第15話 再び劉備の陣へ

「お待ちください」

 進み出たのは、父上だ。

 子桓はぎろりと冷たい目で父上を見た。

 ここは洛陽。軍議が行われている広間。

 子桓を前にぼくたちは左右に立ち並んでいる。

 この年、呉から帰還した于文則将軍の姿は見えない。呉へ使者として向かうよう命がくだされたそうなのだけれど、向かったという話をぼくは聞いていない。

「子廉、何か」

 父上の横顔は厳しい。

「おそれながら申し上げます。それがしは、今はその時ではないと考えております」

 子桓の整った顔は崩れない。

「何ゆえさように考える」

 父上は静かだが、強い口調で言った。

「孫呉の兵は戦と言えば関羽を破っただけで、大きな戦をいたしておりませぬ。なれどその分戦力は温存されており、我々が戦ったとしても敗れるおそれがあります。我々は漢中争奪、樊城での戦、青州兵の離脱と、将兵は疲弊いたしております。それに同じく劉備も呉を狙うとすれば、我々の出兵は劉備を利することになりかねませぬ。なにとぞ、ご再考くださいませ」

 孟徳のおじ上なら、そもそもこんな時に出兵など考えないだろう。

 けれど孟徳のおじ上は、いない。

 子桓は、父上に言わせただけだ。

 父上の意見には触れず、彼は続けた。

「孫呉征討は、先王からの悲願であった。聞けば劉備の陣営は七百里余りの長きに渡り構築されておるそうではないか。劉備は多方面からの攻撃に備えているつもりであろうが、長く陣を伸ばせば伸ばすほど、将兵は危険に駆けつけるのが遅くなり、補給もしにくくなる。つまり蹴破るのはたやすい。そして孫呉であるが、彼らは劉備の軍勢が弱ったところを見計らって一網打尽にいたすであろう。つまり孫呉はすぐには動かぬ。そこを急襲いたせば我々に利はある」

 もっともらしい言い分だ。

 子桓は立ち上がった。

「ではすぐに軍を編成いたす」

「なりませぬ!」

 父上が声を張り上げた。子桓の前に早足で近づき、ひざまずく。

 ぼくも走った。

 暁雲も続く。

 父上の左右にひざまずく。

 父上がぼくたちを見る。

 ぼくたちは、力強くうなずいた。

 子桓は父上を見下ろした。

「まだ朕を妨げるか」

 父上は、まなじりを決して訴える。

「何度でも申し上げます。我が軍は今、疲弊いたしております。この上出兵となれば、回復が遅れます。なにとぞ、なにとぞご再考のほどを!」

 すると子桓は、唐突に命じた。

「こやつを獄にくだせ」

「子廉!」

 徐公明将軍が後ろで叫ぶ。

 彼に、子桓は、嫌な笑いを向けた。

「仲良く獄に入るか、公明?」

 徐将軍の顔は一瞬で血の気が引いて真っ白だ。

「彼は関係ありませぬ!」

 父上がすかさず叫ぶ。

「黙れ!」

 そして子桓はびしりと父上に言った。

「先王とお主の件、朕が何も知らぬとでも思うたか!」

 父上の切れ長の目が、これ以上はないくらい、見ひらかれる。

 後ろからどよめきが聞こえる。

 ああ――それだけは言ってはいけないのに!

 暁雲が父上の前に出て盾となって叫ぶ。

「陛下! そのような証拠など、どこにもございませぬ! 父は潔白でございます!」

 今度は子桓は、暁雲をねめつけた。

 ねめつけると、ぼく、父上、暁雲にしか聞こえない大きさの声で、憎々しげに言い放った。

「おまえか。先王の隠し子とやらは」

 暁雲が固まる。

 子桓の視線と声、言葉から、これでもかと悪意がほとばしり出る。

「今すぐに殺してやってもいいのだが、そうはいかぬ。苦しめ。泣き叫べ。苦しめて苦しめて、手も足も出ないようにしてやる」

 そこへずいっと体を割り込ませた男がいる。

 司馬仲達どのだ。

「陛下、ご乱心が過ぎますぞ」

「下がれ、仲達! お主なぞ呼んでおらぬわ」

「下がりませぬ」

「仲達!」

 子桓は完全に頭に血が上っている。

 仲達どのは両手を伸ばして子桓の肩を押さえた。

「何をするかっ」

「落ち着かれませ」

「離せ」

「群臣をご覧なされませ」

 子桓は左右に立ち並ぶ群臣を見た。

 ぼくも振り返る。

 誰もが、こわばった顔をしていた。

 何も言えずにいる。

 仲達どのがここぞとばかりに大声を上げた。

「今のままでは、群臣の心は、陛下から離れますぞ! 出兵すら叶わなくなりますぞ?」

 しん、と、静まった。

 仲達どのはぼくたちに低い声で言った。

「下がられませ」

 ぼくは父上と暁雲を支え、列に戻る。

 徐将軍が駆け寄った。

 まだ子桓の目は、らんらんと燃えている。

 乱れた息のまま、子桓は言った。

「曹馥、曹震、参れ」

 ぼくと暁雲は進み出て、ひざまずく。

 子桓は十二旒の陰からぼくたちを睨みつけた。

「かつてお主らは先王の命によって、劉備の陣営に潜入いたしたそうであるな」

 ぼくと暁雲は異口同音に答える。

「はい」

「ではこたびも忍んで参れ」

 ぼくも、暁雲も、思わず子桓を見た。

 子桓は今にもぼくたちに唾棄しそうだ。

「お主らが潜入している間、子廉を獄にくだす」

 何ということだ!

 ぼくはもう、黙ってはいなかった。

 どうなってもいい、父上が助かるのなら!

「父が何の罪を犯したとおっしゃるのですか? 軍議の場で帝の意に沿わぬ意見を申し述べることが罪だと仰せになるのですか? さようなことがまかり通れば、誰も上奏する者がおらず、我々は道を誤ります!」

 子桓は急に何事もなかったかのように平然と返答してきた。

「朕は何も、朕の考えに異議を申し立てる行為を罪としたのではない」

「では何ゆえ父が獄にくだされねばならないのでございますか!」

「お主らはずいぶんと劉備に厚く用いられておったそうではないか。特に曹馥、お主は雒城を攻略いたすのに際し、戦況が劉備側に有利になるきっかけを作ったと聞いておるぞ」

 この一言。

 事実であるだけに、ぼくも暁雲も、何も言い返せない。しかもそれを包み隠さず孟徳のおじ上や元譲のおじ上、父上たち重臣に報告しているだけに、言い逃れはできない。

 しかも子桓はそれを、皆に聞こえるように言っている。

 なんて汚い奴なんだ。

 子桓は、意地の悪い笑いを浮かべる。

 悠然と、命じた。

「劉備の陣営について探って参れ。孫呉征討が成功いたすか否かは、お主らが持ち帰る報告にかかっている」

 さらに言った。

「お主らの潔白が証明されるまで、子廉を預かる。もしお主らが劉備を利するような真似をいたせば、それは我が曹魏に対する反逆となる」

 そういうことに、したいのか。

 やられた。

 完全に、おとしいれられた。

 もし今回の命令で暁雲やぼくが命を落とせば、それこそ子桓にとっては、願い通りだ。

 子桓は楽しそうに笑った。

「無事に帰還いたせば、子廉は解放いたそう」

 父上が兵たちに連行されてゆく。

 立ち尽くす徐将軍に、優しい視線を父上は送る。

 そしてぼくと暁雲を、父上は、励ました。

「信じているぞ、馥、暁雲」

 ぼくたちは、涙をこらえて、声を励ました。

「必ず帰還いたします、父上!」



 ぼくたちはいったん借り住まいに帰り、支度をすることを子桓に許可された。

 しかも、虎豹騎たちに見張られる中でだ。

 急に外で、ひづめの音がした。馬の鳴き声も。

 扉が開く。

「賈太尉」

 ぼくは言った。

 かつて潼関で共に戦い、昨年の二月に太尉に任命された賈文和どのが、眉間にしわを寄せて立っていた。

 賈太尉は、虎豹騎に命じた。

「外へ出ておれ」

 ぼく、暁雲、賈太尉だけになる。

 賈太尉の眉目が、ふわりとゆるんだ。

「大丈夫かい」

 その一言にぼくは思わず涙ぐんでしまった。ちらりと暁雲を見る。彼も泣きそうだ。

 賈太尉が、にやーっと笑ってぼくたちに顔を近づけた。

「二人とも、そんな顔しなさんな。男前が台無しじゃあないか」

 賈太尉は表情を引き締め、ぼくたちに包みをひとつずつ渡す。

「長居はできないから早口で話すよ。よーくお聞き」

 ぼくたちはうなずく。

「まず、子廉どのは無事だよ。獄にくだされたって言っても囚人としては扱うなって、仲達どのが口を酸っぱくして獄卒に言い含めたから、粗末な扱いはされないはずさ」

 ひとまず、ほっとした。

「それと、さっき渡したのは軍資金さね。帝は子廉どのの財産まで取り上げたからさ。これはあたしが帝にかけあって、先立つものがなけりゃあ敵の内情なんか探れませんやってさんざん言ったんだよ。そしたら帝が、子廉の財産から軍資金を出してやれって認めてくれてさ。あたしから子廉どのにもお伝えしたら、快く承諾してくだすったよ。あたしもなかなかやるだろう、ええ?」

 賈太尉はにやりと笑って顎を上げる。

「おまえさんたちが追い出されてから、みんなかんかんだよ。帝にも撤回しておくれってあたしたちは申し上げたんだけれど、聞く耳なんて持ちゃしない。さっさと引っ込んじまいやがってさ。まったく、あきれてものが言えないよ」

 ぼくもです、賈太尉。

「そうそう、公明どののことなのだけれど」

 ぼくと暁雲は身を乗り出した。

 賈太尉は肩を落とす。

「あんなことみんなの前で帝に言われちまったからねえ。子廉どのが、彼は関係ありませぬと叫んでくれたから、彼の面目が保たれたようなものさ。彼、内心をあまり表に出さないじゃあないか。それでも沈んでいたから、しばらくあたしの家で寝泊まりしてもらうことにしたのだよ。それなら帝もうかつには手を出せないからね。公明どののご子息は国元に所帯をもっているそうで、帰ってるっていうからさ」

「何から何まで、ありがとうございます」

 ぼくと暁雲は揃って頭を下げた。

「軍資金の中には、公明どのからのお餞別もあるのだよ。開けてみてごらん」

 ぼくは袋を開いた。お金の他に、もうひとつ袋が入っている。

 開けてみると、白いかたまりがひとつ。

「塩だ」

 一緒に中身を見た暁雲が声を上げた。

 賈太尉が口角を引き上げる。

「貴重品さね。どっちの袋にも入ってるからね。公明どのの地元は塩の名産地だっていうじゃあないか」

 賈太尉はぼくの右肩に左手を、暁雲の左肩に右手を置いて、一度強くゆさぶった。

「負けるんじゃないよ。おまえさんたちはひとりぼっちじゃあないんだからね」

 ぼくたちは、洛陽を出た。

 まっすぐに南へ下る。

 目指すのは、長江だ。

 劉備が成都から呉へ最短で向かうなら、長江に沿って下るのが一番自然で、一番手っ取り早いからだ。



 長江の左右は、山だ。

 それも、そこそこ高い。

 平地も少ない。

 ぼくが暮らしてきた洛陽のあたりは平地が多い。だから騎兵が展開できるのだ。

 でもここでは、歩兵か、長江を戦場にして戦艦同士の戦をするしかないだろう。

 子桓が言っていたっけ。


 ――聞けば劉備の陣営は七百里余りの長きに渡り構築されておるそうではないか。劉備は多方面からの攻撃に備えているつもりであろうが、長く陣を伸ばせば伸ばすほど、将兵は危険に駆けつけるのが遅くなり、補給もしにくくなる。


 平地が少ないし、振り返れば山だ。劉備がそういう布陣をするのも無理はない。

 ぼくと暁雲は、長江沿いにいた。

 気候は、ぼくたちが暮らす黄河の北よりは、穏やかだ。とはいえ、寒いことには変わりない。

 黄初三年(222)の春正月。これは、魏の元号だ。

 ここは、夷陵の近くだ。

 かつて赤壁の戦いののち、ぼくの父上が守備を任された都市である。

 長江には、呉の戦艦が並んでいる。

 赤壁の戦いでぼくたちが率いてきた戦艦よりも大きい。

「これじゃ魚も獲れやしない」

 吾さんはそう言ってがっくりとうなだれた。

 ぼくたちは呉軍の様子を探るため、漁師の吾さんに近づいた。呉軍へ魚を売っている。

「獲れば、陸大都督が買ってくださるのだが、よく獲れるところにあんなばかでかい船が居座ってるからさあ」

「陸大都督?」

「陸遜だよ」

 暁雲がぼくに、嫌な顔ひとつせず教えてくれた。

 ぼくはもう一度呉の戦艦に目をやる。

「吾さん」

「なんだい、李青」

 劉備のもとにいた時の偽名をぼくは使っている。暁雲が使う「李昇」は彼のもとの名だ。ちなみにぼくの息子の名も「青」である。

「なんでこんなに戦艦が出ているんだい」

「劉備が攻めてくるんだと」

「ここまで?」

「夷陵に陣を敷いてるって話だ」

「なら、戦艦なんかいらないじゃないか」

「劉備の方も戦艦を出してるんだと」

 つまり劉備は本気で呉と事を構えるつもりだということだ。

 ぼくたちは魚を陸遜の船まで売りに行く。

 他にも漁師がいて、呉軍と売り買いをしていた。

「ご苦労さん。船が邪魔して申し訳ない」

「そちら様こそ戦支度で大変でございましょう。こちらはその分いただいてますから、ご心配には及びませんや」

 呉軍の兵が代金を吾さんに渡した。証文を書いてそれも渡す。

「いつもくださるんで頂戴してますが、おれは字が読めねえんですよ」

 兵は、証文に書いた文字を指差しながら、丁寧に読み上げた。

「これが、おまえさんの名前。その隣が、さっきおまえさんに払った代金。それでこれが、今日の年と日付。受け取ったおれの名前。最後が、大都督のお名前」

「へえ」

「こちらがおまえさんから魚を受け取り、おまえさんに金を支払ったという証拠だから、とっておいてくれ。こちらにも同じものを保管してある」

 吾さんは証文をしげしげと眺めている。

「じゃあな。何かあればこちらから知らせる」

 吾さんが受け取った代金が入っている袋は、重そうだ。彼はそれを開けると、ぼくと暁雲に同じだけくれた。

「いいのかい、こんなにたくさん」

 暁雲が言うと、吾さんはにこりと笑った。それから二人は話を始める。

「よく働いてくれたからな」

「こんなに寒い中、長年、魚を獲ってきたんだね。おれにはできねえや」

「これしか知らねえからな」

「なあ、その証文、見せてくれないか」

「いいぜ。でも、なんでだ」

「おれたちが獲った魚がどのくらいの値段になったのか知りてえ」

 吾さんが差し出した証文を暁雲はまばたきしないで目だけで読んで返した。

「ありがとう。すまねえが、おれと弟はもう、行かなきゃならねえんだ。おれたちの女房やせがれどもが、夷陵で帰りを待ちわびてるから」

「えっ。夷陵」

 吾さんは網を片づける手を止めた。

「おめえ、正気か。夷陵はあぶねえ。劉備が来てるんだぞ」

 暁雲はおおげさに笑う。

「なおさらだよ。何なら兵になってもいいぐれえだぜ。なあ、青」

「お、おお。兄ちゃん、おれもやるぜ」

 ぼくも口調をなんとか合わせる。

 吾さんの眉目と口角が下がる。

「けどよう、おめえたち……」

 言いかけて、口をつぐんだ。

 きっ、と、覚悟の決まった顔つきになる。

 吾さんは力をこめて言った。

「わかった! 夷陵までおれが送る」

 しめた! ぼくは明るい声を上げる。

「ほんとうかい?」

「ああ。支度しな。すぐ出よう」

 暁雲が吾さんの両手をがっしと握る。

「ありがてえ! 恩に着るぜ」

「いいってことよ」

 かくしてぼくたちは長江をさかのぼった。



 呉の戦艦は夷陵まで続いている。

 夷陵の船着き場にも呉の戦艦はたくさん停泊している。

 でもぼくたちは、夷陵の手前で下ろしてもらった。そこにも呉軍が関所を設けている。

「夷陵までもうすぐなのに、いいのかい」

「この近くだから」

「死ぬなよう」

 ぼくと暁雲は同時に言った。

「ありがとう」

 吾さんの船を見送りながら、ぼくは暁雲に声をひそめて聞いた。

「証文を見ていたね。あれはなぜ?」

「呉軍に忍び込む時に、あの証文を書いた兵になりすますためさ。まあ、聞かれたら名乗るだけだがな」

「ちょうど年や背格好も、君と似ていたね」

 でも、ぼくはどうすればいいんだ?

 暁雲に聞くと、彼は笑って答えた。

「吾さんになればいい」

「戦えないじゃないか」

「心配するなって。吾さんの名前を名乗るだけさ。おまえの分の甲冑も用意するよ」

 もうすぐ日が落ちる。

 見張り番の兵が、かがり火をともした。

 すぐ裏手は林だ。

 ぼくたちは木の陰から様子をうかがう。

 かがり火が燃え上がる。

 暁雲が飛び出した。

 さっき火をともした兵に組みつく。

 兵はばたりと倒れ、動かない。

 もう一人、兵がやって来た。暁雲が走って組みつく。また、兵は簡単に倒れた。

 暁雲がぼくに向かって手招きする。

 ぼくが駆け寄ると、暁雲は小声で言った。

「気を失ってるだけだ。引っ張れ」

 ぼくたちは兵たちを林に引きずり込んだ。手早く甲冑を脱がせ、それを身につける。

 兵たちから帯や、服を着る時に結わえるひもを取る。それぞれの口にひもをかませて頭の後ろで縛る。兵たちの手首と足首をそれぞれ帯で縛る。これで目が覚めてもしばらくは動けない。

 ぼくと暁雲は、呉軍の兵になった。

 そのまま見張りに立つ。

 月が昇る。

 交代の時が来た。

 なんだか、様子が変だぞ?

 ばたばたと兵たちが走り回っている。

「おい、ほんとうか」

「夜襲だ!」

「早く馬で出ろとさ」

「おい、夷陵はどうなってる」

「それが城の外なんだとさ」

「城には攻めてきてないというのか」

「とにかく馬、馬出せ」

 ぼくたちは、目と目を見合わせる。

「暁雲」

「馥」

「今がその時だね」

「ああ」

「まず、乗馬」

「そのあと、駆ける」

「劉備の陣へ」

「そうだ」

 不謹慎だけれど、ぼくはわくわくしてきた。



 馬をつないである場所へぼくと暁雲は走る。

 兵たちもばたばたと走り回っている。

「馬、まだかよっ。よこせ早くっ」

「今やってますっ」

「馬、馬とにかく出せっ」

「乗れ、乗れっ」

「槍持ってけっ」

「もう来てるんだよっ、火矢、射込まれてる」

「なにっ」

「奴ら城攻めまで始めたってのかよっ」

「城へ走れ」

「だめです! 近づけません!」

 この混乱ぶり。劉備の陣へ行くぼくたちからすれば好都合だ。

 ぼくたちは立てかけてあった槍をとり、適当な馬にまたがると、駆け出した。

 夷陵の城壁の前は、もう、作戦も何もない。

 兵と兵とがぶつかり合っている。

 城壁の上からも下からも、火矢が飛んでくる。

 ぼくと暁雲はとにかく西へ――劉備の軍が攻め寄せる方向へ駆ける。

 兵が旗を持って走ってくる。

「黄」という姓が刺繍されているだと?

 ぼくはそこで、頭が止まった。

 妙才のおじ上が斬られたところが眼裏に浮かぶ。

 劉備の軍。「黄」。

 劉備の軍で、姓が「黄」と言えば、あいつしかいない。

 黄忠。

 ――妙才のおじ上の仇!

 ぼくは目を走らせる。

 どこだ。どこだあの老いぼれ!

 馬上で足元に群がる兵を大刀でなぎ払う武将をぼくは発見した。

 白いひげが見える。

 あれだ。あいつだ! 妙才のおじ上の仇は!

 ぼくは槍を捨てた。

 弓を構え、矢をつがえる。

 黄忠を狙う。

 ――殺してやる。

 必ず妙才のおじ上の仇をとってやる!

 背中を棒のような物でひっぱたかれた。

 振り返ると、暁雲がいる。

 暁雲はぼくに怒鳴った。

「あとにしろ!」

 ぼくも怒鳴り返す。

「今黄忠が目の前にいるんだよ!」

 暁雲がさらに大声を出す。

「劉備の陣へ行ってからやれ!」

 ぼくはむきになって言い返す。

「それじゃ遅いんだよ!」

 暁雲が馬を寄せ、ぼくの横っ面を張った。

「何するんだよ!」

「忘れたのか!」

「何をだよ!」

「父上の命がかかってるんだよ!」

 ぼくはようやく我に返った。

 そうだ。ぼくたちは子桓に父上の身柄をとられているのだった。ぼくたちが劉備の陣へ潜入した報告をあげるまで、父上は釈放されない。

 父上がぼくたちにかけた励ましを思い出す。

 ――信じているぞ。

 暁雲が馬から飛び降りた。ぼくが捨てた槍を拾い上げ、ぼくに渡す。

 暁雲は馬に乗ると、ぼくに優しく笑った。

 ぼくは暁雲の顔を見られない。

 急に新たな馬蹄の響きが聞こえた。

 見ると、西から馬の群れが迫ってくる。

 騎兵だ。

 旗が見える。

 月光で何とか姓が読めた。

 ぼくは目を見ひらいた――「劉」。

 暁雲と視線を合わせる。

 暁雲がうなずく。

 ぼくたちはその旗に向かって駆けた。

 騎兵の一人が声を張り上げた。

「関興! 張苞! 黄忠を連れ戻せ!」

「ははーッ!」

 呼ばれた二人は大声で返答し、ぼくたちとすれ違う。

 ぼくは劉備の言葉を思い出した。

 ――おれ、一度会った奴は忘れないんだ。

 ぼくは叫んだ。

「劉豫州!」

 さっき声を張り上げた騎兵が、馬を止めた。

 やっぱり、劉備だ。劉備だった!

 ぼくは腹の底から声を出す。

「劉豫州!」

 ぼくと暁雲は劉備の前に馬を止める。

 ぼくたちは冑をはずした。

 劉備は、目と口を、ひらいた。

「おまえたち……」

 握った拳をもう片方の手のひらで包み、ぼくと暁雲は頭を下げた。

 顔を上げ、ぼくは名乗る。

「李青でございます!」

「おまえ――どうして」

「劉豫州、いったん、お引きくださいませ! 呉軍が攻め寄せて参ります!」

 暁雲もぼくに加勢してくれる。

「李昇、ただ今参上つかまつりました! 劉豫州、ここからはそれがしらがお供いたしまする!」

 劉備の目は少しの間揺れ動いていたけれど、すぐに彼は、眉目を強く引き上げた。

「あいわかった! 引き上げよう!」

 そして左右の兵に命じた。

「引き上げる! 鉦打て!」

 兵たちが拱手で応じる。

「はーッ!」

 鉦が一斉に打ち鳴らされる。ぼくたちが暮らす中原の習いでは、太鼓を打って進軍、鉦を鳴らして退却だ。

 劉備は馬首を返した。

「李昇、李青、伴をせよ!」

「御意!」

 ぼくたちは同時に答え、劉備を追った。



 劉備の陣に戻る。

 少し遅れて、劉備側の将兵が続々と帰りつく。

 ぼく、暁雲、劉備は馬を兵に預け、劉備の幕舎へ入った。

 劉備は床几に腰かけ、ぼくたちはひざまずく。

 向かい合う。

 劉備は頬の肉が削げ、しわと白髪が増えていた。

 ぼくたちに、それでも、ほほえんでくれた。

 今にも泣き出しそうな顔だった。

 しみじみと、言った。

「また、おまえたちに、会うとはな」

 その声を聞いたとたん、ぼくは不覚にも涙をほとばしらせてしまった。

 地面に突っ伏して、泣き叫んでいた。

「おい――ふ、じゃない、青」

 暁雲があわててぼくを抱え起こそうとする。

 でもぼくは、起き上がれなかった。

 声が、涙が、ぼくの中から噴き出す。

 妙才のおじ上を、黄忠に殺された。

 ぼくが雒城を落とす働きをしたことを、子桓に、皆の前で明かされた。

 しかもぼくと暁雲の父上を人質にとり、獄にくだした。

 そしてぼくたちは、劉備の陣へ潜入せよと命じられ、従った――。

 悔しい。

 情けない。

 今すぐ子桓をこの矢で射殺してやりたい!

 獣みたいにぼくは吠えた。吠え続けた。

 すると、長い腕に、包み込まれた。

 そのまま胸に押しつけられる。

 劉備だった。

 劉備が、ぼくを、抱きしめてくれているのだ。

 劉備は恰幅がよかったはずだ。でも、ぼくと接している胸板は、びっくりするほど薄かった。

 ぼくの背中を、劉備は、しっかりと押さえている。

 ぼくの声と涙が、鎮まった。

 劉備がぼくをそっと離す。

 ぼくの目を覗き込み、劉備は笑った。

「顔、洗ってこい」


 月が明るい。

 近くに清水が湧いていた。

 そこで顔を洗い、手のひらで水をすくって飲んだ。

 服の裾で顔をぬぐう。

 突然、孟徳のおじ上の言葉がよみがえった。

 関羽が孫権に斬られたとの一報が入った時だ。

 ――漢中王劉備にとってこれ以上の痛手はないな。

 それに、張飛まで、部下に殺された。

 劉備、関羽、張飛は、同年同月同日に死のうと誓い合った義兄弟だ。

 劉備は一人だけ、生き残ってしまったのだ。

 そんな時なのに、泣き叫ぶぼくを、抱き止めてくれた……。

 また、ぼくの目から、涙があふれた。

 ぼくにはまだ、暁雲がいるじゃないか。

 父上だって今、生きているじゃないか。

 仲達どのは父上を囚人として扱うなと獄卒に言い含めてくれたじゃないか。

 賈文和太尉だってぼくたちに軍資金を持たせて、励ましてくれたじゃないか。

 徐公明将軍は、辛いのに、ぼくたちに貴重品の塩を賈太尉に託してくれたじゃないか。

 それなのにぼくは泣いている。

 ぼくは、なんて、情けない男なんだよ。

 ぼくは清水で顔をまた洗った。

 涙目で劉備の前に戻る。

 暁雲がぼくに走り寄り、小声で聞く。

「馥、落ち着いたか?」

 眉と目が下がっている。本気で心配してる顔だ。

 ぼくは涙目のまま、笑って見せた。

「心配かけてごめん。もう平気だよ」

 劉備も歩み寄る。

「落ち着いてから、話せたらでいいぜ。どうせまだ陣を敷いたままだからな」

「このまま、攻撃をお続けになりますか」

 ぼくが聞くと、劉備は苦い物でも口にしたような顔で答えた。

「ああ。もうあとには引けねえ。馬良の奴、おれにあきれて、成都の諸葛先生のとこへ言いつけに行きやがった」

「馬良?」

「劉備の幕僚の一人だよ」

 暁雲が嫌な顔ひとつせずに小声で教えてくれた。

 ぼくは思い切って尋ねる。

「関将軍の仇討ちのためと聞いておりますが、まことでございますか」

「そうだ」

 劉備は笑ったが、精根尽き果てたという目をしている。

「やっちまったよ。後ろは山、前は川。平地なんてここだけだ。この先じゃあ騎馬隊も展開できねえ。やっちまった。やっちまったよ」

 ぼくは言葉を継いだ。

「水軍も率いてこられたのではありませんか」

「呉軍の奴らにこてんぱんにされたよ」

 劉備は改めてぼくと暁雲に目を向ける。

「おまえたちがまたおれのところに来たってことは、曹丕にでも何か言われたからかい」

 暁雲が口をひらいたけれど、ぼくは彼を見て、目で伝えた。

 ――ぼくが言うよ。

 暁雲も察してくれた。ゆっくりうなずく。

 ぼくは、話し始めた。

「曹丕は呉への進攻を考えております」

 劉備はひとまず黙って耳を傾けている。

「そこでそれがしが陛下のもとへ潜入していた折、雒城を落とす働きをしたことを持ち出し、それは反逆ではないかと申しました。そこで、それがしらが二心無きことを証明せよと、再び内情を探るよう命じたのです。その間、それがしらの父、曹洪が、獄にくだされることになりました」

「ひどい話だな。じゃあおまえたちの親父さんが人質にとられたってことか」

「――はい」

 劉備は顎に手を当てて考え込む。それから、ふとぼくに声をかけた。

「なあ。飛将」

「何でしょうか」

「おまえたちに最初におれの陣へ忍び込めって命じたのは、曹さんだよな?」

「ええ、その通りです」

「曹丕はそのことを知ってて言ってるのか?」

「はい。それがしらの報告も、先王と共に聞いております」

「なら、おまえたちの親父さんと曹丕は、仲が悪いのか?」

「そういうわけではありませんが、曹丕が呉を攻めると言った時に、考え直せと言ったのは、父です」

「だからか。だからもう意見させないように投獄したってことか」

「それがしらも、父を投獄するなと訴えました」

「つまり曹丕は本気で呉を攻めたい。そこへおれが先に攻めてるものだから、焦っている。だから反対したおまえたちを追い出した。親父さんを人質にしておけば、おまえたちがおれに味方することはできない。つまり曹丕はおまえたちが帰ってこなくてもいい、むしろ帰ってこないことを期待している。そういうわけなんだとおれは思う。仮におまえたちが帰ってくれば、理由をつけて殺せばいい。その理由は親父さんを殺す口実にもなるしな。これで曹丕に反対する奴はいなくなるし、この先も出てこない」

「ご賢察の通りです」

「きたねえ野郎だな」

 劉備は苦い顔つきでつぶやいた。けれどすぐに明るい顔でぼくと暁雲に言った。

「だめだぜ、そんな奴に負けちゃあ。おまえたち、曹さんの秘蔵っ子なんだろ」

 ぼくと暁雲は思わず吹き出した。

 だって、賈文和太尉と同じことを言うんだもの。

 劉備はがははと笑った。

「おれを誰だと思ってる? 劉玄徳だぜ? 運が強いことと、逃げ足だけは誰にも負けねえ。安心しな、おまえたちも親父さんも助かる方法が、ひとつだけある」

 ぼくと暁雲は目玉が飛び出そうなほど目をひらく。

「助かる方法がある?」

 劉備は、にやあと笑った。



「女に頼むんだ」

「は?」

 ぼくも暁雲も、ぽかんと目と口を開けた。

 劉備は不敵な笑いを浮かべている。

「男は、女の頼みとあれば、必ず聞き届けたいと思う生き物だからさ」

 ぼくは思わず質問してしまった。

「陛下もそのようになさったことがあるのですか?」

「ああ」

「どなたの頼みをお聞きになられたのですか?」

「母上だよ」

 ぼくたちは、はっとした。

 劉備は、恥ずかしそうに頭をかく。

「ずーっと言われ続けてたのさ」

 ここで劉備は居ずまいを正し、母上の顔つきとしゃべり方の真似を始める。

「備や、そなたは中山靖王劉勝の末裔です。必ずや今の帝をお助けし、ひいては後を継ぎ、この中原を安らげるのです。ゆめゆめ疑うてはなりませぬ。そなたは帝となるのですぞ……」

 さすがにぼくたちは笑えない。

 けれど、暁雲は、何か思い当たったことがあるようだ。

「おれも、母さんの頼みを、聞き届けた」

 ぼくは彼を見た。

「そうなのかい?」

「お父さんを助けてって。死ぬ前に。だからおれは、間者になった……」

 劉備が暁雲に、もしかして、と声をかける。

「おまえ――やっぱり、曹さんの子、なのか?」

 暁雲が、涙ながらにうなずいた。

「そうです……。おれは、曹孟徳と、侍女の間に、生まれた子です……」

「ああ――だからか。だから、似てたのか」

「そのことも曹丕は知っていて……苦しめてやると……」

「何だよ、そりゃあ。関さんのことがなけりゃあ、おれが征伐に行きてえぐれえだ」

 劉備が涙ぐむ。

「飛将も、曹さんのそばにいた子廉さんの子なら、そりゃあ、だいじに育てるよなあ。だから曹さんは、おまえたちに、いろんなことをやらせたんだな。強くなってほしくて。いい男になってほしくて」

 ぼくは母上から頼まれたことは、ない。母上がぼくに何か望んだとしたらそれは、何だったろう。

 ――ひらめいた。

「卞太后。子桓の母上――」

 ぼくの声に、暁雲が顔を上げる。劉備がぼくに人差し指を突き出す。

「彼女だ!」

 そして今は亡きぼくの母上が今、ぼくに一番頼みたいことは、これしかない!

 ――父上を助けて。

 ぼくは声を励ました。

「卞太后に、子桓を説得してもらう!」

 劉備は大きくうなずいた。

「おまえは曹さんの血縁だから、渡りをつけるのもやりやすいだろう」

 そして、劉備は寂しそうに笑う。

「そうと決まれば、帰るんだ」

 ぼくは劉備を見た。

 劉備はほほえんだまま続ける。

「曹丕にはこう言えばいい。劉備は負けます。呉軍の勢いは止まりません。それゆえ今こそ出撃の時です」

 暁雲が眉間にしわを寄せた。

「出撃を勧めるのですか?」

 劉備は笑みから寂しさを抜いた。

「そうだ。あえて出撃させるんだ」

 暁雲が声を落として、けれど強い視線で問う。

「我が軍に負け戦をせよと勧めるのですか」

「あえて負けさせるんだよ」

 暁雲が頭を下げる。

「申し訳ありません。お考えをもう少し詳しくお聞かせくださいませんか。それがしの理解を超えているように感じますゆえ」

 劉備は優しげに目を細めた。

「悪かったな。じゃあ、説明するよ。おそらく曹丕は、曹さんができなかったことを成功させたいんだ。つまり、呉を征伐したい。そこまではいいかな?」

「はい、理解できます」

「それは不可能だと思い知ってもらうのさ」

 ぼくも暁雲も、穴が空くほど劉備を見る。

「おれたちを倒せば呉軍の士気は上がるだろう? そこへ洛陽から南に下ってきた魏軍なんか、それこそこてんぱんにやられるぜ。南下するだけだってくたびれ果てるんだから。今から進軍すれば早くて着くのは夏。暑いし、病気ははやるし、戦どころじゃなくなる」

 暁雲が、何かを理解したようだ。目を見ひらいた。

「失敗すれば、命じた曹丕のせいになる」

「そういうこと。将兵には悪いが、負けてもらうんだ。奴は自分の失敗を家臣になすりつけるだろうが、確実に人心は離れていく。月日はかかるが、これが一番いい、曹丕への復讐になる」

「では――それがしらが陛下のもとを去るのも、今なのですね」

「そういうこと」

 暁雲に劉備はしんみりと言った。

 ぼくと暁雲は、劉備に一礼した。

 感謝の言葉を申し述べるべきなのだろうけれど、言葉にならない。胸がいっぱいで。

 劉備はぼくたちに温かくほほえむ。

「負けるなよ」

 賈太尉と同じことをまた言われたので、ぼくたちは笑ってしまった。

 ぼくはもう、妙才のおじ上の仇討ちなど、とうに忘れていた。

 仇討ちよりも、父上を助けることの方がずっと、大事だからだ。

 ぼくたちは軍資金と塩、それに加えて吾さんからもらった駄賃を持って、洛陽へ駆けた。

 目指すのは、卞太后だ。









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