れぬ」
「こちらこそ、感謝に堪えませぬ」
父上が笑顔を見せると、高長官も笑顔で応じた。そして獄卒たちに顔を向け、大声で言った。
「皆、聞け! 将軍が、釈放されたぞ!」
「ええっ」
「ほんとうですかっ」
「やりましたねっ、将軍!」
「よかった!」
「おめでとうございます!」
獄卒たちは、ぼくや暁雲よりも若い者が多かった。
そんな彼らに、父上は、明るく笑った。
「世話になった!」
「おめでとうございます!」
ぼくはその光景を見て、また泣いた。
獄の一室を貸してもらい、卞太后は子桓の言葉を父上に伝えた。
父上はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「子桓のやりそうなことです」
卞太后がぼくたちを見る。
「飛将と暁雲は虎豹騎に入るそうです」
父上もぼくと暁雲を見て、また笑う。
「それはまた厄介な役目を仰せつかったな」
ぼくは父上に聞いた。
「なぜそんなに笑えるのですか、父上?」
「これまで孟徳兄や元譲兄、妙才や子孝兄たちとしてきた戦と比べれば、たいしたことはない」
「孟徳はあなたに甘えてばかりいましたね」
卞太后も笑いをこらえきれない。
「孟徳兄に憧れたから今のおれがいます。その恩は返しても返しきれません」
言って父上はぼくと暁雲、それぞれの肩に手を置いた。
「おまえたちには苦労をかけたな」
「そんなことはありません」
暁雲が言った。
ぼくは父上の手に自分の手を重ねた。
ぼくと変わらない大きさだ。
そして温かい。
ぼくも、しっかりしなければ。
父上と目を合わせ、ぼくは言った。
「これからも父上の力になります」
父上は、優しく目を細めた。
獄から帰ろうとした時、ぼくたちはまた子桓に呼び戻された。
卞太后もついてきてくれる。
子桓は、ぼくたちにしたことなんて何ひとつなかったかのように、にこやかに命じた。
「子廉、虎豹騎に属せ」
父上の肩に、一瞬、力が入る。
子桓は続ける。
「お主の申す通り、漢中争奪や樊城の戦を経て、我が軍の将兵は疲弊している。死傷した者も多い。ゆえに虎豹騎に、基準を満たしておらぬ者も補充したため、虎豹騎の技量は今のところ下がる一方だ。そこでお主に虎豹騎の調練を任せたい」
父上がそこで子桓をただす。
「仲康は承服しているのですか」
「無論だ。子廉、お主は無官ゆえ恩賞は与えることができぬが、やってくれるか」
「やります」
父上の声は力強かった。
「息子たちと共に戦えることがそれがしにとって一番の恩賞です」
子桓は席を立つ。
「さて、ここからはこの者が説明する」
現れたのは、司馬仲達どのだった。
子桓は卞太后に近寄り、その背に手を当てた。
「母上、食事を用意させました。久しぶりに一緒にいかがですか。元仲にも会ってやってください。あれも楽しみに待っております」
元仲はあざなだ。姓名は曹叡。子桓と、今は亡き甄皇后との間に生まれた男の子だ。
卞太后は眉をひそめたけれど、司馬仲達どのをちらりと見て、子桓に言った。
「わたしは、はずしたほうがよさそうですね。わかりました、行きましょう」
子桓と卞太后が出ていくと、仲達どのは切れ長の細い目をぼくたちに据えた。
「将軍がたを虎豹騎にお加えになるよう陛下に進言いたしましたのは、それがしでございます」
そして、器にいっぱいに貯めた水をひと息に流すように説明を始めた。
「ご存じの通り、虎豹騎の質は劣化する一方です。もはや精鋭とも呼べない。しかし今は孫呉の征討を控えております上に、紛争の火種は至るところにひそんでおります。それゆえ虎豹騎を強化する最善で最速の方法が、実戦に投入して鍛えることです。それがおできになるのは子廉将軍、あなたしかいない」
仲達どのはここで息を吸った。
ぼくたちも彼から目と耳が離せない。
「我々が最も警戒すべきは実は孫呉ではない。諸葛孔明です。彼が丞相を務める蜀漢です。諸葛孔明の悲願は、我が曹魏をせん滅し、蜀漢の領土に加えることです。そこで」
仲達どのはぼくと暁雲をキッと見た。
「飛将どのと暁雲どのにお願いしたい。虎豹騎の中から騎射の得意な兵を選び出し、魏軍最強の弓騎兵に育て上げてくだされ」
ぼくと暁雲は、息をするのを、完全に忘れた。
父上が仲達どのに尋ねる。
「何ゆえ弓騎兵なのですか」
「よくぞ聞いてくださいました」
仲達どのの細い目が縦にひらく。
「戦場は渭水のほとり、つまり北方の平原となります。漢中は難攻不落の土地、守る方も戦いにくい。それならば漢中の北に戦場をとる方が兵を展開しやすくなります。大きな戦ではなく、睨み合いの戦となりましょう。そこで勝敗を決するのが弓騎兵です。すぐさま動ける、破壊力の高い集団が必要です。機動力と破壊力双方を兼ね備える戦闘集団と言えば、弓騎兵だけです」
ぼくはやっと口をひらくことができた。
「それを、ぼくと暁雲に任せると?」
「はい。お二方は羌族の騎射が可能です。それに将兵の心をつかむのもうまい」
暁雲がぼくの背中を優しく叩いた。
見ると、そのほほえみもまた、優しい。
ぼくは暁雲にうなずき、仲達どのに笑った。
「やります」
仲達どのは初めて眉目を大きくひらくと、勢い込んで言った。
「将軍がた、改めて陛下より出陣のお沙汰がございます。またお越しくださいませ」
ぼくたちも孫呉征討に出陣が決まったということか。
どこへ、誰と向かうのだろう?
洛陽の借り住まいに戻ったぼくたちを、賈太尉ともう一人が訪れた。
その一人は目深に頭巾をかぶっている。
賈太尉がぼくと暁雲を玄関から外へ引っ張り出して耳打ちする。
「ちょいと、おまえさんたち。どっかで遊んでおいで。なるべく遅く帰るんだよ」
ぼくは面食らって、賈太尉に問い返す。
「なぜですか。遊んでおいでって、どこで」
賈太尉は眉間にしわを寄せ、小声でまくしたてた。
「かーっ、野暮で無粋で嫌になるねえ。女でも買っといでって言ってるんだよ」
ぼくはむっとして言い返す。
「そんなことできません。それがしには許昌に妻がおります」
賈太尉が手のひらを額に当てる。
「だから、なんでおまえさんはあたしの言葉を真に受けるかねえ? とにかく朝まで帰って来るなって言ってるんだよう」
「馥、行くぞ」
暁雲がぼくの腕に手をかける。
とたんに賈太尉は笑顔になる。相変わらず人が悪そうな笑顔だ。
「さすが暁雲。話がわかるねえ。飛将、おまえさんも見習った方がいいよ」
暁雲が賈太尉を、笑った目で睨む。
「こづかいをいただけないのが残念ですが」
賈太尉がものすごい速さでぼくたちに顔を向けた。
「おまえさんたち、あの軍資金、まさか全部使いきったなんて言わないだろうね?」
「そのまさかなのです」
暁雲がさも残念そうに告げる。
「かああっ」
賈太尉が今度は両手で額を覆って天を仰ぐ。
頭巾をかぶっていたもう一人が、初めて言った。
「賈太尉、もうここで結構です。お帰りください。ご子息がたもここにいらしてください。すぐに済みますので」
そして頭巾を取る。
「徐将軍!」
ぼくと暁雲は揃って声を上げた。
「賈太尉、何をお話しになっているのですか」
父上が外へ出てきた。
徐公明将軍が、父上に笑顔を見せる。
父上が目と口をひらく。
「公明」
「子廉。おめでとう。せがれたちと再会できたな」
父上が柔らかく笑う。
「これからはせがれたちと虎豹騎にいる」
徐将軍は細めた目に涙を浮かべる。
「また共に戦場に立てるのだな」
「ああ」
二人は固く手と手を握りあった。
名残惜しそうに手を離して、徐将軍はほほえむ。
賈太尉に一礼し、徐将軍は帰っていった。
その背中を見送りながら、賈太尉も笑う。
「やれやれ、あたしゃ要らぬお節介をしちまったようだねえ。小さな親切大きなお世話ってやつだ。どれ、あたしも退散するとしようか」
そして賈太尉は父上に言った。
「まったく、飛将と暁雲は、いい男になりましたね。これで曹魏も安泰ですよ」
父上が、嬉しそうに笑った。
黄初三年(222)九月、ぼくたちは呉の征討に出発した。
子桓自ら虎豹騎を率いる。
虎豹騎を率いるのは許仲康将軍、ぼく、暁雲、父上だ。
ぼくたちが目指すのは濡須。
子孝のおじ上と子全が率いる軍勢と一緒に進む。
ところで、劉備の消息がわかった。
蜀方面の情報を集める間者の安が、ぼくと暁雲に教えてくれた。
陸遜に負け、身一つで白帝城まで逃げたそうだ。
「そのあと病気になったそうです」
安は言った。
あの劉備が病気になったとは。
――負けるなよ。
劉備がぼくたちにかけた最後の言葉だ。
その声と、彼の温かいほほえみを思い出す。
濡須に向かう途中で許昌のそばを通る。
城外には、たくさんの人が並んでいた。
ぼくたちが進むと、追いかけてくる親子がいた。
「王玲! 青!」
「飛将さま!」
王玲が曹青をおんぶして、走っている!
彼女だけじゃない。
「李!」
暁雲もびっくりする。
「謝! 竜!」
謝の姉上が曹竜を肩車して走ってくる。
相変わらず青はぼくを、珍しいもののように見ている。
「青! 父上ですよ!」
王玲が笑顔で叫ぶ。
謝の姉上も笑っている。
「竜! あれがおまえの父上だ!」
曹竜も相変わらず、表情ひとつ変えずに暁雲を眺めている。
二人の小さい子は、ぼくと暁雲に、小さな手を伸ばした。
二つの幼い声が合わさる。
「ちちうえ」
ぼくは不覚にも泣きそうになった。
ちらりと暁雲をうかがう。
暁雲は、涙ぐみながら、息子に手を伸ばしていた。
それを見て、ぼくも曹青に手を伸ばす。
ぼくたちの手は触れあうことはなかった。けれど、通いあうものを、ぼくは確かに感じた。
急ぐぼくたちは、止まらずに進む。
子桓の隣には、息子の元仲――曹叡が騎馬で歩んでいた。
いつかぼくたちも、息子と馬を並べて、戦場へ向かうのだろうか?
そうならないようにぼくたちは戦うのだ。
進軍しているのはぼくたちだけではない。
ぼくたちは三つの方向から呉に進攻している。
子孝のおじ上、子桓、ぼくたちは濡須へ。
曹文烈どの、張文遠将軍たちは洞口へ。
曹子丹どの、徐公明将軍、張儁乂将軍たちは南郡へ。
むろん孫権側もぼくたちを迎え撃つ用意を進めている。
このあとは濡須での戦いについて、君に話そう。
濡須の城にはすでに呉の武将、朱桓がいた。
要するに城攻めだ。
濡須の背後に流れるのは長江だ。
ここは、ぼくと暁雲が劉備の陣に潜入していた時、孟徳のおじ上が孫権と争った地でもある。
呉の側にとってはいわゆる「背水の陣」だけれど、長江は呉の川だ。
ぼくたちには不利だ。
小競り合いはあった。
そこで虎豹騎の出番だ。
司馬仲達どのの言葉に従い、ぼく、暁雲、父上は、騎射が得意な騎兵を率いて攻めた。
格好の調練となった。
互いに死傷者は出たけれど。
家族をもったぼくは、死ぬわけにはいかない。
それは虎豹騎も、呉の側にいる将兵も、そしてぼくたち魏軍の将兵も、同じ思いだろう。
そして勝敗が決せぬまま、年が明ける。
雌雄を決する戦いが始まるのは、魏の黄初四年(223)三月のことになるのだけれど、それはまた次回で。
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