第9話 暁雲の策、ぼくの策

 明るい月夜だ。

 妙才のおじ上と、張将軍が張った陣まで、あと少しで到着する。

 三千の兵を安にいったん預け、暁雲とぼくは妙才のおじ上が眠る陣に忍び込んだ。

「久しぶりだなあ」

 ぼくがつぶやくと、暁雲が優しい目つきで笑う。

「夏侯」の旗が左右に立つ幕舎は、月明かりのおかげですぐにわかった。

 おじ上はぐっすり眠っている。

 寝顔は、明るくておおらかな人柄そのものだ。

 ぼくが呼びかける。

「おじ上。おじ上」

 妙才のおじ上は、ようやく目を覚ました。

 ぼくたちの顔を見る。

 とたんに、がばっと起き上がった。

 その顔は、血の気が引いて真っ青だ。

「もっ、孟徳兄?」

「違います。曹震です」

「へっ?」

 ぼくは思わず笑ってしまった。

「お久しぶりです、妙才のおじ上。ぼくです、馥ですよ」

 おじ上はまじまじとぼくたちを見て、はーっと息をついた。

「びっくりさせるなよ!」

 暁雲が真面目な顔つきで詫びた。

「申し訳ございません。将軍がたに急ぎお伝えしたいことがあるのです」

「おまえたち、漢中にひそんでいたのではなかったのか」

「おっしゃる通りです。公のご命令により、劉備が蜀を攻略する一部始終を見て参りました。それがしらは劉備の家来になりすましておりました。それゆえ馥は、雒の城を落とすのに一役買いました」

「ほほう?」

「なかなかの武者ぶりでございました」

 ぼくは驚いて暁雲を見た。

「暁雲、ぼくを褒めてくれたの?」

「当たり前だろ」

 暁雲はほほえんでくれた。

 妙才のおじ上は身を乗り出した。

「それで暁雲、おまえはどんなことをしたのだ」

 居住まいを正し、暁雲は言った。

「実は夏侯将軍、今夜張魯がここに夜討ちをかけます。それをお伝えしに参上いたしました」

「なにっ」

 妙才のおじ上の目を見据え、暁雲は声を低くする。

「夏侯将軍。もしこのまま夜襲に遭いましたならば、公のお怒りは大変なものでしょう」

 暁雲は、孟徳のおじ上に顔も声もそっくりだ。その顔で眉目をつり上げ、妙才のおじ上を大声で怒鳴りつけた。

「妙才! 『遠路の疲れ勢は陣の夜討ちに用心』という、兵法すら知らんのか!」

 妙才のおじ上は真っ青になって震え上がった。

「ひいいっ、もっ、孟徳兄っ、許してくれっ」

 ぼくも身の毛がよだつ。

 だって、そっくりなんだもの。

 暁雲は表情と口調を改める。

「そうならぬよう、それがしらが参ったのです」

 妙才のおじ上は目をしばたたいた。

「では、どうするつもりなのだ」

 不敵に笑い、暁雲は言った。

「夜襲をかける兵はすべて、洛陽より東から漢中へ来た者たちでございます」

「なんと!」

「公の間者、安に頼んで、張魯について来たはいいが故郷に帰りたがっている者を集めてもらったのです。そしてそれがしは彼らが『故郷に帰りたい』と言うようにしむけました。そのような願いを口にする持つ者がいれば、他の者も帰りたいと思うもの。それがしが率いてこちらへ参りますから、将軍がたはそやつらを取り囲み、公へ投降せよと促していただきたいのです」

「では、その兵らを全員、公の軍に入れるということなのだな」

「はい。どうぞ夏侯将軍と張将軍の手柄となさってくださいませ」

「いや。それはできぬ」

 妙才のおじ上は明るく笑った。

「これは暁雲、おまえの策だ。おまえの手柄だ。公にはおれから申し上げておく」

「光栄です、夏侯将軍」

 暁雲は拱手し、深く礼をした。


 妙才のおじ上は張将軍にも暁雲の策を伝えた。

 張将軍も乗ってくれた。

「では、そやつらが攻め寄せたところを一網打尽にすればよいわけですな」

 妙才のおじ上は大きくうなずく。

「暁雲と飛将、それに安がつれて来てくれます。我らはここでかがり火をすべて消し、寝入っているように見せかけ、待ち構えておればよい」

「なるほど。心得ました」

 妙才のおじ上は、ぼくたちに向かってにやりと笑った。

「暁雲も飛将も、一皮むけたな」

 ぼくたちも、同じように笑った。


 明るい月夜の下。

 暁雲は三千の騎兵に号令をかけた。

「進軍!」

 騎兵が駆ける。

 寝静まった――ふりをする妙才のおじ上と張将軍の陣に突進する。

 あと少しで幕舎に迫る、その時。

 出陣太鼓がどろどろと鳴り渡った。

 一斉に鬨の声が上がる。

 次々とかがり火がつく。

 そこに浮かび上がったのは、歩兵の列。

 その後ろに、騎兵の列。

 真ん中に立つのは、妙才のおじ上。

 隣に立つのは、張将軍。

 妙才のおじ上が、にいっと笑い、大音声を上げた。

「取り囲め!」

 歩兵が走る。

 騎兵が回り込む。

 ぼく、暁雲、安は、妙才のおじ上と張将軍の陣めがけてまっしぐらに駆け込む。

 続く三千の騎兵は、歩兵たちが作る壁に行く手を阻まれた。

 その背後も、騎兵たちがふさぐ。

 張将軍が三千の騎兵に申し渡した。

「お主ら、降伏いたせ! さすれば故郷につれ帰ってやるぞ!」

 洛陽より東から漢中へ来て、故郷に帰りたいと願っている彼らは、次々と馬から下り、武器を捨て、ひざまずいた。


 夜が明けた。

 孟徳のおじ上たちが到着した。

 妙才のおじ上、張将軍、暁雲、安、ぼくは、ひざまずいて迎える。

 孟徳のおじ上たちの軍勢は、暗い色合いの甲冑に身を固めていた。馬の体も暗い色をしたものばかりだ。

 久しぶりに見る孟徳のおじ上は、暗い色の甲冑の上から、暗い血の色をした袍を着けていた。

 馬から下り、ぼくたちの前に来る。

「飛将。暁雲」

「はっ」

 ぼくたちは同時に答えた。

「顔を上げい」

 仰ぎ見た。

 ぼくはくぎづけになった。

 端整な顔立ちに、凄みが増した。もともと背が高いのだけど、さらに大きく見える。

 おっと、見とれている場合じゃない。

 おじ上が魏公に任じられたことを、安から聞いてぼくたちは知った。

 まずはそれをお祝いしなくては。

「魏公に昇られましたこと、お祝い申し上げます」

 暁雲も言う。

「心よりお慶び申し上げます」

 おじ上は、満足そうに笑った。

「ひよっこが、立派な鶏になったな」

 以前、許将軍とおじ上は馬超から逃げて渭水を渡り終えた時、ぼくたちについて語り合っている。

 ――おまえが死んだら、誰が余を守るのだ!

 ――大勢おりましょう! それがしの代わりは!

 そう言って許将軍はぼくたちを指差した。

 明るく笑っておじ上は言った。

 ――まだ、ひよっこだ。

 ――育てば、元気な鶏になりますぞ。

 ぼくたちはまたひれ伏す。

 そこへもう一人、足音が近づいてきた。

「馥。暁雲」

 この声は。

 ぼくたちは顔を上げる。

 父上だった。

 前よりも表情が明るい。生き生きしている。

 父上は膝をついた。

 その腕が、ぼくと暁雲を抱きしめる。

 甲冑ごしだけれど、父上の体の温かさが伝わってきた。

「よく帰ってきてくれた」

 久しぶりに聞く、父上の声。

 体の奥底から熱いものがこみ上げる。

 ぼくは父上に抱きついた。

「会いたかったです、父上」

 暁雲がぼくと父上を固く抱く。

「父上、ただ今戻って参りました」

 ふと見上げると、孟徳のおじ上がぼくたちを、いとおしそうに見つめていた。



 官渡の戦いを、君は知っているだろうか。

 あの戦いも、おじ上たちは苦戦した。

 その時の敵は袁紹。

 糧食は尽きそうだった。

 将も兵も、疲れきっている。

「おまえたちに苦労はかけぬ」とおじ上は言い、袁紹のもとへ穀物を運ぶ淳于瓊を自ら五千の歩兵騎兵を率いて襲った。

 果たしておじ上は淳于瓊を打ち破った。

 張将軍――儁乂どのが降伏してきたのもこの頃だ。

 その時におじ上が留守を任せたのが、ぼくの父上だ。

 おじ上はそれだけ、父上を信頼していたということだと、その話を聞いてぼくは思った。

 今回も官渡の時と同じくらい、ぼくたちは苦戦している。

 ここは漢中。

 漢中は、のどかな場所だ。

 見渡す限り畑、畑、畑。

 遠くに山が見える。

 今、戦をしているなんて、思えないくらいだ。

 でもそんな場所に陽平関はある。

 孟徳のおじ上は張魯を討つため、けわしい山を乗り越えてここ漢中へやって来た。

 張魯は戦うつもりはないらしい。

 暁雲と安が集めた、洛陽より東から来た兵たちが口々にそう話した。

 けれど、その弟張衛は、違った。

 孟徳のおじ上にあらがうつもりだ。

 だから陽平関に、張衛たちはたてこもったのだ。

 陽平関。

 山から山へ渡すように築かれた城だ。

 孟徳のおじ上が率いてきたのは、父上、元譲のおじ上、妙才のおじ上、張将軍、許将軍、徐将軍。おじ上がどれだけ本気かわかる。

 率いてきた軍勢は、十万。

 山城は、つらなっている上に、ぼくたちが攻めてもなかなか抵抗をやめない。

 山の上にあるので、ぼくたちが得意とする騎馬での攻撃も通じない。

 孟徳のおじ上は、まさかこれほど攻めにくいとは考えていなかったらしい。

 皆の前では顔色ひとつ変えず気丈に振る舞っていたけれど、ぼくや暁雲、それに父上の前では、その顔を曇らせた。

「ここへ来るまでのあいだに、降伏した者たちから聞いた話とまったく違う」

 まさかその者たちは、張魯を攻めるのは容易ですなどと言ったのではないか。

 父上もうなずく。

「確かにあやつらは、張魯は陽平を守りきることはできないと申していましたね」

 なんだ、思った通りじゃないか。

 おじ上は、ひとつ深いため息をついた。

「おのれの目で見たものと、他人の目が見たものは、必ずしも同じではない」

 父上は何か言いたそうだった。唇を動かす前に、ちらとぼくたちを見る。

 あれ?

 ぼくは、何とも言えない気持ちになった。

 まさか父上は、おじ上と二人きりになりたいのではないだろうか?

 確かにぼくは赤壁で聞いた。父上が何かにずっと悩んでいたことを。それが何かはぼくにはわからない。

 でも、ぼくと、おじ上の身代わりを務めた暁雲、程軍師や許将軍と南郡の城に戻ったあとは、その悩みごとはなくなった。父上はそう話していた。

 父上はおじ上のそばにいて、――もっともそれはおじ上と先に逃げたからだけれど――その表情はやわらかく、どこか、やっと安心できたとでも言いたそうなものだった。

 父上の長年の悩みごとは、孟徳のおじ上と何か、関係があるのだろうか?

 考えていると暁雲が急に言った。

「それがしらは見回りに行って参ります」

 あ。

 これは、退散しようということだな。

 ぼくも続けて口をひらいた。

「父上、先に戻っております」

 父上はそれを聞き、ほっとしたような顔になった。

「すまない、二人とも」

 ぼくたちは一礼した。

「明日もまた、頼むぞ」

 おじ上の表情も、穏やかだ。

 ぼくはこれ以上追及しないことにした。

 知らない方がよいこともあると、賈軍師とのやり取りからぼくは学んだからだ。

 外に出ると、鳴き声がした。

「鹿だ」

 ぼくが口にすると、暁雲が目を丸くする。

「よくわかるな」

「狩りの時にいつも聞いていたから」

「こんなに暗いのに」

「狩人に昼間追われるから、夜に動くようになったのかもしれない。そういう獣がいるって、聞いたことがある」

 鳴き声は、まだ聞こえる。

 ぼくたちが幕舎に着く頃、父上が追いついた。

「お帰りなさい」

 ぼくが言うと、父上は温かな目でほほえんだ。


 次の日の朝、おじ上はぼくたちに告げた。

「山上から奇襲をかける」

 歩兵だけでひそかに山を登り、背後から山城を狙うということだ。

 それでも、陽平関は、落ちなかった。

 怪我人も増えた。

 ぼくたちも山城の下から攻撃する。

 雒の城を攻めた時を思い出す。

 あの時のようにはいかないな。

 どうすればいいんだろう?

 どうすればこの城を、落とせるんだろう?


 張魯は動かない。

 張衛はあきらめない。

 孟徳のおじ上もさすがに言った。

「どうしてもこの地を取りたかった」

 ぼくと暁雲、それにおじ上だけでいる時だった。

 ぼくたちは、いっこうに落ちない陽平関を眺めている。

「この地が漢の由来になったことを知っているか」

 おじ上が低い声で言う。

 答えたのは暁雲だ。

「はい。高祖が漢王に封ぜられたので、国号も『漢』としたと聞いております」

 すごいなと、素直にぼくは思う。

 君は高祖を知っている?

 高祖とは、漢王朝を開いた劉邦のことだ。

 劉備と姓が同じでしょ? 劉は、漢の帝の姓でもあるんだ。

 おじ上は陽平関を見たまま言った。

「ここさえ押さえれば中原はひとまず治まると思うていたが、そう簡単ではないようだ。これ以上士卒を苦しめるわけにもいかぬ。今回は引き揚げよう」

 そこまで口にして、おじ上は何かに気づいた。

 その切れ長の目は、山城に止まったままだ。

「どういたしましたか、おじ上」

 尋ねるぼくにおじ上は、山城を見たまま答えた。

「誰もおらぬ」

 確かに、山城がいやに静かだ。

 暁雲が言った。

「見て参ります」

「頼む」

 おじ上に拱手したあとすぐにそばに置いた馬に乗り、走り去る。

 かがり火が燃える。

 ぼくとおじ上は待つ。

 暁雲が戻ってきた。

 息を弾ませたまま、ぼくたちに告げる。

「城には誰もおりませぬ」

「まことか」

「はい。城と山の間に陣を張っているようです」

「あくまでも城にいるのは、昼間の間だけということか」

「間違いないと存じます」

 遠くで鹿の鳴き声がした。

 その時、ぼくは、ひらめいた。

「おじ上」

「飛将、いかがいたした」

「張衛に勝てます」

「何だと?」

「鹿で襲うのです」

「詳しく聞かせてくれ」

 ぼくはひと息に言った。

「鹿を張衛の陣に向かって追いたてるのです。敵が乱れたところを攻めれば勝てるのではないかと思ったのです」

 おじ上は山を見た。

 鹿の鳴き声。

「やれるかもしれん」

 つぶやいた。

「飛将。この山にいる鹿を皆、追い出すのだな」

「その通りです」

「鹿は、臆病だ。必ず逃げる。だから走る」

「巻狩りの時に勢子が獣を追い立てるでしょう? それを今、やるのです」

「よし」

 おじ上はぼくたちに、ぎらりと光る目を向けた。

「元譲と仲康を呼べ」

 元譲のおじ上と許将軍が来た。

 孟徳のおじ上は言った。

「元譲、仲康。飛将を手伝ってやれ」

 ぼくが思いついた策を孟徳のおじ上が伝えた。

 許将軍が進み出る。

「わしは農家の出です。だからわかります。畑で麦や菜がとれない時は山に入って獣を狩りました。食わねば人は生きていかれない」

 おじ上たちは真剣に聞いている。

 許将軍は続けた。

「鹿は群れます。たいていは母鹿と子鹿です。一匹いれば他もいます。それに鹿は臆病です。何千人もで追い立てれば何千頭もの鹿が出てきます。飛将の策は当たります」

 孟徳のおじ上が、力強く笑った。その顔でぼくに命じた。

「飛将。おまえが指揮を執れ」

 ぼくは拱手し、大きな声で応じた。

「はっ!」

 孟徳のおじ上はぼくたちを見る。

「余はおまえたちが張衛の陣を襲うと同時に陽平関に兵を突入させる。張衛は逃がしてもよい。陽平関を落とせば我々の勝ちだ」

 その言葉でぼくは勇気が出た。

 ぼくは、目の前にいる、元譲のおじ上、許将軍、暁雲、武将や兵たちを見回した。

「皆で声を出して、鹿を追い立てます。追い立てる方向は、あの」

 指で示す。

「張衛の陣です」

 元譲のおじ上が言う。

「我々も山に登り、鹿と同時に山を降りる。攻撃するために。そうだな?」

「はい」

 勢子と言っても、やり方がわからない者もいる。

「ぼくがまず、やってみせます。皆、ぼくの真似をしてください」

 ぼくたちは山に入った。

 横一列に並び、ぼくは勢子が出す声を出す。

 皆、ぼくと同じように声を出す。

 鹿が、一頭、一頭、また一頭と、茂みから出る。

 ぼくたちは声を出しながら、山道を下る。

 鹿が駆け降りる。

 ぼくたちもじりじりと続く。

 ぼくたちが乗ってきた馬は、張衛の陣のすぐそばに待たせてある。

 追い立てられた鹿が、固まって、張衛の陣に駆け込む。

 ぼくたちはさらに声を出す。

 薄明かりに見えた。

 あれが張衛の陣。

 鹿が陣に吸い込まれるようだ。

 さかもぎに鹿がぶつかる。

 倒れる。壊れる。

 叫び声が聞こえる。

 山から降りたぼくたちは馬に乗った。

 ぼくは孟徳のおじ上からいただいた倚天の剣を抜いた。

 夜空に突き上げる。

 腹の底から声を張り上げた。

「突っ込め!」

 元譲のおじ上が、許将軍が、暁雲が、槍をもち、長柄の大刀をもち、雄叫びを上げて馬を走らせる。

 張衛たちは完全に不意を突かれた。

 見張りの兵はいるが、反撃すらできない。

 起きてきた将兵も、刀も弓も手に取ることができない。

 それでもぼくたちは張衛の陣を踏みにじった。

 同時に陽平関の方角で鬨の声が上がる。

 無人の城に次々と「曹」の旗が立つ。

 あたりは朝日で明るくなってきた。

 張衛は逃げた。

 陽平関を、ぼくたちは落とした。

「やったな」

 暁雲が笑ってぼくの肩に手を乗せる。

 ぼくも笑って、暁雲の手に自分の手を重ねた。



 ぼくたちは南鄭に入った。

 けれど、そこに張魯はいなかった。

 残っていた人たちに聞いてみると、巴中へ行ったらしい。

 静かだった。

 たくさんの蔵があった。

「ここに宝があるそうだ」

 孟徳のおじ上はその蔵を開けさせた。

「全部持って、逃げたのじゃないか」

 妙才のおじ上が腕組みしてぼやく。

 ところが、扉の向こうにあったのは、手つかずの宝だった。

「何だってえ」

 妙才のおじ上の大きな目は、今にも飛び出そうだ。

 他の蔵も全部開けさせた。

 どの蔵も、宝はそこにあった。

 案内してくれた人が孟徳のおじ上の前でかしこまる。

「師は、もともと漢に帰順したいと願っておりました。しかし、弟を陽平関に派遣してしまい、公の軍勢と戦わせてしまったことを心底悔やんでおりました。巴中へ逃亡したのは公と矛を交えないためです。公に対して悪意など、みじんも抱いてはございません。今ご覧いただいた、この手つかずの宝物貨財が何よりの証でございます。これらの宝物はすべて漢のものです。師はそのようにお伝えせよと言い置いてゆきました」

 ものすごい数の竹簡が車に載っている。

 ぼくがそれを見ていると、彼は説明を始めた。

「こちらが宝物貨財の目録でございます。また、師の軍の名簿、兵でない者の名簿も作成いたしております。どうぞお改めくださいませ」

 孟徳のおじ上は彼に向き直り、丁寧な口調で伝えた。

「あいわかった。張公祺どのに、曹孟徳がお会いしたいと申していると、お伝えいただきたい」

 公祺とは張魯のあざなだ。

 彼は深々とひれ伏した。

「承りました。早馬を差し向けまする」

 彼はすぐにそばにいたもう一人にこまごまと言いつけ始めた。もう一人は聞き終わると、その場から立ち去った。

 孟徳のおじ上は蔵の扉にすべて鍵をかけるよう命じた。

 そして漢中を治める準備を始めた。


 十一月、張魯は南鄭に来た。

 孟徳のおじ上の前に、五人の子と共にひざまずく。

 張魯は、つつましい衣服を着た、やせた男だった。孟徳のおじ上と年が近そうに見える。五斗米道の教祖と言われなければ気づかない。少なくともぼくにはそう見えた。

 おじ上は甲冑に身を包み、椅子に座っていた。

「あなたが、張公祺どのか」

「いかにもわたくしめが張魯でございます」

「宝物貨財の目録、兵や人民の名簿、すべて見させていただいた。宝物はすべて漢のものにと申されたが、そのお気持ちは今もお変わりないか」

 張魯はとつとつと語った。

「変わりありませぬ。わたくしは祖父や父がなしてきたことを受け継いだだけのこと。すべては天によりすでに決まっていたこと。わたくしの意思など最初から無いも同然です。わたくしは信徒から預かったものをそのまま保管いたしていただけに過ぎませぬ。人のものは漢のもの。公は漢の丞相、すなわち漢そのもの。どうぞお取りになってくださりませ」

 おじ上は間を置いた。

「余はあなたと、あなたのご子息がたを、列侯にとりたてようと考えている」

 張魯の目が、初めて少しだけ動いた。

 おじ上の切れ長の目に動きはない。

「では、帝に上奏なさいますので」

 張魯を見据え、おじ上は重々しく告げた。

「九月に余は帝から、独断で諸侯・太守・国相を任命することを許された」

 張魯はおじ上を、まじまじと見る。

 そうしてから、顔を下に向け、言った。

「――公は中原をはらい清め、なおも征討を続けておいでです。わたくしも早く公に従うべきでございました。わたくしの決断が遅かったために、多くの人が血を流しました」

「余も人民に苦労をかけたくはない。あなたと戦わずに済むのなら、それが最善であった」

 ぼくから見えるのは、おじ上の整った横顔と、張魯の固まった横顔だけだ。

 おじ上は張魯に切れ長の目を静かに向ける。

「余も、あなたと同じだ」

「どのあたりがでございましょう」

「漢のために、余は務めている。そこに余の意思は無い。公の位についたのも、家臣たちの要請によるもの。より漢の安寧に貢献し得る地位に就いただけのこと。あなたとあなたのご子息がたを列侯にとりたてるのも、それが漢にとって有益であるからだ。どうかお受けくだされ」

 張魯と五人の子たちは、深々とひれ伏した。


 事はそれだけで済む、はずだった。

 張衛はまだ、あきらめていなかった。

 張魯が説得の使者を送ったが、斬られたとの報告が入った。

 張衛だけではなかった。

 ぼくが以前馬超と戦った戦場で目にしたあの武将――龐徳も彼と共に、孟徳のおじ上に挑んできたのだ。


 ぼくたちは戦場に出た。

 漢中の気候はこんな時でも穏やかだ。

 龐徳は馬上ゆたかな体に甲冑をつけ、大声で呼ばわった。

「逆賊曹操、この龐令明が成敗してくれる」

 孟徳のおじ上は、そんなことは言われ慣れているとでも言いたげに、口の片端だけを上げて笑った。

 おじ上は馬を龐徳に向かってゆっくりと進ませた。

「兄上」

 父上が馬で追いつく。

 おじ上は父上に、心配するなと言うように優しくほほえんだ。

 父上はそこで馬を止めた。

 龐徳の姿がはっきりと見えるところまでおじ上は進み出た。

「出てきてやったぞ、龐令明。成敗してみせろ」

「おまえでは相手にならん。武芸に秀でた奴を出せ」

「大事な武将をおまえの遊びにつき合わせるわけにはゆかん。降伏せよ」

「わしは降伏などせぬ」

 おじ上が笑い声を上げる。

「では、おまえが負けたらどうする」

 龐徳はすぐに答えた。

「おまえの家臣になってやる」

 孟徳のおじ上はぼくたちの方へ戻ってきた。

 不敵な笑みを浮かべて、ぼくたちを見回す。

「聞いての通りだ。誰かあやつと遊んでやってもよいという者はおらぬか」

 父上が言った。

「何人かで相手してやりましょう。まずはそれがしが」

 徐将軍も賛同する。

「拙者も参ります」

 許将軍もうなずく。

「最後にわしが出ましょう」

 孟徳のおじ上は面白そうに笑ったままだ。

「あやつの武勇は張魯から聞いている。病のため、馬超に同行できなかったそうだ。その馬超は劉備に投降した。龐徳も劉備に投降するやもしれん。あれだけの剛の者、劉備にくれてやることはない。うちで引き取ってやらないか」

 元譲のおじ上がやれやれといった感じで笑う。

「そういうわけだから、子廉、公明、仲康、負けるなよ」

「わかっております」

 三人とも口を揃えた。

 まず父上が長柄の大刀を振るって打ち合った。

 なかなかいい勝負だ。

 やっぱり父上は強いな。

 次に徐将軍が大斧を振りかざして挑んだ。

 何度も打たれそうになる。

 龐徳の動きが鈍くなった。

 許将軍が走り出た。

 龐徳、さすがに疲れが見える。

 許将軍の槍が龐徳の槍を弾き飛ばした。

 孟徳のおじ上が龐徳のもとに近づく。

 二人は二言三言交わしたあと、馬を並べて帰ってきた。

 龐徳はぼくたちに、拱手の礼をした。

 と、そこへ、後ろから張衛がわずかな兵と共に騎馬で突っ込んでくる。

 父上が孟徳のおじ上の近くに馬を寄せ、何事か言った。

 おじ上は父上をじっと見つめる。

 おじ上の唇が短く何かを父上に告げた。

 父上は大きくうなずく。

 そして張衛めがけて全速力で駆けた。

 無言のうちに、父上の大刀と、張衛の槍がぶつかった。

 素早い刃の応酬を、ぼくたちは口を引き結んで見守る。

 金属音が立て続けに鳴り響く。

 張衛の手数が減る。

 父上は見逃さなかった。

 大刀が張衛を真っ二つに割る。

 漢中はこうして、完全に孟徳のおじ上の治下に入った。

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