第11話 これが帝か

「飛将さま、恐れながら申し上げます」

 謝が切り出した。

「王にはすでに、私からご報告申し上げてあります」

 まあ、そうだよね。

 ぼくは素直に言った。

「そうだったね、ありがとう、謝」

 謝は、ぼくの目を静かに見た。

「しかし、まだ、申し上げておらぬことがございます」

「それは何?」

「私が調べましたところによれば、王長史のお宅が狙われるようなのです。王長史のお宅を守る方策をまだ立てておりませぬ。王へのご報告は、それをはっきりさせてからの方がよいと、私は思います。猶予はありませぬ」

 ぼくは尋ねた。

「謝。君には何か考えがあるのかい」

 謝はふた呼吸してのち、口をひらいた。

「王長史は奥方を早くに亡くされておいでです。亡くなった奥方との間には、お嬢さまがお一人おられます。王長史の留守はお嬢さまが守っておいでです。このお嬢さまに近づき、信頼を勝ち取り、異変が起こればすぐに我々に伝えてもらうようにしたいのです」

「君がそれをやろうとしているのかい」

 謝は伏し目がちに言った。

「私は女の身です。このようなことは殿方の方が適任ではないかと存じます」

 そこで初めて暁雲が口をひらいた。

「飛将に任せるのはどうだ」

 謝とぼくは同時に暁雲を見た。

 謝や蘇母娘がいる手前、暁雲はぼくをあざなで呼んでいる。

 暁雲の表情は真剣そのものだ。

「理由はあとづけでかまわない。飛将が、王長史の家に通うんだ。毎日、ほんの少し顔を見せて、言葉を交わすだけでいい。気にかけていることを示せる。王の一人娘は心強く思うはずだ。飛将は曹氏の男、つまり王の血縁。王長史も悪い気はしない。必ず気を許してくれる」

 謝が顔をほころばせる。

「いい考えだ、李」

 暁雲がぼくに目を移す。

「どう思う、飛将?」

 ぼくはもちろん、笑顔で強くうなずいた。

「ああ。やるよ」

 謝が笑顔になった。

 ぼくは鄴へ馬を走らせた。


 魏王宮に着き、孟徳のおじ上に面会を求めた。

 おじ上は丞相としての務めも続けている。仕事部屋にいると聞いた。取り次いでくれた兵がおじ上に確かめてくれて、ぼくはそこへ行くことになった。

 歩いていると、徐将軍に会った。

 徐将軍は、ひと振りの剣を両手に大事そうに持っていた。

 その剣に、見覚えがあった。

 記憶をたどる。

 父上の剣だ。

「徐将軍」

「これは、飛将どの」

「ご無沙汰いたしております。お変わりございませんでしたか」

「ええ。飛将どのもお元気そうで何よりです」

「将軍。その剣は、それがしの父のものではございませんか?」

「はい」

 徐将軍はいとおしそうに剣を見つめる。

「陽平関を攻め落とす時、拙者の剣が折れたのです。その時子廉将軍が隣におられて、ご自分の剣を貸してくださいました。今日はそれをお返ししようと来ております」

「父は今、どこにいるのですか」

「兵に尋ねたところ、こちらの突き当たりにある部屋だと聞きました」

 え。

 嫌な予感がするぞ。

 徐将軍はにこやかに問う。

「飛将どのは、どちらへ」

 ぼくは、迷った。

 胸の内で三つ数えてから、答えた。

「王がいらっしゃるところへ参ります」

 徐将軍の顔色が、明らかに変わる。

「え? それはまさか、こちらの突き当たり……」

「……おっしゃる通りです」

 徐将軍の目が、揺れ動く。

 賈軍師の言葉がよみがえった。


 ――公明どのは、ずいぶんおまえさんの父上を、気にしているようだねえ。

 ――おっと、このことはおまえさんとあたしだけの秘密にしておこう。

 ――でも知っていれば、父上や公明どのをおまえさんが助けられるかもしれない。


 ぼくはとっさに言った。

「将軍。それがしが見て参ります」

 徐将軍は、はっと我に返った。

 ぼくは走り出した。

 大きな柱が並ぶ回廊を進む。

 大きな柱が尽きたところ、回廊の突き当たりにおじ上の仕事部屋はあった。

 その格子窓から、中を伺う。

 そこでぼくは、見た。

 信じられない光景だった。

 おじ上の前に、父上がひざまずいている。

 一見、そう見える。

 けれども、違う。

 おじ上の長い脚の間に、父上がいた。

 腰かけたおじ上の腿に頭を乗せて、目を閉じている。

 おじ上は父上の頭を、いとおしそうに撫でていた。

 二人とも、平服だ。

「すまぬな、洪。またおまえを、戦場に送ってしまう」

「いいのです、兄上」

「騎兵五万で足りるか」

「十分です」

 父上は目を閉じたまま、ほほえんでいた。まるで親に甘える幼い子供のようだ。

「張飛や馬超が相手だぞ」

「勝ってみせます」

「奴らが漢中に入らなければよいのだ」

「あなたが出陣しなくともよいようにします」

 おじ上が優しい笑みを浮かべた。

「せがれたちはどうする」

 父上が顔を上げた。おじ上を見る目は、甘い。

「兄上が使いたいようにお使いになって結構です」

「二人とも、強い男になった」

「兄上の国を守ってくれます」

「おまえに比べれば、まだまだだ」

 二人は、目と目を合わせた。

 その視線は、お互いが大事でたまらないというように、からみ合っている。

 気配を感じて振り返り、ぼくは声を上げかけた。

 徐将軍が立っていた。

 目をいっぱいに見ひらいている。

 その手から、父上から借りた剣が、するりと落ちた。

 その剣は回廊に落ち、大きな音を響かせる。

 おじ上と父上が、鋭い目つきでこちらを見る。

 ぼくは徐将軍を大きな柱の陰に引っ張った。

 剣をその時に蹴飛ばしたようだ。剣は回転しながら回廊の床を滑る。仕事部屋の外壁にぶつかって止まった。

 力の抜けた徐将軍を座らせる。

 父上が部屋から出てきた。

 ぼくは床に転がった剣を拾い上げ、父上の前に出た。

 父上はぼくを見て、目を大きくひらいた。

「馥? どうしてここへ」

 ぼくは剣を差し出した。

 父上がそれを見る。またぼくに目を移し、険しい表情で詰問した。

「これはどういうことだ」

「徐将軍からお預かりしました」

「公明どのから?」

「はい」

 ぼくは必死で頭を働かせた。

 父上や公明どのをぼくが助けられるかもしれないからだ。

 ひと息にしゃべった。

「許昌で反乱の兆しが見えます。王の間者がすでに報告している通りです。そこでさらに間者が調べたところ、王長史のお宅が狙われる恐れがあることがわかりました。ぼくが王長史をお守りいたします。それを王にお伝えしに参ったのです。徐将軍とはこちらで偶然お会いしました。父上に剣をお返ししたいとおっしゃるのでお預かりし、お持ちしました。うっかり落としてしまい、申し訳ございません」

 父上は聞いているうちに、その目から険しさが薄れていった。ぼくが剣をもう一度差し出すと、受け取った。

 しゃべっている間に、おじ上も出てきた。

 父上の隣に並ぶ。

 ぼくを静かな、けれど強い目で見据え、おじ上は言った。

「反乱については聞いている。耿紀、韋晃と金禕だな」

「はい」

「吉邈と吉穆は、おれを以前殺そうとした医師吉本のせがれたちだ」

 そうだったのか。ぼくの腹の底が冷えた。

「暁雲はどうしている」

「間者の謝と、蘇の母娘と共に、調べを続けております」

 謝と聞いて、おじ上がふっと笑った。

「再会したのか」

「はい」

 おじ上、実は知っているな。謝が、暁雲の初恋の相手だということを。

 おじ上はぼくに聞いた。

「それで飛将。おまえは、いかにして王必を守るつもりだ」

「王長史のお宅に毎日顔を出します。信頼してもらい、何か異変があればすぐにぼくに伝えてもらえるように取り計らいます」

 笑みをとどめたまま、おじ上がぼくを見た。

「いいことを教えてやる」

「何でしょうか」

「王必には一人娘がいる」

「存じております」

「おまえと同い年だそうだ」

「それは、初めて知りました」

「その娘に近づけ」

「そのつもりでおります」

「暁雲も謝と再会した。次はおまえだ」

「――どういうことでしょうか」

 おじ上がにやりと笑う。

「早く嫁にしてしまえ」

「は?」

 ぼくは大声を上げてしまった。

 おじ上はぼくの肩をばしんと叩いた。

「抜かるなよ」

「抜かるなって、そんなこと言われても」

「兄上」

 父上がとがめる目つきでおじ上を見る。

「飛将はまだ女を知りませぬ」

「父上」

 ぼくは真っ赤になったけれど、言った。

「もう知っております」

「はあ?」

 父上もさっきのぼくみたいな声を出す。

 おじ上はぼくに強く明るい口調で言った。

「元譲にも手助けさせよう。あとでおまえたちに連絡させる」

「ありがとうございます。心強いです」

「漢中におまえの父を派遣することにした。反乱を鎮めたらおまえと暁雲も追え」

「はい」

 劉備が兵を漢中に派遣したことは、ぼくも暁雲も知っている。

 父上がぼくに心配そうな目を向けた。

「母上はどうしている」

「お元気です」

「そうか。――よかった」

 父上が安心したようにほほえむのを見て、ほっとする。

 おじ上がぼくに言った。

「泊まっていけ。部屋を用意する」

「ありがとうございます」

 父上がぼくを促した。

「一緒に来い」

 ぼくは徐将軍がいることを忘れていない。すぐに答えた。

「申し訳ございません。もうひとつ落とした物があるので、探してから追いつきます」

「何を落とした」

 父上に尋ねられ、ぼくはまた、言葉を可能な限り素早く探した。

「女からもらった物です」

 父上とおじ上は、しかたがないな、と言うような苦笑いを交わし、きびすを返した。

 父上が振り返ってぼくに言った。

「もと来た道を帰れ。回廊が始まるところで待っている」

「はい。すぐに参ります」

 父上とおじ上の姿が遠くなったところで、ぼくは徐将軍のもとに駆け寄った。

「将軍、お待たせいたしました。申し訳ございません」

 徐将軍は沈痛な面持ちのまま、頭を下げた。

「助けていただき、礼を申し上げます」

「そんな、こちらこそ勝手な真似をいたしまして、お詫びいたします」

「剣、かたじけのうございました」

「いいえ」

 将軍は、面を伏せたまま、ぼくの前から立ち去った。


 翌朝、ぼくは許昌へ向けてまた、馬を駆る。

 王長史の娘さんは、どんな人なのだろう?



 ぼくが許昌へ帰る時、見送りに立った父上は、甲冑に身を固めていた。

 その腰には、昨日徐将軍が返そうとして果たせず、結局ぼくが返した剣が吊るしてある。

「王長史と、ご息女を頼んだぞ」

 笑顔で言う父上に、ぼくも笑顔で答える。

「父上にも、ご武運がありますよう」

 父上はぼくに、今まで自分が使っていた剣を渡した。

「研いでおいた。暁雲に渡してやってくれ」

「承りました」

「あいつの使っていた剣を見せてもらったが、ぼろぼろだったからな」

「喜びます、きっと」

 ぼくは気になっていたことを尋ねる。

「あのあと徐将軍にお会いになったのですか」

「会った」

 父上は眉目を曇らせた。

「実はあの時、おれと兄上は彼と目が合ったのだ」

 徐将軍の沈んだ顔と暗い目をぼくは思い出す。

 父上はまぶたを伏せた。

「彼は笑って、何も言わなかった。ただ、涙を流していた」

 ぼくも泣きたくなる。

「彼から返された剣を持っていくと伝えた。彼は笑顔のままだったが、涙は止まらなかった」

 父上はそう言って、その剣に手のひらを添えた。

「おじ上は、何とおっしゃったのですか」

 父上は目を開けてぼくを静かに見た。

「何も言わなかった」

 ぼくたちはそれきり黙り込んだ。


 ぼくが鄴から駆け出すのと同時に、父上は騎兵五万を率いて漢中へ出発した。

 父上の進軍は速い。三ヶ月かかる道のりを半分の日数で駆け通したと、ぼくはあとで孟徳のおじ上から聞いた。ぼくにそのことを伝えるおじ上は、誇らしげで、満足そうだった。

 ぼくの目に、おじ上の仕事部屋で見た光景がよみがえる。

 おじ上の腿に頭を乗せて、目を閉じる父上。その顔は安らかだった。子供が親に甘えるようだった。

 もしかしたらそれが、父上が長年悩み続けてきたことがなくなった、ということの表れだったのかもしれないと、ぼくは思う。

 徐将軍のことが心配だった。でも、今は、彼をそっとしておくことしかできないとぼくは思う。

 徐将軍には申し訳ないが、今のぼくはそれどころではないからだ。

 王長史と、彼の一人娘を守る。

 大仕事が待ち受けている。


 王長史のお宅に通い始めた。

 若いぼくが突然訪れたので王長史はさすがに驚いたようだったし、ぼくに向ける目も疑わしげな形だった。

 けれどもおじ上との打ち合わせどおり、王のご命令で、と話すと、ああそれはありがたいと、すぐに笑顔になった。

「飛将どの、それがしの一人娘をご紹介いたします。留守を守ってくれておりますゆえ。これ、玲を呼んで来い」

 下女に告げると、すぐに女性が現れた。

 女性としては背が高い方だろう。ぼくよりは少し低いけれど。すっきりとした目鼻立ちをしている。

 ぼくの前で、落ち着いた声音で名乗った。

「王必の娘、王玲と申します」

 王長史が申し訳なさそうに言い添える。

「数えで二十四になるのですが、まだ嫁いでおりませんで」

「父上のことが気がかりですので」

 王長史を横目で睨み、ぴしゃりと言った。

 ぼくは直感した。

 彼女は以前のぼくだ。

 以前の父上は、親戚づきあいもろくにしないでふさぎこんでいた。だからせめてぼくだけは人当たりをよくしておこうと、素の自分を隠して良い子のふりを続けてきた。

 学問にも武芸にも精を出した。父上にぼくを見てほしいからというのが大きな理由だったけれども、それだけではない。

 何かに打ち込んでいれば、寂しさや、やりきれなさを、気にしないで済んだからだった。

 彼女はぼくと同じにおいがする。

 ぼくは王長史と王玲に告げた。

「それがしもお嬢さまと同い年です」

 王玲が眉を上げる。

 ぼくは作り笑顔を浮かべた。そして、王玲の胸に響きそうな言葉――良い子のふりを続けてきた頃のぼくが一番かけてほしかった言葉を、言った。

「また参ります。何でも頼ってくださいね。どんなささいなことでもお伺いいたします」


 王玲は、つん、と取り澄ました顔を崩さないままだった。

 ぼくと会っても、冷たく一言。

「特に困り事はございません」

 なんだよ、この強がり。

 そんな顔しても、かわいくないんだよ。

 ぼくは内心で毒づきながら、かつてのぼくもこんないけすかない奴だったのだろうと、反省する。

 王長史が務めに出たあとを見計らって挨拶に出向いた。それを続けるうち、どんなにつっけんどんにされても作り笑顔で話しかけるぼくに、ある日王玲が目つきをやわらげてくれたのだ。

「もうすぐ年が明けますね」

 しめた! 自分から話しかけてくれたぞ。

 ぼくは愛想よく応じる。

「酒樽が運び込まれているのをお見かけしましたが、王長史のお宅で宴会でもなさるのですか」

「ええ。父が、部下たちをねぎらうために毎年開いております」

「王長史はよくお飲みになるのですか」

「父は実は酒が苦手なのです。けれども宴会となると何杯も空けます。雰囲気につられやすいのです。翌日は二日酔いで、介抱するのが大変」

「お嬢さまもご一緒するのですか」

「いいえ。わたくしは料理を運ばせたり、後片づけをしたり、使用人たちを動かすので精一杯です。ほんとうは人に指図するのは苦手で、何年も同じことをしているのですが慣れなくて」

 よしよし、弱みを見せ始めたぞ。

「それがしも苦手です」

 王玲がぼくに顔を向けて目を見ひらいた。

「飛将さまは、武官ではありませんか」

「兵を率いた経験はまだ少ないのです」

 王玲が、ふふっ、と笑った。

 その笑顔が、たたずまいが、思わず抱きしめたくなる風情で、ぼくはどきっとした。


 反乱の準備は、着々と進んでいる。

 元譲のおじ上がぼくの邸にこっそり尋ねてきて、教えてくれたのだ。

「ずいぶん人を集めているようだぞ。年末年始にはよく人の出入りが増えるのだが、それにしても多い」

 おじ上は平服だった。ぼくや暁雲と一緒に食事をとっている。妹の祥は、病床にある母上と一緒に食べると言って、食事を持っていった。

「孟徳からは三万の兵を預かっている。許昌の城外で待機し、王長史の邸に火の手が上がれば城内に入り、おまえたちを援護しろと言われている」

 ぼくは箸を置いた。

「王長史の邸に火を放つということですか」

「そういう話をおれも聞いている」

 暁雲が椀を置いて言った。

「王玲が危ない」

 ぼくはなぜか彼女の心配を先にした。王長史の安全も守らなくてはならないのに。

 元譲のおじ上は残った右目をぼくたちに向けた。

「その日、王長史は部下をねぎらう宴会を催すそうじゃないか」

「おっしゃる通りです」

 ぼくはおじ上の言葉の終わりにかぶせるように言う。

「その宴会に飛将、おまえも行けばいい」

「もちろんです。剣と箙を持っていきます」

 暁雲が笑って、言った。

「おれも行くよ。外にいる。父上からいただいた剣も持っていく」

 ぼくは暁雲を見た。気がかりなことがある。

「君だけかい」

「なんで?」

「蘇や、謝はどうするのだい」

 暁雲は不敵に笑う。そういう笑い顔は、孟徳のおじ上そっくりだ。整った顔立ちだけに、余計印象に残る。

「謝もおれと一緒だ。あいつは腕が立つ」

「蘇は後宮にいるのかい」

「何かあれば外へ知らせるそうだ」

「なあ、何の話だ。おれも入れろ」

 憮然として元譲のおじ上が言うので、ぼくは蘇と謝が女で、孟徳のおじ上の間者であること、今回の反乱に気づいて孟徳のおじ上にいち早く知らせたことを伝えた。

 元譲のおじ上は素直に感心し、何度もうなずいた。そのあと、急に思いついたように言った。

「そうだ。孟徳からおまえたちに渡してくれと言われた物がある」

 取り出したのは、赤、青、黄色の、細長い包みだった。

「郭奉孝の作った火花だそうだ。火の手は城壁からは見づらいかもしれないから、おれに合図する時に使ってくれとのことだ」

 暁雲の目が嬉しそうに輝いた。

 郭軍師の作り置きが、また役立つ時が来た。


 建安二十三年(218)の正月十五夜。

 王長史の邸で開かれる宴会にぼくは行った。

 戦袍の上から上着を着ている。剣も箙も吊るしてある。もしも戦いになれば、上着を脱ぎ捨てるつもりだ。

 王長史はにこにこ顔で出迎えてくれる。

「お招きありがとうございます」

「ようこそおいでくださいました。いつも娘を気にかけてくだすって感謝申し上げます」

 王長史は反乱の首謀者の一人、金禕と親しい。来ているかな?

 ぼくは宴席を見渡した。

 いない。

 王長史にそれとなく尋ねる。

「金徳禕どのがお見えにならないようですが」

 徳禕とは、金禕のあざなだ。

「ああ――今日は都合がつかないとかで、代理に部下をよこすと申しておりましたな。お知り合いで?」

「いえ。漢の名臣の末裔でいらっしゃる有名な方ですから一度お会いしたいと存じまして。お席はどちらですか」

「あそこです。窓際の一番奥」

 そいつに何かさせるつもりかもしれない。ぼくはそいつの顔や服装を頭に叩き込んだ。

 王玲が現れた。

 華やかな色合いの服をつけ、うっすらと化粧している。抑えた色香が匂い立つようだ。

 彼女、こんなに色気があったっけ?

 ぼくは圧倒された。

 王玲はほほえんだ。妖艶に。

「飛将さま、お会いできまして、嬉しい限りでございます」

「お、おきれいですね」

 とたんに王玲はぶすっとした顔になる。

 色香が消し飛んだ。

「ぼく、いや、それがし、何かまずいことでも」

「このような派手な服、わたくしは気に入りません。父に着るように言われて、しかたなく着ております。化粧もほんとうは苦手で、出来栄えに自信がありませぬ」

 王長史が困り顔でため息をつく。

「おまえも宴会に出てほしいからだよ。そろそろ婿を探してほしいのだよ」

 王玲は王長史をキッと睨んだ。

「嫁ぎませんと再三申し上げております。わたくしがいなくなりましたら父上は暮らしてゆけるのですか」

 さすがの王長史も眉目をつり上げる。

「わしのことは心配ないと再三言ったはずだがな」

 反乱よりも前に父娘喧嘩が勃発してるじゃないか。

 宴会が始まった。

 王玲は使用人たちを指図しているけれど、まだぶすっとしたままだ。

 お?

 金禕の代理で来たあいつが席を立ったぞ。

 ぼくも席を立つ。

 そこへ王玲が近づいてきた。

 よりによってこんな時に。

 ぼくは焦る。

 王玲はじっとぼくを見つめてくる。

「な、何でしょうか」

「飛将さま、少しよろしいですか」

 その目が、おびえている。

 ぼくは王玲に向き直った。

「外へ出ましょうか」

 二人で広間から出た。

 あいつを見失った。外に出て探そう。

 王玲はあたりを見回し、声をひそめてぼくに告げた。

「聞いてしまいました。それで、恐くなって」

「何を聞いたのです」

「火をつける、と」

 ――始まった。

 ぼくは王玲の手を取った。

 冷たい、薄い手だ。

 王玲がびくっとして、ぼくを見た。

 ぼくは王玲を見据え、きっぱりと言う。

「ぼくから離れないで。これからほんとうに火の手が上がるから」

「どこにですか」

 青くなる彼女にぼくは答えた。

「君の邸に」

 ぱちぱちと音がする。

 煙が漂ってくる。

 使用人たちが騒ぐ声が聞こえる。

 郭軍師の火花が夜空に弾けた。きっと暁雲だろう。

 反乱が、始まった。



 ぼくたちの目の前で門が燃え上がった。

 王玲が口を押さえる。

「何事だっ」

 王長史が飛び出してきた。

 その瞬間、王長史の体が後ろへのけぞった。

「お父さま!」

 王玲が金切り声を上げる。

 王長史の左肩に、矢が突き立っている。

 門の前には人だかりができていた。

 手に手に槍だの剣だのを持っている。

 百人――いや、もっといる。

 ぼくは上着を脱ぎ捨てた。

 すぐさま弓を構え、矢をつがえる。

 王長史の体の向きから、矢が飛んできた方角の見当をつけた。

 そこへ射つ。

 一人、倒れた。

 始まった。

 反乱が、始まった!

 王玲が王長史に駆け寄り、膝をつく。

「お父さまっ。お父さま!」

 王長史は自分で起き上がり、矢を引き抜いた。

「飛将どの!」

 ぼくに王長史は叫んだ。

「娘をお願いします!」

 ぼくの答えは決まっている。もちろん、

「はい!」

 王玲の肩を抱いてぼくは走り出す。

 振り返る。王長史が剣を抜き放つ。部下を呼ぶ。

「厳ッ」

「長史、ここにおります!」

 走ってくる。典農中郎将、姓名は厳匡と、あとでぼくは知った。

 厳匡どのと王長史の声が聞こえる。

「血が!」

「大事ない! 応戦する」

「御意! ――者ども、出合え、出合えーッ」

 王長史と厳匡どのは平服のまま剣を振りかざして人だかりへ突っ込んだ。歩兵たちが邸の中から外から続々と出て、王長史たちを追う。

 ぼくが見たのはそこまでだった。

 王玲と走った。

 あちこちに火が燃え広がっている。

 王玲は裾をからげ、ほっそりとした白い脚をむき出しにして、ぼくと走る。

 大きな建物が目の前に見える。

 あそこへ入り込もうか?

 ぼくが考えていると、はちきれそうな体つきの女の子がひょいと現れた。

 間者の蘇だった。娘の方だ。

「こちらへ」

 蘇はぼくたちを建物の中に引き入れる。

 大きな扉を開けて閉め、ようやく落ち着いた。

「ここは?」

 ぼくが聞くと、蘇はにこっと笑って答えた。

「後宮です」

「後宮?」

 ぼくと王玲は大声を上げた。

 蘇は口の前で人さし指を立て、小さな声で言った。

「お静かに願います。後宮なので。男の人が入ってきたなんて周りに知られたら大変、ただじゃ済みませんから」

 王玲がぼくの襟を握りしめる。

 ぼくは彼女を抱きしめた。

 蘇がさらに声を小さくする。

「帝がおいでになります」

 えっ?

 ぼくは言ってしまった。

「み、帝が?」

 蘇がうなずく。

「はい。反乱が起きたので、騒ぎを避けてこちらへいらっしゃいます」

「わたくしたち、ここから出た方がよいのではありませんか」

 王玲が声を落とす。

 蘇が頭を横に振った。

「その方が危険です。ひれ伏していればここは暗いですし、なんとかごまかせますから。――あっ、帝です!」

 ぼくたちは揃ってひれ伏した。


 これが――帝か。

 こっそり目線を上げて、ぼくは見た。

 劉備と顔立ちは、似ていない。しかし背の高さは同じくらいだ。重そうな衣服を何重にもつけているので体格がよく見えるが、脱げばやせているだろうとぼくは思う。

 据わった目が、ぼくをじっと見る。

 その体から冷たい風が吹きつけてくるようだ。その風を受けると、雒の城に入る劉備に感じたように、無条件にひれ伏したくなる。

 床に手をつき、頭を垂れているぼくに、帝の声が落ちてきた。

「なにゆえ――おのこがおるのだ」

 ぼくは顔を上げ、名乗った。

 もうこうなったら、隠してもしかたがない。

「それがしは、魏王の血縁。曹馥、あざなは飛将と申しまする。反乱から王長史のご息女をお助けする途上、こちらへ難を避けて参りました。おとがめは甘んじてお受けいたしまする」

「操の従弟の嫡男か」

「はい」

 なぜ知っているのか。

 そう思って固まったぼくに向かってまた、帝の声が落ちた。

「それくらいはつかんでおる」

 帝と、目が合った。

 けれど、ぼくはすぐに顔を床に向けた。

 真正面から見ることがおそれ多い。

「さて」

 椅子に座る音が聞こえた。

「顔を上げよ」

 ぼくは言われた通りにした。

 帝の顔に喜怒哀楽はない。

「さて。反乱が治まるまで、ここにひそんでおるしかなさそうじゃ。なれば、昔語りでもいたそうかのう」

 ぼくはまた身を固くした。

「楽になさいませ」

 帝の斜め後ろにいた、孟徳のおじ上の娘さん――曹皇后が、ひんやりした声でぼくを促す。

 切れ長の目、通った鼻筋。姿かたちは美しいけれど、恐い。

 ぼくは王玲と蘇をちらっと見た。

 二人ともひれ伏したままだ。

 ぼくは上体を起こし、床の上に座った。

 帝はふと、外に目をやった。

 まだ声が聞こえる。叫び。火が燃える音。

 それらに耳を傾けたまま、帝は言った。

「朕ほど、あちこち振り回された帝はおらぬだろうて。朕はおのれが帝であることを忘れた。皆もそうであった。操が朕を迎えた時、初めて朕は、おのれが帝であることを思い出した」

 炎が照り返し、帝の横顔を闇に浮かび上がらせる。

「操は昔、儀郎の職についておったそうな。じゃから朝廷の官位にも詳しかった。すぐさまおのれと、おのれの臣下どもをこれこれの位につけよとまとめて来おった。朕はまだ若く、政務をとったこともなかったゆえ、すべて聞き届けた」

 ぼくは帝から目を離さなかった。

「操は中原をはらい清めるのだと申しておった。朕に勅書を書かせ、あちこちで戦をした。漢の安寧を取り戻すのだと熱弁を振るった。朕に軍はない。操が朕の代わりに安寧を取り戻すのであるならばそれでよいと許した」

 じゃが、と、帝はぼくに目線を下ろした。

「朕の臣下たちは、操を除けと言上して来やった。このままでは位を奪われると。さような時に朕は劉皇叔とまみえた。衷心より嬉しゅうなった。この者こそ朕の一族、共に手をたずさえてゆけると思うたのじゃ。なれどその頃董承らが操を除こうとして露見し、処刑された。皇叔もその企てに名をつらねたが、結局逃亡した。朕はその時思うたのじゃ。皇叔は朕を裏切ったと」

 皇叔――劉備のことだ。

 帝は、劉備に裏切られたと、思っておいでなのだ。

「朕はそこで、初めて操を恨みに思うた。操を自らの手で除こうと決めた。江東征伐に向かう操を呼び、あやつがひた隠しにしておった囲い者のおなごの話を暴いてやった。ところが」

 囲い者のおなご――まさか、暁雲のお母さんのことではないか。

 帝は、ぶるっ、と震えた。

「あの時ほど操が恐ろしいと思うたことはない。殺されるかと思うた。今でも忘れぬ。操は朕に迫った。ここを朕の死に場所とするか、臣に――操のことじゃ――臣に死を賜るかと」

 孟徳のおじ上が激怒するさまを、ぼくはありありと目の前に描くことができた。

 帝は、沈黙した。

 ぼくが待ちくたびれた頃、彼は口をひらいた。

「ひざまずきそうになった。そしてついに、そちがいたから生きて来られた、そう口にしてしもうた。それを申したが最後、朕は操に、朝臣の動きを伝えるようになった。こたびの騒ぎも、企てた者の名は、すぐに后を通じて操に流した」

 何ということだ。

 ぼくは言葉を失った。

 帝は、ご自身の臣下を、孟徳のおじ上に売ったのだ。

 曹皇后は顔色ひとつ変えずに立っている。

 外からはまだ叫び声が聞こえる。

 馬蹄の響きもする。

 元譲のおじ上が救援に来ているのだろう。

 誰も、何も言わない。

 ただ、時だけが過ぎてゆく。

 ――こうしてはいられない。

 ぼくは帝に申し上げた。

「それがし、鎮圧に向かいます」

 帝は、ぼくを見て、重々しく言った。

「朕が開けよう。行きやれ」

 帝は、ご自分で、扉を開けた。

 ぼくは王玲の前に膝をつくと、彼女の肩に両手を置いた。

 彼女が顔を上げる。

 ぼくは言った。

「ここにいてください。迎えに来ますから」

 王玲は、その目に強い光を浮かべ、うなずいた。

 扉のそばに立つ帝に拱手し、ぼくは駆け出した。


 とは言え、駆け出したものの、ぼくはどうしていいかわからなかった。

 騎兵が駆けている。

 粗末な服を着た人たちが、騎兵や歩兵に斬られていく。

 焼け残った家。

 血を流し、うめいている人たち。

 夜空に煙が上がる。

「離せっ」

「神妙にしろっ」

 その声の方へ顔を向け、ぼくは、歩き出した。

 声がしたところに着いた。

 三人、縄で縛り上げられていた。

「耿紀、金禕、韋晃、捕らえました」

 兵が報告している。

 それを聞いているのは、元譲のおじ上だ。

 おじ上の周りには、戦袍姿の男たちがいる。

 見知った顔ばかりだ。

 それもそのはず、皆、曹氏の男たちだった。

「馥!」

 声をかけてきたのは、暁雲だった。返り血と砂ぼこりで顔も服も汚れている。

「暁雲……」

 ぼくは、へなへなと座り込んだ。

 暁雲はぼくの前に膝をつく。

「どうした」

 ぼくは、泣いてしまった。

 暁雲がぼくの肩をつかむ。

「何があったんだよ」

「王玲は、無事だ」

 それだけは言えた。

「どこにいる」

「後宮」

「蘇か?」

「うん」

 帝と会ったことや、話を聞いたことは今は、言えそうになかった。孟徳のおじ上が心配でしかたないこともだ。

 暁雲がぼくを抱きしめる。

 ぼくは暁雲にすがりつき、声を殺して泣いた。


 夜が明けた。

 ぼくは後宮まで王玲を迎えに行った。

 暁雲と初めは一緒に戦っていたけれど、あとで別のところで戦っていた謝も、ぼくたちのもとへ戻ってきた。彼女も返り血を浴び、土まみれだった。

 王長史も厳中郎将も無事だった。しかし王長史は矢傷がひどく、邸で療養することになった。王玲も邸に戻り、王長史の看病を始めた。

 耿紀、金禕、韋晃は鄴に護送され、処刑されたとあとでぼくは知った。

 吉邈と吉穆は、曹氏の男たちと戦う中で死んだそうだ。彼らが率いていた人々の多くは官庁で下働きをしていたり、彼らに仕える奴婢だ。その人たちも戦って死んだとぼくは聞いた。


 反乱を鎮圧したあと、ぼくと暁雲は、漢中へ出発するよう孟徳のおじ上から命を受けている。

 父上の軍に合流するためだ。

 だから、急だったけれど、ぼくたちはそれぞれ簡単な祝言をあげた。

 ぼくは王玲と、暁雲は謝と。

 その時ぼくは数えで二十四歳。暁雲は数えで二十八歳だった。

 そして残念なことに、反乱から十四日たって、娘がやっと嫁ぐことを喜んでいた矢先に、王長史は矢傷が悪くなって亡くなった。


 反乱のあとの話をしよう。

 孟徳のおじ上は、主だった朝臣たちを鄴に呼んだ。ぼくと暁雲もその場に立ち合うことになった。

 配下の武官たち――もちろんぼくと暁雲もその中に入っている――が完全武装で居並ぶ中、魏王宮の広間に朝臣たちは引き据えられた。

 そこに歩いて現れた孟徳のおじ上は、十二旒の冠をいただき、暗い色合いの衣服をつけていた。

 十二旒の陰から、数えで六十四歳にしてなお整った白い顔が垣間見える。

 ぼくは体が震えた。

 まるで、帝だ。

 劉備とは違う。今の帝とも違う。

 孟徳のおじ上の体から、ぼくたちさえも押さえつけるような力を感じる。

 おじ上は、おびえる朝臣たちを前に、おごそかにこう言った。

「お主らは、漢の臣下であるか」

 朝臣たちは口々に答えた。

「臣下でございます」

 おじ上は、低く、重く、問うた。

「余は丞相の務めもいたしておる。つまり、お主らと同じ、漢の臣下である。違うか」

 やはり、引き据えられた朝臣たちは異口同音に答える。

「違いませぬ」

 おじ上は十二旒の陰で、おれの勝ちだ、と宣言するように笑った。

「これからも帝を共に助けてゆこうぞ」

 朝臣たちは次々とおじ上にひれ伏した。

 それを見ていた許将軍が、ぼくと暁雲にだけ聞こえる声で言った。

「王は、わしらを守るために、王になった。朝臣と戦うために、王になった。わしは、王から、そう聞いている」

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