第17話 孫呉征討

 魏の黄初四年(223)三月。

 許昌にいるぼくの妹、曹祥から手紙が届いた。

「見送りに立てず、申し訳ありません。

 濡須へ向かうという話を義母が聞いた時、義父荀彧がその途上の寿春で亡くなったことを話してくれました。

 義母の心の痛みは、今なお深いようにわたくしには思われました。

 だから行かなかったのです。

 荀粲は、気にしないで行ってくださいと言ってくれたのですが、わたくしは義母のそばにいました。義父の思い出話をするうちに、義母は少し落ち着いたようでした。

 それでもどうしても、父上や兄さまたちにお会いしたく、謝ねえさまと王ねえさまにご相談申し上げたところ、王ねえさまは、それなら手紙を書けばよいとおっしゃいました。謝ねえさまも、昔の仲間に手紙を届けさせるとおっしゃってくださいました。ありがたいことです。

 父上、兄さまたち、わたくしも共に戦っております。皆さまがたのご武運が長く久しく続きますことを願っております。」

 この手紙がどんなにぼくと暁雲、父上を力づけてくれたことだろう。

 ぼくたちは祥が書いた手紙を繰り返し読んだ。


 濡須の城の様子がおかしい。

 旗が立っていない。

 将兵が引き上げていく。

 すぐそばに中洲があるのだけれど、船に分乗してそこに向かっている。

「罠か?」

 ぼくがつぶやくと、隣で見ていた子全が言った。

「それならこの際、決着をつけよう」

「子全、危ない。ぼくも行くよ」

 子全はぼくを振り返る。

「おまえは虎豹騎なのだろう? 陛下のご命令で動くのじゃなかったのか」

 そうだった。ぼくは足を止め、唇を噛みしめる。

 子全は子孝のおじ上から兵を借り受け、城へ向かった。

 子孝のおじ上は見送る時、子全に声をかけた。

「別働隊に中洲を襲わせよう。おれと陛下はここに控えている。助けが必要なら知らせろ」

「ありがとうございます。では行って参ります」

 嫌な予感がする。

 ぼくは子桓の前に出た。

「罠かもしれませぬ。それがしも子全と出動したいと存じます」

 子桓はなんと、すんなりと許した。これも罠かもしれない。

 そんなことを考えていると、子桓が真面目な顔で言った。

「朕がお主を罠にかけるとでも思ったのか」

 はい、そうです。なんて言えるわけない。

「曹震と曹洪もつれてゆけ」

 ぼくと暁雲、父上は、弓騎兵を率いて子全を追った。

 馬を歩ませながら、ぼくは父上に聞く。

「父上も、おかしいとお思いになりますか」

 父上もうなずいた。

「おれもそう思う。誰もいないと思った城に兵がひそんでいたり、落とし穴が掘ってあったりすることは、よくある話だ」

 暁雲がぼくと父上に言った。

「攻める前に様子を見てきた方がいい」

 ところが子全は、堂々と城に入ってしまった。

「誰もいないではないか」

 城はもぬけの殻だった。

 子全は城から出て、ぼくたちにもそれを伝えた。

 一方、中洲に向かい、子孝のおじ上が派遣した別働隊が船をつらねて進撃している。

 家々が建ち並んでいる。

 物見の報告では、濡須を任された朱桓の軍勢の家族たちがいるのだという。

 ぼくたちが濡須の城の前に布陣していたその時、突然中洲から火の手が上がった。

 子全が目を見ひらき、声を漏らした。

「燃えている」

 ぼくたちの軍勢の船が、炎に包まれた。

 中洲に停泊していた軍船から火矢が射込まれている。

 陸上でも太鼓の音がどろどろと鳴り渡る。

 出陣の合図だ。

 大軍が、わいて出た。

「罠か」

 子全は固まったまま動かない。

 ぼくは彼に大声を出した。

「子全! 敵だ!」

 子全は、居眠りしていたところをいきなり起こされたかのようにびくりと震えた。そして、周りにいる兵たちに叫んだ。

「乗馬! 迎え撃つ!」

 ぼくはそばにいた騎兵に命じた。

「子孝将軍に知らせろ!」

 騎兵が飛び出した。

 ばたばたと兵たちが配置につく。

 歩兵が並び、四角に固まって走る。

 暁雲がぼくのそばに馬を寄せた。

「馥! 命令しろ!」

 ぼくはうなずき、声を張り上げた。

「三つに分かれろ! 敵の後ろに回れ! 駆けながら射て!」

 ぼく、暁雲、父上は虎豹騎を率いて突っ込んだ。


 呉軍にも騎兵はいる。

 しかしぼくたちよりは遅い。

 それでもぼくたちは押されている。

 敵の方が数が多いからだ。

 子孝のおじ上が突進してくる。

 混戦になった。

 虎豹騎も、子桓も迫ってくる。

 それでもぼくたちは押されている。

 気がつけばぼくたちは押し戻されていた。

 鉦が打ち鳴らされる。

 ぼくたちの方からだ。

 子孝のおじ上も、子全も戻ってきた。

 怪我はしていない。けれど、肩を落とし、背を丸め、顔色は悪い。

 暁雲と父上が戻ってきた時、ぼくは胸のつかえがすっかり取り除かれた。

 濡須の戦いは、完敗に終わった。

 洞口も、南郡も、撤退したと、ぼくはあとになって聞いた。



 子孝のおじ上が寝込んだ。

 洛陽まで昼夜兼行で急ぎ帰って、すぐだった。

「子廉のおじ上に、ついていてもらいたいと、母が申しております」

 父上にそう言う子全の声は細くて弱い。

 子孝のおじ上は洛陽に新居を建て、家族で暮らしている。

「すまないが、しばらく子孝兄の邸で暮らす。勤めもそこから通う」

 ぼくは父上に言った。

「ご安心ください。我々にできることがあれば何なりとおっしゃってください」

 暁雲も言葉を添えてくれた。

「今は子孝のおじ上についていてさしあげてください」

 父上の整った顔には疲れが濃い。それでもぼくたちに笑顔を見せて、言ってくれた。

「ありがとう」


 許仲康将軍にも許しをもらい、ぼくたちは虎豹騎の名簿を作り上げていた。

 その名簿をもとに、戻ってきた兵を確認する。

 許将軍が、名簿を見て、ぽつりと言った。

「かなり、減ったな」

 孟徳のおじ上が亡くなったあと、許将軍の髪にもひげにも、白いものが目立つようになった。縦にも横にも大きいままだけれど、体の厚みも減った気がする。

「また、補充せねばならん」

 許将軍は名簿から目を離さない。

 暁雲が許将軍に尋ねる。

「今回の戦で、功を立てた者をお選びになりますか」

「今までは、そうしてきた」

 ぼくは許将軍に提案した。

「では、各部隊に戦功を立てた騎兵をあげさせ、こちらによこさせるというのはいかがですか」

 許将軍は渋い顔をした。

「今回は負け戦だから、来る者の数も少ないだろう。それでもしかたがない。弱ければ調練するだけだ」

 許将軍がぼくと暁雲の前で背筋を伸ばした。

「おまえたちがいて、ほんとうに、助かっている。子孝どのが心配だが、子廉どのがいるなら間違いない。すぐに各部隊に問い合わせてくれ」

 ぼくと暁雲は拳を手のひらで包む拱手の礼で、許将軍の言葉を受け取った。



 子孝のおじ上が亡くなった。

 黄初四年(223)三月十九日のことだった。

 追い打ちをかけるように、賈太尉も病で勤めを休んでいるとの知らせがぼくたちに届いた。

 そういえば、白帝城にいる劉備も、病の床にある。

 賈太尉はぼくと暁雲を自宅に呼んだ。

 ご夫人がぼくたちを寝室まで案内してくれる。

「あなた。お見えになりました」

「ありがとう。将軍がたと三人で話したいから、はずしていてくれ」

 ご夫人は無言で一礼し、静かに退出した。

 賈太尉は、生気のない顔で笑った。

「生きて帰ってきたかい。出迎えに立てなくて悪かったねえ。どうも調子がよくなくてさ」

 ぼくたちは、黙ってほほえんだ。

 賈太尉は、しぼり出すように語りかける。

「あたしゃね、陛下に申し上げたんだよ。ご即位なすったのだから、でんと構えておいでなさいって。なにね、蜀と呉、どちらを先に討つべきかなんてお聞きになるもんだからさ。そんなこと、無理に決まってるだろ、ええ? 蜀は山と谷に囲まれた要塞みたいな土地だし、呉はあんなでかくて長い川の向こうなんだから、船を作らなくちゃいけない。あたしたち北の者が船戦なんてできるわけないだろ。もうあんたは帝なんだから動きなさんなって申し上げたんだけど、結局兵を出しちまった。挙げ句の果てに負け戦だったんだろう? 言わんこっちゃない」

 ぼくはさすがに止めた。

「賈太尉、もうご無理なさらず」

「いーや、言わせておくれ」

 賈太尉はぼくたちをぎろりと睨む。

「死んじまっちゃあしゃべれないからねえ。あたしの細君や息子どもはあたしがしゃべり始めると右の耳から左の耳へ聞き流すんだから。おまえさんたちくらいだよ、あたしの話を最後まで聞いてくれるのは」

「そんなことはないと思いますが」

 すかさず暁雲が作り笑いを浮かべる。彼はこういう時の対応が抜群にうまい。

 賈太尉は目をぎゅっとつむった。

「かああっ……。暁雲。おまえさんはほんとうに、よくできた男だねえ。飛将、見習った方がいいんじゃないのかい」

 ぼくも作り笑いで応じる。

「いつも見習っていますよ」

「それでよし」

 賈太尉は最後にあの、人の悪そうな笑顔を見せた。

「こうして寝ている間にも、間者だけは来させて、蜀呉の様子は聞いているのさ。劉備は死にそうだっていうじゃあないか」

「えっ」

 ぼくたちは声を上げてしまった。

「やれやれ、また陛下が戦をしたがるよ」

「蜀に攻め込むということですか」

 ぼくが身を乗り出すと、賈太尉は口を「へ」の字にする。

「そうするだろうねえ。まったく、今の魏には、劉備もいなけりゃあ孫権だっていやしないのに」

 暁雲が聞いた。

「それは、今の我が国の陣営には、劉備や孫権と同じ能力をもつ官吏がいない、ということをおっしゃりたいのですか」

「その通りだよ」

 賈太尉はすぐに答えた。

「負け戦でくたびれた兵。使える官吏は減る一方。そのへんは帝も考えてくれているみたいだけど、そこへもってきて蜀を攻めようなんて、先王の猿真似なんぞよしなさいってあたしゃ言ってやりたいよ。それなのにあの帝は人の話を聞きやしない。言わせるだけさ。先王とは器が違うんだよ。あんなに小さい器じゃあ、官吏も武官も育たないよ」

 そこまで一気に言うと、賈太尉は、はーっと大きく息をついた。

「ありがとうよ。おまえさんたち。潼関、楽しかったねえ」

 馬超や韓遂と戦った時のことだ。

「はい。肉、おいしかったです」

 ぼくの口から出たのは、こんな子供みたいな言葉だけだった。

「賈太尉、もう、お休みください」

 暁雲が布団を賈太尉の肩まで引き上げる。

「おまえさん、先王の隠し子なんだろう」

「ええ。その通りです」

 笑う暁雲に、賈太尉も笑った。

「どうりで。ただの間者の望みを聞き届けるなんて、おかしな話だと思ったのだよ」

「それがしの母は、先王が黄巾賊討伐の際に助けた農家の娘です」

「ご存命なのかい」

「それがしが数えで十四の年に、流行り病で他界しました」

「そうかい。じゃあ、十九年前の話か」

「はい」

「飛将は暁雲の四つ下だったねえ。数えで二十九になるのかい」

 ぼくはもう、うなずくことしかできない。

 賈太尉はもう長くない。そう感じるからだ。

 賈太尉はぼくたちを見て、言った。

「あたしゃこれまで生きてきて、人の情けなんぞ無駄なもんだって自分に言い聞かせてきたのだけれど、どうもそれは勘違いだったかもしれないって気がついちまってさ」

 暁雲が涙ぐむ。

 ぼくも目頭が熱くなる。

 賈太尉は眉目と口元をやわらげた。

「おまえさんたちのせいはだよ」

 この年の六月、賈太尉も亡くなった。

 それだけじゃない。

 同じ月、子桓のすぐ下の弟、暁雲と同じ年に生まれた、曹彰も亡くなった。数えで三十三歳。

「嫌な噂が流れてますよ」

 卞太后の身辺を守っている間者の蘇が、ぼくと暁雲のところにやって来て、言った。

 彼女が屋台で買ってきたたくさんの、ひき肉を小麦粉で作った皮で包んで蒸したものをぼくたちは食べている。

 彼女は二個目を手に取り、続けた。

「帝が任城王を手にかけたのじゃないかって」

 任城王とは、曹彰のことだ。

 ぼくたちはただ、がつがつと食べている。

「ま、噂だとあたしは思っておりますけどね」

 言って、蘇は、かぶりついた。

 子孝のおじ上。

 賈太尉。

 思い出すと涙が止まらなくなりそうで、ぼくも暁雲も、かぶりついた。



 賈太尉が亡くなる二か月前、劉備が崩御した。

 その知らせはすぐにぼくたちが知るところとなった。

 実は、劉備崩御を、魏の臣下たちの中で真っ先に知ったのは、ぼく、暁雲、父上なのだ。

 今日はその話を君にしよう。


 安が、市井で働く人足の姿でぼくたちの前に現れた。

 年老いているが、足腰も受け答えも確かだ。

 曹彰や賈太尉が亡くなって間もなくの、雨が降る日だった。

 ぼくたちが暮らす借り住まいに入るや、開口一番、彼は告げた。

「劉備が崩御しました」

 暁雲が安の前に膝をつき、その肩をつかむ。

「いつだ」

「四月だ」

「帝には報告したのか」

「いや。まだだ」

「なぜおれたちのところへ先に来た」

 安は静かに暁雲の目を見た。

「おまえと飛将様へのことづてを預かっているからだ」

 ぼくは暁雲の隣に、父上もぼくの後ろに、膝をつく。

 ぼくは安をうながした。

「話してくれるかい」

 安はうなずき、口をひらいた。

「おれは料理人として白帝城に潜入した。間者になる前も料理人だったから簡単だった。病人でも飯は食う。食えなくても水は飲む。おれは劉備に水を持っていく役目を自らかって出た」

 劉備の前に進み出た時に、言われたのだそうだ。

 ――おまえ、蜀の兵を、率いてきた者だな。

「最初はとぼけた。けれども次の言葉で観念した」

 ――おれは、一度会った奴は、忘れない。姿や顔、名前だけじゃない。声も忘れないんだ。

「はい、間違いございません。そう答えた。すると劉備はおれに、笑ったんだ」

 ――おまえ、突然、姿を消したそうじゃないか。それも、李昇や、李青と一緒に。だからおれはわかったんだ。李昇と李青は、曹さんの血縁だ。そいつらと一緒に姿をくらましたってことは、仲間だってことだろ。つまり、おまえは、魏の間者。

「命を取られると覚悟した。ところが劉備はこう言った」

 ――殺しはしねえよ。それよりも、生きて、魏へ帰るんだ。李昇と李青、ほんとの名前は、曹暁雲と曹飛将。彼らにことづてを頼みたい。

 安は、ぼくたちをまっすぐに見て、伝えた。

「負けるなよ。生きろよ」

 そして安は、顔いっぱいに、笑みを広げた。

「大きな男だったよ、劉備は。おれに道中の守りが手薄な所を全部教えてくれた。だから早く帰れたのさ。ことづてを言い終わったあと、おれに、諸葛孔明やらせがれたちを呼び集めさせた。おれも部屋の外からこっそり聞き耳を立てていたんだが、やがてすすり泣きが聞こえた。そのあとばたばたと臣下たちが走っていった。そのすきにおれも抜け出したというわけさ」

 ぼくと暁雲は、顔を見合わせる。

 なぜだか、笑いがこみ上げてきた。

 劉備らしいことづてだと、ぼくたちは思ったのだ。



 さて、子桓は、劉備が崩御したことを聞くや、宣言した。

「蜀に進攻する」

 ぼくたちはその場にいなかった。虎豹騎の一員にすぎないからだ。だからこれは、許仲康将軍から聞いた話だ。

 許将軍はあまり喜怒哀楽を顔に出さないのだけれど、この時だけは怒っているような顔つきと口調だった。

「わしは、賈太尉が言ったことを思い出した。蜀呉を攻めるのはやめておけと太尉は言ったのだ。つまり陛下は、賈太尉の進言になど、耳も貸さなかったということだ。ところが、司馬仲達どのが、陛下に賛成してしまった」

 ぼくは許将軍に尋ねる。

「仲達どのは何とおっしゃったのですか」

 許将軍はぼくを見て、苦い顔をした。

「それならば呉と関係を修復して、呉と同時に攻めよと言った」

 暁雲が話に加わる。

「しかし許将軍、昨年からの戦で、我が国と呉は不和になっております。そう簡単に両国の関係が修復できるとは思えませぬが」

 許将軍は難しい顔になる。

「わしもそう思う。陛下も暁雲と同じことを言った。ところが仲達どのは言うのだ。どうせ呉は共同出兵を断る。断られたらそれを理由に戦を始めればよいと」

 ぼくは開いた口がふさがらないが、言わずにはいられなかった。

「ずいぶんと無理な話ですね」

 許将軍も困り顔だ。

「また虎豹騎を鍛え直さねばならん」

 さて、ぼくたちはどうなるのだろう?



 子桓は「蜀に進攻する」と決めている。

 そんな中、ぼくと暁雲は許昌にいた。

 子桓が許昌の宮殿に向かったからなのだ。

 黄初四年(223)の九月のことだ。

 久しぶりに王玲と曹青に会う。

 曹青は数えで五歳になっていた。

 彼はもう、涙目で「だれ」なんて聞かない。すぐに呼んでくれた。

「ちちうえ」

 ぼくは曹青を抱き上げ、王玲に笑う。

「君に似ているね」

 王玲は嬉しそうに目を細める。

「眉と目元は飛将さまそっくりですよ」

 暁雲も謝の姉上と、曹青よりも五日早く数えで五歳を迎えた曹竜と再会を喜んだ。

 暁雲は曹竜を見つめると、胸に抱きしめる。

「父さんそっくりだな」

 謝の姉上がほほえむ。

「おまえの実の父さんに私は会ったことはないけれど、竜を見ていると、李とよく似ている」

 謝の姉上に暁雲は済まなそうに言った。

「そばにいられなくてごめんな」

 謝の姉上は頭を横に振った。

「いいんだ。しかたない。竜も青もまだ幼い。洛陽まで行くのも難しい」

 曹青を抱っこしたまま、ぼくは王玲と謝の姉上に告げる。

「虎豹騎の一員になった。帝が洛陽へ帰るのと一緒に帰ることになる」

 王玲が聞き返した。

「虎豹騎とは、何ですか」

 謝の姉上が嫌な顔ひとつせず答える。

「帝の直属の、騎兵の精鋭だ」

「では、戦では帝を直接お守りするのですね」

 王玲の言葉にぼくはうなずく。

 守りたいとは思わないけれどね。

 その日の夜、曹青はぼくに言った。

「ちちうえ、いつまでいるのですか」

 ぼくは曹青にほほえむ。

「帝が都に帰るまでいるよ」

 曹青は顔をしかめた。

「みかどなんか、かえらなければいいのに」

 曹竜は暁雲に向かって眉をつり上げた。

「ちちうえ。なぜ、きょうは、ははうえとおれはいっしょにねられないのですか。おれ、ははうえとねたいです」

 曹青も眉間にしわを寄せ、口を挟む。

「おれも、ははうえと、いっしょにねたい。ちちうえ、ひとりでねてください」

 暁雲が苦笑いして答えた。

「父上だって、母上と、一緒にいたいんだよ」

 曹竜は、ふん、と言うと、曹青の手をとり、彼に言った。

「おれたちはねるぞ、せい」

 曹青も曹竜の手をとり、彼にうなずいた。

「そうだね、りゅう。ちちうえたちは、ははうえたちと、いっしょにいたいようだからな」

 二人の子供はぼくと暁雲を睨みつけ、言った。

「きょうのところは、がまんしてやろう!」

 そしてくるりと背を向け、手をつないで走っていった。

 王玲と謝の姉上は、笑いをこらえている。

 ぼくと暁雲は顔を見合わせて、冷や汗をかいた。

「父さんもこんな気持ちだったのかな」

 暁雲が子供たちが走り去ったところを見ながらつぶやく。

 ぼくは声をひそめて彼に聞いた。

「孟徳のおじ上のこと?」

「うん。いつも母さんに会いに夜、来ていた」

「孟徳のおじ上も、君のお母さんと一緒にいたかった――ということかい」

「悪いことをしたな」

「悪いこと?」

「父さんに母さんを取られたと思っていた。でも、それは違ったのかもしれない」

 暁雲の広い背中を、ぼくは優しくたたいた。



 許昌には、一か月いられた。

 曹青がぼくの弓や剣をめずらしそうに見ているので、さわらせてあげた。曹青はおっかなびっくり弓を握り、剣の鞘を撫でた。

 曹竜は暁雲に抱きついたり、よじ登ったり、離れようとしなかった。

 別れる時、曹青はぼくに言った。

「おれも、ゆみを、ひけますか」

 ぼくは嬉しくなって、曹青に約束した。

「引けるよ。父上と稽古しよう」

 曹青は笑顔になった。

 曹竜も暁雲に言った。

「ちちうえは、かんじゃだったとききました。こんど、おれに、かんじゃのわざを、おしえてください」

 暁雲が破顔して、曹竜を高く抱き上げる。

「ああ。父上よりもいい間者になれるぞ」

 曹竜がにやりと笑う。

「そしたら、しょうぶしましょうね」

「ああ、本気で勝負するぞ、竜」

 暁雲は曹竜を、曹竜は暁雲を、固く抱きしめる。

 ぼくたちはまた、一緒に暮らせる日が来るのだろうか。

 王玲と謝の姉上は気丈に、ぼくたちを見送ってくれた。


 黄初四年の冬十一月、蜀の使者が呉を訪問した。

 翌年、黄初五年(224)の夏、呉の使者が蜀を訪問した。

 このことから、この年の八月、子桓は水軍を作り、自らの旗艦も建造した。

 つまり子桓は、蜀ではなく、呉を攻めることにしたのだ。

 ぼくたちは再び、呉へ出征することになる。

 それを聞くと暁雲は力強く言った。

「負けない。負けても必ず生きて帰る。竜と勝負するんだ」

 ぼくも決意を声に出した。

「必ず生きて帰る。青に弓を教えるんだ」



 ぼくたちは今、広陵にいる。

 そして、長江に沿って城壁が築かれている。

 子桓の船は立派だ。

 他にも軍船をつらねている。

 ところが、嵐に見舞われた。

 子桓はいらいらしている。

「船が進まないではないか」

 しかたがないじゃないか。嵐なんだもの。

 今回も子桓は、曹子丹どのたちの他に、孟徳のおじ上の代からの武将を率いている。

 張文遠将軍や徐将軍がそうだ。

 実はぼくの父上も虎豹騎の一員として同行している。

 皆、憂鬱そうだ。

「これでは戦にならない」

 張文遠将軍がぼやく。

 徐将軍はというと、父上と二人で長江の向こう岸にできた城壁を見ながら話し込んでいる。

 ぼくが二人に気づかれないように様子をうかがっていると、徐将軍が父上に言った。

「あれは、城壁と見せかけた何かであろう」

 父上もうなずく。

「おれもそう思う。動きがまったく見られない」

「おれが呉の将ならば、おれたちが油断しているすきに奇襲をかける」

「確かに向こう岸には軍船が多すぎる。兵や馬を運ぶだけの数はある。あり得る話だ」

「陛下は何と仰せなのだ」

「軍船を出せとおっしゃっている」

「嵐はいつ止むのだ」

 徐将軍が曇り空を見上げた。

 父上は徐将軍を見て、言った。

「おれはもう行かねばならない。また会おう、公明」

「ああ。陛下のそばにいるのか、子廉?」

「そうだ」

「もし奇襲があれば、真っ先に駆けつけよう」

 父上が笑う。

 徐将軍も笑う。

 父上が歩いてきたので、ぼくはさりげなく肩を並べて歩き出した。

「見ていたのか」

 父上は怒っていなかったし、ぼくをとがめもしなかった。

「はい。見ておりました。申し訳ありません」

「おまえも話に入ればよかったのに」

「よろしかったのですか」

 父上がほほえんだ。

「おれたちは、もう年だ。だが、おまえたちよりは数多くの場数を踏んでいる。おれたちからしぼり取れるだけ取った方がいいぞ。おまえたちがおれたちの経験を活かしてくれるなら、おれたちが死んでもその経験は生きるからな」

 ぼくは聞いた。

「奇襲があるかもしれないのですか、父上」

「おれたちの船が進まなければそうなるかもしれない。相手とて戦を長引かせたくはないはずだからな」

「奇襲をかけるとすれば、天候が落ち着いてからになりますか」

「そうだな。嵐が収まって、地面が乾いた頃だ」

 ぼくは声をひそめる。

「陛下に進言なさいますか」

 父上は眉を曇らせ、ため息をついた。

「進言しても実行に移してもらえなければ無駄になる。孟徳兄ならそうはしなかった」

 空が、少しだけ晴れてきた。


 天候が落ち着き、さあ明日は船を出そうとしていた夜だった。

 突然太鼓の音が鳴り渡った。

 空が、明るくなる。

 幕舎から出た。見上げる。

「火矢だ」

 弧を描いて炎がぼくたちの陣に落ちてくる。

 たちまち燃え広がった。

 甲冑をつけた子桓が幕舎から飛び出してくる。

「馬はまだか」

「今こちらに向かっております」

 馬蹄、続いて土煙。闇夜でもわかる。

 ぼくは虎豹騎に命じた。

「乗馬! 帝を囲んで退けッ」

 虎豹騎の群れが子桓を取り囲む。

 子桓は馬に鞭をいれた。

 子桓たちが駆け去るのを見て、ぼくは呉軍に突っ込む。あとから虎豹騎たちが続く。

 駆ける馬の上でぼくは弓を構え、叫んだ。

「射て!」

 闇夜に戸惑う虎豹騎たちをぼくは励ました。

「教えた通りにやれば当たる!」

 虎豹騎たちは構え、射た。呉の兵が倒れてゆく。

 手ごたえを感じた虎豹騎たちが次々と矢を放つ。

 暁雲と父上もぼくに並び、矢を射つ。

 呉軍は相変わらず数が多い。しかも長江を背にして退かずに戦っている。つまり決死隊だ。

 張文遠将軍の軍勢も呉軍を川まで押し返しているところだ。徐将軍の軍勢もいる。

 呉軍は川べりにとどまり、ぼくたちを押し戻す。

 ぼくは一瞬、迷った。

 ――攻めるべきか、退くべきか?

 父上の判断は早かった。大声で虎豹騎に命じた。

「川の手前で反転! 退却する!」

 それを聞き、ぼくの中で答えが出た。

 ――追い詰めたらますます押し返される。

 だからぼくも叫んだ。

「鉦! 退鉦打て!」

 虎豹騎が退鉦を打ち鳴らす。

 虎豹騎が退却する。

 徐将軍たちもぼくたちに続く。

「殿は任せろ!」

 叫んだのは張文遠将軍だ。

 ところが呉軍は追撃してきた。

 ぼくは虎豹騎に号令した。

「後ろを向け!」

 文義と悌彦から教わった羌族の技だ。鞍の上に腹をつけ、後ろを向く。ぼくと暁雲が教えて、できるようにした。

 ぼくと暁雲、そして虎豹騎たちは、走る馬の上から呉軍の方に体を向けて射つ。

 腕がしびれる。手がもう握れない。肩や背中の筋肉はもう限界だ。叫びすぎて喉も痛い。

 ぼくたちのそんな手から放たれた矢は、確実に呉軍の兵の体に吸い込まれてゆく。

 しかし相手も射ってくる。

 張文遠将軍の大声がかすかに聞こえる。彼の軍勢が呉軍に突っ込む。

 射ちながらぼくは見た。

 呉の兵が放った矢が、張文遠将軍の腰に突き立つのを。

「張将軍!」

 ぼくはがらがらになった声で叫び、体をもとの位置に戻して、張文遠将軍のそばに駆けた。暁雲もあとに続く。

 そこへ戻ってきたのが徐将軍の軍勢だ。

 徐将軍はすぐさま張文遠将軍のそばに馬を寄せた。そして軍勢に命をくだす。

「退くぞ!」

 張文遠将軍は自分で矢を引き抜いた。

「張将軍!」

 駆け寄ったぼくに、張文遠将軍は額にじっとりと汗をにじませながら笑った。

「心配ない、ありがとう」

 徐将軍もぼくに言った。

「父上は曹子丹どのたちと共に陛下のそばにおられる。安心せい」

 ほっとした。ぼくと暁雲は二人に頭を下げた。

「かたじけのうございます」

 ぼくと暁雲、徐将軍は張文遠将軍を両側から挟んで退却した。



 でも残念なことにこの矢傷がもとで、張文遠将軍は許昌で亡くなった。


 ぼくと暁雲は許昌でまた、家族と過ごすことができた。

 王玲と謝の姉上は、みごもっていた。

 二人とも、もう、慣れたものだ。

「名前を考えてくださいませ」

 王玲がぼくにほほえむ。

 謝の姉上も暁雲に笑いかけた。

「また私が決めてもよいのだぞ、李?」

 ぼくと暁雲はそれぞれ名前を考えて紙に書き、二人に渡した。

 曹青と曹竜は、きょうだいが宿る母のおなかを、興味深そうに見つめていた。


 陽平関に蜀の武将、趙雲が迫ってくるという知らせが入ったのは、そんな時だった。




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