第6話 蜀に潜入するぞ

 兵たちは皆、馬をつれていた。

 ぼくたちも馬をつれて跡をつける。

 町はずれまで来た。

 甲冑をつけた武将がいる。右手に筆を、左手に竹簡を持っている。その前には男が三十人くらい並んでいる。

 その武将は、声を張り上げている。

 耳を澄ますと、名前を呼んでいた。

 ぼくたちの前を進む兵たちは、すでに並んでいる兵たちとは別の場所へ向かう。そこには馬をつれた男たちが並んでいた。同じように竹簡を持った武将が前に立ち、大声で名前を呼んでいる。

「歩兵と騎兵に分かれてるんだな」

 暁雲がつぶやく。

 ぼくたちは騎兵の方に行った。

 騎兵たちの点呼をとる武将が、顔をしかめる。

「杜! 杜! なんだ、いないのか?」

 並ぶ騎兵の一人が聞かれてもいないのに言った。

「逃げ出したんだろ、どうせ」

 武将は点呼を続ける。

「陶! 陶! こいつもおらんのか」

 ぼくは暁雲に笑いかけた。

 暁雲もぼくに笑いかける。

 ――行くよね。

 ――もちろん。

「すみません」

 ぼくたちは武将の前に出た。

 武将は四十歳くらいだろうか。ぼくたちを見て、不審そうな顔つきになる。

「なんだ、おまえたちは」

 ぼくは言った。

「二人いないのでしたら、ぼくたちを入れてくれませんか」

「そうしてくれるならありがたい限りだが……武芸はできるのか? 馬をつれているな。乗れるということだな?」

「はい、どちらもできます」

 ぼくたちは声を揃えて答える。

 そこへ、さっき、聞かれてもいないのにしゃべった騎兵がまた声を上げた。

「まだ若えが、どの程度の腕か見せろや」

 ぼくたちよりは年上のようだ。でも三十にはなっていないだろう。

 まわりにいる騎兵がそいつを取り巻いている。多分、仲間だ。それも、よくない仲間。

 そいつの育ちも、これまでそいつがしてきたことも、よくはなさそうだ。

 そいつはぼくが提げている箙に目を止めた。

「おい。おめえ、何てんだ」

 暁雲がすかさず言った。

「おれは李昇。こいつは弟の」

 青い空を見上げてぼくは答えた。

「李青」

「おい、李青」

 空を飛ぶ鳥を指さして、そいつはぼくに言った。

「あれを射てみろ」

「お安いご用です」

 元気よくぼくは言って、狙い、射った。

 鳥は、そいつの背中と仲間の間に落ちた。

 仲間たちが騒ぎ出す。

「わあっ」

「びっくりしたっ」

「何て奴だ」

 点呼を取っていた武将は目だけになったような顔をして、ぼくを見ている。

 そいつの顔色がわずかに変わる。ほんとうは小心者なのかもしれないね。

 そいつは今度は暁雲に言った。

「おい、李昇とかいったな」

「はい、何でしょう」

 暁雲も威勢よく答える。

「おまえは何ができるんだ」

「武芸も馬もひととおりできます。あとは」

 そう言ったとたん、暁雲が消えた。

 仲間たちがあわてふためく。

「ひっ」

「おっ、おいっ」

「本当かよ」

 そいつの首を、暁雲が腕で固めていた。短剣をそいつの喉元に突きつけている。

 暁雲はにやりと笑う。

「こんなことも得意です」

 背後をとられただけでなく首まで固められ、喉元には短剣。

 そいつは顔といわず首といわず、血の気が引いて真っ白だ。そのうち失神するのじゃないか?

 そいつは案の定、ぶるぶる震えながら、小さい声で言った。

「わかった。わかったから、早くこいつをどかしてくれ」

 暁雲は短剣を納め、そいつから離れた。

 そいつは、白目を向いてその場にぶっ倒れた。

 仲間がそいつを引きずっていく。

 点呼を取っていた武将がぼくたちに目を止めた。

「おまえたち」

 ぼくたちは今一度居ずまいを正した。

 武将は言った。

「腕前はよくわかった。では、加われ」

「ありがとうございます!」

 二人で大声で返答し、ぼくたちは武将が示した一番後ろに並んだ。

 前にいる男にぼくは聞いた。

「どこへ行くんですか?」

 男は答えた。

「蜀だよ」

 暁雲が聞く。

「これは、誰の軍なんですか?」

 今度は斜め前にいるお年寄りが答える。戦えるのかな、この人。

「天師様の軍じゃよ」

「天師様って?」

 ぼくがきょとんとしていると、暁雲がぼくにすばやく耳打ちした。

「張魯だよ」

 えっ。

 じゃあ、ここに揃っているのはみんな、五斗米道の信者ってこと?

 これから蜀に、攻め込むって言ってたよね?

 孟徳のおじ上から言われた言葉がよみがえる。

 ――漢中がどのようなところか、そして、劉備が蜀をどのように手に入れるのか、おれに知らせてくれ。それを知れば、これらの地の平定が容易になる。

「漢中がどのようなところか」までは、言えそうだ。

 張魯の軍勢は、思っていたよりも、多い。

 でも点呼に来ない者がいるということは、戦をしたくないと思っているのかもしれない。

 少なくともぼくたちのように、戦に慣れている集団ではないことだけは、確かだ。

「劉備が蜀をどのように手に入れるのか」は、これからわかるのかもしれない。今から蜀に行く、つまり戦をやりに行くのならば。

 さっきのお年寄りが一人言のような口調で言った。

「劉豫州が来る。勝ち目はないのに」

 ぼくと暁雲はものすごい速さでお年寄りを見た。

 劉豫州って、劉備のことじゃないか!

 ぼくはお年寄りに小声で尋ねた。

「それ、ほんとなんですか」

 お年寄りは、何をわかりきったことを聞くのだ、とでも言いたそうな顔でぼくを見る。

 暁雲がお年寄りに近づいた。

 お年寄りが暁雲に、疑わしげな目を向ける。

 暁雲は真剣そのものだ。

「劉豫州が、漢中へ来るのですか」

「劉璋が呼んだらしい」

「何のためにですか」

「決まっとる。天師様と戦わせるためだ」

「蜀にも兵はいるのに?」

「蜀の兵は、戦ったことがないんじゃ」

「えっ」

 信じられない。ぼくと暁雲は同時に声を上げた。

 お年寄りはぼくたちに少し関心をもったようだ。

「こちらとて人のことは言えない。天師様のもとにはむろん将軍がいる。しかしわしら信徒の中には兵になったことがない者も多い」

 ぼくは尋ねた。

「だから逃げ出したり、点呼に来ないというわけですか」

「そうじゃ」

「劉豫州と今から戦うのですね」

「もう近くにいる」

 ぼくと暁雲は顔を見合わせた。

 ぼくがとっさに思いついた。

 劉備の軍に忍び込む。

 近くにいるというのなら、戦のついでに、できそうな気もする。

 ぼくは暁雲の耳に、小さな声でそれを伝えた。

 暁雲もぼくの耳に口を寄せて、小さな声で言った。

「悪くない。でも張魯の軍に、裏切り者と思わせないように振る舞う必要がある」

 確かにその通りだ。

 暁雲は続けた。

「こうしよう。二人で物見になるんだ」

「物見?」

「劉備の陣がどこにあるか、そこでわかる。わかればそのまま走ればいい」

「戻ってこなければ、怪しまれるのじゃないか」

「おれたちは大勢いる騎兵の一人にすぎない。物見は帰ってこないこともある。仮に帰ってこなければ何かあったと思って張魯の軍は兵を出す。劉備にそこを攻めてもらうんだ。そしておれたちは一緒に蜀へ入る」

「ちょっと待って」

 ぼくは不安になった。

「蜀の家臣たちはそんなに簡単に、劉備を蜀に入れないのじゃないか」

「劉備が入らなくても、おれたちさえ蜀に入れば、劉備がどうやって蜀を平定するかが蜀の側から見られる」

 なるほど。

 危険だけど、ぼくたちさえ蜀に入れば、孟徳のおじ上に頼まれたことはやりとげられそうだ。

 でも、ぼくには気になることが1個だけある。

「暁雲」

「なんだい、馥」

「君の話を聞いてると、劉備がぼくたちの言う通り、張魯の軍を攻めてくれるということになっているよね。そう、うまくいくかな」

 暁雲は、ほほえんだ。

「どうして笑うのさ」

「おれは、劉備に会ったことがある」

「えっ」

「奉孝どのに頼まれて、劉備が劉表と手を結ばない証拠を取りに行ったんだ。おれはその時に劉備に助けてもらった。その借りを返したい」

「いつ」

「建安十二年。数えで十七の時」

 今のぼくと同じ年ごろの時だ。

 そんな大仕事、まだぼくはやったことがない。

 嫉妬はしないけれど、素直にそう思ったからぼくは言った。

「暁雲。君、すごいんだね」

 暁雲ははにかんだ。

「運がよかっただけさ」

「ぼくも、がんばらなきゃ」

 自信がない。

 ぼくに、何ができるんだろう?

 暁雲は笑ってくれた。

「馥、おまえは、馬超を止めたじゃないか」

「奉孝どのの作り置きがあったからね」

「それを命中させたのは、おまえの力だろ?」

 それは、そうだ。

 ぼくの肩を、暁雲は、ぽんと叩いてくれた。

 ぼくはなんとなく、少しだけ、落ち着いた。


 城外に出た。

 ぼくたち騎兵は、歩兵の左右に配置された。

 遠くに旗が立つ。数は多い。

 ぼくたちは、離ればなれになってしまった時、物見になる機会がなかった時どうするかについても話していた。

「蜀に入る。そこで、蜀の高官の邸に使用人として入り込む」

 成都には、おじ上が放った間者がいる。そのうちの一人が安という人だそうだ。その人の力も借りる。会った時にする、間者同士の挨拶や合い言葉も教わった。

 出陣太鼓が打ち鳴らされる。

 ぼくたちは、駆けた。



 戦ったことがないなんて、嘘じゃないか。

 ぼくがそう思うほど、張魯の将兵はよく戦っている。

 やっぱり、信じる何かをもつってことは、簡単に命までかけさせるのだろうか? 黄巾賊がそうだったように。

 ぼくと暁雲はお互いを見ながら、離れないように戦っていた。

 劉備の軍勢と戦うのは、長坂坡以来だ。

 暁雲と、離れたくない。

 でも、ぼく一人でも、生き残らなければならない。

 正直自信はない。けれど、やっていくしかない。生き延びるしかないんだ。

 幸いなことに、身につけている装備は軽い。

 ぼくは文義と悌彦に教わった通り、馬上で体の向きを変えた。後ろ向きになる。

 弓を構える。

「劉」の旗を持っている歩兵を射つ。戦意をくじくためだ。

 歩兵が倒れた。旗も一緒に傾く。

 その旗を、手にした騎兵がいる。

「暁雲!」

 ぼくは声を上げていた。

 暁雲がぼくに向かって駆けてくる。叫んだ。

「馥! おれについてこい!」

 ぼくは体の向きを直した。あとに続く。

 太陽は、沈みかけている。

 空の青が淡くなり、紫や赤の色が出始めた。

「劉」の旗を持ち、暁雲は太陽が沈んでいく方向へ駆ける。

 歩兵も、騎兵も、あとに続く。

 ぼくは暁雲に並んだ。

 退鉦が打ち鳴らされる。

 この回数、この間隔――

 張魯の軍だ。張魯の軍が叩いている。

 振り返る。引き上げていく将兵が見える。

 暁雲に、馬が追いつき、乗っている騎兵が言った。

「おい、こっちだ! おれについてこい!」

「はいッ。申し訳ございません!」

 大声で言って、暁雲が馬の向きを変えた。

「旗を渡せ!」

 暁雲がその騎兵に手渡す。

 ぼくたちは、その騎兵についていった。


 幕舎が並んでいる。

「劉」の旗が、林のように立っている。

 ぼくは立ち尽くした。

 ついに来たんだ。劉備の陣営に。

 いきなり背中を叩かれた。

 暁雲だ。顔は、泥だらけのほこりまみれ。髪は乱れて、額に汗が光っている。

「騎兵にまぎれこもう」

 ぼくは安心して、思わず涙が出てきた。

「お、おい、泣くなよ」

「ぎょ、暁雲……」

「大丈夫だって。な?」

 ぽんぽんと、背中を叩いてくれた。暁雲は優しいとぼくは思う。暁雲のお母さんも優しい人だったと、暁雲からも、孟徳のおじ上からも聞いたことを思い出した。

 目をこぶしでこする。

 顔を上げると、暁雲が笑い声を立てた。

「どうして笑うの」

「顔は真っ黒なのに、目だけ白いからさ」

 他の騎兵に混じって幕舎に行く。

 点呼はとっていなかった。だからぼくたちが混じっていても、誰も不審そうな目を向けない。その点、張魯の軍の方が、将兵の把握をきちんとしているのだろう。

 劉備は、自分の領地をもち始めたばかりだ。劉備は呂布に破れておじ上のもとに身を寄せた際に、おじ上から「豫州牧」という官位をもらっている。「劉豫州」の呼び名はそこから来ている。

「今日は風呂の日だぞ」

 幕を上げた兵が大声でふれ回る。

 ぼくと暁雲は顔を見合わせた。

「先に入れよ」

 暁雲が言う。

「おまえの弓矢と剣、持ってるよ」

「ありがとう。暁雲のも預かるよ」

 ぼくが先に、暁雲があとで風呂を済ませると、幕舎の外に出た。

 月が明るい。

 夜風に吹かれながら、歩く。

 劉備の幕舎を探すためだ。

 ひときわ大きな幕舎が一つだけあった。「劉」の旗。槍を持った兵。どちらも入り口の左右に立っている。

 かがり火が燃える。

 兵に見つからないように、その幕舎の裏手に回った。耳を澄ませる。

 間者になったようだ。暁雲はこんなことを、いつもしていたのかと、ぼくは思う。

 暁雲たち間者がこうして、命がけで敵の内情を探ってくれたり、ぼくたちが表立って動けないかわりに動いてくれたりするから、ぼくたちは戦えた。そんな当たり前の事実に、恥ずかしながらぼくは、初めて気づいた。

 寒くなってきた。

 暁雲を見る。顔色一つ変わっていない。

 すごいな。

 ぼくはいつになったら、暁雲や、父上みたいになれるんだろう?

「孫権が、助けに来てくれというのかい?」

 のんびりした声が聞こえた。

 暁雲が目を大きくみひらく。

「劉備だ」

 思わず彼が口にしたその名前。

 ぼくは暁雲の口元に指を出した。

 暁雲があわてて口を自分の手でふさぐ。

 ぼくは一言も聞きもらすまいと、幕舎に耳を近づけた。

 今度は、違う男の声が聞こえる。

「はい。なれど今は張魯と対しております。劉璋にも一言断りをいれてからにすべきでしょうな」

「そうだよなあ。頼まれて来てる手前があるものなあ。士元、おまえさん、文を書いてくれないかい」

「承知いたしました」

「それにしても、曹さんも忙しいねえ。馬超を打ったあとは呉かい」

「版図を安定させたいのでしょうな」

「参ったねえ。また移動か。糧秣を多めにもらおうか。あとは兵か……一万くらい借りようと思うんだが、士元、どう思う」

「妥当かと存じます」

 劉備の声を聞いていると、ものすごく気が楽になる。眠りそうになる。

 そんなぼくの肩に手をかけて引っ張り、暁雲は幕舎から離れた。

 ぼくたちは走ってそこから逃げた。


 要するに、こういうことだ。

 孟徳のおじ上は、孫権を攻めた。

 孫権は劉備に救援を求めている。孫権の妹は劉備に嫁いでいるから。

 呉から漢中までは距離があるから、孫権が早馬を出したとしても、馬も人も生き物だから、寝たり食べたりしなくてはならない。ここまでたどり着くには日にちがかかったことだろう。ちなみに、今は建安十七年(212)だ。

 そこで劉備は、孫権のもとに行こうとしている。しかし劉璋からの要請で張魯と戦っているので、劉璋にわけを話して、戦場から離れる許可を得る必要がある。

 そのついでに兵を借り、糧秣も求めようということなのだ。

 劉備の幕舎がだいぶ小さくなったところでぼくは暁雲に尋ねた。

「士元って、誰のこと?」

「龐統」

「初めて聞く名前だ」

「諸葛孔明の同門だよ。荊州にいて、そこから劉備に従っている」

「じゃああいつは、軍師なんだね」

 ぼくは暁雲の方へ身を乗り出した。

「劉璋への使い、ぼくたちが名乗り出よう」

「使いを装って蜀へ潜入しようというのか、馥?」

 ぼくはにやりと笑った。

「そうだよ」



 劉璋への使いを装って蜀へ潜入しようとぼくが言うと、暁雲が整った顔を曇らせた。

「どうしたの?」

「使いは、またここへ戻ってくることになる」

 はたと気づいた。

「蜀に残れないってことか」

「でも」

 暁雲がぼくをまっすぐに見る。

「劉璋たちの様子はわかる。それだけでも成果はある」

 急に不安になってきた。

「もし、他に名乗り出る者がいたら」

「それでも名乗り出るんだ。使いを守るとか、何か理由をつければ通るだろう」

 暁雲はぼくの肩をしっかとつかみ、力強い声を出した。

「使いになれなくても、劉備の陣にいれば、どのみち蜀に入れる。父さんが見てこいと言ったのは、劉備がどうやって蜀を手に入れるかだから」

 十ある不安の五くらいが、消えたのを感じた。


 翌朝、劉備と龐統は、ぼくたちを呼び集めた。

 龐統は、まとめた髪も着ている服も、きちっとしていた。年は、父上より少し年下くらいか。

 劉備と龐統は壇の上に立つ。

 龐統が声を張り上げる。

「皆、聞け。我が軍は、孫権を救援に行くことになった。それゆえ、我らをここへ呼んだ劉璋にその旨を告げる。その際、兵と、その他戦に要る物もろもろを借りることになった。そこで」

 ぼくたちを見渡した。

「皆の中に、成都への使いになってくれる者はおらぬか。むろん、恩賞ははずむ」

 ぼくと暁雲は、大声を上げた。

「それがしらが、参ります!」

 将兵をかきわけ、前に出る。

 壇の前でひざまずき、拱手した。

 龐統が見下ろす。

「おまえたちの名は」

「李昇と申します」

「李青と申します」

「兄弟か」

 暁雲とぼくは同時に大声で返答する。

「はいッ」

 劉備がぼくたちを見る。

 とたんに、彼は、あっと叫びそうになった。

 暁雲は真正面から劉備に視線を当て、声を励ました。

「劉豫州のお役に立ちとう存じます!」

 ぼくもすかさず大きな声で言った。

「それがしも兄と同じ思いでおります!」

 劉備は暁雲とぼくをじっと見ている。その口は、ぐっと引き結ばれている。

 龐統は劉備を振り返った。

「いかがいたします、殿」

 劉備が何かを決めたように目の力を強めた。

「任せよう」

 龐統はぼくたちに命じた。

「では、おまえたちに任せる。書状を渡そう。また、言いおくことがある。こちらへ参れ」

「はッ!」

 劉備の幕舎へ案内された。

 間近で彼を見る。大きな耳。長い腕。背も高く、体つきも立派だ。

 劉備はぼくたちに近づいた。

 にこっと笑う。目尻が下がって、とたんに親しみやすさが増す。

「ありがとな。名乗り出てくれて」

 ぼくは、肩の力が抜けかけた。あわてて背筋を伸ばす。

「兄弟なんだって?」

 ぼくたちは、「はい」とうなずいた。

「おれにも、血はつながってないけど、同じ日に死のうと決めた義兄弟がいるんだ。おまえさんたちは血縁があるのかい」

「はい」

 ぼく、暁雲の順で答えた。ほんとうは暁雲は、ぼくの父上の養子だから。

 劉備は笑顔のままだ。

「なら、お互いを大事にするんだぞ」

「はっ」

 拱手するぼくたちに、龐統が声をかけた。

「これが書状だ」

 ぼくが預かる。

 龐統は、眉一つ動かさずに言った。

「兵一万を借りたいとしたためてある。何を聞かれても『書状の通りでございます』と言え。余計な口を聞くな」

 腹立たしくなるような言い方だ。それでもぼくたちは深く一礼する。

「なあ、士元」

 劉備が振り向いて言った。

「この二人に糧食を持たせてやりたいんだが」

 龐統はけげんそうな顔をする。

「……どうぞ」

「ありがとう」

 劉備はぼくたちの背中を押すようにして兵糧のある幕舎までつれて行った。

「気を悪くしたのじゃないか。士元の奴、腹が立つような言い方しかできないんだ」

 糧食を袋に放り込みながら劉備は言った。

「あ、これは、おれの一人言だからな」

 ぼくたちにぱんぱんになった袋を差し出す。

 そして暁雲を見て、またあの、気が抜けそうな笑顔を浮かべた。

「もうおれと背が並んだじゃないか。よく生きてきたな。えらいぞ」

 暁雲は奉孝どのの頼みで、劉備が劉表と手を結ばない確証を得るために、彼の様子を探りに行ったことがある。その時、運悪く劉備に見つかったが、見逃してもらえた。

 劉備はぼくにもほほえんだ。

「素直そうな、いい顔をしてるじゃないか。それに、ずいぶんといい弓と剣を持ってるな。大事にしてるのがわかるよ」

 弓はぼくのためにあつらえてもらったものだ。そしてこの剣は、孟徳のおじ上からいただいた倚天の剣。どちらも大事だ。

 劉備は、ぼくたちの肩に手を置いた。真剣な顔つきになる。

「向こうで腹が立つようなことを言われるかもしれない。季玉どのはおれを頼りにしてるらしいが、家臣たちはおれを入れたくない連中と、おれに来てほしい連中と、真っ二つだ。それは仕方がない。おれがやろうとしていることは、季玉どのから蜀を奪うことなんだから」

 季玉とは、劉璋のあざなだ。

 劉備は長い腕を組んで宙を見上げた。でもすぐにぼくたちに目を移す。

「だから何を言われても、黙ってろ。使いなんだからな。おまえたちに責任はない」

「はい」

 ぼくたちも神妙にうなずく。

 劉備は見送りに立ってくれた。

 長い腕を振る彼に、ぼくたちも手を振り返した。


 成都に着いたぼくたちは、劉璋への面会を求めた。劉備からの書状を持っていることを伝え、それを見せる。すぐに案内された。

 劉璋はぼくたちの前で書状に目を通した。そして、難しい顔になった。

 劉璋はぼくたちに、別の部屋で待つように言ってきた。

「これより協議いたす。終われば呼ぶゆえ、それまで待て。玄徳どのへのお返事も用意せねばならぬほどに」

 ぼくたちは言われた通りにした。

 部屋へ通されると、入り口に一人、中に一人、剣を吊るした兵が立った。劉璋の命令か、彼の家臣の命令かはわからないけれど、ぼくたちが下手に歩き回らないようにするためだろう。

 待ちくたびれた。

 ぼくは座ったまま、眠り込んだ。


 音がして、目が覚めた。

 箙と剣を確かめる。あった。よかった。

 暁雲が入り口に目を向けている。

 誰かが入ってきたのだ。

 小男だった。多分、ぼくの胸くらいまでしかない。

 小男は焦っている様子だ。ぼくたちに尋ねる。

「劉豫州の使いと申すは、お主たちか」

 はい、とぼくたちは答える。

 小男はつかつかと近づき、ぼくと暁雲の手をつかんだ。

 急に、暁雲の顔を見て、小男の顔が固まった。

「曹操?」

 あとずさりする小男に、暁雲は動じずに言った。

「他人の空似です」

「声まで似ているじゃないか」

「顔が似ていれば声も似るものです」

 小男は今一度暁雲の顔をしげしげと眺めた。

「――うん。確かに、よく見ると、違うな」

 いくぶん落ち着いたようだ。小声で言う。

「わしの邸に来い」

 部屋にいた兵が小男に何か言った。小男は早口でまくしたて、兵に道を開けさせた。

 邸まで急いだ。

 ぼくたちを室内に入れると、小男は窓と扉を閉めきった。

 ぼくたちに向き直る。ふうっと息を吐いた。

「ああ、これでやっと話ができる」

 小男は名乗った。

「わしは、姓は張、名は松」

 この男が張松!

 孟徳のおじ上が、話だけ聞いて帰した張松。

 張松は驚くぼくたちを、ぎらつく目で刺すように見る。

「劉豫州は孫権を救援にゆかれると書状にあったが、まことの話か」

 ぼくたちはうなずいた。めったなことをしゃべるなと言い含められているし、下手にしゃべってまずいことになるのは避けたい。

 張松は頭を抱えた。

「なんということだ。これから劉豫州に蜀を明け渡そうとしているのに。そういう話をご存じないはずはないのに」

 聞き捨てならない話だ。

 劉璋の家臣の中に、劉備に内通する者がいたとは!

 それも、今に始まった話ではないだろう。

 劉璋は知っているのだろうか?

 いや、知らないのだ、まだ。

 知っていれば、たとえ敵対する張魯と戦わせるためとはいえ、領地を奪おうとする輩になど頼らなかっただろう。

 張松は怒りと焦りで真っ赤になった。

「劉豫州の求めに応じ、兵などを貸し与えることになった。お主たち、兵をつれて帰る時に、わしからの書状を持っていってくれぬか。必ず劉豫州に渡してもらいたいのだ」

 ぼくたちはとりあえずうなずいた。

 張松は少し落ち着いたのか、また暁雲を見て、顔をゆがめた。

「それにしても曹操そっくりだ。よくよく見れば奴よりは優しげな目鼻立ちをしているが」

 暁雲の目が鋭くなる。

 ぼくは尋ねた。

「曹操にお会いになったことがあるのですか」

 張松は、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりにしゃべり始めた。

「おお、あるぞ。あやつめ、わしがあれほど蜀の内情を洗いざらいぶちまけたのに、眉一つ動かさなかった。劉璋ではこの国はもたぬとあれだけ言って聞かせたのに、わしを、このわしを、歯牙にもかけなかったのだ。あやつが張魯を攻めて、蜀に入ってくれたなら、わしたちは今頃列侯に取り立てられたものを。まったく、帝を利用して、おのれの栄達しか考えておらぬ奴よ。さすが宦官の孫だけはある」

 ぼくは聞いていて、正直、龐統とはまた別の意味で腹が立ってきた。

 龐統は、将兵を取り替えのきく駒くらいにしか考えていない。だからそれほど腹立たしいとは思わない。

 けれどこいつだけは、張松だけは、別だ。

 孟徳のおじ上が、話だけ聞いて帰したというのも、よくわかる。

 こいつは蜀の将来を案じているのじゃない。

 考えているのは、おのれの保身だけなんだ。

 孟徳のおじ上が、最も嫌う型の男だ。

 ぼくが色をなしたことなど、張松は気にもとめない。

 そういうところなんだ。そういうところなんだよ、張松。ぼくが、おまえだけは、許せないのは。

 しかもおまえは言ったな。宦官の孫と。

 孟徳のおじ上がそのことにどれだけ悩み、不当な扱いを受け、苦しんできたか、おまえなんかにわかってたまるか。

 そのことがあるから、出自も、経歴もいっさい関係なく、能力のある者に仕官の道を開いてくれているんだ。おまえはそんなことにすら、考えが至らないのかよ?

 張松はぼくたちに言った。

「これより劉豫州に書状をしたためる。できあがれば、兵らを送り出す時にお主たちに託そう」

 張松は書斎へ引っ込んだ。

 その背中にぼくは一矢ぶちこんでやろうと思った。箙に手を伸ばしかけたぼくの肩を、暁雲がつかんだ。

 暁雲の、おじ上によく似た切れ長の目は、怒りに燃えていた。


 張松はぼくたちに食事を用意し、寝床も貸した。

 遅い食事をとっていると、来客があった。声が聞こえる。

「おお、これは兄上」

「松、久しぶりだ、息災のようだな」

 給仕がぼくたちに断りを入れに来た。

「申し訳ございませぬ。太守がお見えになりましたゆえ、そちらに参ります」

 太守というのは、張松の兄のことらしい。

 ぼくは愛想よく言った。

「どうぞ、おかまいなく」

 食器を下げてもらい、ぼくたちは寝床に入ったふりをした。

 給仕の足音が聞こえなくなると、ぼくたちは廊下に出て、張松が兄と談笑している部屋のそばまで移動した。

「――そうか、劉豫州は今、張魯を防いでくださっているのか」

「ええ。ですが孫権から救援を求められたゆえ、こちらに一万の兵を借りたいとおっしゃっております」

「一万……ちと多いな」

「兵だけではございませぬ。糧秣や武器なども所望されておいでです」

「応じきれるのか」

「殿は応じるおつもりです。しかし一万は出せぬと我々でお諌めいたし、四千まで減らしました」

「それが妥当ではあろうな」

「張魯を防いでいただかねば、我々も危のうございます」

「まことに……しかし蜀の兵は戦ったことがほとんどない」

「できれば残っていただきたかったのですが」

「劉豫州は、孫権の妹御をめとっておいでなのだろう? むげに断るわけにもゆかぬのだろうよ」

 ここまで聞いて暁雲がぼくに小声で言う。

「力を貸してくれ」

 ぼくも声をひそめる。

「何をすればいい?」

「張松の兄貴は話がわかりそうだ。張松が劉備に渡すつもりの書状を、兄貴に見せる」

「張松の書斎に入れるのかい」

「入るさ」

 暁雲はぼくに手はずを言った。

 ぼくはうなずき、張松とその兄が話している部屋に飛び込んだ。

「申し上げますっ。くせ者が入り込んだようです!」

「くせ者だと?」

 張松が立ち上がる。

「はいっ。あやしげな物音がいたします」

 張松の兄が立ち上がりかけた。

「様子を見て参ろうか」

「いや、兄上、わしが参ります」

 張松はぼくに顔を向ける。

「お主、すまぬが兄を守ってくれぬか」

 ぼくは殊勝に答えた。

「心得ました」

 張松はぼくに聞く。

「どちらからだ」

「あちらです」

 書斎と正反対の方向をぼくは指さす。

 張松はばたばたと走り去った。

 そこへ現れたのが、暁雲だ。

 手には張松が劉備に渡すはずだった書状を持っている。

 張松の兄が眉をひそめた。

「誰だね、君は」

 暁雲は書状を差し出した。

「太守。これをご覧ください」

 張松の兄は書状を受け取り、目を走らせる。

 持つ手が震え出した。

 暁雲が、得たりと笑う。

 ぼくもにやりと笑った。

 張松の兄――張粛が、顔を上げた。

「なんということだ。なんと大それたことを……あやつめ、蜀を、我らが蜀を、劉備などに売ろうとは……!」

 暁雲は即座に悲痛な表情を作った。

「いかがいたしましょうや」

 ぼくもそれにならい、泣きそうな顔で言う。

「それがしらは劉備からの使いです。その書状を、劉備に届けるように、弟君から命ぜられてしまったのです」

 張粛は眉目を厳しくしてぼくたちに言った。

「君たち、すぐに外に出なさい。私と、殿の邸に向かうのだ」

 ぼくたちは張粛が開けてくれた窓から外に出る。剣も箙も身につけている。

 そこへ戻ってきたのが張松だ。

「怪しい者などいなかったではないか」

 張粛は打って変わってにこやかに言った。

「それはよかった。では松、私はこれで失礼するよ」

「おや、劉豫州の使いがおりませぬが」

「私が部屋に戻るよう言った」

「兄上、どうぞまたお寄りくだされ」

「ああ、今日は楽しかったよ」

 張粛は玄関から出ると、ぼくたちを迎えに来た。

 ぼくたちは劉璋の邸へ向かった。


 劉璋は張松を捕らえ、即刻首を斬った。


 それから十日後。

 劉璋が貸し与えた四千の兵と糧秣などを率いて、ぼくたちは成都をあとにした。



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