第4話 馬超と対決

 洛陽に寄り、文義と悌彦に会った。

「飛将、暁雲」

 文義も悌彦も涙を流している。

「詳しい話は、潼関で聞かせて」

 ぼくはそう言って、二人を子孝のおじ上の軍につれていった。

 潼関を守る将軍たちは、ぼくたちを見ると、おとななのに歓声を上げて大喜びした。よほど馬超たちに悩まされていたのだろう。

 西を見ると、確かに軍勢がいる。数も多そうだ。

 子孝のおじ上がぼくと暁雲に言った。

「子廉や孟徳兄から聞いている。おまえたち、この者たちと親しいそうだな」

 ぼくは答えた。

「はい。騎射を習いました」

「言葉はわかるのか?」

「文義は多少わかります。悌彦はあまり」

「では、おれの話すこともわかるのだな?」

「文義ならばわかると思います」

 子孝のおじ上は文義の前に進み出た。

「わしの名は曹子孝。飛将の父の兄だ」

「ソレガシノ名ハ文義、羌族デス」

「馬超について、知っていることをすべて申せ」

「ヤツラハ潼関ヲ落トシマス」

「攻めて来るのか」

「アザケル」

「あざける?」

「アザケル。潼関カラ将軍タチヲ誘イ出ス」

「つまりわしらをあざけり、怒らせて、潼関から誘い出すということか」

「ハイ」

 悌彦が口を開いた。

「潼関、ダイジ。馬超、ドウシテモ、欲シイ」

 あれ、いつの間にか話せるようになってるじゃないか。話に混ざってくるということは、子孝のおじ上の言ったことも、聞いて理解できたということだ。

 子孝のおじ上は体格がいい。声も大きい。文義と悌彦に言った。

「よくぞ話してくれた。礼を言う」

「アリガタキ幸セ」

 二人はひれ伏した。

 二人もまじえて、ぼくたちは卓を囲んだ。

 子孝のおじ上が言う。

「潼関はこちらにとっても重要だ。相手があざけるならば、こちらは丞相が着くまで籠城だ」

 潼関を守っていた将軍が尋ねた。

「丞相はいつご到着なさいますか」

 答えたのは、父上だ。

「十日後」

 将軍は体を縮める。

「糧秣が実は、足りませぬ」

 父上が重ねて問う。

「あと何日分あるのだ」

 将軍は申し訳なさそうに答える。

「三日分です」

 ぼくたちは――黙り込んだ。

 孟徳のおじ上が到着するのは、何度も繰り返すのだけれども、十日後だ。

 そこへ兵が走り込んできた。

「申し上げますっ。西涼の兵どもが、城前に来ております!」

 悌彦が言った。

「アザケル、始メル」

 だけど文義は顔色を変えて叫んだ。

「気ヲツケロ。アイツラ、攻メル」

 徐将軍が初めて口を開いた。

「この城を奪い取るつもりでしょうな」

 立てかけた大斧を手に取る。そして潼関を守る将軍に向き直った。

「糧秣は三日分と申したな」

 徐将軍の眼光鋭い無表情に、将軍は直立不動になる。

「は、はい」

「三日間のうちにかたをつけよということだな」

「公明どの、まさか、打って出ると申されるか」

 父上がただすと、徐将軍は父上をじっと見つめた。

「兵をつれ、渭水を渡ります」

 ぼくたちが住むこの中原で「河」といえば黄河を指す。ここでいう渭水とは黄河の支流だ。徐将軍はそこを渡り、馬超と韓遂の陣を背後から襲うつもりなのだ。

 子孝のおじ上が言った。

「連中の背後に回るのか」

 徐将軍の声が、熱くなった。

「おっしゃる通りです。四千の兵をお預けください。西涼の兵どもがこちらへ来たとすれば、馬や人が渡れる浅瀬があるということです」

 そこまで言い終えた時、文義が声を上げた。

「オレタチ、案内デキル。ツイテイク」

 徐将軍のご子息、徐蓋どのが文義を見た。

 ちなみに徐蓋どののあざなは伯世なのだそうだ。年齢は暁雲より少し年上とのことだった。

 伯世どのは文義の真剣な顔を見たあと、徐将軍に視線を向けた。

「父上、案内をさせてはいかがでしょうか」

 徐将軍はぼくと暁雲を見た。

「飛将どのと暁雲どのは、こやつらと親しくなされておいでと伺いましたが」

 ぼくは答えた。

「はい。騎射を教わりました。会話もできます」

 伯世どのがぼくに尋ねる。

「我々の命令を彼らに伝えることも可能ですか」

「ええ」

 自信はないけれど、答えた。まあ文義なら心配はないか。悌彦も漢語の理解は進んでいるようだし。

 伯世どのはもう一度徐将軍を見た。

「父上、飛将どのと暁雲どのにも同行をお願いいたしましょう。羌族の彼らも、飛将どのたちがいるなら滅多なことはいたさぬはず」

 徐将軍は胸を張り、子孝のおじ上と父上に向き直る。

「子廉どの、ご子息がたをお借りいたしてもよろしいですか」

 おじ上と父上が素早く目を見交わす。

 父上は言った。

「公明どのに息子たちをお預けいたします」

 おじ上も言った。

「背後に回ってくだされ、公明どの」

「承りました。子廉どの、ご子息がたは、拙者の命に代えてお守り申し上げます」

 徐将軍が父上に向けるまなざしは、ひどく熱かった。けれど父上はその目を見ても、顔色ひとつ変えなかった。

 父上はぼくと暁雲に、厳しい顔を向けた。

「馥、暁雲。公明どのの足手まといにならぬよう、心して務めよ」

「はいッ」

 ぼくたちは背筋を伸ばし、大声で返答した。


 まだぼくたちの軍勢は潼関の城に入りきっていなかった。

 だからぼくたち四千が動いても、西涼の兵は気にとめなかった。ほかの将兵がたまっていたので、そちらに注意が向いたのだと思う。

 文義と悌彦の案内で、ぼくたちは北へ遠回りをして、渭水の浅瀬を渡った。

 兵の口にも馬の口にも枚を噛ませた。声を出させないためだ。むろん、ぼくたちも同じようにする。

 西涼の兵たちは潼関の城の前に陣取っている。おそらくおじ上と父上たちは、こもっているはずだ。振り返っても、土煙も上がらないし、声も聞こえない。

 気づかれないように、深夜も進んだ。水は冷たくて、靴の中までしみ込む。寒がりのぼくにはこたえた。

 暁雲はというと、いつもと変わらない。さすがもと間者だ。彼には、感心することばかりだ。

 まだ、しゃべれない。手綱を持つ手がかじかむ。

 ぼくの馬。もう長いつきあいだ。鼻面を撫でる。声に出さずに話しかける。

 ――あと少しの辛抱だよ。河を渡れば、思い切り駆けることができる。

 父上と仲良くなれない時、母上にも打ち明けられないことがあった時、いつもぼくはこの馬に話しかけてきた。この馬はぼくの友だちと言っても言い過ぎではない。

 四千が河を渡りきった。

 潼関に送った物見が戻って来た。徐将軍は戦の時、物見をよく使う。

 なぜ物見をよく使うのか。あらかじめ勝てない場合の対策を立てるためだそうだ。

 暁雲から聞いた話だ。徐将軍はとても慎重な性格とのことだ。けれども敵を追撃して、他の将軍たちと勝ちを争うような時は別なのだそうだ。将兵に食事の暇も与えないらしい。

 ぼくはまだ徐将軍とそこまで関わりをもっていないけれども、一緒の陣にいると、だんだんとそれがわかってきた。将軍が率いる将兵は皆、落ち着いていた。

 戻って来た物見は言った。

「丞相、ご到着。双方、動かず。将軍の策は子孝将軍が丞相にお伝えいたし、丞相より合図を待てとのご命令でございます」

 物見は徐将軍に耳打ちした。

「ご苦労だった」

 物見が下がる。

 西涼の兵の影がかすかに見える。

 空はよく晴れて、雲ひとつなかった。


 合戦が始まったのは、それから三日後のことだった。

 孟徳のおじ上からの合図があったのだ。

 空高く、赤い火花が散った。

 ものすごい音が響く。

 暁雲がその火花を見上げ、はっとした。

「どうかした、暁雲」

「奉孝どのの火花だ。おれも使った」

「奉孝どのの火花?」

「白狼山の戦いで、袁紹の子供たちの兵の数を、あれで知らせたんだ」

「奉孝どのがあの火花を調合したってこと?」

「そう。まだ、残っていたんだ」

 暁雲は心に深く感じている様子だ。

 暁雲と、お母さんの李氏が一緒に暮らしていた、孟徳のおじ上が若い時に使っていた間者の白さんが話していたっけ。

 ――昇も郭軍師には、ずいぶんよくしていただいたね。

「出陣!」

「出陣!」

 伝令が馬で駆け回る。

 ぼくたちも乗馬した。

 太鼓が打ち鳴らされる。

 馬超の軍勢に向かって騎兵が並んだ。

 徐将軍が先頭にいる。

 ぼく、暁雲、伯世どのは、そのすぐ後ろだ。

 徐将軍は大斧を振り上げて大音声を上げた。

「進軍!」

 ぼくたち四千は、突進した。

 西涼の兵は、漢人とは違ういでたちをしている。

 とにかく速い。ほぼ全員が馬に乗り、馬上から矢を射ってくる。

 ぼくも、走る馬の上から、矢を放つ。

 文義と悌彦と、何百本の矢を射っただろう。

 前へ走る。西涼の兵が足元に群がる。

 ぼくは蹴散らした。

 とにかく射る。

 ちらっと横を見る。暁雲が駆ける。ぼくを見る。

 暁雲が鞍の上で腹ばいになった。回る。後ろ向きになる。

 矢をつがえ、射った。

 その矢は、追いすがる西涼の騎兵を、射ち倒してゆく。

 ぼくも同じようにした。

 弓を引きしぼる。狙いをつける。放った。

 歩兵を射った。倒れる。

 腕力の限界だ。でもぼくは弓を構えた。射る。

 矢は西涼の騎兵に吸い込まれ、その騎兵は、落ちた。

「飛将! 暁雲!」

 文義が並んだ。悌彦も追いつく。

「スゴイナ! 完璧ダ!」

「アリガトウ!」

 ぼくは羌族の言語で叫び返す。

 悌彦が叫んだ。

「前向ケ! 城!」

 ぼくは振り返った。

 城が見える。潼関だ。兵がごった返している。

 ぼくは体を元に戻した。

 暁雲も同じようにしたのを横目で確認する。

 河は船で埋まっていた。

 乗っているのは、ぼくたち側の兵たちだ。

 河岸に続々と船が到着する。

 徐の旗が河岸になびいていた。

 ぼくは、駆けてきた方を見る。

 兵はほとんど、地面に倒れているか、よろよろ歩いているか。

 大将旗の下に行った。

 徐将軍、伯世どのがいる。伯世どのが明るい表情になった。

「飛将どの、暁雲どの! ご無事でしたか」

 ぼくも笑った。

「伯世どの、徐将軍も、ご無事で何よりです」

 徐将軍も、ぼくと暁雲を見て、少しだけ笑う。その顔から、将軍の人柄が垣間見えた。

 そこへ現れたのは、賈軍師だった。ぼくたちを見ると、眉を上げる。

「これは飛将どの、暁雲どの」

 ぼくと暁雲は拱手し、一礼する。

 賈軍師はぼくたちのそばに来ると、笑い出しそうな顔のまま、低い声で尋ねる。

「また暴れて来たのかい? 」

 暁雲が笑う。

「後ろ向きで射つ技、やりおおせました」

 賈軍師はにやあと笑った。

「程軍師から耳にタコができるほど聞かされてるんだが、おまえさんたちはほんとうに、わんぱく坊主だねえ、ええ?」

 言ってから賈軍師は、徐将軍に体を向け、口調を改めた。

「我が軍の渡河は八割がた進んでおりますが、殿はまだ向こう岸に残っております」

 徐将軍がただす。

「将はどなたですか」

「丞相と許将軍です」

「曹子孝将軍と子廉どのは」

「もうすぐお着きになります」

 徐将軍の頬がゆるむ。ぼくもほっとした。

 暁雲が進み出た。

「追撃されていますか」

 賈軍師は眉目を厳しくした。

「馬超が迫っている」

 暁雲とぼくは、立ちすくんだ。

 賈軍師は慎重に言葉をつぐ。

「仲康どのがおられるから、間違いはないと思うのだがね。丞相は我々を先に渡すまではと、仲康どのと残られたのだよ」

 突然、声が上がった。不穏な声だ。

 ぼくたちは河岸に出た。

 矢が、降ってきた。

 兵たちが河の中にいる。動く船に泳いでしがみつく。乗っていた兵たちが引き上げようとするが、船が傾く。そうやって傾き、転覆した船も少なくなかった。

「父さん」

 暁雲が真っ青な顔をしている。

 見ると、孟徳のおじ上が許将軍と、船に乗り込むところだった。

 どうして二人だとわかったかと言うと、孟徳のおじ上が甲冑の上から着ている紅の袍が見えたからだ。許将軍の体は、他の兵よりもひときわ大きいからだ。

 矢は、雨のように降り注いでいる。

 許将軍は左手に馬の鞍を持っていた。おじ上を船に乗せ、自分も乗る。

 船頭が漕ぐ。

 許将軍が鞍を左手で高く上げた。

 矢が鞍に当たっては落ち、当たっては落ちる。

 おじ上は許将軍の足元に座っている。でもその頭は、許将軍に向いている。

 おじ上の腕が許将軍に伸び、甲をつかむ。引き下げようとしている。

 許将軍はおじ上を見て、叫ぶ。

 すると船頭が倒れた。射たれたのだ。そのまま河に落ちる。

 許将軍が右手で櫂をつかんだ。

 許将軍は左手に鞍を、右手に櫂を持ったまま、右手だけで漕いで、ぼくたちの待つ河岸までたどり着いた。

 ぼくと暁雲は、河に走って入った。

 水しぶきがもろに顔にかかったけれど、気にならない。孟徳のおじ上と許将軍のところへ早く行きたいから。

 おじ上と許将軍が乗る船に駆け寄った。

「おう、飛将に暁雲」

 許将軍は体のあちこちに矢が刺さっている。

 ぼくは将軍に手を差し伸べた。将軍は笑ってその手を握ってくれた。

「おまえたちも生きて帰れたのだな」

 暁雲はおじ上を支えて、一緒に下りた。

「父さん」

「暁雲」

 互いの目と目を見て、これだけ言い交わす。

 それを見たぼくは、ほっとした。今でも暁雲がおじ上にとって心の支えであることを実感できたからだ。

 おじ上は岸に上がると、許将軍を睨みつけ、大声を上げた。

「仲康! 無茶をしおって!」

 許将軍も大声を上げる。

「御身を守るためです!」

 二人の言い合いが始まった。

「座れと申したであろう!」

「立っておらねば、矢を防げませぬ!」

「おまえが死んだら、誰が余を守るのだ!」

「大勢おりましょう! それがしの代わりは!」

 言って許将軍は、ぼくと暁雲を指差した。

 許将軍は、静かな声でおじ上に言う。

「この者たちなどが」

 おじ上がぼくたちを見た。

 十ゆっくり数える間ぼくたちを見て、おじ上は、許将軍に顔を向けた。

 そして、明るい声で笑い出した。

「まだ、ひよっこだ」

 許将軍もおどける。

「育てば、元気な鶏になりますぞ」



 西涼の兵は、思ったよりも強かった。

 それがぼくの正直な感想だ。

 文義や悌彦に、羌族の騎射を教わっていなければ、反撃できなかったと思う。

 そんなことを座り込んで考えていると、父上がやって来た。

 ぼくの隣で座っていた暁雲がすぐに立つ。血のつながりがない分、まだ、父上に対して甘えられない部分が残っているのだとぼくは思う。

 ぼくも、立ち上がった。

 父上は泥だらけ、返り血まみれだ。甲冑も戦袍も汚れている。返り血がこびりついた整った顔をほころばせ、言った。

「無事だったのだな」

「はい」

 ぼくと暁雲は声を揃える。

 近くに徐将軍と、ご子息の伯世どのもいた。二人も泥にまみれ、手にした得物には返り血がこびりついている。

 父上は徐将軍の前に行った。そして深々と頭を下げた。

「息子たちがお世話になりました」

 徐将軍は、顔を上げた父上に、熱い視線を送る。

「見事な騎射をなさいました」

 父上は徐将軍を見た。その目と口調はいつもと変わらない。

「公明どのもいつもながら勇壮な働きぶりであられたと聞いております」

「もったいないお言葉、痛み入ります。子廉どのも道を切り開き、他の者たちの渡河を助けられたと聞いております」

「当然の務めをいたしたまでです」

「子廉。公明どの」

 子孝のおじ上が呼んだ。

 父上がおじ上の方に顔を向ける。

「子孝兄、今行く」

 おじ上がなおも言う。

「飛将と暁雲も来るのだ」

 父上は徐将軍に向き直った。特に表情は動かない。

「参りましょう」

 徐将軍の瞳がほんの一瞬、揺れた。唇が声を出さずに動き、言葉があとからついてきた。

「ええ……」

 父上はぼくたちに目を移した。

「行くぞ」

 ぼくと暁雲は顔を見合わせ、父上のあとに従った。徐将軍とご子息も、歩き出した。


 ぼくたちは孟徳のおじ上のもとに集まった。

 皆で円を描くように立つ。

 孟徳のおじ上は賈軍師に発言を促す。

「文和」

「はっ」

 賈軍師はぼくたちを見渡し、切り出した。

「実は韓遂が使者をよこしております。要求は黄河より西の土地の割譲です。人質を送る用意もあるとか。今回皆様方もおわかりになられたと存じますが、西涼の兵とまともに戦っても、我々に勝ち目はありませぬ。そこで、馬超と韓遂に離間の計を用います」

 離間の計。

 ぼくは考える。要するに、馬超と韓遂を引き離すということか?

 賈軍師は生き生きと続ける。

「韓遂が漢中の豪族たちをまとめ、彼らは馬超をかついでいるだけです。そこで韓遂を我々の側に引き込みます。韓遂の父親は丞相と同年の孝廉ですし、韓遂と丞相は反董卓連合で共に挙兵した仲でございます」

 父上が厳しい顔つきで賈軍師を睨む。

「つまり、丞相を韓遂と接触させるということなのですか、賈軍師?」

 父上は静かに怒る。それだけにとてもこわい。

 賈軍師は父上の怒りなどいっこうに気にしない。

「おっしゃる通りです」

 許将軍も色をなす。

「危険ではありませんか」

 賈軍師は、おかしそうに笑う。

「韓遂とて阿呆ではありませぬ。丞相を害したらどうなるか、重々承知いたしておりますよ。あちらの要求は土地の割譲、要するに自分たちの所領をこの先も所有できればよいのですから。この策では血は流れませぬ」

 孟徳のおじ上が、初めて口を開いた。

「余が韓遂と差しで会談いたす。むろん、互いの将兵に監視させた中でだ」

 おじ上は、整った顔を引き締めた。

「韓遂に使者を送る」


「ああ、やれやれ。おまえさんたちの父上はおっかないったらありゃあしない。許将軍の方がまだ、かわいげがあるってもんだ。でかいだけにね。あたしゃ寿命が三年縮まったよ。どうしてくれるんだい」

 話のあとで、賈軍師はぼくと暁雲を呼びつけて、真っ白な顔でぼやいた。

 そんなことを言われてもぼくは困る。

「縮まった寿命の戻し方を、ぼくは知りません」

 賈軍師は、かーっと息を吐いた。

「冗談だよ冗談。そんなのあたしだって知らないよ。まあ、会談の時に途中まで丞相に同行する役をお願いして、ようやく怒りを収めてもらえたからいいんだけどさ。まったく、丞相のことになるとこわいんだよ、おまえさんたちの父上は。ちったあ年寄りをいたわれと、おまえさんたちから言ってやっておくれ」

 暁雲が冷たい水をくんできて、賈軍師に差し出した。

「どうぞ」

 賈軍師は受け取ると、ひと息に飲み干す。

「ありがとうよ。さすがもと間者だけあるね。気が利く子だ」

 暁雲は苦笑いする。

「間者でなくとも、気が利く者は気が利くと思います」

 賈軍師は改まって言った。

「あんたたちを呼んだのは、何もあたしのぼやきを聞かせるためだけじゃあない」

 暁雲が鋭い目つきになる。

「おれたちに何か頼み事をお持ちですか」

 賈軍師は真剣な顔つきになった。

「ああ。あんたたちがうんと言ってくれることが条件だ。これはまだ、丞相にはお伝えしていないのでね」

 ぼくは賈軍師に顔を寄せた。

「西涼の兵になりすましてもらいたい」

 暁雲が間者の顔になる。

「詳しくお聞かせいただけますか」

「ああ。よーくお聞き。馬超はおそらく、韓遂と丞相の仲をまだよくは知らない。けれどもあたしが馬超の身になって考えれば、敵と差しで会談するなんてなれば、何を話すのか知りたいと思うはずなんだ。だから奴は韓遂についてくる。話の中身を知るためにね。ましてそこには敵が――丞相がいる。話の中身によっては、血気盛んな男だっていうから、手が出る。そこであんたたちの出番だ。あらかじめ西涼の兵になりすましてひそんでおいで。馬超が妙な真似をしたら、丞相をお守りするんだ」

 ぼくは疑問を賈軍師に伝えた。

「それなら、西涼の兵になりすまさなくても、ぼくたちの側から飛び出せば済むのではありませんか?」

 賈軍師はぼくに顔を思い切り近づけ、小声でまくしたてた。

「馬超の一番近くにいなけりゃあ、奴が手を出した時にすぐ動けないだろう? だから西涼側にいろと言うんだよ。いいかい、これは危険な務めだ。おまえさんたちの父上になんか知られたら、あたしゃ斬り刻まれて影も形もなくなるよ。でも丞相を守れるのはおまえさんたちだけなんだ。他の将軍たちなんざ名が知られてる上に皆さん目立つから頼めないんだよ」

 ぼくは暁雲を見た。

 暁雲もぼくを見た。

 答えは、決まっている。

 ぼくたちは賈軍師に言った。

「やります」

 賈軍師は、にんまりと笑う。

「ところであんたたち、食べ物では何が好きなんだい」

「肉です」

 ぼくたちは同時に答えた。

 賈軍師が口の片端だけ上げた。

「生きて帰れば、肉をたらふく食わせてやるよ。もちろん、あたしのおごりだ」


 ぼくたち三人が孟徳のおじ上のもとにまかりでた時、父上もいた。

 おじ上と父上は、笑顔だった。

 二人で何か話していたのかな。

 ぼくたちを見た父上は、なぜかとても驚いた。

 孟徳のおじ上は父上の隣に立ち、ぼくたちに尋ねた。

「文和、何か」

 賈軍師は父上の姿を見ると、震え上がった。

「今後の策について申し上げたく存じます。どうか、お人払いを」

「子廉がいては、都合が悪いのか」

 賈軍師はぎゅっと目をつむる。

 そして、意を決した。

「いえ」

 おじ上は言った。

「では、聞かせよ」

 賈軍師は、はーっと息を吐ききり、始める。

「馬超は、韓遂が丞相と会談する際、何を話すか聞こうとするはずです。そこで奴は西涼の兵になりすましてついてくるはず。話の内容によっては御身に危害を加える恐れがありまする。そこでこの飛将と暁雲を、西涼の兵にまぎれこませます。馬超に不審な動きあらば即座に対応できるように。それができるのはこの二人だけです」

 おじ上はぼくたちに鋭い視線を当てた。

「飛将。暁雲」

「はっ」

 同時に答えたぼくたちに、おじ上は短く尋ねた。

「やれるか」

 ぼくたちは間、髪を容れず返答する。

「やれます!」

 おじ上は父上を顧みた。

 父上もおじ上の視線を受け止める。その目は、熱をもっていた。

 おじ上が父上を見つめる。その目は、優しい。

 父上はぼくたちを見て、言った。

「賈軍師の言葉に従え。そうでなければ命を落とすと思え」

 ぼくたちは拱手した。

「はいッ!」

 賈軍師は今にも倒れそうだ。彼のつぶやきがぼくには聞こえた。

「ああ、寿命が一年伸びたああ……」

 おじ上は賈軍師に言った。

「韓遂からの返答が届いた。明朝会談を設定するとのことだ」

「では、着手いたします」

「文義と悌彦が使えるか」

「ええ。彼らに手引きさせれば容易でしょう」

「文和。余がすべきことはまだあるか」

「会談のあとお伝えいたします」

 孟徳のおじ上は、にやりと笑った。

「待っておるぞ」


 文義と悌彦に話すと、二人はとても心配してくれた。

 悌彦が賈軍師を睨む。

「アナタ、二人ヲ、アブナイニスルカ。ソシタラオレタチ、アナタ、許サナイヨ」

 賈軍師はぶんぶんと首を横に振る。

「危ないに、しない」

 文義が眉間にしわを寄せる。

「西涼ノ兵ノ服、ドウヤッテ手ニ入レル」

 暁雲が言った。

「死んだ兵の服や鎧をもらう」

 賈軍師がにたりと笑う。

「さすがもと間者だねえ、ええ?」

 文義は何事かしばらく考えている様子だ。

「オレタチモ、一緒ニ行ク。ソノ方ガ、アヤシマレナイ」

 文義は悌彦に羌族の言語で言った。悌彦も何度も首を縦に振る。

「一緒ニ、行ク」

 賈軍師はぼくと暁雲に袋を一つずつ手渡した。

「持っていくがいいよ」

 ぼくは聞いた。

「これは何ですか」

 賈軍師は嬉しそうに口元をゆるめる。

「奉孝どのの作り置きさね」

 暁雲が思わず声を上げた。

「奉孝どのの?」

 賈軍師は暁雲にほほえむ。

「ああ。あたしゃ実は聞いていたんだよ。おまえさんのことをね。とてもいい間者だと。そこで預かっていたんだ。暁雲が危険な務めをする時に持たせてやってくれとね」

 暁雲は大事そうに両手で袋をおしいただいた。

「どのように使うのですか」

 賈軍師は首をひねる。

「さあ、あたしにもわからないんだが、危険だと思えば開けたらいいのじゃないかい」

 暁雲は懐に袋をしまった。

 ぼくも同じようにした。


 会談の日。

 ぼくたちは文義のあとについて、韓遂の陣に入った。

 西涼側の戦死した兵から服と鎧をもらい、それを着た。ちょうどいい具合に汚れているので、怪しまれずに済む。

 文義は冑を目深にかぶり、顔を見えにくくした。悌彦もぼくたちもそうした。

 西涼の兵の、最前列に出る。

 向こう側には、ぼくたちの陣。

 韓遂が進み出る。

 おじ上も馬を進める。

 ぼくたちのいる列に、やたらと目立つ兵がいた。体つきも立派だし、派手な美形だ。

 文義がぼくに耳打ちした。

「アイツガ馬超ダ」

 賈軍師の読みは、当たっていた。

 ぼくは思う。馬超がもし韓遂を信頼しているなら、会談を遠くから見守るだけにするのではないだろうか。それを最前列で見るということは、心底から彼を信頼していないと理解するのが自然ではないか?

 おじ上は韓遂と話している。

 笑い声さえ聞こえる。

 馬超をぼくは横目でうかがう。

 怒っている。

 口が「へ」の字になっているぞ。

「怒ッテルネ」

 悌彦が小声で言う。

 暁雲がぼくにささやく。

「あいつが馬超だ」

「知ってたんだね」

「諸国の武将や文官の特徴は聞いて知ってる」

「怒ってるよ」

「まだ動かない方がいい。動くのは、奴が動いてからだ」

「わかった」

 韓遂がこちらに戻ってくる。

 おじ上は動かない。

 韓遂は、満足そうに笑っている。

 そこへ馬超が馬で駆けた。

 韓遂に突っ込む。

 ぼくと暁雲は後ろへ下がる。

 文義と悌彦もぼくたちに続く。

 韓遂が叫ぶ。

「孟起どの!」

 韓遂が兵たちに命じる。

「孟起どのを止めろ!」

 馬超が槍をしごく。韓遂が剣で受ける。

「この裏切り者!」

「待て、待てッ」

 兵たちも手を出しかねている。

 ぼくたちは一目散に逃げた。

 逃げるぼくの耳に、馬超の叫びが聞こえた。それは、悲痛だった。

「おまえの言葉で、父上は、鄴に向かったのに!」


 ぼくたちは孟徳のおじ上のもとに帰ってきた。

 賈軍師は卒倒しそうだ。

「ああ、寿命が二年戻ったああ……」

 おじ上が笑う。

「飛将、暁雲、よくやった。文義と悌彦もな」

 ぼくたちは拱手する。

 ぼくはその場でおじ上に、馬超の言葉を伝えた。

 おじ上は賈軍師と目を合わせる。

 おじ上は言った。

「韓遂は馬騰とその息子たちを人質にするつもりだったのか」

 賈軍師がうなずく。

「そう見てよろしいと思います」

「馬超と韓遂にさらに離間の計を進める必要があるな」

「ええ。漢中と西涼が従うかどうかは韓遂次第です。馬超がいかに勇猛と言えども、羌族の信頼はどちらかと言えば馬騰に向いております」

「馬騰は馬超が挙兵すれば責任を取ると申しておった」

「仮にそうなったとしても、韓遂たちには領地の所有をお認めになればよろしいでしょう。馬超には事を起こせる器量もございますまい」

「では文和、次の手は」

「丞相、韓遂に文をお書きくだされ」

 孟徳のおじ上は少し考え、口の片端だけを上げ、立ち上がって机に向かった。

 そうして短い間に書き上げた文を賈軍師に見せる。

 賈軍師が手を打って叫んだ。

「お見事です、丞相」

 その文は、その日のうちに、韓遂に届けられた。

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