第3話 曹洪の三人きょうだい

 鄴へは、定期的に通うことになった。

 母上や祥を、二人だけにしておくわけにはいかないからだ。

 暁雲だって、ぼくと、父上の留守を守る名目で共に暮らすことになったのだから。

 文義と悌彦を引きつけておくためには、会う回数や、一緒に騎射の稽古をする回数を増やす必要があるからだ。

 羌族を味方につけておけば、馬超討伐に有利になる。けれども、文義と悌彦、それに馬騰――ぼくたちも彼を寿成将軍と呼ぶようになっていた――と触れあううちに、ぼくも暁雲も彼らのことを好きになっていた。

 別れる時なんか、文義は大泣きする。

「飛将、暁雲、ナゼ帰ル」

 悌彦はそんな文義に、羌族の言語で何か言う。文義は悌彦に怒鳴る。悌彦がため息をつく。

「また会えるよ」

 ぼくがほほえむと、文義は泣くのをこらえてうなずく。

 暁雲が羌族の言語でさよならを告げた。

 文義と悌彦は、漢語で言った。

「再見(さよなら)」

 それがいつもの光景になった。

 寿成将軍は、人柄がにじみ出る笑顔で、見守っていた。


 それから数日が過ぎた。

 ぼくと暁雲、賈軍師は、軍議の場にいた。

 今日、父上、子孝のおじ上、元譲のおじ上が、帰ってくるのだ。

「南郡も、夷陵も、襄陽も、周瑜に奪われたってねえ」

 賈軍師が言った。

「まあその周瑜も、怪我がもとで血を吐いたっていうじゃあないか。長くはもたないだろうよ」

 軍に加わったばかりだ。ぼくもまだ、初めて見る顔の方が多い。暁雲は間者だから、ほとんどの武官や文官の顔と名前がわかる。

 その中で、ぼくは、一人の武官が気になった。小声で暁雲に尋ねる。

「暁雲、彼は?」

「徐公明将軍」

「その隣にいるのは?」

「ご子息の徐蓋どの。あざなはまだないはず」

 賈軍師が徐公明将軍を見ながら言った。

「公明どのは、名は晃。あたしと同じで、投降したのだよ」

 ぼくは徐晃――徐公明将軍を見る。

「公明どのは、ずいぶんおまえさんの父上を、気にしているようだねえ」

 ぼくは、嫌な予感がした。だから思い切って言ってみた。

「賈軍師。なぜぼくに、そのようなことをおっしゃるのですか」

 賈軍師はぼくに、にやりと笑って見せた。

「あたしゃ生き延びることがすべてさ。だからまわりの人間がどうつながっているのか、いつも観察しているのだよ。そうすりゃあ誰につけば生き延びられるかわかるってもんだからさ。おっと、このことはおまえさんとあたしだけの秘密にしておこう。こういうことは口にすりゃあいいってもんじゃないからね。おとなの事情ってもんさ。でも知っていれば、父上や公明どのをおまえさんが助けられるかもしれない」

 賈軍師が入り口に目を転じた。

「父上たちが見えたよ」

 父上たちが入ってきた。

 元譲のおじ上、子孝のおじ上、父上の順に歩いてくる。甲冑姿だ。その甲冑や戦袍にはまだ、泥や血がこびりついている。

 公明どの――徐将軍を見る。

 確かに、賈軍師の言う通りだ。目を、父上から離さない。

 父上はというと、孟徳のおじ上を、まっすぐ見ながら歩いている。

 三人は、孟徳のおじ上の前に、ひざまずいた。

 元譲のおじ上が言った。

「申し訳ございませぬ。襄陽、南郡、夷陵、すべからく周瑜めに奪われましてございまする」

 孟徳のおじ上は、静かな声音で言った。

「よく戦ってくれた。そしてよく、生きて戻ってくれた。今後は西涼の馬超に対する。またお主たちの武勇を頼みにしておるぞ」

 おじ上たちと父上は、再びひれ伏した。


 武官たち、文官たちが立ち去る。

 徐将軍は、長いこと父上の背に視線を当てていたけれど、ご子息に促されて、我に返ってきびすを返した。

 ちょうどぼく、暁雲とすれ違う。

 ぼくたちは拱手し、一礼した。

 徐将軍は、ぼくに言った。

「曹子廉将軍の、ご子息であられますか」

 やはり知っていたのか。

「はい。曹馥、あざなは飛将と申します」

「父上に、御身、ねぎらわれよと、お伝えくだされ」

「ありがたきお言葉、父に伝えまする」

 徐将軍はしばらく足を止めていたけれど、最後にこう言って、立ち去った。

「また共に、戦う日もありましょう」

 ぼくはその一言が気になったけれど、追及しなかった。

 ぼくと暁雲のもとへ、孟徳のおじ上と、父上が近寄ってきた。

 孟徳のおじ上が言う。

「文和から聞いている。暁雲、馥、この件はおれに預からせてくれ。悪いようにはしない」

 ぼくたちは揃って拱手し、頭を下げた。

 父上が言った。

「公明どのと話していたな」

 ぼくは答えた。

「父上に、御身、ねぎらわれよと仰せになりました」

「わかった」

 父上の表情はいつもと同じだ。

 賈軍師が眉を上げてぼくを見る。ぼくは目を合わせたけれど、何と言ってよいかわからない。

 孟徳のおじ上が言葉を継ぐ。

「馥、子廉を借りるぞ。暁雲の件で話すことがある」

 言って、おじ上は父上を見る。父上がうなずき、ぼくたちに告げた。

「帰りは遅くなるゆえ、迎えは要らぬ」

「承知いたしました」

 おじ上と父上は肩を並べてぼくたちの前から去っていった。


「父上はまだ、孟徳のおじ上のところにいらっしゃるのですか」

 祥がまた、頬をふくらませて、口をとがらせている。

 ぼくは言った。

「かわいい顔が台無しだ」

 祥がじとーっとにらんできた。

「早くお会いしたいのに」

「申し訳ございません、お嬢様。それがしの処遇に関することをご相談なされているのです」

 暁雲が済まなそうに、優しく笑う。

 それを見るなり、祥は、ふくれっつらをやめた。目をきらきらさせて暁雲を見つめる。出た、にわか美少女。

「暁雲兄さま。わたくしのことは、祥とお呼びになってと、申し上げましたでしょ」

 暁雲は、孟徳のおじ上そっくりな端整な顔立ちに、優しい笑みを浮かべた。

「ああ、そうだったね、祥」

「きゃーっ!」

 祥は顔を真っ赤にして叫んだ。

「うるさい」

 ぼくは思い切り嫌な顔をする。

 祥は暁雲の笑顔にめろめろだ。

「暁雲兄さま、なんて素敵なの! 孟徳のおじ上も見目が良すぎるけれども、暁雲兄さまは孟徳のおじ上よりも優しいお顔立ちだから、わたくし余計にのぼせてしまいます」

 母上がおかしくてたまらないからやめてちょうだいと言わぬばかりに身をよじってくすくす笑っている。

「祥はほんとうに、見目の良い殿方が好きなのですね」

「夏侯仲権さまも、眉目秀麗で、わたくしずっと見つめていたい」

 仲権とは、妙才のおじ上の息子、夏侯覇のあざなだ。ぼくと同い年で、よく話す。ちなみにぼくの父上と妙才のおじ上も同い年だ。

 祥は心底残念そうにつぶやく。

「わたくしも男に生まれればよかった」

 母上がほほえみながら尋ねる。

「なぜそのように思うのですか、祥?」

 祥は頬杖をついて、天井を見上げた。

「わたくしは病をもっていますでしょ、母上。おとなになれないかもしれないとお医者さまから言われておりますし、赤子を授かることも難しいかもしれないとも言われております。それならば暁雲どのや仲権さまや孟徳のおじ上たちと戦ったり、策を立てたりする方が、どんなに張り合いがあるかと思うのです」

 ぼくは目を見はる。妹がこんな風に自分の思いを語るなんて初めてだ。

 暁雲がやわらかな声音で祥に言う。

「祥は、そこにいてくれるだけで、このうちを明るくしてくれているじゃないか。それで充分だとおれは思うよ」

 祥が暁雲を向いて、きれいな瞳に涙を浮かべる。

「暁雲兄さま、それ、本心からおっしゃっているのですか」

「ああ、本心だよ。ましておれはきょうだいがいないから、祥のようなかわいらしい妹と、馥のような頼れる弟ができて、とても嬉しいんだ」

 暁雲も本心から言っているようだ。ぼくを「頼れる弟」と呼んでくれたことが、嬉しい。

 母上も涙ぐんでいる。きっと、ぼくたちの兄上、赤ん坊の時に亡くなった曹震を、思い出しているのだろう。

 暁雲は母上にも笑顔を向けた。

「実はおれの母は、実の父の囲い者でした。だからどうしても母と思えない時が、正直あったのです。けれど梁の母上とお会いして、ほんとうの母上とはこのような方をいうのかと思いました。馥や祥がうらやましいです」

 母上は、涙ぐみながら、優しく暁雲を諫める。

「お母様にもご事情がおありだったのだと思いますよ。それにお父様も、あなた方母子をそのように扱わねばならぬわけを抱えておられたのかもしれません。暁雲どのを見ていれば、どんなにお父様やお母様から深い思いやりを受けて今日まで育ったかが伝わってきますよ。むろん、暁雲どのご自身も、ご苦労なされてきたことは承知しています。お母様と、お父様を、どうかわかってあげて」

 暁雲が、唇を引き結んだ。

 あ、そろそろ、泣き出すな。

 ぼくは暁雲のそばに座り、背中を優しく、とん、とん、と叩いた。ぼくが泣けずにいた時、暁雲がそうしてくれたからね。

 暁雲がぼくを見た。笑った拍子に、憂いと陰りを帯びた切れ長の目から、涙が伝い落ちる。

 父上が帰ってきたのは、そんな時だった。

 祥が走って、父上に抱きつく。

「お帰りなさいませ! お待ちいたしておりました!」

 血と埃で汚れた戦袍と甲冑などものともせず、祥は父上の厚い胸に頬をすりつける。

 父上はというと、少なからず驚いていた。

「祥。どうした。抱きついてくるなど、珍しい」

「父上をずっと、待っていたのですよ」

 母上は優しく言葉を添えた。

「お帰りなさいませ」

 ぼくと暁雲も一礼する。

 父上はぼくたちに告げた。

「暁雲を、おれの養子にすることになった」

「ええっ」

 ぼく、祥、母上、そして暁雲は、揃って大声を上げてしまった。

 父上は続ける。

「孟徳兄と話して、決めた。しかし暁雲には、母親の姓から曹姓に変わってもらわねばならん。できるか」

「できます」

 暁雲は即答した。

 父上が、一瞬、声を詰まらせる。下を向く。しかしすぐにきっ、と顔を上げた。言った。

「今日からおまえは、曹震だ」

 母上が大粒の涙を流し、声を放って泣き出した。

 ぼくと祥も、背筋を伸ばす。

 曹震。ぼくたちの、赤ん坊の時に亡くなった兄上。

 それが今、養子という形で、戻ってきたのだ。

 李暁雲、改め曹震は、泣きながら、ほほえんだ。

「はい、父上!」

 暁雲は父上と母上の前にひざまずき、拱手した。

 父上は、笑った。その切れ長の目から、涙がひとすじ、流れる。

「そして曹震、おまえは、武将になるのだ」

「はい!」

 力強く返答し、暁雲は、こう、つけ加えた。

「必要とあれば、いつでも、間者として務めまする!」

「頼むぞ、暁雲」

 ぼくと祥は、暁雲の前にひざまずいた。

 同時に宣言する。

「今後は、あなた様を、兄上と仰ぎます!」

 暁雲は、ぼくたちを、じっと見ていた。

 ぼくたちは顔を上げる。

 ぼくたちは腕を伸ばした。暁雲も伸ばす。

 ぼくたちは固く、抱きしめ合う。

 ぼくたちは、曹洪の、三人きょうだいとなった。



 鄴の城外。

 建安十五年(210)、春正月。

 ぼく、暁雲、文義、悌彦が、馬で駆ける。

 見ているのは、孟徳のおじ上、父上、賈軍師、寿成将軍だ。

 賈軍師は着ぶくれている。

 ぼくも実は寒がりだ。けれども厚着していると動きづらいので今は薄着だ。

「飛将! 」

 悌彦がぼくたちと並んで駆けながら、叫ぶ。

 布切れを縫い合わせて作った的を、放り投げた。

 ぼくが矢をつがえ、射つ。

 的にぼくの矢が突き立つ。

「暁雲!」

 暁雲が放つ。

 その矢は的を見事に貫いた。

 悌彦が笑う。

「ヤッテミロ!」

 走る馬上で、悌彦が腹ばいになり、尾の方に頭を向けた。そのまま鞍に座る。そして弓を引く。

 羌族の言語で、文義に叫んだ。

 文義が的を投げ上げる。

 悌彦はそれを、射った。

 的は射貫かれ、落ちる。

 文義がぼくを呼ぶ。

「飛将! ヤレ!」

 ぼくは悌彦と同じように腹ばいになり、鞍を押さえて腹だけで回った。後ろ向きに座る。確かにこれなら狙いやすい。落ち着いて弓を引きしぼる。

 文義が投げた的を、射つ。矢は的に吸い込まれた。

 的が落ちる。

「イイゾ!」

 悌彦と文義が揃って手を打ち合わせる。

 文義がぼくに的を投げた。

「暁雲ニ、投ゲロ」

 ぼくは暁雲に叫んだ。

「暁雲!」

 的を投げ上げた。

 暁雲も素早く後ろ向きになり、弓をかまえる。

 空高く舞ったそれを、射つ。

 その矢は、的に、まっすぐ貫いた。

「ヤッタゾー!」

 文義と悌彦は自分のことのように大喜びだ。

 戻ったぼくたちに、寿成将軍が笑顔で言った。

「すごいな、二人とも。まるで羌族のようだ」

「コノ二人、欲シイネ、将軍!」

 文義も笑う。

「ウマイ、ナッタ」

 悌彦の漢語は相変わらず片言だ。これまで一緒に過ごす機会を多くもったけれども、ぼくが見るに、彼は漢語を覚える気は、あまり、ないらしい。

 孟徳のおじ上が、父上と目を見合わせる。二人の口元がゆるむ。声には出さないが、ぼくと暁雲にはわかった。おじ上はきっと、こう言いたいのだ。

 ――うまく引きつけたな。

 寿成将軍は孟徳のおじ上にも笑みを向けた。

「素晴らしい若武者たちですな」

 孟徳のおじ上も笑みを返す。

「よくぞここまでしこんでくださいました」

 将軍は縦にも横にも大きく、目鼻立ちも大ぶりだ。孟徳のおじ上も背は高く、体つきも引き締まっている。むろん寿成将軍と並べば寿成将軍の方がたくましいのだけれど、おじ上は決して見劣りしない。かもし出すものが違う。

 寿成将軍が今度は父上に言う。

「漢人に慣れないあの二人が心をここまで開いたとは。飛将と暁雲は心ばえも優れておりますな、子廉どの」

「光栄に存じます」

 父上が一礼する。

 寿成将軍は急に真剣な顔つきになった。

「孟徳どの、それがしは文義と悌彦を、超のもとへ遣わそうと存じます。文を持たせます。滅多なことを企むでないと」

「滅多なこととは」

 おじ上が表情を変えずに問い返す。

「ご存じのはず。韓文約と結び、朝廷に弓引くことのなきようにとでござる」

「貴公のご子息だ。賢明な判断をいたすと思うておるが」

「いや。文義や悌彦に命じて、わしや、貴公の一族を除こうといたすくらいだ。誰かに入れ知恵されたか、それとも本性をあらわしたか」

「入れ知恵いたす輩がいると言われるか」

 おじ上が切れ長の目で寿成将軍を見やる。

「智謀とは縁のなき男ゆえ」

 おじ上と寿成将軍は、それきり黙り込んだ。

 賈軍師が、言った。

「丞相。将軍。中へお入りになられませぬか。寒さがいや増して参りました」

 寿成将軍が、おじ上に、いつになく真剣な目を向ける。

「孟徳どの。超がもし朝廷に弓引くならば、それがしを処断してくだされ」

 おじ上は三呼吸黙ってから、答えた。

「そうならぬよう説得いたすと、貴公は余に約されたではないか」

「文で納得せぬ場合は、それがしの一命をもって、超を止める。それが孟徳どの、董卓討伐で貴公と肩を並べて義勇軍として戦った男の、最後の意地だ」

 おじ上の端整な顔は、動かない。何を考えているか、ぼくたちにも読み取れない。

 おじ上は、将軍に告げた。

「寿成どののお覚悟、この曹孟徳、確かに受け取った」

「まったく、なんで中へ入らないのかねえ? あたしゃ寒くて死にそうだってのに」

 賈軍師が小声でぼやく。

 もちろん、ぼくと暁雲は、それを聞いた。

 ぼくと暁雲は、賈軍師に、上着を一枚ずつ、着せてあげた。

「おまえさんたちもようやっと、老人をいたわる気に、なってくれたようだねえ」

 賈軍師が、にたりと笑った。

 ぼくは父上を見た。

 父上がおじ上に寄り添う。

「兄上、冷えまする。中へ」

 おじ上が父上に、優しくほほえんだ。


 文義と悌彦が西涼へ帰る日がやってきた。寿成将軍のしたためた文を持っている。

 建安十五年の春が終わる、よく晴れた、暖かい日のことだった。

 鄴の城門。

 寿成将軍と、次男の馬休、三男の馬鉄が、見送りに立つ。

「飛将……暁雲……」

 文義がさめざめと泣いている。

「忘レナイデクレヨ」

 ぼく、暁雲の順に指を差す。

「トモダチ」

 悌彦も涙と鼻水を垂らしながら、告げる。

「オマエタチ、トモダチ」

 ぼくも泣けてきた。覚えたての羌族の言語で言う。

「忘レナイ」

 暁雲も羌族の言語で、声を詰まらせながら、伝えた。

「トモダチダ、ズット」

 抱きあって泣いた。

 ぼくは思う。馬超や羌族と戦いたくない。

 抱きあっている時、文義が急に目を鋭くして、ぼくたちだけに聞こえる声で言った。

「オマエタチト戦ウニナレバ、知ラセル」

 ぼくたちは、急に泣くのをやめた。

 ぼくは恐れた。それは、西涼を裏切ることを、意味するのではないか? そして裏切るということは、最悪、二人の死を意味するのではないか?

 悌彦も文義と同じように、眉目を厳しくしている。悌彦も低い声でぼくたちに言った。

「オレ、孟起、従ウ、ナイ。文義モ、オレト、同ジ」

 寿成将軍が、羌族の言語を発した。

 ぼくと暁雲は二人から離れる。

 文義と悌彦が直立し、羌族の言語で返答する。そして馬に乗り、駆け去った。

 西涼は、遠い。

 見送りながらぼくは、暁雲を見た。

「暁雲」

「何だ」

「本当に、これでよかったのかな」

「文義と悌彦を引きつけたことがか?」

「うん。あの二人、最後に言った。ぼくたちと戦うことになれば、知らせるって」

「きっとそれが、父さんの狙いなんだ」

「あの二人は命を落とすかもしれない」

「そうだな。でも」

 暁雲はぼくを見て、笑った。

「死なせない。そう思ってるのだろ、馥?」

 ぼくも笑った。

「その通りだよ、暁雲」


 このあと建安十六年(211)秋七月。

 ぼくたちは潼関で、馬超・韓遂の軍と対峙することになる。

 寿成将軍は、自ら命を断った。



 建安十六年(211)。

 ここは許昌。

 ぼくと暁雲は、暁雲と、暁雲のお母さん、李氏が暮らした白さんの家にいた。

 白さんは孟徳のおじ上が若い頃に使っていた間者だ。今は年を取ったので、間者としての務めはしていない。年を取り、体も動かしにくくなったということで、暁雲に間者の技を受け継がせた。孟徳のおじ上もそれに賛成した。

 ――間者の技があれば、生き残れる。

 白さんの大きな目で見られると、ほんとのことを言わないといけないという気にさせられるから不思議だ。

 暁雲は白さんに話した。父上の養子になったこと。曹震という名前をいただいたこと。ぼくと祥の兄上になったこと。

 ほんとうはもっと前に起きたことだけれど、落ち着いて話せるようになるまで、日にちがかかったのだ。

 そして明日には、ぼくたちは潼関へ出発する。

 馬超がついに、韓遂と兵を挙げたからだ。

 しかも悪いことに、長安が抜かれた。それがどのくらいぼくたちにとって悪いことかって? 長安は前漢の都だった。後漢の都洛陽よりも西にある。潼関は、長安と洛陽の間だ。洛陽からぼくたちが暮らす許昌までは約四百五十里(百八十キロメートル)。ね、近いでしょ? 馬超がもし洛陽まで抜いたら、まずいよね。

 万が一のことを考えて、暁雲は間者の師である白さんに、いとまごいに訪れたのだ。ぼくを誘ってくれたので、ぼくもここにいる。

 白さんはほほえみ、深みのある声で言った。

「そうかい。昇――今は曹震か。曹姓を名乗れたのか。よかった。ほんとうに、よかった」

「はい。白さん、お世話になりました」

 暁雲もほっとしたように笑う。

「李氏が生きていれば、今日という日をどんなにか、喜んだことだろうよ。それに」

 と、白さんは、笑みをたたえた目をぼくに移す。

「こんなに立派で、優しい友だちとめぐり会えて――子廉様もよかった。最初のご子息を亡くされてからあなたを授かるまで、若もご心痛でいらしたのですよ」

「孟徳のおじ上が?」

 ぼくは思わず声を上げてしまった。

 白さんはうなずく。

「そう。ご子息のあなただから明かすのですが、若が最も信頼している武将が子廉様なのです。それは昔も今も変わりませぬ」

 ぼくは暁雲を見た。暁雲もにこりと笑ってうなずく。

 白さんは続けた。

「そして最も信頼している軍師が、もう亡くなられた郭奉孝どのでした。偶然にも子廉様と郭軍師は同い年でね。若はお二人を実の弟のようにかわいがっておられた。昇も郭軍師には、ずいぶんよくしていただいたね。最後は看病してあげていたね」

 そんな話、初めて聞く。

 暁雲が白さんに言った。

「はい。白狼山の戦いの後でした。奉孝どのは無理をして従軍していらっしゃいました。戦いには勝ったけれど急に病が進んで――父さんに、看病させてくれって言ったら許してくれた」

 白狼山の戦いは、建安十二年(207)。おじ上、郭軍師、張文遠将軍が、袁紹の息子たちと、彼らが頼った烏丸を破った。赤壁の戦いの前の年だ。

 白さんの奥さんが白湯を出してくれた。この人も、もと間者だ。姓は姫氏という。

「今ごはん作ってるところだから、できたら持ってくるからね」

 ぼくと暁雲は頭を下げた。

「ありがとうございます」

 白さんが困り顔で笑う。

「飛将様のお口に合えばよいのですが」

 ぼくは笑顔で答えた。

「きっと合います」

 姫さんも涙ぐむ。

「昇、ほんとうによかったね。李氏も側室に迎えてもらえば苦労もしなかったろうけれども、あの子がそれを望まなかったからね」

 暁雲とぼくはびっくりして姫さんを見る。

 暁雲が問いを返す。

「ほんとなんですか、姫さん、それ?」

「ああ、ほんとだよ」

「知りませんでした」

 白さんも口を開いた。真面目な顔だ。

「若も、何度も聞いていたよ。側室になれば昇に曹姓を名乗らせてやれる。そうすれば間者のような影の務めではなく、堂々と仕官できるようになると。でもあの子はそれを断った」

 ぼくは話のなりゆきを息をつめて見守る。

 暁雲は、何かを思い出すように下を向く。けれどすぐに目線を上げて、言った。

「母さんは、おれに話してくれた。父さんの側室と同じ頃に俺をみごもったと。側室を見るのが辛くて、白さんのもとへ引き取ってもらったと」

 白さんがぼくを見る。

「子文様のことです」

 曹彰、あざなは子文。孟徳のおじ上と卞夫人のあいだに生まれた四兄弟の次男だ。一緒に巻狩りをしたことがある。弓や馬の扱いが巧みで、でも、いつも偉そうにしていて、他人と交わろうとしない。ぼくのような、年の近い一族の男にも関心がない。ぼくは好きになれない。

 孟徳のおじ上は、自分の息子や娘に冷淡だと思うことが、ぼくにはある。だから暁雲に向ける優しいまなざしや言葉、時に抱きしめてあげたりする行為を見ると、すごく意外に思う。

 ぼくはそれを口にしてみた。姫さんがぼくに同意してくれた。

「そりゃあ、若は李氏を好きだったもの。とても大事にしていたもの。その李氏が産んだ子が昇なんだよ。他の女が産んだ子とはわけが違うよ」

 言って姫さんは、あわてて台所に駆け戻った。彼女が「たいへん、吹きこぼれちまう」と叫ぶ声をぼくたちは聞いた。

 白さんはそんな奥さんをやれやれという目で見送り、暁雲とぼくを静かな目で見た。

「側室になれば、他の夫人たちと同席することも増える。李氏はもともと農家の出だし、侍女上がりだ。だからもしそうなればまた、心を痛めることになる。若も守りきれない」

 暁雲は、目の前にいないお母さんを見ているような顔になった。

「だから母さんは、ここにいることを選んだのか」

 ぼくは、母上が暁雲に言った言葉を思い出す。

 ――お母様にもご事情がおありだったのだと思いますよ。それにお父様も、あなた方母子をそのように扱わねばならぬわけを抱えておられたのかもしれません。暁雲どのを見ていれば、どんなにお父様やお母様から深い思いやりを受けて今日まで育ったかが伝わってきますよ。むろん、暁雲どのご自身も、ご苦労なされてきたことは承知しています。お母様と、お父様を、どうかわかってあげて。

「母さん……」

 白さんが優しく暁雲に言った。

「李氏とおまえは、若の心の支えだった」

 言って、表情を改める。

「若が西涼に兵を進めると言っていたね。馬超と韓遂が兵を挙げたと」

 ぼくたちは同時に返答した。

「はい」

「何か知らせがあがっているかい」

 暁雲が答える。

「寿成将軍を慕う羌族の男たちが挙兵を知らせてくれました」

 文義と悌彦が長安に走って、動きがわかった。その長安も落ちたので、二人は今、洛陽にとめおかれている。

「昇と飛将様に騎射を教えた二人が?」

 ぼくも答えた。

「はい。ぼくたちに約束したのです。もし馬超たちが攻める時は知らせると」

 白さんは間者らしい顔つきになる。

「馬超たちはどうにかして、若たちに手を出させようとするはずだ。勝敗を早く決したいだろうからね。漢中は今年、張魯が取ったそうじゃないか。馬超たちが乱を起こしたから、逃げてきた人も集まっている。漢中から西、蜀は穏やかな山あいの土地だ。馬超たちは若がそこまで取るのではないかと恐れているのさ」

 張魯。五斗米道の教祖の三代目。信者に五斗の米を出させるからこう呼ばれる。

 暁雲にぼくは聞いた。

「そうなの、暁雲?」

「父さんはいつも、家臣やおれたち間者にこう話していた」

 ――中原を平らげねば、この国を立て直せぬ。

 ぼくも聞いたことがある。暁雲は続ける。

「その中原には、当然漢中や蜀も入っている」

 白さんがぼくたちに言った。

「生きて帰るんだぞ」

 翌朝、ぼくたちは馬超たちが陣取る潼関へ出発した。

 潼関を任されたのは、父上。子孝のおじ上。そして徐公明将軍。ぼく、暁雲、徐公明将軍のご子息も同行する。

 おじ上たちは十日後に合流するそうだ。

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