第2話 間者李暁雲、武将になる

 ぼくたちが寝ていると、案の定、物音がした。

 暁雲とぼくは、ぼくの寝床にいた。あ、変なことはしてないから。

 襲撃に備えて、ぼくたちは戦袍のまま寝ていた。

 暁雲が起き上がる。

 ぼくも起きる。

 目と目を合わせて、耳を澄ませる。

 そっと部屋を出た。

 祥と母上も起きている。母上が持つろうそくの灯りを真ん中に、ぼくたちは集まった。

 物音はまだ続いている。

 玄関の方からだ。

 ぼくと暁雲は、互いに剣を持っている。

 江東攻略に出向く前、ぼくは父上から剣を習った。昔から扱えたのだけど、弓よりは苦手だった。

 父上は、これまで、負けたことがない。軍を率いるのも、一対一でもだ。

 いや、もう、ほんとうに、初陣前に江東側ではなくて父上から殺されるのではないかと思うような訓練だった。

 ぼくたちは音のする方へ向かった。

 いる。人影。

 一人、二人……二人だけか。

 相手が、気づいた。闇夜にぎらりと、刃が光る。

 ぼくたちも剣を抜いた。

 暁雲がぼくに耳打ちした。

「おれが戸を開く。外に出そう」

「よし。わかった」

 二人が身構える。

 暁雲が走った。体当たりする。相手が倒れたすきに戸を開ける。相手を引きずり出した。

 ぼくも相手に体当たりした。首に腕をひっかけて外へ引っ張り出す。

 ぼくたちは外に出た。

 相手が手に持つのは、剣だけだ。物盗りかと思ったが、そうではないらしい。

 斬りかかってきた。

 ぼくたちも受けて立つ。

 父上に鍛えられて正解だった。江東でも趙雲と打ち合ったが、孟徳のおじ上からいただいた倚天の剣が良かったこともあり、打ち負かされることはなかったから。

 今回の相手は、趙雲のような一流ではない。が、腕は立つ。

 要するに、刺客だ。

 相手は二人とも、顔を布で隠している。

 闇夜に光る刃の軌跡。金属音。火花。

 暁雲は巧みに上体を反らせて、倒して、斬撃をかわす。さすが間者だ。かわすばかりではない。相手の刃がないところに剣を入れる。むろん相手も斬らせない。

 ぼくはというと、父上とした訓練を思い出した。へとへとになって頭が働かなくなるまで打ち合った。でも、そこからなのだ。そこから体が、攻撃できるようになるのだ。

 ――落ち着け。落ち着け。

 ふーっと息を吐く。

 相手は、背は低いが力は強い。剣の一撃、一撃が、重い。

 ぼくはわずかな隙を見つけて打ち込んだ。

 相手がひるむ。

 剣を逆手に持って、みぞおちを突く。

 相手が腹を押さえてうずくまった。

「馥、そいつ、死んだのか」

「まだ生きてる」

「とどめはまだ刺すな。口を割らせる」

 暁雲は戦っていた相手を地面に組み伏せた。身動きできないようにして、詰問する。

「誰に頼まれた」

「言エナイ」

 片言の漢語だ。

 暁雲が少し考え、大きく、はっきり、ゆっくり言った。

「どこから、来た。西、東、北、南」

「西」

 相手は抵抗しなかった。布で隠れた鼻は高い。目もくぼんでいる。

 暁雲はぼくが押さえつけている背の低い男にも訊いた。

「おまえも、仲間か」

「仲間ダ」

 やはり片言の漢語だ。

「金、クレタ。曹操ノ、一族、殺シタラ、モット、タクサン、金、ヤル、言ワレタ」

 今度はぼくが訊いた。暁雲の真似をして、大きく、はっきり、ゆっくりと発音する。

「西といえば、羌族か」

 羌という漢語は、二人とも聞き取れたらしい。うなずいた。二人が同時に答える。

「オレタチ、羌」

 暁雲がなおも問う。

「誰が、金を、くれた」

 背が低い方が問い返す。

「答エタラ、逃ガシテ、クレルノカ」

「そいつの、ところへ、つれていけ」

「デキナイ」

「なぜ」

「遠イ」

 ぼくも話に入った。

「どこなんだ」

 二人は顔を見合わせた。観念した様子だ。ぼくたちが初めて耳にする言語で話し出す。早口だ。聞き取れない。

 でも一言だけ、漢語が混じっていた。

「孟起」

 ぼくと暁雲は素早く目と目を合わせる。

 暁雲が二人の前に剣を突き立てた。二人が飛び上がる。

 暁雲が怖い顔でにらみつけた。

「今、話したこと、全部、言え」

 鼻が高い方が言った。

「孟起、頼ンダ」

 ぼくは暁雲に訊いた。

「孟起って?」

「馬超のあざなだ」

 背が低い方が言った。

「殺スノ人、他ニモイル。寿成将軍」

 ぼくはまた聞き返す。

「寿成?」

「馬騰のあざな」

 暁雲が答える。嫌な顔をしないところが彼の優しさだとぼくは思う。

 暁雲が剣を突き立てたまま、口をひらく。

「馬騰は、馬超の、父親だろ」

 背が低い方が答えた。

「仲ワルイ」

 ぼくたちは驚きのあまり息をするのを忘れた。

 鼻が高い方がうなずく。

 背が低い方が口を開いた。背が低い方が、鼻が高い方より、漢語はわかるらしい。

「オレタチ、寿成将軍、恩アル。殺ス、シタクナイ。デモ、孟起、恩、ナイ」

 暁雲が眉目をいくらかやわらげた。

「なぜ、言うことを、聞いた」

 背が低い方がぼくたちを見た。

「聞ケバ、オレタチノ家族、生キル。聞カナイナラバ、殺サレル」

 ぼくも尋ねる。

「おまえたちの、家族、今、どこ」

 鼻が高い方が答えた。

「孟起、ツカマエタ」

 ぼくと暁雲は顔を見合わせる。

 要するにこの二人は家族を馬超に人質に取られている。そして大金を渡され、ぼくたち曹氏を暗殺するために許昌に派遣された。その後、鄴にも行き、馬騰をも殺させるつもりだったのだ。

「どうする」

 暁雲がぼくに訊いた。

「孟徳のおじ上のところへつれていかない?」

 ぼくは言った。

 暁雲は難しい顔つきになる。

「でも、もし父さんに従えば、こいつらの家族は殺されるぞ」

「確かに。どうすれば……」

 背が低い方が立ち上がった。

「オマエタチ、モウイイ。オレタチ、オマエタチ、関係ナイ。コレカラ寿成将軍ニ、会ウ」

「狙われていること、伝えるのか」

 暁雲が訊くと、うなずいた。

「寿成将軍、殺ス、シタクナイ。寿成将軍、危ナイ、知ラセル」

 ぼくは急に、この男たちが心配になった。

「家族、死ぬかもしれない」

 背が低い方は、首を横に振った。

「シカタナイ。孟起、オレタチノ家族、殺ス、ドウセ。デモ、寿成将軍、恩、アル。助ケタイ」

 鼻が高い方も立ち上がる。

「モウ、オマエタチ、襲ウ、ナイ」

 ぼくは最後に尋ねた。

「名前を教えてくれ」

 鼻が高い方は、顔をしかめた。

「名前、羌族。オマエタチ、ワカラナイ」

 羌族の名前だから、ぼくたち漢人が聞いても理解できないだろうと言いたいらしい。

 しかし背が低い方は、鼻が高い方にまた、羌族の言語で何か早口で言う。鼻が高い方は、しばらく考えている様子だったが、うなずいた。

 二人は布を取りはずした。

 背が低い方の鋭い目がきらりと光る。人柄は悪くなさそうだ。

「寿成将軍、オレタチニ、漢人ノ名前、クレタ。オマエタチニ、オレノ名前、教エル。文義」

 鼻が高い方も名乗った。

「悌彦」

 ぼくたちも名乗った。

「ぼくは曹馥、あざなは飛将」

「おれは李昇、あざなは暁雲」

 文義が、ぼく、暁雲の順に指差す。

「飛将。暁雲」

「うん」

 ぼくは笑った。

 文義はひざまずき、額を地面につけた。

 悌彦も真似をする。

 文義は言った。

「済マナカッタ」

 悌彦がぼくたちを見た。ぼくたちよりは年上だろうけれど、まだ若そうだ。

「許シテクレ」

 二人は立ち上がり、ぼくたちに拱手し、礼をした。文義が言う。

「鄴ニ行ク」

「気をつけて」

 暁雲に文義は笑った。

 二人は素早く走り去る。

 夜明けが近づいている。

 ぼくたちは丞相府へ歩いた。

 孟徳のおじ上に、報告するためだ。



 一部始終を聞いた孟徳のおじ上は、ぼくたちにこう言った。

「文義と悌彦を、引きつけておけ」

 ぼくは、とっさにはおじ上の意図するところをつかみかねた。でも暁雲は、四年間おじ上の間者として務めてきただけあり、おじ上がぼくたちに命じたいことをすぐさま理解した。

「我々の側につかせるということですね」

「その通りだ」

 ぼくは思い浮かんだ疑問をおじ上に言ってみた。

「ぼくたちが、彼らの信頼を勝ち取ればよいということだと理解しましたが、合っていますか」

 おじ上はぼくにほほえんだ。

「合っている。容易なことではないぞ」

 暁雲が鋭い目をしておじ上に問う。

「いつまでに」

「馬超の動きをもう少し見たい。短くて半年、長くて一年」

「承りました」

 暁雲が言った。ぼくもあわてて続いた。

「引きつけておきます」

 おじ上は楽しそうに笑った。

「おれと来い。会わせたい者がいる」

 ぼくたちは顔を見合わせる。おじ上はぼくたちにかまわず歩き始めた。ぼくたちは足早に従う。

 丞相府の一画にある、いくつかの仕事部屋。そのうちの一つにおじ上は声をかけた。

「文和」

「ここにおります」

 扉が開いた。目つきが鋭い、薄い唇を引き結んだ男が現れた。

 賈軍師だ。姓名は賈詡、あざなは文和。

 ぼくは暁雲に小声で尋ねる。

「会ったことがある?」

「顔と名前は知ってる。でも、話したことはない。馥は?」

 ぼくも小声で答える。

「ぼくも君と同じ」

 賈軍師は、ぼくたちをじろっと見た。

「丞相……この二人は」

 おじ上は整った顔をぼくたちに向ける。

「余の間者として務めていた李暁雲。子廉の子の馥、あざなは飛将」

「丞相の間者として務めていた、と仰せになりましたが、今は仕える主人が変わったということでございますか」

「子廉と飛将の間者になった」

「それはまた何ゆえ……」

「余に不測の事態あった際、余以外の者に仕えたくないと望んだゆえ、聞き届けた」

「間者の望みを聞き届けるとは……」

「この者は赤壁で余の身代わりを務め、多くの将兵を生きて南郡までつれ帰った」

 賈軍師は暁雲を、穴があくのじゃないかというくらい見る。暁雲は表情を変えずにいる。さすが間者だ。ぼくは妙に感心した。

「それはまた、大仕事をやってのけたというわけですな、まだ若いのに。その褒美というところですか、丞相?」

「飛将と仲が良いということもある」

「ただの間者が、子廉将軍のご子息と仲が良いと……」

 賈軍師は不審そうに首をひねる。

 おじ上は笑い出した。

「まったく、お主は疑り深いな、文和」

「まあ、渡り歩いて参ったところが、ところですからなあ」

 ぼくは賈軍師の過去を知らない。暁雲は知っているかもしれない。あとで聞いてみよう。

 賈軍師はおじ上に向き直り、居ずまいを正した。

「それがしはこの二人に、何をいたせばよろしゅうございますか」

 おじ上も眉目を引き締めて賈軍師に向き合う。

「この二人は、馬騰に従う羌族の男二人と戦った」

「それは勇ましいことですな。討ち取ったのですね、彼らがこうして丞相につれられてここに伴われてきたということは」

「口を割らせた。馬超は曹氏、馬騰を暗殺するべく羌族の刺客を放ったことが、この二人のおかげでわかった。しかも羌族の刺客は、この二人に自分の名前まで教えた。このまま我々の側に引き込みたい。馬超に対する際に使うためだ」

「その羌族は今どこに?」

「泳がせている。鄴の馬騰のもとへ、馬超の企みを知らせに走った」

「馬騰がどう出るか、わかりますな」

「文和。この二人に、羌族の刺客を引きつける術を授けてやってくれ」

 賈軍師はぼくと暁雲をじーっと見た。

「名前を教えるくらいだから、少しは気を許しておると見てよろしいでしょうな。それならあとは簡単です」

 賈軍師はおじ上に顔を向け、薄い唇でにやりと笑った。

「お任せくださりませ」

 そのあとでぼくと暁雲にも、にやーっと笑った。

 申し訳ないが、ぼくは内心、気持ち悪いと感じてしまった。暁雲は顔色を変えなかったが、ぼくは変えてしまった……かもしれない。

 おじ上は賈軍師に、不敵な笑みを見せた。

「頼んだぞ、文和」

「かしこまりました」

「丞相!」

 そこへ、許将軍――姓名は許褚、あざなは仲康――が走ってきた。暁雲やぼくと一緒に、南郡まで逃げた将軍の一人だ。ぼくたちを身内のように心配してくれた。おじ上の身代わりを務め上げた暁雲のことを気に入っているし、気にかけてくれている。おじ上の身辺を守っていて、おじ上からの信頼も厚い。縦にも横にも大きいが、全然怖くない。戦えば強いのに親しみやすくて、ぼくとしては好きな人の一人だ。

 おじ上が振り返る。

「仲康、いかがいたした」

 許将軍ははあはあと息を切らせながら言った。

「お姿が急に見えなくなりましたゆえ、探し回っておりました。こちらだと聞き及びましたゆえ、急ぎ走って参りました」

「済まぬな。心配をかけた。文和に用があったのだ」

「さようでございましたか。もう、お済みでございますか」

「ああ。これから戻る」

 許将軍が笑顔になる。かわいい。

 許将軍がぼくたちに気づいた。

「暁雲と馥ではないか」

 おじ上が笑う。

「この二人にも用事を言いつけたところだ」

 許将軍は、ぼくたちに顔を近づけた。

「おまえたち、丞相のご命令、しかとやりとげるのだぞ」

 暁雲もぼくも笑顔で答える。

「必ずやりとげまする」

 許将軍は、まるで親のように、にこりと笑った。

 おじ上は許将軍と仕事に戻った。

 おじ上たちの姿が見えなくなると、賈軍師は指でぼくたちを自分の仕事部屋に招いた。

 扉を閉めるや、賈軍師は、首を傾け、自分で自分の肩をもみほぐす。

「ああ、やっと行ってくれた。あの方の前では気を張り詰めているから、どうも窮屈でいけない」

 ぼくたちは揃って賈軍師を見た。

 これが、賈軍師の本心か?

 賈軍師は、ぼくたちの視線に気づいたらしい。ぼくたちに視線を返した。その目はもう、鋭くはない。

「誤解しなさんなよ。あたしゃね、あの方に忠誠を誓っているのだから。おまえさんがたはあの方の秘蔵っ子らしいねえ。ご自分のお子たちには冷淡というか無頓着なのに、おまえさんがたにはあんなに優しいところをお見せになられている」

 ぼくは舌を巻いた。そこまでお見通しなのか。

 暁雲を見ると、その表情は固い。

 ぼくも居心地が悪い。この人のことをよく知らないためもある。

 賈軍師は暁雲に言った。

「暁雲といったね。おまえさんは間者だったのだから、あたしが丞相にお仕えするまでのことは聞いて、知ってるのだろう?」

 暁雲は固い表情のまま、答える。

「はい」

「どんな風に教えられたんだい。言ってごらん」

「董卓の娘婿牛輔の軍中におられた。牛輔が死んだあとは李傕、張繍にお仕えになった。丞相が張繍を征伐した際は軍師の策により丞相は敗れ、ご子息や甥を亡くされた。官渡の戦いの際に張繍と共に丞相に帰伏なされた」

 賈軍師は目を細める。

「ご名答。まったく、その通りだよ」

 ぼくは、恥ずかしながら、今、賈軍師の過去の経歴を知った。そして、きっと、「軍師の策により丞相は敗れ、ご子息や甥を亡くされた」というあたりが、なんとなくこの方の前にいると居心地が悪くなる原因だと気がついた。これはぼくの勝手な想像に過ぎないけれど、賈軍師自身がおじ上を破ったことを忘れていない上に、そのことを負い目に感じているためもあるかもしれない。

 賈軍師は今度は、ぼくを見て、尋ねた。

「飛将というのかい」

「はい」

「今、父上は、夷陵の守備についておられるそうじゃあないか」

「南郡にいる、おじの子孝と、連携しています」

「お宅の父上、丞相と何かあったのかい」

 どきりとした。

 そういえば父上は、おじ上の前でだけ、暗い目を熱くしていた。ぼくはそれを正直、気持ち悪いと思っていた。

 それが、南郡の城に着いてからは、憑き物が落ちたようにすっきりした目つきになっている。

 父上は何と言ったか。

 ――長年の悩み事がなくなった。

 ――話せることではなかった。

 ぼくはこう答えた。父上の名誉に関わると直感したからだ。

「存じません」

 賈軍師は、薄い唇をゆがめた。

「そうかい。息子のおまえさんの前で言うことじゃあないと思ったんだけれども、いやね、どうも丞相を見る目が変だと思っていたからね。知らないのならあたしもこれ以上追及しないよ」

 ぼくは嫌な予感がした。父上とおじ上の間に、何かがあったのだ。そしてそれは、きっと、ぼくなんぞが触れてよい話ではない。

 賈軍師は椅子に腰かけ、ぼくたちにも座るように促した。

「さて、本題に入らせてもらうよ。羌族の二人を引きつけておくということなのだけれども、これからもその二人には近づけるのかい」

 暁雲と賈軍師の間で問答が始まった。

「鄴にいる馬騰のもとへ行ったはずですから、そこへ行けば会えると思います」

「なるほどね。言葉は通じるのかい」

「片言なら通じます。一人は多少理解できるようでしたが、もう一人はそこまで堪能ではないようでした」

「それなら説得はできないと思った方がいいね。それ以外の手を考えよう。羌族だよね。それなら、弓や馬の扱いに長けているはずだ。それを教えてくれと頼むのはどうだろう」

 それなら渡りに船だ。ぼくは身を乗り出した。

「ぼくは弓や馬の扱いには多少自信があります。それを糸口に近づいてみます」

「それはいい」

 賈軍師が愉快そうに笑った。

「年がら年中馬騰に張りついているわけでもないだろうから、近づくのはそれほど難しくはないはずだ。丞相の名代として馬騰に面会を申し込む。彼らは馬騰のそば近くに置かれているはずだから、彼らが許昌で難儀していたところをおまえさんたちが助けたことにしておけば、簡単に会わせてくれるはずだ」

 賈軍師は立ち上がった。

「丞相に話してくる。おまえさんたちはここで待っておいで。ああ、その辺にある竹簡には触りなさんなよ。見られたら困るものも多いのでね」

 暁雲がすかさず言った。

「それなら、それがしたちも参ります」

 ぼくも同調する。

「おつれください」

 賈軍師はぼくたちを見ていたが、ふっと笑った。

「おまえさんたちはなかなか頭がいいと見えるね。さすが丞相の秘蔵っ子だ。じゃあ、おいで」

 おじ上は賈軍師の話を聞くと、すぐに馬騰に宛てて書をしたためた。

 ぼくたちはそれを持ち、鄴へ向かうことになった。賈軍師も、同行してくれることになった。



「ちょいと、おまえさんたち、駆け過ぎだよ」

 賈軍師がはあはあと息をつく。

「あたしゃ、じじいなんだから」

 ぼくと暁雲は、振り返った。

 許昌から鄴へ行く途中である。

 よく晴れた空と、土煙が立つ大地はどこまでも広がる。

 馬を歩ませ、賈軍師はぼくたちの間に来た。嫌みたらしい目つきでぼくと暁雲を代わる代わるにらむ。

「老人をいたわれと、教わってこなかったようだねえ、ええ? 儒家ぎらいの丞相の、秘蔵っ子だけあるってもんだ」

「申し訳ございません」

 暁雲が頭を下げる。

「お体、お辛いですか」

 ぼくも尋ねる。

「まあ、同行すると申し出たのはあたしなんだから、悪いとすればあたしだよ、おまえさんたちじゃあないことだけは確かさ」

 賈軍師は背筋を伸ばした。

「さあ、鄴はまだ見えちゃあいないんだから、先を急ぐよ」

 そう言って、馬に鞭をくれた。

 賈軍師の姿が一気に遠ざかる。

 ぼくたちも、駆けた。


 馬騰が勤める政庁に着いた。

 文義と悌彦から弓馬を教わる名目なので、ぼくと暁雲は戦袍を着ている。賈軍師は平服だ。

 賈軍師はぼくたちの前に出ると、まず馬騰に面会を求めた。

 通された部屋に、彼はやって来た。

 大きい。許仲康将軍と並んでも、ひけを取らないだろう。顔立ちも優れている。人柄の良さが初対面のぼくにも伝わる。文義や悌彦が慕う理由がわかった。

「曹丞相の名代として参られたというのは、あなた方ですかな」

 声も聞いていて耳に心地よい。安心する。

 すぐあとから、文義と悌彦も入ってきた。ぼくたちをみとめると、文義は笑顔になり、ぼくたちを指差した。

「飛将! 暁雲! ナンデ、ココ、イル?」

「なんだ、知り合いか、文義?」

 いぶかる馬騰に、暁雲が即座に言った。

「許昌で彼らが難儀していたところを、それがしらが助けました」

「許昌で? 鄴へまっすぐに来たのではなかったか?」

 ぼくも言った。

「道に迷っていたのです。それがしらが鄴への行き方を教えました」

 馬騰が文義と悌彦を見る。疑っている。

 賈軍師が、にたーっと笑う。

 ぼくたちは文義と悌彦に、一生懸命、手振りで合図した。話を合わせろ。

 悌彦は、あからさまに「オマエタチ、ナニイッテル?」という顔をする。ああもう、伝わってない。

 でも文義には少しは伝わったみたいだ。作り笑いを浮かべて彼は、馬騰に答えた。

「飛将、暁雲、アッテル。オレタチ、道、マチガエタ。飛将、暁雲、教エテクレタ。オレタチ、助カッタ。ホント、コレ、ホント」

 馬騰はぼくたちに、顔を向けた。

「それがまことならば……わしの部下が、世話になり申した。この通り、礼を申し上げる」

 大きな手と手を拱手の形にし、頭を下げた。

 ぼくたちもあわてて拱手を返す。

 賈軍師が、にんまりと笑って、うんうんと頭を縦に振る。

 そして、ぼくを横目で見た。

 ぼくは馬騰の前に一歩、大股で進み出た。

「お願いがあります!」

「――何かな?」

 いくぶん戸惑った様子で馬騰が問う。

 ぼくは、大声を張り上げた。

「ぼくたちに、羌族の弓馬の術を、教えてくださいませ!」

 馬騰は、大きな目をますます見ひらいた。

 すると文義が張り切って飛び出した。

「寿成将軍! オレ、教エル」

 悌彦も文義の隣に並ぶ。

「オレモ!」

 馬騰は、明るい声で笑い出し、羌族の言語で文義と悌彦に話しかける。二人は両手を高く上げて笑顔になった。

 何と言ったんだ? ぼく、暁雲、賈軍師が聞きたそうな顔をしていると、馬騰は説明してくれた。

「城外へ出る許可を出した。外ならば存分に駆け回れるだろう。羌族の技、しかと学ばれい」

「ありがとうございます!」

 ぼくが一礼すると、馬騰は目を細めた。

 賈軍師が暁雲に笑みを向ける。

「おまえさんも教わっておいで」

 暁雲がびっくりして見返った。

「それがしは間者です」

「間者だって馬に乗るし、弓矢も扱うじゃあないか。生き残る術は、いくつあっても邪魔にはならないだろう?」

 ぼくも暁雲の腕を取った。

「行こう、暁雲」

 暁雲は、困り顔のままだ。

 すると馬騰がそばに来た。暁雲に優しく声をかける。

「お主、間者なのか」

「は――はい」

「間者にしておくのは惜しいな」

「え?」

 驚く暁雲の肩に、馬騰は大きな手をそっと置いた。

「お主の受け答えや立ち居振る舞いを見ておれば、誰もがわしと同じように思うであろう。お主は姿も良いし声も良い。腕も立ちそうだ。どうだ、いっそのこと、武将になっては」

 暁雲は何かに打たれたように動かない。

 馬騰の目は、温かかった。

 文義が羌族の言語で馬騰に話しかけた。馬騰も羌族の言語で応じる。

 文義が悌彦を振り返り、うなずいて見せた。悌彦は暁雲の前に行き、笑顔で言った。

「行コウ」

 暁雲は、一瞬泣きそうな顔つきになった。しかしすぐに眉目を引き締めて、馬騰に向き直る。

「将軍。文義と悌彦から、ご子息の話をお聞きになりましたか。将軍のお命を狙っています」

 馬騰も眉目を厳しくした。

「聞いている」

 暁雲は声を強めた。

「このままでは危険にさらされます。対処なされませ」

 馬騰は、ほほえんだ。その笑い顔は寂しげだった。

「案じてくれるのか」

「はい」

「超も、お主のようならば、よかったのだがな」

 馬騰は、暁雲の肩を優しく叩いた。

 暁雲は、ほんとうの父親を見るような目で、馬騰を見つめていた。


 鄴の城外で、教わった。

 広がる大地の上、文義と悌彦が鞍や手綱をはずした馬に乗って、走る。

「コレ、デキル、ダイジ」

 悌彦がぼくたちにも同じようにしろと手振りで示した。

 動く馬の上で、体が落ちないようにするだけでも難しい。そんなぼくたちを、賈軍師は、「よくやるよ」とでも言いたげに眺めている。

 裸の馬に乗れるようになると、走る馬に乗ったまま弓を引き、矢を放つ練習が始まった。

 ぼくも、暁雲も、絶対に騎射ができるようになるため、必死に繰り返した。

 馬超と戦うのは、必定。彼の武芸は、随一だ。

 賈軍師も、だんだん真剣な顔つきになってきた。

 文義が言う。悌彦の方が文義よりも騎射がうまいらしい。

 悌彦はなんと、走る馬の上で体を半回転させた。馬は前に向かうが、悌彦は後ろを向く。そのまま弓を構え、矢を放った。

「できるのか?」

 ぼくはぼくに問う。答えはすぐに出た。

「できるかできないかじゃない。やるかやらないかだ」

 ぼくは冑と胸当てだけつけて、悌彦の真似をした。暁雲も同じようにする。

 馬の上で体を、馬の頭と反対向きにするのは、暁雲の方が先にできるようになった。

 暁雲に負けない。

 そう思ってぼくも、やり続けた。そして、できるようになった。

 悌彦がほめてくれた。

「飛将、暁雲、ヤルナ」

 文義も手を叩いて笑った。

「オレ、オマエタチ、スゴイ、認メル」

 賈軍師も、にやりと笑う。

「とんでもない子たちだねえ、まったく」

 暁雲は、ぼくに言った。

「馥。おれは、武将になりたい」

 ぼくは暁雲に、力強くほほえんだ。

「暁雲。一緒に戦おう」

 それを聞いていた賈軍師が言った。

「あたしが丞相に頼んでやろうか。おまえさんが武将になれるように」

 暁雲が驚いて賈軍師を見る。

「まことですか、賈軍師?」

「ああ。おまえさんがたは、丞相からの頼まれ事を半ばやりとげたようなものだからね。これはあたしからのご褒美と思ってもらってかまわないよ。ただ、まだまだ彼らを引きつけておく努力は続けなきゃあならないがね」

 暁雲が頭を下げる。

「ぜひともお願い申し上げます」

 ぼくも頭を下げた。

「ぼくからもお願い申し上げます」

 賈軍師は重々しくうなずいた。

 建安十四年(209)。

 暁雲は、武将への道を歩み始めた。

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