第7話 劉備の家来になってしまった

 劉璋が劉備に送った四千の兵は、お年寄りばかりだった。

 糧秣や武器も、求めた量よりは、少なかった。

 四千の兵から、一番年かさの兵が、よろよろと劉備の前に進み出た。

「劉豫州に、我が主君からの、伝言をお伝えいたしまする」

 劉備は黙って、その兵から目を離さずにいる。

 兵は、言った。

「我ら四千、最後まで貴公にお供いたせと、命ぜられました。もう蜀へは戻るなと言いつかっております」

 龐統は、しまった、と言うように、両目を見ひらいた。

 内心はわからないが、劉備は平静そのものだ。

 兵は、言葉を継いだ。

「張別駕は、不慮の事故にて、お命を落とされました」

 張松のことを、その官名を使って伝えた。

 龐統が両目に手のひらを当てる。

 劉備は兵に言った。

「それが、劉季玉どのの、お言葉なのだな」

「さようにございまする」

「ところで、お主たちは、どれほどの働きができるのだ」

「さあ――手足が不自由な者も多うございますし、命令された言葉もすぐに忘れてしまう者もおります。進軍も、若い者のようにはできませぬ。かと言って蜀にいたとしても、我々は死を待つばかりでございます」

 劉備は、目を閉じた。

 龐統が劉備に駆け寄る。ぼくたちが見ていることも気にしていないのか、せっぱつまった声でまくしたてた。

「殿! これでは救援に行くどころか、戦うこともできませぬ!」

 劉備は目を開ける。お年寄りばかりの四千をじっと見ながら、龐統に言った。

「呉まで歩いて移動する間に、何人も死者が出るな。戦うことも難しい。つまりわしたちは、呉へ行けぬ」

「かような者どもをつれては、蜀へも入れませぬ!」

「ここで張魯と戦っていろと。この四千の年老いた兵を蜀へ戻さずここで死なせろと、季玉どのは言われるわけだな」

 龐統が劉備の前に体をずいと出した。ぼくたちがいることも忘れたのか、叫んだ。

「それでは張別駕の努力が水の泡になります!」

「誰が水の泡にすると言った」

 劉備の声は、恐ろしいほど冷たかった。

 龐統が真っ青になって二、三歩下がる。

 劉備は四千の兵に向かって、声を張り上げた。

「あいわかった。お主たちをわしの兵としよう」

 年老いた兵たちは、しんと静まり返る。

 劉備は、続けた。

「お主たちはここまで歩いて来るのも大儀であったろう。それならばここで、わしの後詰めとなれ」

 四千の兵が、どよめく。

「動けぬならばここを守り抜け。そしてわしに、蜀について知り得ることをすべて伝えよ。わしはこれより」

 集まった自分の兵たちにも視線を向け、言った。

「蜀へ進軍いたす」

 誰もが、言葉を失った。

 龐統は雷に打たれたように動かない。

 劉備は、ぼくたちが知るあの親しみやすい男ではなくなっていた。孟徳のおじ上が生涯の敵とみなすに値するものを全身から発している。

 これこそが劉備の本質なのだ。誰に教えられたわけでもないけれど、ぼくはそう直感した。

 先ほど劉璋の言葉を伝えた年老いた兵が、口をひらいた。

「我が主君は――」

 劉備は鋭くさえぎった。

「今よりお主たちの主君はこのわし、劉玄徳である!」

 兵は、ぶるりと震えた。しかし落ち着いて、言い直した。

「――劉璋は、関所を守備する部将に、二度とあなた様と関わりをもってはならぬと命じております」

「それならば実力にて押し通るまでだ」

 そして龐統を睨みつけた。

「士元!」

 龐統がびくりと直立する。

「はっ」

「魏延と黄忠を呼べ」

 龐統はあたふたと走り、二人の武将をつれて戻ってきた。

 大柄で目鼻立ちの派手な壮年の武将と、ひげが白く顔に刻まれたしわが深い武将が、揃って進み出た。

 壮年の方が声を張り上げる。

「魏文長、参りました!」

 白いひげの方が一礼する。

「黄漢升、御前に」

 魏延は自分の考えが一番正しいと信じて疑わないような顔をしている。龐統とはまた違った意味で、相手を腹立たしくさせるような男だ。

 黄忠は、根っからの武将という雰囲気をかもし出している。この人も我が強そうだ。

 この二人とぼくは話したことはないけど、そう思う。

 ぼくは、ぼくたちの陣営にいる武将や軍師たちの顔を思い浮かべた。龐統、魏延、黄忠みたいな人は、ぼくたちの陣営には、いない。

 劉備は二人に命じた。

「成都を落とす。お主たち、先手となれ」

「ははーッ!」

 二人はひれ伏し、がちゃがちゃと具足を鳴らして歩き去った。そして兵たちを、大声で呼び集め始めた。

 劉備は、それまでずっと黙って控えていたぼくたちを見た。

「李昇、李青」

 柔らかな声音だった。

 ぼくたちも魏延と黄忠みたいにひれ伏す。

「顔を上げろよ」

 上げると、劉備は目尻を下げてほほえんでいた。

「ご苦労だったな」

 ぼくたちは、またひれ伏す。

 劉備は、言った。

「なあ、おまえたち、おれのそばで働かないか?」

 ぼくたちは、弾かれたように顔を上げた。

 暁雲が口をひらく。

「それがしらは、何をいたせばよろしゅうございますか」

 劉備は笑顔で言った。

「おれと一緒に、戦ってほしい」

 ぼくは、思わず尋ねた。

「なにゆえ、それがしらを用いてくださるのですか」

 劉備は、破顔した。

「おまえたちは信用できそうだし、使えそうだからさ」

 ぼくと暁雲は、恐る恐る、目と目を見合わせた。

 ぼくたちはついに、孟徳のおじ上の好敵手、劉備の家来に、なってしまった……。



「まあ、そうしゃちほこばらずにさ、食えよ」

 そう言われても、目の前でぼくたちに焼いた肉を勧めているのは劉備なのだ。食えるはずがない。

 父上のもとに、帰れるんだろうか?

 孟徳のおじ上が、ぼくたちが劉備の家来になったと知ったら、どんなふうに思うだろう……。

「わかってたよ。おまえ、あの時の間者だろ」

 暁雲が肉にかぶりついたまま、真っ青になって固まった。

 よくこんな時に肉に食いつけるよ。さすがもと間者。さすが孟徳のおじ上の実の息子。

 劉備の目は優しい。そのまま、ぼくにも視線を向けた。

「おまえに会うのは初めてだよな。李青だっけ? 何が得意なの」

 ぼくは思わず背筋を伸ばした。

「ゆ、弓です。あと、馬もです」

「へー」

 劉備は肉にがぶりと噛みつく。

「やってみせてくれよ」

「い、今ですか」

「食ってからでいいよ」

 ぼくは肉を三呼吸ほど見つめたあと、意を決してかじりついた。


 そんなわけでぼくは、劉備の将兵がじろじろ見る中、弓の腕前を披露することになってしまった。

 そこへやって来たのが、あの、ひげが白く顔に刻まれたしわが深い武将――黄忠、あざなは漢升だった。

「お呼びですかな、殿」

「おー、黄将軍。この李青って若いのがさ、弓の勝負を申し込んでるんだよ」

 申し込んでない。申し込んでなんかない!

 ぼくの顔は血の気を失ってもう真っ白だ。

 黄忠は思い切り嫌そうに顔をしかめた。

「ご冗談はほどほどにしてくだされ。こんな子供に何ができるのです」

 ぼくは、真正面から、この老将軍を見据えた。

 腹の底から声を出す。

「黄将軍! 劉豫州!」

 黄忠が、ぎろりと目玉を向ける。

 ぼくは劉備に向かって大声で言った。

「騎射の技をお目にかけます!」

 劉備が眉を上げる。

「いいぜ。李昇、馬を引いてきてやれ」

 李昇――暁雲がぼくに向かってにやりと笑い、すぐに馬をつれてきてくれた。しかも、自分の馬も引いてきている。

 ぼくは暁雲に小声で聞いた。

「君もやるの?」

 暁雲は笑って片目をつぶって見せた。

「もちろん」

 ぼくたちは馬に乗り、まず駆けた。

 そしてぼくは安息(パルティア)の騎兵の技――走る馬の上で振り返って矢を射つ――をやってみせた。

 狙ったのは、劉備と黄忠の間、二人の背後に立つ木の幹。

 弓弦を引きしぼる。

 射つ。

 黄忠の頬すれすれに飛び、幹に突き立った。

 黄忠は何が起こったのか、わからなかったようだ。目をぱちくりしている。

 劉備が、はっと目と口をひらく。

 ぼくと暁雲は文義と悌彦から教わった羌族の技――馬上で体の向きを変え、後ろ向きになって射つ――もやって見せた。

 おおーっ、と、将兵が口々に騒ぎ立てる。

 いつの間にか魏延も来ていた。腕組みをしながら見ている。

 戻ってきたぼくたちを、劉備が真面目な顔で迎えた。そしてぼくだけを他の将兵から離れたところまで引っ張って行った。

 まじまじとぼくを見る。

「益徳がおれに話していた。赤壁の戦いのあとで曹さんを追っかけた時、走る馬から矢を射た子供の武将がいたって。その子供が射った矢が、ほっぺたをかすめたのだって。まさか、おまえが、そうなのか?」

 益徳。張飛のあざなだ。

 劉備の言う通りだ。暁雲が孟徳のおじ上の身代わりを務めた時、ぼくは暁雲を守るよう父上から命じられた。突然出てきて襲いかかろうとした張飛を射たのは、確かにこのぼくなのだ。

 ぼくは観念して、言った。

「おっしゃる通りです」

 劉備は暁雲も呼び寄せた。

 ぼくたちを二人並べて、劉備は眉目を引き締める。

「なあ。ほんとうのことを話してくれ。おまえさんたちは一体、何者なんだ」

 まず、ぼくが名乗った。

「それがしは、姓は曹、名は馥、あざなは飛将と申します」

 続いて暁雲が名乗る。

「それがしはもとの姓名を李昇。しかし今の姓は曹、名は震、あざなは暁雲と申します」

「二人とも、曹さんの血縁か」

「我々の父は、丞相の従弟です」

 答えたのはぼくだ。

 暁雲は黙っている。その方がいい。

 なぜ間者の暁雲が父上の息子なのか、劉備は問わなかった。あえて追及しないつもりなのかもしれない。

 劉備はしげしげとぼくの顔を見る。そして、あっと叫んだ。

「ああそうか、思い出した!」

 ぼくを指さす。

「董卓討伐の義勇軍で集まった時だ。曹さんの隣にいた若い武将。あいつにおまえさん、そっくりなんだ。もしかしてそいつがおまえさんの」

「父です」

「覚えてるぞ。曹洪、あざなは子廉」

 ぼくたちはびっくりした。

 劉備はえへへと笑う。

「おれ、一度会った奴は忘れないんだ」

 笑い顔が、困り顔に変わった。

「おまえさんたち、気を悪くしたらごめんな。曹さんがどういうつもりでおまえさんたちを漢中までよこしたのかはおれは知らない。でもな、仮におまえさんたちが命を落としたとしよう。残念だけどそれは、おれにも曹さんにも、痛くもかゆくもないんだよ。そりゃあ曹さんは悲しむだろう。泣くかもしれない。でもな、それだけなんだ」

 ぼくは気を悪くなんかしていない。劉備が言うことは合っているからだ。

 暁雲も表情は変わらない。思っていることはきっと、ぼくと同じことだろう。

 劉備はまた、笑った。その顔は、おまえさんたちに死なれたらおれはつまらないんだがなあ、と言っているようだった。

 彼の笑顔を見ていると、心の底からほっとする。

「でもまあ、おまえさんたちがここにいる理由があるとしたら、きっと曹さんはおまえさんたちに今以上に武芸をみがいてほしいからなのと、男として武将として、成長した姿を見せてほしいってとこだろうな。おれが思うにはね」

 劉備が腕組みをする。

 笑い顔を近づけ、ぼくたちに言った。

「おれがおまえさんたちに守ってほしいことは、二つだけだ」

「どのようなことでしょうか」

 暁雲が尋ねた。

 劉備は眉目をやわらげたまま、ぼくたちに語りかける。

「おまえさんたちがおれのもとで見るべきものをすべて見たと思ったなら、すぐに曹さんのところへ帰るんだぞ。それと、帰る時は、おれに別れを告げてからにしてくれ」

「心得ました」

 暁雲と二人、声を合わせて、素直に答えた。

 劉備はにこにこしている。

「いいよな、おまえさんたち。いい兄弟だよ。おれ、会えてよかった」


 ぼくたちは劉備の陣営の兵として、成都攻略に出発した。

 黄忠は、ぼくの名前をいっこうに覚えようとしなかった。ぼくに話しかけてくれるが、呼びかけは「おい」か「若いの」の二つ。弓の腕前を認めてくれたのかどうかすら、わからない。

 魏延は、最初からぼくたちなんか目をくれなかった。彼が関心をもつ相手は、主君である劉備だけであるようにぼくには感じられた。

 龐統は、ぼくが見ても明らかにわかるほど緊張していた。甲は胸当てだけで、冑をつけていない。おそらく実際の戦闘に参加した経験が少ないのではないかと感じた。

 関所の反応はさまざまだった。

 すぐに門を開くところ。

 抗戦したけれども仲間割れして降伏するところ。

 上役を殺してはやばやと投降する兵たち。

 ところが、一筋縄ではいかない城が、一つだけあった。

 そこを守っているのが、蜀郡の人、張任だった。

 時は建安十八年(213)。

 ぼくがあとで聞いたところによると、この年、孟徳のおじ上は、孫権を攻撃してうち破った。そのあと五月、おじ上は帝から、魏公に任命された。



 雒は、成都のすぐそばにある。

 守っているのは、劉璋の子劉循と、このあいだ話に出てきた張任だ。

 これより先、諸葛亮、張飛、趙雲たちは長江をさかのぼり、その川沿いの都市を討ち平らげた。ぼくはその報告を兵が劉備にする時、劉備の近くに立っていたので、じかに聞いた。

 劉璋はさすがに家臣に命じて劉備を防がせた。けれど結果は、今こうして劉備に成都まで迫られている。劉璋がいるのは成都だ。

「張魯にでも頼むんじゃないのか」

 暁雲が言った。

 びっくりして彼を見た。

 今、山道を進んでいる途中だ。地べたに座り、休んでいる。

 まわりには歩兵。騎兵はぼくと暁雲はじめ十騎ほど。他に騎乗しているのは、龐統だけだ。

 そう。今ぼくたちは、龐統の部隊にいる。

 劉備の計らいだった。

 ――諸葛先生や益徳が来る。おまえさんたちを見れば怪しむし、おれもうまく説明できる自信がないからな。

 そして暁雲を見て、言った。

 ――それにおまえさんのその顔だ。益徳は曹さんの顔を知っている。大騒ぎになるぜ。「なんで曹操がこんなところにいるんだよ?」

 張飛の物まねがものすごくうまくてそっくりで、ぼくと暁雲は笑いをこらえるのに必死だった。

 ――おまえさんも笑ってる場合じゃないぜ、飛将。

 劉備はぼくにも言った。

 ――益徳の前で弓の腕前なんぞ披露してみろよ。絶対に思い出すぜ、あいつ。「あのガキ、おれを射ったあいつか?」

 また物まね。張飛がしゃべるところを直接見たことがある暁雲は体を二つ折りにしてぷるぷる震えている。声を出さずに笑っている。

 ――黄のご老体、ありゃあ相当おまえさんに張り合ってるね。益徳が来たら絶対話すぜ。「あの若いの、馬の上から振り返ってわしの顔すれすれに矢を射ちおったわい!」

 ぼくたちはもう大爆笑だった。

 これを読んでいる君たちにも見せて、聞かせてあげたい。ほんとに劉備は部下の特徴をとらえていて、声だけじゃなく顔まねもうまいんだ。

 一度会った人を忘れない。それが劉備の特技だ。

 劉備は続ける。

 ――だから士元の部隊にいた方がいいと思うんだ。士元は曹さんをじかに見たことはないんだっていうから。

 さすがにもうぼくたちは笑っていない。

 ――おまえさんたちを士元の部隊に置くのにはもうひとつわけがある。

 劉備は真面目な顔つきになった。

 ――あいつさ、戦に立ち合ったことが、まだ少ないんだ。それにおれが見るに、あいつは相当な怖がりだ。普段はすげえ、偉そうに振る舞ってる。でもそれは怖さの裏返しなんだ。

 その時は、曇り空だった。蜀に来てわかったのだけど、ここは曇りの日が多い。気候は穏やかだ。

 ――おまえさんたち、できる限りでいい。士元を守ってやってくれないか。

 ぼくたちは、はい、と答えた。

 ――できる限りでいいと言ったのはさ、あいつは今のままじゃあ、戦場で死ぬことが間違いないからさ。

 劉備は曇り空を見上げる。

 ――あいつは諸葛先生の同門で、おれの陣では貴重な軍師だ。生きててくれた方がありがたい。だけどあいつは、生き残れないと思うんだ。理由はうまく言えないんだけどさ。

 そこまで思い出してぼくは、隣に座る暁雲の横顔に目を向けた。

 孟徳のおじ上によく似た顔が、東の方角を向いている。

「おれが劉璋の家臣ならそう進言する。おれたちに対抗できる勢力は、張魯だけだ」

 ぼくもそれには同意する。いくら敵対しているとは言え、兵の数から言えばそれが妥当だ。

「張魯にも備えなければいけなくなるってこと?」

 ぼくが言うと、暁雲はうなずいた。

「その時に逃げるんだ」

 ぼくは一瞬、寂しいと思ってしまった。

 劉備と話して、一緒に肉を食って、笑って。

 彼といるのが、ほんとうに楽しかったからだ。

 暁雲はぼくの顔を見て、わかるよ、と言うように少しだけ笑う。

「楽しかったよな」

「……うん」

「張魯は十中八九、成都に救援をよこすはずだ。劉備は成都を落とす。その次に狙うのは漢中だ。張魯としては劉備に攻め込まれたくはないからな。つぶしにかかる」

「また、張魯の軍にもぐり込むってこと?」

「そう」

「劉備にさよならをいつ言うの」

 暁雲はぼくの顔をまじまじと見た。

「何?」

 ふっ、と笑った。孟徳のおじ上よりも優しい笑顔になる。このあたりはお母さんの李氏に似ているのだろう。

「馥、おまえ、すっかり劉備が好きになったみたいだな」

 ぼくは、素直に認めた。

「ああ。君もだろ、暁雲」

 笑ったまま、暁雲はぼくの頭をくしゃっとなでた。


 ここで君に、ぼくたちの状況を話そう。

 雒にある城を取り囲んでいる。

 雒のまわりは山だ。だから劉備は軍をいくつかに分けて山道を進んでいる。

 そんな中、張任は城から出た。

 もちろん、兵を率いている。

 山道で戦うのは、江東攻略が失敗し、おじ上の身代わりを務めた暁雲を守りながら逃げる時以来だ。

 暁雲が申し出て、物見になった。

 張任の動きを龐統に報告する。

「兵を二つに分け、ひとつは殿の軍へ、ひとつはこちらへ向かっております」

 龐統は顔色がよくない。

「わかった。雒まであと少しだ。急ごう」

 雒の城はすでに近い。木々の間から見えている。

 張任がどんな武将なのかぼくはまだ知らない。

 暁雲にも聞いたけど、彼もよく知らないと言った。

 山道を下りる。

 伏兵らしき動きは、まだ見ていない。

 平地に出た。

 鬨の声。

 振り向いた。

 さっき下りてきた山から、歩兵が走り出た。二百はいる。手に手に弓を持っている。

 騎兵もいた。七、八十くらいか。

 矢が飛んでくる。

 ぼくたちは――逃げた。

 雒の城は目の前だ。そこを落とすのが、ぼくたちの目的だ。

 歩兵が何人か倒れた。

 暁雲がぼくに叫んだ。

「龐軍師を守るぞ!」

「わかった!」

 ぼくたちは龐軍師に向かって駆けた。

 ぼくが呼ぶ。

「龐軍師!」

 並んだ。

 龐統は手綱を握りしめている。

 もう一度大声で呼びかける。

 ようやくこちらを向いた。血の気がない。

 ぼくたちに騎兵と歩兵が続く。

 雒の城ではすでに戦闘が始まっている。

 城攻めは初めてだ。

 孟徳のおじ上たちが呂布を攻めた話を子供の頃に聞いたことがある。あの時は水攻めにしたのだっけ。今は、それはできないな。

 城壁の上から石が落とされる。

 後ろからはなおも矢が飛んできた。

 何を思ったのか、龐統が馬を返した。

 駆けていく。

 ぼくたちは追った。

 山の方へ龐統は駆ける。

 追いながら――ぼくは直感した。

 龐統は、今、逃げているのだ。

 逃げるなよ。ぼくは声に出さず毒づいた。

 指揮をしろよ。

 それが、おまえの役目だろ。

 龐統を追う。

 その体が、突然馬から落ちた。

 ぼくと暁雲は馬を止め、彼のそばへ戻る。

 見下ろした。

 龐統は、目を開けたまま、あお向けに伸びている。

 その胸には、矢が、刺さっていた。

 そこへまた鬨の声がした。

 新たな兵の一団が、城に突っ込んでくる。

 その旗には、「張」と刺繍されていた。

 張任の軍が、雒を攻める劉備の軍に、挑んできたのだった。

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