第10話 反乱前夜
君、もしかして、「暁雲がいない!」と、思っていたのじゃない?
暁雲がなぜいなかったかというと、孟徳のおじ上の間者の安と一緒に、張魯が去ったあとの巴中へ出向いていたからだ。
要するに暁雲は間者としての務めをしているのだ。
ぼくは南鄭の城の上にいた。
甲冑をつけている。だんだん肌寒くなってきた。
もうすぐ日が暮れる。
のどかな山。
見渡す限り畑。
ぽつりぽつりと民家が見える。
沈む夕日をぼんやりと眺めていると、がちゃりと具足が鳴る音がした。
音がした方に顔を向ける。
それが誰なのかわかると、ぼくはすぐに姿勢を正した。
「孟徳のおじ上!」
おじ上は整った白い顔をぼくに向け、笑った。
「何をしていた」
「夕日を眺めておりました」
「暁雲と安は、まだ戻らぬか」
言っておじ上は、まぶしそうに目を細める。
「はい、それらしき騎影はまだ見えませぬ」
ぼくも再び、夕日が沈む山並に目を移した。
二人並んで、夕日を眺めていた。
おじ上も、ぼくも、無言だ。
漢中はほんとうにのどかな土地だ。
ここが、「漢」の名前の由来になったとは。
この目で見て、この身を置いて肌で感じて、ぼくは理屈でなくそのことを実感する。
漢の高祖劉邦は、「袋のような男」だったらしい。
「袋」とは、さまざまな人材を大きく受け入れる度量のたとえだ。
少し抜けているけれど、その分彼の周りには有能な人材が集まり、結果として彼は項羽を破り、中原を平らげた。
今、もし劉邦がぼくたちを眺めていたら、どんな風に思うだろう。
ぼくは会ったことがないけれど、今の帝は、この漢を、どうとらえているのだろう。
そしておじ上は、これからどうしていきたいのだろう。
今、おじ上は魏公に昇り、列侯・太守・国相を独断で任命する権限を認められている。
公の上は、王だ。
これまでの歴史から言うと、王は、帝の一族がなる。その王朝が続いているあいだは、次の帝は王たちの中から選ばれる。帝の息子など身内は、王に封ぜられるからだ。
「飛将」
「はい」
「何を考えている」
「おじ上のことを考えておりました」
おじ上は魏公だけれど、丞相の務めも続けておこなっている。漢に関することのほとんどは、おじ上が決める立場にあるということだ。
丞相は厳しい務めだ。失敗も許されない。
何千万人もの命が、そしてこの漢の行く末が、おじ上の肩にかかっている。
帝を背にして、おじ上は、各地の群雄と、戦っている。
楽しそうな笑い声が降ってきた。
「おれのことを?」
「ええ」
「それは光栄だな」
「おじ上は、すごいなと」
「何がすごい。おれはただの官吏に過ぎぬ」
「魏公でしょう。官吏ではありません」
「丞相の務めも続けている。官吏だ」
「魏公になられたのには、わけがあるのですか」
「公仁がしつこく勧めてきたからだ。これまでにたてた功績に見合った位につけと。一族や家臣たちにまで、賛同せよと働きかけた」
公仁どの。姓は董、名は昭。
建安元年(196)、帝は洛陽に帰りついた。けれどそばにいた臣下たちは互いに争っていた。徐将軍のもとの主君である楊奉に、おじ上と手を結ぶよう手紙を書いたのが、公仁どのだ。おじ上は楊奉たちの上奏で鎮東将軍にとりたてられ、それが帝をいただくことにつながった。
「国をもてと言うのだ。自らの盾となるような地盤をもてと。公になれば領国をもつことになる」
「おじ上の国……」
とほうもないことに、ぼくには思える。
おじ上は日が沈んだ西の空を見ている。
「おれは国などいらぬ。こうして甲冑をつけ、おまえたちと戦場に立っている方がまだましだ」
「公というお立場は、お辛いですか」
「前よりも敵は増えたように感じる」
「帝とは、お会いになったり、お言葉を交わしたりするのですか」
「する」
「帝から、公に封ぜられたのですよね」
「公仁たちの上奏に、うんと言っただけだ。ここだけの話、帝はおれがいなければいいと思っている。現におれは何度か殺されかけた」
その話はぼくも聞いたことがある。
確かに今、漢のほとんどすべてを決めているのはおじ上だ。本来なら帝がやるべき務めをおじ上がしている。
ぼくは思い切って聞いてみた。
「帝は、おじ上が今なさっている務めを、ご自分でなさりたいとお考えなのですか」
おじ上はぼくを見ると、口元をゆるめた。
「そのわりには務めについての話を避けているようにおれには見える」
「では、おじ上を殺そうとしたのは、帝だけではなく、帝の臣下もということなのですか」
「ああ」
整った顔からほほえみが消える。
「おれは漢中を押さえたあと、朝臣とも戦わねばならなくなった」
ぼくは背筋が凍る思いがした。
朝廷の臣たちと戦う。
それは戦場で血を流す戦よりもやりにくく、その上厳しいものになると直感したからだ。
おじ上は低い声でつぶやいた。
「李氏が生きていた頃は、それでも耐えられた」
李氏。暁雲のお母さんだ。黄巾賊に家族を殺された彼女をおじ上が助けて、侍女としたのだという。数えで十八歳の時に暁雲を産んでいる。
おじ上はほんとうに彼女のことが好きだったと、暁雲と暮らしたおじ上の間者の白さん夫婦からぼくは聞いた。
「確か、暁雲が数えで十四歳の時に亡くなったのですよね」
「許昌で流行り病があった年だ」
「どんな女性だったのですか」
おじ上は、星がきらめき始めた藍色の空を見上げた。
「かわいらしい、優しい女の子だった。おとなの女になっても変わることはなかった」
「暁雲も優しいですよね」
「幸いそれは今のところ、あれの命取りにはなっておらぬようだ」
「ぼくは何度も助けてもらっています」
「いい男になった」
「そう思います」
「飛将、おまえもな」
ぼくはものすごい速さでおじ上をあおぎ見た。
おじ上は穏やかにほほえんでいる。
「ほんとうですか」
「こういう時、おれは嘘は言わぬ」
「う――嬉しいです」
おじ上がぼくの肩に手を乗せた。
「おじ上」
「何だ」
「今、おじ上には、暁雲のお母さんのような方がいらっしゃるのですか」
おじ上は答えず、暗闇をじっと見つめている。
その整った横顔は、切れ長の目は、今そばにいない誰かを思い出しているように見えた。
だからぼくはそれ以上、聞かなかった。
翌日。
暁雲と安が戻ってきた。
ぼくは城の階段を可能な限り速く駆け降りる。
暁雲はぼくを見るなり、笑った。
「よく転がらなかったな」
「お帰りなさい」
ぼくたちはお互いを抱きしめる。
安ともぼくは抱き合った。
「無事でよかった」
「お待たせいたしました」
暁雲と安はおじ上たちに報告した。
安が言う。
「劉備が張飛を巴中に派遣いたしました」
暁雲が言葉を継ぐ。
「漢中までは攻め込まぬようですが、戦が起こりそうです」
孟徳のおじ上はそれを聞くや、決断した。
「妙才、儁乂」
「はっ」
呼ばれた二人が列から出た。おじ上に向き直る。
おじ上は命じた。
「漢中に残れ。この地の盾となるのだ」
「承知いたしました」
妙才のおじ上と張将軍が声を揃えて拱手した。
ぼくたちが南鄭から鄴をめざして出立したのは、建安二十年(215)十二月のことだった。
ぼくたちが鄴に帰りついたのは、建安二十一年(216)の二月のことだった。
漢中から鄴に着くまで、約三ヶ月かかっている。
ぼくがする話を読んでくれている君が生きている時代なら、移動するのにこんなに日数はかからないよね。
でも、考えてみて。
ぼくたちの暮らすこの中華の地の面積は、君たちの多くが住む日本の約二十六倍ある。
移動するのに使えるのは、馬だ。
あとは、歩き。
馬や人が一日に進むことができる距離には限りがあるし、移動するぼくたちや馬だって、食べたり寝たりしないと体がもたないでしょ?
父上と元譲のおじ上は孟徳のおじ上について鄴に残ることになったのだけれど、父上はいったん許昌の邸に戻りたいと願い出て許された。
わけを聞いたぼくたちに、父上は重苦しい声音で答えた。
「母上の容態が、思わしくないのだ」
ぼくと暁雲は言葉を失った。
ぼくは言葉をしぼり出した。
「どういうことなのですか、父上」
「張魯征討に発つ前、急に体を壊した。おれは残ると言ったのだが、おまえたちを迎えに行ってやってくれと、送り出してくれたのだ」
暁雲がやっと口をひらいた。
「では、父上がご不在のあいだは、祥が母上をみていたのですか」
「そうだ。祥に任せた。病人のことはおれより詳しい」
ぼくの四歳下の妹、祥は、幼い頃から病気がちだ。病人の扱いや薬のことなど、確かにぼくたちよりは詳しい。
これを読んでくれている君たちが生きている時代よりも、生きることは難しい。赤ちゃんがおとなになることもね。まして病気を治すことはなおさらだ。
だからぼくたちは母上に会うために、馬を全速力で駆けさせた。
「お帰りなさいませ。張魯の征討がかないましたこと、お喜び申し上げます」
祥は言って、深々と一礼した。
数えで十八歳。病気がちなので、ぼくや暁雲に負けないくらいよく食べるのだけれど、やせていて、肉づきも薄かった。
それでも今目の前にいる彼女の体は、わずかにふっくらとして、おとなの女性に近づきつつある。黒目がちできっぱりとした目鼻立ちは、兄のぼくが言うのも何だけれど、品があって美しい。
父上はそんな祥に、優しく言葉をかけた。
「母上の看病、ありがとう。よくおれたちの留守を守ってくれた。礼を言う」
祥は得意そうにほほえみ、薄い胸をそらした。
「父上に褒めていただけるとは嬉しい限りです。わたくしは曹子廉の娘、そう思えばどのような事態にも対処できました」
相変わらず生意気だ。
ぼくは祥の前に体を押し出した。
「母上は今どんな様子なんだ」
祥はにこりと笑う。
「兄さまたちをお待ちかねです」
父上、ぼく、暁雲は、具足をがちゃがちゃと鳴らして母上が寝ている部屋へ急いだ。
あとから祥が文句を言いながら走ってくる。
「父上、兄さまたち、速い! わたくし、追いつけません!」
別に追いつかなくてもいいじゃないか。
「梁氏!」
「母上!」
父上とぼくたちは大声で言って扉を開けた。
母上は、寝台の上にいた。上体を起こしている。
びっくりするほどやせていた。でも顔色はいつもと変わらなかった。
母上は穏やかにほほえみ、ぼくたちを拱手で迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。このようなところから失礼いたします。ご無事で何よりです。遠路お疲れの出たことでしょう」
父上が母上の肩に手を添えた。
「寝ていろ。無理をするな」
母上は明るい声で言った。
「ありがとうございます。今日はだいぶ調子がよいので、ご心配には及びませぬ」
ぼくと暁雲は母上のそばへ行き、ひざをついた。
ぼくは母上を見上げる。
暁雲は目に涙をいっぱいにためている。
母上はいつもと同じ、かわいらしい笑顔を見せてくれた。手を伸ばし、ぼくと暁雲の肩に触れる。
「たくましい男になりましたね。二人とも、父上そっくり」
ぼくも、暁雲も、不覚にも涙をこぼしてしまった。
母上が寝台から降りた。そのままぼくたちを胸に抱いてくれる。
ぼくたちも母上を抱き返した。
母上の体は薄くなっていた。
暁雲のことが心配になった。産んで育ててくれた実のお母さんの李氏に続き、今の母上まで亡くすことになったら、彼の胸は悲しみに引き裂かれてしまうのではないだろうか。もしそうなったら、ぼくに何ができるというのだろう。彼を支え、励ますことが、ぼくにはできるのだろうか?
抱擁を解くと、母上は真面目な顔つきになって祥を呼んだ。
「荀家の話は、しましたか」
ぼくたちが振り返ると、祥がいた。
祥は、眉間にしわを寄せ、頭を横に振る。
「まだしておりません、母上」
荀家。
ぼくたちが知っている荀家の人は、孟徳のおじ上の軍師である荀文若どのと、その年上の甥である荀公達どのだ。
母上は祥をかたわらに呼び寄せ、居ずまいを正した。
「実は先日、荀家から、文若さまのご子息に祥をめあわせたいという申し出がありました。子廉さまには公からお話があったとその時わたくしは伺いましたが、お聞きになりましたか」
父上が難しい顔つきになる。
「聞いている。しかし文若どのは、亡くなられた」
「えっ」
ぼくと暁雲は思わず口にしてしまった。
文若どのが、亡くなった?
暁雲が帰ってきてから初めて言葉を発した。
「いつなのですか、父上?」
父上は暁雲を見て、すぐに答えた。
「建安十七年(212)だ。孫権征伐の途上だった。文若どのは病を得て寿春に残り、そこで亡くなった」
ぼくたちが漢中に忍んでいた頃だ。
ぼくは文若どのと直接話したことはない。けれども彼が孟徳のおじ上を支えていたことは聞いている。
それにしても唐突な話だ。
なぜ、ぼくの妹なのだろう。
ぼくの、ということは、曹氏の、ということで、つまり曹氏の女を荀家に嫁がせるということなのだ。
そんな大事な縁談を、なぜ父上が許昌を離れているあいだに、もってきたのだろうか?
祥の表情は硬い。下を向き、歯を噛みしめている。
母上が父上に、深刻な顔を向けた。
「文若どのについては、さまざまな噂をわたくしは耳にしております。それが真実かどうかわかりませぬし、確かめようもありませぬ」
父上は口を引き結んで目線を下げる。
ぼくは察した。きっと、よくない話なのだ。
暁雲を見る。彼は、きっ、と顔を上げた。
「父上。確か公はお嬢様を文若どののご長男に嫁がせておられます。その上我らの妹まで嫁がせるということは、何か重大な問題があったのではないでしょうか」
父上はゆっくりと顔を上げた。
「暁雲の言うことは合っている。実は文若どのが、公仁どのが孟徳兄を魏公に立てる発議をした際、そのようなことはよろしくないと言ったのをおれはその場で聞いている」
公仁どのの姓名は董昭。前にも話したね。
「孟徳兄はその時、公になるつもりはないと言った。それが本心であることは、おれも元譲兄もいつも聞いているから知っている。文若どのはそれ以上何も言わなかった」
もしかしたらそれが、祥の縁談につながっているのかもしれないと、ぼくは直感した。
また、ぼくたちよりもずっと未来を生きている君に話そう。
君たちが生きている時代では、結婚は基本、結婚しようとする二人の意志でするものだ。
けれどもぼくたちが生きるこの後漢末は、誰と結婚するかはお互いの親が決める。そこにぼくたちの意志はない。
ぼくの母上は前の嫁ぎ先を、子供を授からないという理由で離縁されている。ぼくたちが生きる世の中では、家を存続させることが何よりも優先される。だから女性は、後継ぎになれる子供を産めないと、離縁されることも多かった。
そんなことを考えていると、祥が言った。
「荀家の方には、はっきりと、わたくしから申し上げました。わたくしは病弱で、子供の頃から、おとなになれないかもしれない、子供を授からないかもしれないと言われてきたと。ところが、荀家のご子息の奉倩さまはわたくしをご覧になり、もうその場で、そのようなことはいっこうにかまわないからぜひとも嫁として迎えたいとおっしゃいました」
「奉倩?」
ぼくが首をかしげると、暁雲が教えてくれた。
「文若どのの五番目のご子息だ。奉倩はあざなで、名は、粲。だけど――」
暁雲が、ひとつ、息を吐く。
ぼくは彼の顔をのぞき込んだ。
「だけど、何?」
それを聞いていた父上が、暁雲と同じようにため息をついてから、ぼくに言った。
「奉倩どのは、祥よりも、五歳下なのだ」
ぼくは祥を見た。
母上は、苦笑い。
祥は、げんなりしている。
「とにかく、うるさい男の子なのです。頭がとても良いらしくて、本もたくさん読んでいるのですって。わたくしにいろいろ話しかけてきたのだけれど、聞くだけでくたびれ果ててしまいました」
祥がもしほんとうに嫁ぐとなればその、賢いけれどもうるさい男の子は、ぼくの義理の弟になる。
もうこの縁談は、決まってしまうのだろう。おそらく祥がおとなになれたなら、その男の子に嫁ぐのだろう。
ぼくは、祥がどんな気持ちでいるのかをどうしても知りたかった。だから聞いた。
「祥。おまえは、それでいいの?」
祥はぼくを正面から見据えた。
その顔は凛々しくて、まるで、武官のようなおもむきがあった。
祥は答えた。
「もともとは公と、文若どののあいだに端を発することのようです。わたくしが嫁ぐことで収まるならば、わたくしは嫁ぎます」
ぼくは理解した。
祥も、ぼくや暁雲と同じなのだ。
ぼくと暁雲も、孟徳のおじ上に対してする返事は、「はい」か「やります」の二つしかない。
結婚は、戦いなのだろう。祥にとっての。
祥は、やれやれといった感じで笑った。
「奉倩どのに、『ねえさま』と呼ばれてしまいました。ひまを見て、また遊びに参りますとも。うるさくなりそうです」
ぼくたちの家族にこんなできごとがあったこの年の五月、孟徳のおじ上は魏王となった。
同じ年の冬から、翌年、建安二十二年(217)春にかけて、孟徳のおじ上はまた、孫権征討を行った。戦場となったのは、濡須だった。孫権は退却し、元譲のおじ上、子孝のおじ上、張文遠将軍を居巣に駐屯させて、おじ上は引き揚げた。
劉備が再び兵を動かしたという知らせが入ったのは、建安二十二年の暮れも押し迫った頃だった。
そして孟徳のおじ上を狙う陰謀を企てる者たちが現れたのも、同じ頃だった。
ぼくは、勇気を出して部屋に入った。
建安二十二年(217)年の暮れ。
ぼくはこれから初めて、女性を抱く、のだ。
以前君に、ぼくの妹、曹祥の縁談の話を聞いてもらったね。
実はぼくにも、縁談が舞い込むようになっていた。もちろん、暁雲にもだ。
でもぼくは、まだ、女性との経験がない。
暁雲は、ある。間者だったからだ。相手と寝て情報を探ることもあるから、男と女、両方の相手ができるようになれと、間者仲間に手ほどきしてもらったとぼくに話してくれた。
今、ぼくは、許昌にある娼館にいる。
ただの娼館ではない。
ここを切り盛りしているのは、暁雲の間者仲間で、彼の初めての女となった、蘇だ。
暁雲はぼくに言った。
「おれの大事な弟が、初めて女を抱くんだ。それ相応の女であった方がいい」
つまり、信頼のおけるところの女を、ぼくに紹介したい、ということなのだろう。
蘇は、ぼくが考えていたような人ではなかった。
もっと、だらしがなくて、ずる賢そうな人を想像していた。けれどもぼくの目の前に現れた蘇は、むしろ清潔で、素朴で、親しみやすい容姿をしていた。
「初めまして、飛将さま。蘇と申します」
声は、女性としては低い方だとぼくは感じた。
ぼくも丁重に挨拶を返す。
暁雲が改めて蘇に確認する。
「前にも話したけど、飛将は初めてなんだ」
蘇がにこりと笑う。
「任せておきな。優しい、しっとりとした子を選んだよ」
蘇はぼくにも飾り気のない笑顔を向ける。
「飛将さまのような方が弟になってくだすって、李はほんとうに幸せ者です。李は、あたしの息子や娘たちのことをいつも気にかけてくれていたんですよ。いい子をつけましたので、どうぞ安心なさって、行ってらっしゃいませ」
暁雲ならそうするだろう、とぼくは思った。お母さんが間者なら、子供たちもそうなるのだろうか。ぼくは蘇に聞いた。
蘇は、口元に笑みをのぼらせた。
「他の者は存じませんけれど、あたしの子供たちは皆、間者になりましたよ」
「そうなのですか?」
声を上げたぼくに蘇はうなずく。
「あたしには四人、子がおります。皆、父親は違いますけれどね。一番目と二番目は男で、戦場に出て物見などを引き受けております。死んだという知らせは聞いておりませんから、どこかで生きているのだと思います。三番目は女なので後宮に入り込み、今はいっとう、忙しくしておりますよ。四番目は男で今、数えで十二、あたしと一緒に働いて、間者の務めを学んでおります」
もしかしたらぼくたちは、蘇の子供たちと一緒に戦っていたのかもしれない。彼らの働きに助けられていたのかもしれない。
ぼくは、蘇の一人娘が後宮にいることがなぜか気にかかった。南鄭の城の上、沈んでゆく夕日を見ながら、孟徳のおじ上が話したことを思い出したからだ。
――ここだけの話、帝はおれがいなければいいと思っている。現におれは何度か殺されかけた。
――おれは漢中を押さえたあと、朝臣とも戦わねばならなくなった。
ぼくは蘇の目を見据えた。
「後宮での務めが一番忙しいというのは、朝廷で何かあったということなのですか」
蘇は暁雲と素早く目を見交わし、にやりと笑った。
「ご明察です。李、飛将さまはさすがだね」
「そうだろう?」
褒められてる? 嬉しいな。でも孟徳のおじ上が心配だ。
蘇が急に真面目な顔になる。
「以前に伏皇后の件がございましたが、ご存じでいらっしゃいますか」
「はい。確かぼくと暁雲が劉備のもとで蜀を攻めていた年に、廃位されて亡くなった」
建安十九年(214)十一月のことだ。
蘇が声をひそめた。
「董承が王を除こうとして、逆に処刑されたことがあったのです。そのことで帝が王を恨んでいるという手紙をお父上に送ったことが発覚して。ご一族も皆処刑されました」
おじ上の娘さんが皇后となったのは建安二十年(215)正月だ。この年の三月、おじ上は張魯の討伐に出発した。
ぼくは胸騒ぎを覚えた。
もし、そのことを恨む朝臣が、まだいるとしたら?
おじ上などいなければいいと考える朝臣が、またおじ上を除こうとしたら?
こんな時に相談したい父上は今、鄴にいる。
おじ上を守るためだ。
しかし、おじ上の身辺をいつも守っているのは許将軍だ。けれど、なぜかおじ上は父上もそばに置いている。
「馥、どうした?」
暁雲が、難しい顔になって考え込んだぼくをのぞき込む。
ぼくは顔を上げ、思い切って言った。
「おじ上が話していたことを思い出したんだ。帝はおれがいなければいいと思っているって。朝臣とも戦わなければならなくなったって」
暁雲は真剣に聞いてくれている。
「朝臣だよ。戦えば確実にぼくたちが勝てる。でも彼らは帝を背負っている。まだ彼らに味方する人たちも多い。どうやっておじ上を守るのか、わからなくなったんだ。父上も今は許昌にいないし」
焦るぼくの背中を、笑って暁雲は優しく叩く。
「そのために蘇の娘がひそんでいるのさ」
「うちの娘だけじゃないよ」
ぼくと暁雲は揃って蘇を見た。
蘇は意味ありげに笑う。
「謝もいるよ」
「謝が?」
暁雲が目をみひらいて大声を出した。
「知ってるの、暁雲?」
暁雲の、おじ上によく似た整った顔が、みるみるうちに赤くなる。下を向いて、両手の拳を握りしめる。
え?
ぼくはもう一度暁雲に視線を戻す。
こうなるってことは、もしかして?
蘇が、あれまあ、恥ずかしがりやさんだねえ、という目つきで暁雲を見て、ぼくに言った。
「あたしたちの仲間ですよ。李とは、仲が良かった」
「初恋の人?」
ぼくが思わず言うと、暁雲に背中をいきなりひっぱたかれた。痛い!
「そっ、そんな、そんなのじゃ、ないっ」
暁雲が照れている!
ぼくは吹き出した。
暁雲は蘇を睨む。ここからは暁雲と蘇とのやり取り。
「余計なことを言うなっ」
「仲が良かったのはほんとだろ」
「会ったり、話したり、一緒にいたり、してただけだっ」
「だからそういうのを『仲が良かった』って言うんだよ」
「謝といたのは、一年だけだったっ」
「それからも文のやり取りはしてたじゃないか」
「文を書いて、あったことをお互いに送りあっていただけだっ」
「単なる仲間にそこまでしないだろ」
「それで謝は今、どこにいるんだよっ」
「後宮だよ。さっき言った」
「会いに行けないじゃないかっ」
「会いたいのかい?」
暁雲は両手で顔を覆った。
蘇は、ぼくを送り出した。
「行ってらっしゃいませ」
ぼくは、まだ照れている暁雲を残して、案内してくれる女の子について行った。
蘇が言った通りの女性が、ほほえみながらぼくを待っていた。
彼女が深々と一礼するのを背に、ぼくは部屋を出た。
人の肌は、温かい。改めてぼくは思う。
子供の頃、母上に抱きしめてもらったことを思い出した。
誰かを抱く。
好きになった誰かを。
家のために夫婦になった誰かを。
ぼくにはまだ、よくわからない。
君は、誰かを好きになったことがある?
ぼくはまだ、誰かを好きになったことはない。
最初に来た部屋に戻った。
蘇がにこやかに言う。
「お帰りなさいませ」
暁雲はというと、やっぱりまだ頬が赤い。居心地悪そうに目線を落とし、口を引き結んでいる。
彼がそうする理由にぼくは気づいた。
この部屋に、女性が二人、増えている。
まず、蘇のそばに腰かけた彼女が、明るく弾んだ声で言う。
「こんにちは! 初めまして! 蘇の娘です!」
ぼくはその勢いに、二、三歩下がる。
「ど、どうも、曹飛将と申します」
はちきれそうな体をぼくにまっすぐ向け、彼女は元気よく一礼した。
「李がお世話になっております! あたしたちの兄貴分ですので、今後ともよしなにお願いいたします!」
言い終わり、にこっと笑う。
蘇が苦笑いする。
「やかましくて申し訳ございませんね。よく間者が務まっていると、母親ながらあきれておりますよ。後宮じゃあ黙ってなくちゃならないから、しゃべり出すと止まらないんですよ」
そして、と、蘇は、もう一人の女性に目を向けた。
小柄できゃしゃだけれど、凹凸のはっきりした体をきりっと伸ばして、彼女はぼくに名乗った。
「初めてお目にかかりまする。謝と申します」
ああ――彼女か。
暁雲の初恋の相手。
暁雲は彼女を見ることができないらしく、ずっと下を向いたままだ。顔は相変わらず、真っ赤。
謝は、表情を引き締めた。
「朝臣たちの話からわかったことをお伝えします。飛将さまと暁雲にです」
彼女の目が、きらりと光る。
暁雲もさすがに、いつも通りの落ち着いた彼に戻る。
謝は、言った。
「反乱の企てがあります。関わる者たちの名は、耿紀、韋晃、 金禕 、吉邈、吉穆」
部屋の中が一瞬で凍りつく。
暁雲が謝に鋭い目を据えた。
「どこを攻める」
謝も暁雲の目を受け止める。
「許昌」
「決行はいつだ」
「来年の正月十五夜」
ぼくは暁雲を見る。
暁雲もぼくを見る。
ぼくは言った。
「王に知らせよう」
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