第12話 妙才のおじ上が――おじ上が

 ぼくたちにとって悲しい出来事が起きた。

 母上が、ついに亡くなったのだ。

 喪に服すところだけれども、ぼくたちはこれから、漢中に出陣した劉備を防ぐという大きな仕事に取りかかる。

 孟徳のおじ上は、昔からのしきたりに縛られることはしなくていい、と言ってくれた。


 君の親御さんは、元気?

 悲しくて泣いている暇はないんだ。

 亡くなったあと、葬儀をとりおこなったり、亡くなった人の役所への手続きをしたり、することはたくさんある。

 ありがたかったのは、暁雲や祥、王玲、謝がいてくれたことだ。

 謝は間者をやめた。孟徳のおじ上も、それを許した。

「父上に、会わせてさしあげたかった」

 祥はそう言って母上の死を悼んだ。

 王玲は祥の背中を優しく撫でてくれた。

「よかった。ねえさまがいてくだすって」

 ねえさまと呼ばれた王玲は、恥ずかしそうに下を向く。

「わたくし、ひとり子なので、ねえさまらしく振る舞えなくてごめんなさい」

 祥は泣き顔の唇に笑みを浮かべた。

「とんでもない。充分にわたくしのねえさまでいらっしゃいます。今まで我が家には男が三人、女が二人だったので」

 謝は、もと間者だったからなのか、眉も目も口も動かさずそこにいる。

 祥は謝に笑顔を向けた。

「ねえさまが二人も増えて、これで女が三人になりました。わたくし嬉しいです」

 謝は、初めて柔らかな笑みを見せた。

 暁雲も謝を見て、優しく笑う。

 はいはい、よく言うよ。

 ぼくは祥にそう言ってやりたかった。

 けれど、母上が亡くなったあと祥が初めて笑ってくれたのだ。

 だから言わないことにした。


 当初の予定よりは遅くなったけれども、父上から援軍の要請が届いた頃には、ぼくたちは漢中へ出発する準備を整えることができた。

 ぼくは王玲に言った。

「君に約束するよ。必ず帰る」

 王玲は明るく笑った。

「信じております」

 建安二十三年(218)秋七月。

 ぼくと暁雲は孟徳のおじ上と一緒に、漢中へ出発した。

 ぼくたちと共に進むのは、四十万の軍勢。

 孟徳のおじ上は、暗い色の甲冑をつけている。その上にまとう袍の色は、暗い血の色と同じだ。

 冑の下に、老いてなお整った白い顔が見える。

 その凄みと色気は、年齢を重ねるごとに増しているとぼくは思う。

 それに加えてあの、主だった朝臣を引き据えた時に発した力。

 全身から放たれる、ぼくたちさえも押さえつけるようなあの力も、さらに強くなっている。


 道々、ぼくと暁雲はおじ上と、よく話した。

 と言っても、夜営の時だ。

 話している時のおじ上は、ぼくにとっては、明るくさっぱりした気性の、一人の男だった。

 建安二十三年(218)の九月。

 明日には長安に到着するという夜のこと。

 幕舎の中で、おじ上は出し抜けに言った。

「どうだ、暁雲。謝の抱き心地は。初恋の相手と結ばれた気分は」

 一瞬で暁雲が首まで真っ赤になる。

「う、うるさいっ」

 こんな口を聞けるのは、この幕舎にいるのがぼくとおじ上だけだからだ。

 暁雲は、おじ上と、おじ上が黄巾賊討伐の時につれ帰った暁雲のお母さん――李氏との間に生まれた。李氏さんをおじ上はとても好きだった。

 以下、暁雲とおじ上の父子の言い合い。

「この助平親父っ」

「おれにとっては最高の褒め言葉だ」

「聞いていいことと悪いことがあるっ」

「父親として息子を心配して何が悪い」

「こういう時だけ父親面するなっ」

「ということは、良いのだな」

 暁雲は、もう勘弁してくれという顔で頭と肩をがっくりと落とした。

 おじ上はにやりと笑い、ぼくにも尋ねた。

「飛将はどうだ。王必の娘とうまくやれているのか。昼の方だけではないぞ」

 ぼくは落ち着き払って答えた。

「おかげさまで仲良くやっております」

 ほんとうのことだから自信をもって言える。

 おじ上はくくっと笑った。

「それは何よりだ」

 外では、ぱちぱちと、かがり火に使う薪が燃える音がする。

 おじ上は幕舎の中にともしたろうそくの火を見ながら、話し出した。

「おれが劉備に会ったのは、黄巾賊討伐の時だった。あの時も、炎が燃えていた」

「劉備は、火攻めをしたのでしたね」

 ぼくが言うと、おじ上はぼくを見た。

「今でも思い出せる。おれが馬で近づくと、妙に目立つ男がいた。それが劉備だった。奴はおれに尋ねた。あなたはいかなるお人ですかと。だからおれは名乗った。我々は洛陽から南下した官軍であると」

 暁雲もいつもの彼に戻って、おじ上の言葉を待っている。

 おじ上は続ける。

「おれは数えで三十。劉備は数えで二十四の年だった」

 おじ上は劉備と交わした言葉を一言一句正確に覚えていた。そのやり取りは次の通り。

 ――見事な火攻めである。貴公らのおかげで賊は一掃された。

 ――ただ、火をつけただけなんですけどね。不意をつかれたから、散り散りになっただけだと思いますよ。

 ――貴公はどなたの指揮下におられるか。

 ――おれたちは義勇兵なんです。

 ――どちらから参られた。

 ――涿郡、わかりますか。そこです。

 ――わかる。なにゆえ、指揮下に入られぬ。

 ――おれ一人ならそうしてました。でもおれには義弟が二人います。そいつらは誰かの下につくようなタマじゃないんです。だから義勇兵のままでいるんです。


「関羽と張飛がいた。確かに、劉備にしか従わないという顔をしていた」


 ――貴公らの働きは、私が奏上いたそう。

 ――いえ。結構です。


「おれはなぜか、初めて帝に目通りした時のことを思い出した」

 おじ上の目が揺れた。

「体が震えた。自然と膝をつき、ひれ伏していた。あの時の劉備は、まさにそうしたくなるようなものを、全身から発していた。劉備は笑いもせずにこう言った」


 ――褒美が欲しくて黄巾賊を討っているわけではありませんので。


「その劉備と、これからやり合うのだ」

 おじ上は苦そうに口を引き結んだ。

「勝てぬ戦をすることになる」

 ぼくたちは耳を疑った。

 おじ上は、暁雲、ぼくの順に視線を移す。

「これからおれがする話は、おまえたちだけにするのだ。他言はするな」

「はい」

 ぼくたちは声を揃える。

「漢中を獲った。それが劉備の強みだ。策を労する必要もなく勝てる。おれたちにできることは、劉備たちを漢中から出さないことだけだ。漢中は山や谷が多い。道も狭い。糧秣を運ぶ算段をつけねば進軍できない」

 暁雲が口をひらいた。

「じゃあ、父さんはその算段をつけてから漢中へ向かうということか?」

「そうだ」

「間に合うのか?」

「関羽が子孝を攻めている。それにも対処せねばならん」

「ええっ」

 ぼくたちは声を上げた。

 子孝のおじ上は今、樊城を守っている。

 ちなみに彼はぼくの父上の実の兄だ。

 おじ上はぼくたちを強い目で見据えた。

「先に南鄭へゆけ」

「はいッ」

「子廉がいる。南鄭に着いたらこれを開けろ」

 おじ上が筒をひとつ渡した。

 暁雲が受け取る。

「見るのは、おまえたちと子廉だけだ」

「心得ました」

 二人で答えた。

「頼んだぞ」

 おじ上は目を細めて笑った。

 その目は、優しかった。


 翌朝。

 まだ暗いうちに、ぼくたちは南鄭に走った。

「妙才のおじ上と、張将軍、苦戦しているって聞いたけど、まだ、もっているかな」

 妙才のおじ上、姓名は夏侯淵。

 張将軍、姓名は張郃。

 駆けながらぼくが言うと、暁雲が答えた。

「劉備は陽平関にいる。にらみ合いを続けているって、父さん、言ってたな」

「ぼくたちだけ行って、状況が変わるのかな」

「父さんには何か考えがあるんだろう」

「あの、筒の中に?」

「ああ」

 今は父上が守る南鄭に向かうだけだ。

 ぼくたちは昼夜の別なく駆け通した。



 君は、定軍山を知っている?

 漢中はのどかな場所だ、という話は、ぼくたちが張魯を攻めた時にしたよね。

 見渡すばかり畑。

 どこまでも畑。

 そんな中に定軍山という山があるんだ。

「定軍山の向こうが、陽平関?」

 聞いたぼくに、暁雲は嫌な顔ひとつせずに答える。

「ああ、そうだ」

「じゃあ」

 二人で、畑のそばを通る道の上で休んでいる。

 ぼくは道にあった石ころを三つ拾った。

 ひとつ、地面に置く。

「ここが南鄭。ぼくたちが向かう場所。父上が守っている」

 そこから西に離して、もうひとつ置く。

「ここが定軍山。妙才のおじ上と、張将軍が守っている」

 定軍山から西に、最後のひとつを置いた。

「ここが陽平関。劉備が陣取っている」

 暁雲を見る。

 彼は笑顔になり、温かいまなざしを向けた。

「その通り」

「ということは」

 ぼくは別の石ころを持った。

 置いた石ころのそばにそれぞれ、地名を書く。

 書き終わり、ぼくは、気づいた。

「南鄭が獲られたらまずい」

 暁雲も眉目を引き締める。

「定軍山を挟み撃ちできるからな」

「父上はこんな厳しいところで戦っているのか」

 石ころを手でどかし、ぼくは立ち上がった。

 地名を足で消す。

 誰かに見られたらおおごとになるからね。

「急ごう、暁雲」

「今日の晩には着くぞ、馥」

 ぼくたちは鞍の上に乗る。

 馬の顔を撫でてぼくは声をかけた。

「あと少しで着く。頼むよ」

 馬はぼくに答えるように、鼻を鳴らした。


 南鄭の城に着いた。

 もう、日が沈んだあとだ。

 暗い中、ぼくは城門を守る兵に、腰からはずした倚天の剣を見せた。

「我が名は曹飛将である。魏王の命を受け、父、曹子廉に合流すべく参った」

 暁雲も名乗る。

「飛将の義兄、曹暁雲である。同じく父に加勢すべく魏王の命により参上した」

 兵はすぐに父上に取り次いでくれた。

 父上はすぐに現れた。

 切れ長の目、通った鼻筋の整った顔は日に焼け、精悍さを増していた。

「馥。暁雲。よく来てくれたな」

 ほほえむ父上を見て、ぼくの目に涙がにじむ。

「父上。母上が、亡くなりました」

 父上が、えっ、と低い声を漏らす。

「いつだ」

「今年の二月です」

 最後は涙で言えなかった。

 暁雲が、ぼくの言葉を引き取る。

「眠るように安らかにゆかれました」

 父上は面を伏せた。

 ぼくは声をしぼり出す。

 これだけは、伝えるんだ、父上に。

「父上と、出会えて、幸せだ。母上は、そう、おっしゃいました」

 暁雲がまぶたを閉じ、涙が流れた。

「貞――!」

 父上が天に向かい、震える小さな声で呼ぶ。

 初めてぼくたちが聞く、母上の諱だった。


 いつも父上たちが軍議で使う部屋にいる。

 ろうそくの火が卓を囲み、揺れる。

「父上、魏王からこれを預かって参りました」

 暁雲が筒を差し出した。

 父上が受け取り、開ける。

 紙が一枚出てきた。

 ぼくが言う。

「見るのは、ぼくたちと父上だけとの仰せです」

 父上が折りたたまれた紙を、ぼくたちに向かって広げて見せた。

 おじ上の、大きな、思い切りよく書かれた字が、ぼくたちの目に飛び込んでくる。

 一行目を見た瞬間、ぼくたちは目をむいた。

 ――南鄭を捨てろ。

 南鄭を獲られたらまずい。

 南鄭、定軍山、陽平関の位置を確認した時、ぼくはそう直感した。

 それを――捨てろだって?

 何を考えておられるんだ、おじ上は?

 さらに目で文を追う。

 ――定軍山へ行け。妙才、儁乂を助けよ。

 父上がぼくたちに説明してくれた。

「妙才たちは劉備と睨み合っている。定軍山に陣を敷いている」

 暁雲が聞く。

「戦っているのですか」

 父上は暁雲とぼくを順番に見て、苦しげな顔と口調で言った。

「妙才が平地でぶつかっている。しかし決着はついていない。糧秣も補給がしにくくなっているし、死傷者も増えている」

「父上はここを動けないですよね」

 暁雲が問うと、父上はうなずいた。

「ここにも劉備は攻撃をかけている。おれは南鄭が獲られないように守るので正直精一杯だ。劉備たちは手ごわいぞ」

 ぼくはおじ上の書簡に目を戻す。

 ――補給の算段をつけてから漢中へ向かう。定軍山、樊城、両方へだ。子孝が関羽と戦っている。

「子孝兄が関羽と戦っているだと?」

 父上が声を上げた。

「それでは孟徳兄は、劉備と関羽、両方を敵に回しているということか」

 申し訳ないけれど、ぼくたちは何も言うことができない。

 苦しい戦いが始まろうとしているのだ。

 ――来年三月には着く。おれが着いたら定軍山は捨てて劉備と戦う。劉備を漢中から出さなければよい。おれたちは負けるだろう。二ヶ月で片をつける。子孝を助けるためだ。

 ――子廉。よく戦ってくれた。礼を言う。

 書簡はそこで終わっていた。

 ぼくたちは、お互いの顔を見る。

 ぼくは、言った。

「ここを捨てて定軍山へ行くとしたら、父上の騎兵五万をすべて動かすということですよね」

 父上がぼくを見る。

「定軍山の西には陽平関がある。そこには劉備がいる。間違いなくおれたちとぶつかる」

 暁雲は父上が持つ書簡をじっと見ている。

「何か考えがあるのかい、暁雲?」

 ぼくが尋ねると、暁雲はぼくにうなずいた。

「父上。おれに騎兵を五千、預けてください」

 父上が暁雲に厳しい目を向ける。

「何をする」

 暁雲は、言った。

「先に突っ込んで、囮になります」

 ぼくと父上の体が、驚きで動いた。

 ぼくは暁雲に詰め寄る。

「その隙に、ぼくと父上が定軍山へ入れということかい、暁雲?」

 暁雲はぼくを見てうなずいた。

「ああ」

 父上は暁雲を怒鳴りつけた。

「劉備をあなどるなと言ったはずだ!」

 暁雲は負けていない。落ち着いた声で応じる。

「漢中には山がありますが平地から離れております。兵を隠す場所はほとんどありません。隠れることができないのであれば正面からぶつかるだけです。父上と馥が定軍山へ入れば、おれも向かいます」

 父上と暁雲が、真正面からお互いを見る。

 先に口をひらいたのは、父上だった。

「いいだろう」

「では、五千をお借りします」

「いや」

 父上がぼくたちに笑顔を見せた。

「おれが囮になる」

 ぼくは叫んだ。

「父上!」

 暁雲は絶句していたけれど、あわてて頭を横に振った。

「いけません!」

 父上はぼくたちの反応を面白がっている。

「まあ、見ていろ」

「でも、危険です!」

 ぼくと暁雲は父上の言葉にかぶせるように声を上げた。

 父上は楽しそうだ。

 こんな父上、ぼくは、初めて見る。

「おれが派手に暴れる。妙才は必ず打って出る。おれと同じ数の騎兵を率いてな」

 暁雲が恐る恐る尋ねる。

「どうして、そう、言い切れるのですか」

 父上はまだ笑顔でいる。

「あいつとは従兄弟どうしで、つき合いも長いからだ。あいつは喧嘩早い。それに負けず嫌いだ。山にこもってじっと守るような男ではない」

 どうやら決意は固いようだ。

 ぼくはふーっと息を吐いた。

「わかりました。囮になってください」

「馥!」

 暁雲が血相変えてぼくの肩をつかむ。

 ぼくは暁雲に、笑ってあげた。

「父上なら心配ないよ」

 ほんとうか? と、暁雲はまだ心配そうだ。

 父上が暁雲に優しい笑みを見せた。

「任せろ」

 暁雲がいつもの落ち着いた彼に戻る。

「わかりました、父上」

 話は決まった。


 三日後。

 父上は騎兵五千を率いて出発した。

 ぼくたちは残りの四万五千と共に定軍山へ向かう。

「こんなに大勢の騎兵、初めてだよ」

 めずらしく暁雲が弱音を吐く。

 ぼくは彼を勇気づけたくて、話し出した。

「ぼくが初陣の時、父上が話していた。どんなに大勢の兵がいても、一人の兵に話すように話せって。それに馬は、一頭が走り出せば残りも続く。馬は群れる生き物だから」

「馥」

 顔を向けると、暁雲が笑っていた。

 うん。もう平気かな。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 ぼくたちは笑い合った。


 定軍山が見えてきた。

 父上の騎兵五千が、猛然と突っ込んでいく。

「曹洪」の旗が林のようだ。

 土煙が上がる。

 刃がぶつかる音が、離れたぼくたちまで届く。

「見て、暁雲!」

 ぼくは思わず指で示していた。

「ほんとうだ」

 暁雲もぼくの指を追い、声を漏らす。

 定軍山から、騎兵が斜面を一気に駆け下りる。

 その旗に刺繍されている名は――「夏侯淵」。

「妙才のおじ上だ」

「父上が言った通りだ」

 騎兵の数は、と目をこらす。

 数は――父上と同じくらいか。

 暁雲がぼくの肩を叩く。

「こうしてはいられないぞ」

「そうだ」

 ぼくは騎兵たちに呼びかけた。

「定軍山に入る!」

 山を、登り始めた。



 妙才のおじ上が父上を睨んでいる。

 父上はそんなおじ上を横目で一瞬見たきりだ。

「余計なことをしおって」

「南鄭にこもってばかりでは腕がなまるばかりだからな」

「あと三本矢があれば、倒した兵はおまえを越えた」

「三本も無駄にしたということか、妙才?」

「そういうわけじゃあないっ」

 やれやれ。

 きっとこの二人は、若い時からこんなふうだったのだろう。

 ぼくの父上と妙才のおじ上は同い年だ。

 そこへ遠慮がちに声をかけたのが、張将軍。

「あ、あのう、もうそのくらいに」

 やんわり言いながら父上と妙才のおじ上の間に体を割り込ませる。

「儁乂どの、妙才のお守りをさせてしまい、まことに申し訳なく思っております」

 父上が真面目に言って頭を下げる。

「お守りとは何だっ、お守りとはっ」

 妙才のおじ上が怒り出す。

 張将軍はひきつった笑いを浮かべた。

「まあまあ、今後は共に定軍山を守るのですから。ここはひとつ穏便にお願いいたします、夏侯将軍」

「どうして俺だけなんだっ」

「頭に来ておられるのは夏侯将軍だけですので」

 張将軍は妙才のおじ上の背中を押す。

「仲権どの、あとはお願いします」

「父が申し訳ありません、なにせ大人げなくて」

「霸! おまえまで言うなっ」

 霸――妙才のおじ上の次男、夏侯霸、あざなは仲権。

 ぼくと同い年、数えで二十四歳だ。

 眉目秀麗、見るからに貴公子。

 目鼻立ち、態度、声そして体が大きい妙才のおじ上の息子なのに、父親に似ても似つかない。

 ぼくたちはよく話した。

 武芸も学問も、張り合って取り組んだ。

 仲権は冷ややかな声で、ぼくの父上に問うた。

「なにゆえ南鄭をお捨てになられたのです、子廉のおじ上?」

「王のご命令だ」

「まことでございますか」

「まことだ」

「残る我らの拠点は、ここ定軍山のみとなりましたぞ。とてももちこたえられませぬ」

「関羽が子孝兄を攻めている。王は漢中と荊州両方に敵を抱えておいでだ」

「それでは――王はこの漢中を、劉備にくれてやるおつもりなのですか」

「いずれにしろここに長居はなさらぬお考えのようだ」

「では我々はいつまでここを守ればよいのですか」

「王は糧秣を漢中、荊州両方に送る算段をつけてからおいでになる」

「今は糧秣を補給する道は確保できておりますが、南鄭を空けたとなれば補給線を分断されるのもすぐですぞ」

「張魯がいる」

 父上の言葉に、仲権が、目と口をひらいた。

「張魯の蔵から糧秣を出すと?」

「王がそのように約束を取りつけてある。糧秣が途切れなかったことを当然だと思っていたのか、仲権?」

「――い、いえ、そのようなことは……」

「劉備側に気取られぬよう、五斗米道の信者たちがひそかに動いていたのだ。むろん、張魯の命を受けてな」

 妙才のおじ上も、ぼくも、暁雲も、張将軍も、揃って目をむいて父上を見た。

 そんな話、初耳だ。

 父上は落ち着き払っている。

 ぼくの目に、孟徳のおじ上の腿に頭を乗せて甘えていた父上の姿がありありと映る。

 ――あの時に、そこまで話が詰められていたということなのか。

 ――だから父上は、糧秣の心配をすることなく、劉備側に対処することができた。

 父上はぼくたちの目を順番に見る。

「王は必ず救援に来てくださる。おれたちがすべきことはこの定軍山を守りきることだけだ」

 言って父上は、ぼくたちに背を向けた。

 歩き去るその背中は、ぼくたちからの言葉をすべて、はね返すようだった。


 かがり火が焚かれている。

 真っ暗になったふもとを眺めるぼくの隣に、仲権が来た。

 難しい顔をしている。

「どうしたんだい、仲権」

「ほんとうに私たちは劉備に勝てると思うかい、飛将?」

「厳しいね」

 正直にぼくは言った。

 仲権もきれいな眉目を曇らせる。

「父上が打って出る。張将軍がここを守る。今までその繰り返しなんだ」

「張将軍の手腕は見事だと思うよ。ほとんど兵を欠いた様子が見えないからね」

「ここだけの話」

 仲権はため息をつく。

「劉備がほんとうに恐れているのは、張将軍の方なんだ」

「それはまた、誰から聞いたの」

「捕虜になった兵からさ。だからほんとうは劉備は、直接この定軍山を攻めたいのさ。でも父上がそれをさせずにここまできた。だけど」

「だけど、何?」

「父上はどうしても、平地の騎馬戦で決着をつけたいんだ。私が何度も止めたのだけれど、聞く耳をもってくださらない」

「わかるよ」

 ぼくもうなずく。

「奇襲が得意で、それを売りにしているからね、君の父上は」

「嫌な予感がする」

 仲権の顔つきは暗い。

 だからぼくは言った。

「ぼくと暁雲が、君の父上についていくよ」

 仲権は今にも泣きそうな目をしている。

 ぼくは、笑って、彼の肩をぽんと叩いた。


 それからも劉備との戦いは続いた。

 ぼくと暁雲は妙才のおじ上に従い、騎兵を率いた。

 張将軍が遠慮がちにぼくと暁雲に言った。

「お言葉ですが」

 ぼくは、心配でしかたないと目で訴えている張将軍に向き合う。

「いかがなさいましたか、張将軍」

「それがし、そこまで将軍がたが、夏侯将軍に義理立てなさる必要はないと思うのです」

 暁雲が尋ねる。

「それは、どのようなわけでございますか」

 張将軍は、言いづらそうに下を向く。

「夏侯将軍のお命を軽んじているわけではございませぬ。しかし今のような戦い方をお続けになれば、お命を落とします。我々は、負けます」

 ぼくたちも、薄々、感じていたことだ。

 張将軍は続ける。

「正直なところ、劉備の方が糧秣に余裕があるのです。益州は彼らの土地、直接徴発もできますから。確かに張魯から運ばれる糧秣は充分あります。しかしこのまま定軍山に籠城が続くのであれば、それも尽きます」

 さらに張将軍は声を低くする。

「もうすぐ年が明けるでしょう? 王がこちらへ入られるとすれば、年明けではないかとそれがしは見ております。長安からでしょう? 山越えになります。馬はつれていけませんから、王はそれこそ張魯からいただくおつもりなのでしょうな。それまでに劉備を撃退できるかどうかといえば、不可能ではないかと」

 嫌な予感がする。

 ぼくはその予感を胸に感じながら、言った。

「王が到着するまでに、この定軍山が落ちる?」

 張将軍は、ぼくを困り顔で見つめ、ゆっくりとうなずいた。

「夏侯将軍の身が、危険にさらされます」

 張将軍は気を取り直して言った。

「それがし、袁紹のもとにおりました。城攻めをいたしておったのです。城を守る方も攻める方も慣れております。劉備側はそれがしの工夫を見て、恐れているのでしょうな。まあ、当たり前のことをいたしておるだけなのですが」

「どんなことですか」

 ぼくが聞くと、張将軍は快く案内してくれた。

「たとえば、あの溝です」

 確かにふもとに、深い溝が掘られている。

「そして溝の向こうのさかもぎ」

 さかもぎとは、先がとがった材木を敵側に向けて組んだ柵だ。溝に沿って立っている。

「あとは、敵が来ればあれを落とします」

 山の斜面に、大小さまざまな石が備えてある。

「こんなところでしょうな。幸い石だけは豊富にありますので」

 すごい。

 ぼくは素直に張将軍を尊敬する。

 暁雲もぼくと同じらしい。案内してくれたところに見入っていたから。

 張将軍はそれでも、表情を曇らせたままだ。

「しかし、夜襲でもかけられれば、ひとたまりもないでしょうな」

「今、お見せくださったものが、役に立たないということですか」

 暁雲が尋ねると、張将軍は苦い顔つきで答えた。

「さかもぎは材木でしょう? 簡単に燃えます。溝は、板を渡せば通れます。勝負をかけてくる兵は、石など恐れません」

 ぼくたちは、黙り込んだ。


 年が明けた。

 建安二十四年(219)、正月。

 ぼくは、妙才のおじ上と座っていた。

 夜だ。

 張将軍が恐れている夜襲に備えて、ぼくたちは甲冑をつけたままでいる。

「子廉が、昔の子廉に戻ってよかった」

 おじ上が星空の下で言った。

「あいつとあんなふうに喧嘩ができる日がまた来るとは思っていなかったからなあ」

 おじ上の言う通りだ。

 父上は赤壁の戦いのあとから、笑顔をよく見せてくれるようになった。


 孟徳のおじ上との関係が、父上が望むものになったから、だろう。


「飛将」

「何ですか、おじ上」

「おまえ、いい武将になったなあ」

「ありがとうございます」

「漢中にひそんでいたそうじゃないか」

「ええ」

 おじ上が言葉を継ごうとしたその時。

 馬蹄が、とどろいた。

 ぼくたちは立ち上がり、ふもとを見る。

 火だ。

 火が燃えている。

 矢が飛んでくる。

 兵が殺到している。

 さかもぎが倒れる。

 ぼくたち側は大騒ぎだ。

 張将軍と仲権、そして兵たちの焦った声をぼくは聞いた。


「出ろっ、早く出ろっ」

「矢、矢だ、矢を持てっ」

「並べっ、早く並ぶんだっ」

「射よっ」

「だめですっ! 間に合いません!」

「さかもぎ、水、水持ってこい、水かけろ」

「溝! 渡ってくるぞっ」

「渡すなっ、前に出るんだっ」

「石! 石!」


 ぼくと妙才のおじ上は駆け下りた。

 馬を出し、一緒に飛び出す。

「騎兵出よっ」

 妙才のおじ上の声に、集まっていた騎兵が動き出す。

 暁雲は、父上は――あとから来ている。

 東の空が薄明るい。

 ぼくは射た。

 おじ上も射る。

 暁雲と父上が、長柄の大刀を振るう。

「わしの名は黄漢升!」

 威勢よく駆けてくる武将が一人。

 黄忠。ああ、あの、ご老体か。

 劉備の陣にいた頃を、ぼくは思い出した。

 彼はぼくの名前をいっこうに覚えなかったっけ。

 弓の名手といったな、確か。

 よし。

 ぼくは黄忠に突っ込んだ。

「なんだ、若造っ。どこの誰じゃっ」

 ぼくは走る馬の上で弓弦を引きしぼる。

「我が名は曹飛将!」

 矢を射た。

 黄忠の甲冑、右の肩当てに、刺さる。

 黄忠は馬を止め、ぼくが射た矢を引き抜こうとする。

 妙才のおじ上が、飛び込んだ。

 手には槍を持っている。

「我は夏侯妙才! 敵の大将かっ」

 矢を抜いた黄忠が長柄の大刀をかまえ直す。

 刃がぶつかった。

 ぼくは入り込めない。

 どうする?

 このままでは、妙才のおじ上が――

 おじ上が――死ぬ。


 ぼくはおめき叫んで倚天の剣を抜き持ち、黄忠とおじ上めがけて突進した。

 ぼくが横からぶつかったので、黄忠が睨む。

 でも彼はぼくなんか相手にしなかった。妙才のおじ上だけに向かっていった。

 黄忠が大刀を振り下ろす。

 ぼくはあっと声を上げた。

 その刃が、妙才のおじ上の肩に食い込む。そして、斜めに斬り下がる。

 おじ上の体が、馬から落ちる。

「おじ上!」

 黄忠にぼくは斬りかかった。

 ところが彼は背を向けて走り去った。

 相手にされなかった。

 要するに、彼にとってぼくは、相手にする価値もないということだったのだ。

 だから名前だって覚えようとしなかったのだ。


 ぼくはおじ上の落ちたところに戻った。

 つき従っていた兵たちが、おじ上の周りにいる。

「板、あるかっ、板」

「車の方がいい、車、車」

 おじ上のなきがらを乗せ、兵たちが、車を押して行く。

「――おじ上――」

 ぼくの知る人、それも血縁の人が、初めて目の前で――死んだ。


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我が名は曹飛将~ぼくはこの弓で諸葛孔明に立ち向かう 亜咲加奈 @zhulushu0318

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