第14話 曹丕も劉備も帝になった
関羽が斬られた。
その一報を聞いた孟徳のおじ上はつぶやいた。
「漢中王劉備にとってこれ以上の痛手はないな」
孟徳のおじ上はぼくたちと共に洛陽へ戻った。
今がいつかと言うと、建安二十五年(220)、春正月。
洛陽から許昌までは約四百五十里(百八十キロメートル)ある。
許昌には、ぼくの妹、ぼくと暁雲の妻子が暮らしている。少しだけ近くなる。
ぼくも、暁雲も、まだ自分の息子を見ていない。
正直、不安だ。
「青に会ったら、何て言えばいいんだろう」
洛陽の借り住まいで、ぼくは言った。
久しぶりに戦支度をしなくて済む正月だ。
父上、暁雲、ぼくは今、卓を囲んでいる。
もうすぐ寝ようという時だった。
「おれだって、竜に、どんな顔をすればいいか、わからない。生まれた時から父さんと暮らしたことなんてないから。父さんと仲良く話したことなんて、子供の頃にはなかったから」
暁雲も自信がなさそうだ。
「いつも通りにしていればいい」
父上が腕組みをして、卓に視線を落としている。その姿のまま、ぼくたちに言った。
「おれもおまえたちに、父親らしいことはしてやれていない。だから助言する資格はない。だが、もし言うとするなら、父親になろうとか、夫であろうとか、余計なことは考えなくていいと、おれは思う。ただ、おまえであればいいのだ」
父上の言葉が、ぼくの胸にしみ込む。
会ってもいない息子に、今、どうすることもできないものね。
会った時に考えよう。
暁雲は複雑な表情をしている。
「おれは、いまだにわからないのです。父親がどんなものなのか」
父上は暁雲を、温かい目で見た。
「おまえの実の父親が、おまえにしてくれたことは何だ。嬉しかったことも、悔しかったことも全部、思い出してみろ」
「おれにしてくれたこと……」
暁雲は口の前で両手の指を組んで考え込む。
ぼくは暁雲が口をひらくのを待つ。
父上も暁雲をじっと見つめている。
暁雲の、切れ長の目から、涙がひとすじ流れた。
「どうした」
父上が聞くと、急に暁雲は父上に抱きついた。
「――無理です」
「何が無理なのだ」
「思い出すことは全部、父上とのことでした」
ぼくも父上も、驚いた。
暁雲は子供のように泣きじゃくっている。
「確かに父さんや母さんは、おれにとって大事な人たちです。でも――父上と母上、馥や祥と暮らした毎日の方が、おれにとってはずっと……ずっと、残っています」
父上は、暁雲をしばらく、戸惑った目で見ていた。
けれど、その手が、おずおずと持ち上がる。
そして――彼を抱きしめた。
まるで、生まれたばかりの赤ん坊を、抱くようだった。
暁雲がさらにすがりついて泣きわめく。
父上が、ふっ、と、優しげに笑った。
「おれを、父親だと、思ってくれたのか」
「父親です」
暁雲が父上の厚い胸に頬をすりつける。
父上は、暁雲の頭を優しく撫でる。
ぼくも、父上に抱きついたことがある。
赤壁の戦いのあと、南郡まで逃げてきた、その翌日のことだ。
父上が明るい顔をしていたので、ぼくは尋ねた。
――父上、何か良いことがあったのですか。
――ああ……あった。
――よかったですね!
ぼくはそのあと父上に、こう言って抱きついた。
――今まで、父上はぼくにとって遠かった。でも今は、近く感じます。父上、大好きです。
ぼくはやっと、素直になれたのだ。
あの戦いでぼくたちは結局、船を焼いて退却した。江東攻略は、成らなかった。
けれど、それ以上に、ぼくにとっては、得るものがあった。
暁雲にとってもそれは、同じだったろう。
突然、扉が外から叩かれた。
ぼくは戸口へ行く。
「どなたですか」
「王の間者の頭、管と申します」
ぼくは暁雲を振り返る。
暁雲は涙を拳でぬぐうと、戸口まで来た。
「管か? 李だ」
「ああ、しばらくだな」
「何があった」
「開けてくれ」
暁雲が父上を見る。
「確かに王の間者に間違いありません」
「開けてやれ」
父上が言って、管は入ってきた。目立たない、小柄な男だ。
「王が家臣の皆様をお呼びです」
父上が問う。
「王は何と仰せか」
「関羽の首が届きました」
一瞬でこの場が凍りつく。
管は言った。
「平服で結構とのことですので、すぐにそれがしとお越しください」
ぼくたちが集まった広間には、孟徳のおじ上が座っていた。十二旒の陰から、老いてなお整った顔がのぞく。
その隣には、許将軍が立っている。
広間の真ん中に、桶があった。
きっとそれが、関羽の首なのだ。
おじ上が、ぼくたちに言った。
「関羽の首だ。孫権が、送ってよこした」
初めて見る文官が進み出た。父上よりも若そうだ。四十歳くらいだろうか。切れ長の目は細く、その顔からは、考えていることが見えない。
「于将軍の消息については、知らせがございましたでしょうか」
おじ上が彼を見る。
「司馬仲達か。文則は生きている。孫権自ら会いに出向き、縄目を解かせたそうだ」
皆がどよめいた。
仲達どのは細い目を、何か遠くを見る時のようにさらに細めた。
「して、王は、この首を、いかがなさるおつもりでございますか」
「それを諮るために、お主らを集めた」
十二旒の陰から見える整った白い顔は苦しげだ。
父上はおじ上のそばに今すぐに駆け寄りたいという顔をしている。
司馬仲達どのがさらに一歩前に出る。
「それがし、思うところがありまするが、申し述べることをお許しくださいますでしょうか」
おじ上が仲達どのを見る。
「申せ」
「諸侯の礼をもって葬儀を営むことが最善と存じます」
とたんに、声が上がった。
「敵将だぞ」
「孫権に送り返すのが最上でござろう」
「いや、劉備に送るのが筋だ」
「そもそもなぜあの紫髯のわっぱはこちらに送ってよこしたのだ」
「静まれ」
おじ上が短く言い、皆、口をとざした。
おじ上は仲達どのに言った。
「余も仲達と同じ考えである」
仲達どのが深々と頭を下げる。
ぼくたちに、おじ上は静かに告げた。
「孫権は、余に関羽処刑の責を負わせ、劉備の矛先をかわす腹づもりであったようだ。ならば関羽を手厚く葬り、廟も建ててやれば、劉備の矛先は孫権に向く。今、漢中の戦、樊城の戦を経て、我々に余力はない。事を構えるのは、危険と判断した。これよりすみやかに、関羽の葬儀の準備に入れ」
ぼくたちは一斉に拱手し、一礼した。
おじ上は何人かを呼び集め、何事か伝えていた。彼らが立ち去ると、許将軍に付き添われて広間をあとにした。
「おじ上、具合がよくなさそうでしたが」
ぼくが聞くと、父上は苦い顔で答えた。
「頭痛がこのところひどいそうだ」
大丈夫なのだろうか。
関羽の葬儀は、雪が降る中で進んだ。
孟徳のおじ上は王の衣服で、ぼくたち家臣一同は完全武装で参列した。
暁雲はずっと、黙って、涙を流していた。
風は冷たいけれど、空は晴れ渡って青い。
ぼくは今、洛陽の練兵場にいる。
騎射の稽古をしているのだ。
樊城まで駆けたあの牝の馬をいつものように走らせ、弓を引きしぼる。
ところが、弓弦が切れた。
よくあることだ。
けれどその時ぼくは、なぜだかこう感じた。
――不吉だ。
ぼくは練兵場の端へ行き、階段に腰かけ、弓弦を張り直す。
「よう」
聞き覚えのある声だ。
顔を上げると、孟徳のおじ上の息子、太子となった子桓――曹丕がぼくを見下ろしていた。
ぼくはこいつがあまり好きではない。
嫌みたらしいからだ。顔の作りはいいくせに。
「太子とお呼びすべきですか。それとも、従兄として接するべきですか」
「従兄としてでいい」
斜め後ろに腰を下ろした子桓に尋ねる。
「鄴にいたのじゃなかったのか」
「引き継ぎで来たのさ」
「おじ上の?」
「ああ。頭痛がひどいというので、おれに務めを回したいと」
関羽の首が届いた時も、だいぶ痛そうにしておられたものな。
「それで今、務めはどうしているのさ」
「半分以上は片づいたから、気晴らしに歩いてきた」
そう言って子桓は、ぼくの弓矢を見た。
「切れたのか?」
「うん」
「おれも久しぶりに騎射でもするか」
「君、得意だったものね」
「借りてくる」
子桓は階段を駆け降り、調練の休憩中だった虎豹騎――ぼくたちの陣営の精鋭の騎兵隊――から弓矢と馬を借りると、勢いよく飛び出した。
走る馬の上で矢をつがえる。
しなった弓から放たれ、的に当たった。ど真ん中ではなかったけれど。
子桓は何度かそれを繰り返し、虎豹騎に弓矢と馬を返した。そしてさっぱりした顔で戻ってきた。
「やっぱり、いいな」
こいつにもこんな素直なところがあるんだな。
「大変なのだろう、務めは」
「そりゃあそうさ」
口の片端を引き上げて子桓は笑い、尋ねた。
「ところで、おまえのところの、父上そっくりな間者はどこにいるのだ」
ぼくは警戒して、返答を少し遅らせた。
父上と暁雲は今、孟徳のおじ上に呼ばれている。
――孟徳兄にもしものことがあった際、暁雲の出自を隠し通し、守るのだ。そのために話をする。
ぼくは父上からそう聞いている。
さて、子桓だ。
こいつは暁雲の素性を知っているかもしれない。もしそうなれば、おじ上が亡くなったあと、暁雲を排除するかもしれない。
そんなことはぼくが絶対にさせない。
ぼくが暁雲を守るんだ。
「聞いてどうするのさ」
「知りたいだけさ。父上にお聞きしてもお答えにならないものだから。いくら赤壁で父上の身代わりをやりおおせたとはいえ、間者の望みを聞き届けるなど不自然だろう。しかも子廉のおじ上が養子にしたとは。ますます不可解だよ」
ぼくは弓矢を持って立ち上がった。
何も答えずに階段を降り、あの牝馬に飛び乗る。
子桓を振り返り、ぼくは大声で言った。
「見てろ」
ぼくは駆けた。
並んだ的を狙って射つ。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
すべてど真ん中に命中させる。
馬から降り、階段を昇る。
子桓のすぐ前にぼくは立ち、視線を突き刺す。
彼は、もう、笑っていなかった。
眉間に深く縦じわを刻み込み、その両手の指は力が入って、曲がっている。
ぼくは低い声で告げた。
「暁雲はぼくの大事な義兄で、親友だ」
子桓の口元が引き結ばれる。その額には汗がにじみ出ている。
空は穏やかに晴れているが、ぼくたちは険悪だ。
あわただしく駆けてくる足音が聞こえた。
「太子」
司馬仲達どのだ。
細い目を縁が切れそうなほど開けている。
「いかがいたした、仲達」
「すぐに王の寝室へ」
あの、切れた弓弦。不吉だと思った。
ぼくたちは揃って仲達どのに叫んだ。
「王がどうしたのだ」
「急変いたしました」
子桓が走り出す。
ぼくも走った。
仲達どのは息を切らしながら、途中で走るのをやめた。苦しそうだ。
子桓はあっという間に見えなくなる。
ぼくは仲達どののところへ戻り、彼を支えて一緒に走り出した。
孟徳のおじ上は寝台の上に仰向けに寝ていた。
整った横顔は血の気がない。
父上と暁雲、賈文和軍師、陳長文どの――姓名は陳羣――おじ上から目を離さずにいる。
子桓が立ち尽くす。
賈軍師が振り返った。彼に会うのもほんとうに久しぶりだ。軍師は真っ青な顔でぼくに走り寄り、小声で言った。
「よかったよ、間に合って。暁雲に聞いたら練兵場にいるっていうから、あたしゃ急いで仲達どのを走らせたんだよ。そしたら太子も走って来たじゃあないか。たまげたよ。まったく、あのお方はどこにいたんだい」
「練兵場です」
答えるぼくの隣で仲達どのはまだ、はあはあいっている。
「おじ上は、どうなんですか」
ぼくは、ようやく声を出した。
賈軍師はしわが増えた顔で答える。
「それがよくないんだよ。もう、あの通りさ。目を閉じたっきり開けやしない。あたしたちが何度も呼びかけているのだけれど」
暁雲が心配だ。ぼくが見ると、顔が真っ白だ。
父上はと言うと――目を見ひらいている。暁雲の隣で、おじ上に視線ですがりついている。
「王!」
長文どのが声を上げた。
おじ上が、まぶたをひらいたのだ。
ぼくたちは一斉にひざまずく。
おじ上は仰向けのまま、目だけで父上を呼んだ。
父上が弾かれたように動いた。おじ上を抱き起こす。おじ上は父上の鍛え上げた鎧のような肩に頭をもたせかける。
「聞け」
弱いけれどしっかりとした声でおじ上は言った。
「丕」
「はいっ」
子桓がおじ上のそばにすぐさま寄る。
「魏王と丞相を、おまえが継げ」
「謹んでお引き受けいたします」
子桓は額を床に打ちつけんばかりに平伏した。
おじ上はぼくたちを見た。
「葬儀は簡素に執り行え。あとは、遺令に従え。長文に、ありかを伝えてある」
「承りました」
長文どのが涙を流してうなずいた。
「すぐに持て」
子桓が命じる。長文どのはすぐさま走り去った。
おじ上の頭が、父上の厚い胸に落ちた。
今日は建安二十五年(220)春正月庚子の日(二十三日)。
ぼくのおじ上、魏王にして漢の丞相、曹操は崩御した。
六十六歳だった。
皮肉なほど空は青く、よく晴れていた。
許仲康将軍が泣き叫んでいる。
その口からついに、血が垂れてきた。
泣きすぎて、喉が切れたのだ。
葬儀の時、哭礼を行う。これは大声で泣き叫ぶ儀式だ。
けれど、ぼくは涙も声もしばらく出なかった。
孟徳のおじ上が、亡くなった。
何も考えられない。
暁雲も泣いていない。
ただ、おじ上の棺を見つめていた。
彼の、おじ上そっくりな横顔を見ると、ぼくの頭の中はさらに無になる。
父上の目に、やはり涙はなかった。
その顔には二つの表情が見える。
安心した。
あるいは、無になった。ぼくと同じように。
この年の二月、おじ上は埋葬された。
遺令には、「葬畢、皆除服」とある。
葬儀が終われば、皆、喪服を除け――つまり、普段の生活に戻れ、というのだ。
ぼくたち中原の習いでは、そこから儒家の教えも生まれたのだけれど、一定期間喪に服すのだ。
おじ上はそれをしなくてもよいと、ぼくたちに言ってくれた。
遺令はいう。将兵は任地を守り抜け。官吏は職務を続けよ。
孟徳のおじ上は、ぼくたちに、今の暮らしを続けよと言ってくれている。
おじ上だからこそ遺せた言葉だと、ぼくは思う。
「家族に会ってこい」
そう言って父上はぼくと暁雲に笑顔を見せた。
許昌に向かうぼくと暁雲を見送ってくれたのは、父上と徐公明将軍である。
ぼくと暁雲はこれから、初めて、自分の息子と対面することになる。
「だれ」
それが、ぼくが初めて聞いた、数えで二歳になる息子・曹青の第一声だった。
涙目で、短い両足は、ぷるぷる震えている。
怖いのだろう、きっと。
隣にいる子供――暁雲の息子・曹竜の小さな手を、ぎゅっと握りしめているから。
一方、その曹竜は、まだ数えで二歳だというのに、いや、数えで二歳だからなのか、まじまじとぼくたちを見ている。
肝が据わっているのか。ただ単に何も考えていないだけか。
王玲も、謝の姉上も、ぼくの妹の曹祥も、苦笑いしている。
ぼくと暁雲は、顔を見合わせる。
そして、ため息をついた。
いつになったら彼らは、ぼくたちを父親として見てくれるのだろうか?
建安二十五年改め延康元年(220)の春三月、許昌のぼくの実家でのことである。
初対面はそんな感じだったけれど、暮らしてゆくうちにぼくたちはなじんでいった。
もうそろそろ寝ようかという時。
暁雲とぼくは夜空の月を並んで見上げていた。
「謝の姉上のところに、行かなくていいのかい」
「馥」
「なんだい、暁雲」
「あいつ、やっと普通に笑うようになった」
「謝の姉上のこと?」
「うん」
「何か、あったの」
暁雲は三日月を見たまま話し始めた。
「あいつ、自分のことを女と思えなかったらしいんだ。おれたち間者は男と女、両方の相手をできるようにしこまれる。相手と寝て探りを入れることもあるからだ。謝は、女の相手をしているうちは平静を保っていたけど、男と寝た時はひどく取り乱した。挙げ句の果てに城壁から身を投げようとしたんだ。それを止めたのがおれだった」
その時彼女と交わした言葉を暁雲は一字一句正確に覚えていた。
――死なせろ! 離せ! 私は死ぬんだ!
――待て! 落ち着け! 話を聞いてくれ!
――うるさい! おまえなんかに私の気持ちなんかわかるものか!
「おれたちは後ろに転がった。おれは謝を抱いたままでいた。殴られても蹴られてもそうしていた。謝に死なれるよりは」
「どうして、死んでほしくないと思ったんだい」
「それは――」
暁雲はぼくに向かって、真剣な顔で答えた。
「もう誰も、おれの目の前で、死んでほしくなかったから」
ぼくは思い出した。
暁雲はその時、大好きだったお母さんの李氏、よくしてくれた郭奉孝軍師を、目の前で亡くしていたのだ。
――離せ!
――離さない!
――私が死んだって、おまえには何の関係も、ないはずだ!
――そんなことはない!
「謝はやっと、暴れるのをやめた」
――どうしてだ、李?
――おれは、大切な人に二人、目の前で、死なれている。
――誰なんだ、それは。
――母さんと、郭奉孝軍師……。
「おれも泣いてしまった。そうしたら」
――泣くな。
「謝が、おれの涙を、手で拭いてくれた」
――だめだよ。泣いたら。
――死ぬな、謝。死んだら、だめだ。
――私は父も母も知らない。きょうだいもいない。だからまだ、李みたいに、誰かを大切だと思ったことがないんだ。
――もう誰もおれの目の前で死んでほしくない。
――わかった。
「謝はそこで、初めて笑った」
――死なない。私は、死なない。
「おれは謝を抱きしめた。そのうち――」
「そのうち?」
暁雲は首まで朱に染まり、ぼくの背中を思い切りひっぱたいた。
「痛い!」
「こっ、この話は、これで、終わりだっ!」
はいはい、わかりましたよ。もう、聞かないよ。
暁雲はばたばたと走り去った。
ぼくは王玲と曹青のもとに行った。
「暁雲兄さまとのお話はもう、お済みになりまして?」
王玲がにこりと笑う。
彼女もよく笑ってくれるようになった。
寝台では曹青が、握った両手を顔の横に置いて、仰向けに寝ている。
「かわいいね」
「かわいいでしょう?」
王玲はにこにこしている。
「謝ねえさまや、祥さま、青に竜。ときどき奉倩さまもお見えになります。とても楽しゅうございました。飛将さまや暁雲兄さまがおいでになられて、さらに楽しくなりました」
奉倩は、ぼくの妹の曹祥が将来嫁ぐ相手だ。荀文若――姓名は荀彧どのの五男で、曹祥よりも五歳下である。ぼくと暁雲の妻子や妹を守るために、通ってくれている。まだ数えで十七歳だ。
「ぼくも楽しいよ」
「漢中では長い間、ご苦労なさいましたものね」
「ぼくたちは負けた。けれど、なんとか劉備たちを漢中から出さないで済んだよ」
「私の父もそうでしたけれど、飛将さまは命がけで戦われました」
「王長史――義父上を最後に、喜ばせてあげられたのかな」
「きっと喜んでおります。私がやっと片づいたと。飛将さまのような頼れる武官のもとに嫁がせることができてほんとうによかったと、そう申しておりました」
眠る曹青の頭と頬を、ぼくは撫でる。
柔らかくて、すべすべしている。
「君が何の心配もなくおとなになれるように、できる限りのことをするよ」
ぼくの手に、王玲の手が重なった。
彼女を見る。
彼女もぼくを、まっすぐに見る。
ぼくは彼女に伝えた。
「ありがとう」
彼女の目から、涙があふれた。
ぼくは彼女を腕で包み込んだ。
ぼくたちが家族と暮らしている頃も、子桓の周りで起きていることは、暁雲の間者仲間が知らせてくれたのでぼくもつかむことができた。
中でも、劉備側にいた孟達が投降したという知らせは、ぼくと暁雲の注意を引いた。
暁雲がぼくに言った。
「確かそいつは、関将軍が援軍を要請したが、断った男だ」
「では、そのことで、劉備側にいられなくなったということかい」
「おそらくそうに違いない。しかも、王は、歓迎したそうだ」
「子桓が彼を歓迎した……」
嫌な感じがする。
さらに月日が進み、ぼくと暁雲は、急に洛陽へ呼び戻された。
子桓からの使いが、許昌へやって来たのだ。
使いは、告げた。
「禅譲の儀が執り行われることになりました。ご同席くださいますようにとの、魏王の仰せにございまする」
ぼくたちは、それが何を意味するのか、理解するまでに、時を要した。
「禅譲って、何だっけ」
珍しく暁雲がそんな間抜けな問いを発した。
いつもぼくが尋ねて、彼が答える側だったのに。
ここはぼくの実家だ。
暁雲の他には、ぼくの妻王玲と息子の曹青。暁雲の妻謝の姉上と息子の曹竜。そしてぼくの妹の曹祥と、彼女の未来の夫となる荀粲、あざなは奉倩がいる。
ちなみに奉倩は数えで十八歳、今は亡き荀文若どのの五男だ。
曹祥よりも五歳下の彼の頭の中には、これまでに読んだ膨大な量の書物の中身が記憶されている。
奉倩は暁雲に答えた。
「天子が有徳の者にその位をお譲りになることです、暁雲兄さま」
ぼくは思わず使者に大きな声で聞いてしまった。
「子桓が帝から位を譲り受けるということか?」
使者はもちろん、ぼくが孟徳のおじ上の従弟・曹洪の息子だと知っている。神妙な顔つきで頭を一度、縦に動かした。
「え? では――」
ぼくの妹の曹祥が、信じられないといった面持ちで使者に問う。
「子桓さまが、新しい王朝をおつくりになる、ということなのですか」
使者は曹祥にもうやうやしくうなずいた。
「おっしゃる通りでございます。すでに王は、先王より、魏の土地を受け継いでおいでです」
魏というのは、孟徳のおじ上が帝から封ぜられた土地の名だ。
ぼくたちは、まだ数えで二歳の曹青と曹竜を除いて、目と目を見合わせる。
何しろ、急な話だ。
いや、こんな大事な話、身内にも漏らさないだろう。まして子桓ならばなおさらだ。
ぼくは気を取り直した。今のうちに聞けることは聞いておきたい。
「元譲のおじ上は何とおっしゃっているのだ」
「それが、申し上げにくきことでございますが、大将軍は今年の四月にご逝去なさいました」
ぼく、暁雲、曹祥の体はぐらりと揺れた。
ぼくは思わず言ってしまった。
「そんな――聞いてない」
「特に飛将さまと暁雲さまはご家族と過ごしておいでなので邪魔をせぬようにと、知らせをお控えになられたと聞き及んでおります」
「父上は。子孝のおじ上は何と仰せか」
暁雲がただすと、使者は丁寧に答えた。
「特にお考えがあるとは承っておりませぬ」
あったとしても、気軽に言えるわけがない。
子桓は、めったに他人に気を許さない。気さくなところもあるけれど、友人は少ない。頭もいいし武芸だってひととおりこなすけれど、戦に出た経験は少ない。
孟徳のおじ上は、自分のことを、漢に仕える官吏だとおっしゃっていた。ほんとうならば公にも王にも昇る気はなかったと。
子桓は、どう思っているのだろう?
使者は最後に告げた。
「それがしは飛将さまと暁雲さまをお連れする役目を仰せつかっております。三日のうちには出発せよとも命ぜられております。急なことではございますが、お早いお支度をお願い申し上げます」
ぼくたちはまた、家族と別れることになった。
曹青はやっとぼくに抱きついてくれるようになったのに。残念だ。
曹竜は暁雲の顔をぺたぺたと小さな手で確かめている。暁雲は曹竜を抱っこして、夕焼け空に顔を向ける。
ぼくも曹青を抱っこして、王玲と空を見た。
謝の姉上が、暁雲とぼくを見上げて言った。
「心配しなくていい。私はもと間者だ。許昌には仲間もいる。留守は私が守る。だからおまえたちは、思うことをやれ」
ぼくと暁雲は、素直に頭を下げた。
「ありがとう」
「当たり前のことをしているだけだ。むしろ礼を言わねばならぬのは、私の方だ」
謝の姉上は、眉目をやわらげた。
「こんなに安らいで暮らせる日が来るとは、考えたことがなかった。李、おまえのおかげだ。そして飛将、あなたがいるから李は、こんなにも笑えるようになれたのだ」
王玲も笑った。
「謝ねえさま、わたくしも同じ考えでおります」
謝が頬を紅に染めた。
「玲、あなたにも助けてもらっている」
「何でもおっしゃってくださいね」
王玲は優しく謝の姉上の肩に手を触れた。
曹祥は荀家に出かけて留守だった。いよいよ婚礼の準備にとりかかるのだ。
出かける前、ぼくと暁雲、祥の三人で話した。
「兄さまたち、父上にお伝えください。祥は荀家にて、曹氏の女として恥じない働きをいたしますゆえ、ご安心なさいませと」
「たくましくなったなあ」
ぼくが目を細めると、祥は笑顔でぼくを睨む。
最後に祥は暁雲に、泣きそうな顔でほほえんだ。
「わたくし、今だから申し上げますけれど、暁雲兄さまを好ましく思っておりました。ですけれど今は謝ねえさまがおられますから、これは兄さまの胸の内にとどめておいてくださいませ」
暁雲は優しく祥に言った。
「わかっているよ」
祥の強がって笑った目が、うるおい、光った。
ぼくにはひとつだけ、気がかりなことがある。
暁雲のことだ。
彼は、亡き孟徳のおじ上の、実の息子なのだ。
子桓がそれを知れば、暁雲の命が危ない。だからおじ上は亡くなる直前、ぼくの父上と暁雲を呼び寄せた。
だからぼくは暁雲にひそかに尋ねた。
「おじ上は亡くなる前、君に何を話したの」
「父上の領地を割いておれに与えて、おれを列侯に封じたと言った。その領地に行って身をひそめろと」
「つまり子桓から離れろということだね」
「でも今、おれたちに来いと言っているよな、子桓は」
「行っても、行かなくても、君の命は危ない」
「それならば、行くだけさ」
「暁雲」
ぼくは彼の腕をつかんだ。
「ぼくも行くよ」
「馥」
「ぼくが君を守る」
ぼくの決意は固い。
暁雲は、目線を下に向ける。
「すまない」
ぼくは頭を強く横に振った。
延康元年(220)十月。
帝が禅譲のために築いた壇が、ぼくたちの目の前にある。
孟徳のおじ上に仕えていた文武の官吏が、ぼくの前後左右に正装で居並んでいる。
帝が、壇の上にいる。冠はない。
子桓が現れた。十二旒の冠をいただき、王の衣服を着けている。
帝が子桓に、天子の印綬を手渡した。綬とは、印につけるひもだ。
子桓はついに、帝になった。
天を祭るために、積み上げられた柴に、火がつけられた。
炎の先が、青天を舐める。
漢王朝の色は、青だ。
柴は燃え、煙はもくもくと青天に上った。
帝――いや、今はただの男、劉協だ。彼はその煙を見上げている。
子桓は、満足そうに、青天に上る灰色の煙を眺めていた。
子桓は年号を変えた。延康から、黄初とした。
この年の十一月、子桓は劉協に山陽県の一万戸を与え、彼を山陽公に封じた。
正月十五夜の反乱から後宮に逃れたぼくにかつて昔語りをした男は、何も言わずに領地へ向かった。
その隣には、かつての皇后が――孟徳のおじ上の娘さんが、いたそうだ。
子桓が帝になった。
ぼくたちの国の名は、「魏」となった。曹氏が建てた国だからというのと、戦国の七雄と区別するためもあるからだろうか、「曹魏」と呼ばれることもある。
黄初元年(220)は静かに暮れた。
ところが年が明けた、魏の黄初二年(221)。
ぼくたちにとんでもない知らせが入った。
ぼくたちと一緒に漢中から脱出した間者の安が、子桓に報告したあとで、こっそりぼくと暁雲、父上に、伝えに来てくれたのだ。
「劉備が帝位につきました。あちらでは、帝が山陽公を殺害したと伝わっているようで、怒りの声がすさまじかった」
子桓が山陽公――かつての帝に与えたのはたったの一万戸。山陽公は生きてはいるが、もう世の中に対しては何も行動できない。
もしかしたら子桓は、自分に害をなすとみなした者たちを皆、このように扱うのではないか。ぼくはそう直感した。
しかも、安の報告には、続きがあった。
「張飛は部下に殺害されました。劉備は、関羽の仇討ちをするのだと言って、孫権を討伐に向かっております」
そのあと、子桓はぼくたちを呼び集めた。
彼は、ぼくたちを見渡して口を開くや否や、言い放った。
「これより呉を征討する兵を挙げる」
何を考えているんだ、子桓は?
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