我が名は曹飛将
亜咲加奈
第1話 ぼくは曹馥、あざなは飛将
目の前から、肉が消えてゆく。
がつがつと、ぼくたちが、食らっているからだ。
ぼくの隣にいるのは、李昇、あざなは暁雲。数えで十八歳。
孟徳のおじ上――曹操と彼の侍女との間に産まれ、間者として務めている。
おじ上にそっくりの切れ長の目、通った鼻筋、引き締まった長身。だから今回の戦い、赤壁の戦いでは、逃げる時におじ上の身代わりを務めたのだ。
そしてぼくは、この物語の主人公。
孟徳のおじ上の従弟、曹洪の実子、曹馥。
あざなはまだない。数えで十四歳。
黒目がちの甘い顔立ち、弓馬で鍛えた体にはこれから筋肉がついていく、と思う。
ぼくたちは一心不乱に肉を食っている。
無理もない。三日三晩飲まず食わずで赤壁から駆け通してきたのだから。
ここは南郡。
子孝のおじ上――曹仁が守る城内だ。
暁雲は、関羽と語らい、従ってきたぼくたち将兵を救ってくれた。
ぼくは父上から暁雲を守れと命ぜられた。
ぼくは、自分で言うのも何だけど、頑張った。
走る馬の上から振り返って張飛の頬に矢をかすめさせた。
夏侯恩どのから奪った青釭の剣を振るう趙雲と、孟徳のおじ上から授かった倚天の剣で打ち合った。
ぼくたち二人は同時に、一皿の肉に手を伸ばした。
目と目が、かち合う。
「おれが早かったよな?」
暁雲の目が鋭くぼくを刺す。
「違います。私の方が先でした」
ぼくも眉をつり上げる。
「だからそれ、おれの前にあったって」
「違うよ」
ぼくは暁雲をにらみつけ、大声で言い放った。
「その肉は、ぼくの前にあった!」
父上は呆気にとられている。
孟徳のおじ上も、元譲のおじ上――夏侯惇も、子孝のおじ上も。
無理もないか。
ぼくはこれまで、人前で大声を上げたこともなければ、自分の言いたいことを言いたいように主張をしたこともなかったからだ。
だいいち、自分を呼ぶ時の言い方だっていつもと違う。おとなみたいに「私」と言っていたのに。
ぼくは暁雲と睨みあう。
と、そこへ、手が伸びた。
「やかましい、わんぱく坊主ども」
言葉の割には静かな声だった。
程軍師――姓名は程昱、あざなは仲徳どの。ぼくたちと一緒に、逃げてくれた一人だ。
程軍師の手は、ぼくと暁雲の襟首をつかんでいる。
ぼくたちは、我に返った。
二人とも、顔が真っ赤だ。
「喧嘩をするなら、食い終わってからにしろ」
言って程軍師は、肉を同じ大きさに二つに切り分けると、ぼくたちの前にある皿に乗せた。
「食え。同じ大きさだ」
程軍師は、長身で体格もよい。どっしりとした声で言われると、逆らえない。
ぼくたちはおとなしく肉にかぶりついた。
程軍師がにんまりと笑う。
「まったく、おまえたちを見ていると、せがれどもが小さかった頃を思い出すよ」
父上が済まなそうに頭を下げる。
「程軍師、申し訳ありません」
「なに、男の子二人にはよくあることだ」
孟徳のおじ上も笑いながら言った。
「まるで二人の親のようだったな」
「親と言うよりは、爺さんでしょう」
程軍師はぼくと暁雲との間に椅子を持ってきて座った。
「もう喧嘩するなよ。おまえたちはこれから、丞相を助けて働くのだから。結束がだいじだ、結束が」
「おい、馥」
元譲のおじ上が声をかけた。
「何ですか」
ぼくは口の中の肉を飲み込んでから返事をした。
「おまえ、そんな話し方、していたか?」
「しておりません。今まで猫をかぶっていましたから」
もうしかたがない。
ぼくは背筋を伸ばして、真正面から向き合った。
おじ上の隣には、父上も座っている。
ぼくは言った。
「これがほんとうのぼくです」
「なぜ今まで隠していた」
父上が静かな口調で問う。
ぼくは父上をまっすぐに見て、答える。
「父上がずっと、親戚づきあいもろくにしないで、ぼくや祥、母上のこともおかまいにならなかったから、ぼくだけでも人当たりをよくしなければと思っていたからです。学問に精を出したのも、武芸に励んだのも、父上にぼくを見て欲しかったからです」
祥とは、ぼくの、四歳下の妹である。
父上は、整った顔を、痛そうにゆがめた。けれどすぐに顔を上げ、ぼくに言った。
「馥」
「はい」
「すまなかった」
ぼくは肉を食べるのも忘れて父上を見つめた。
暁雲も手にした肉を皿に置く。
父上は続ける。
「これからは心配ない。おまえも、祥も、梁氏のことも、だいじにする」
梁氏。父上よりも八歳上の、ぼくと祥の母上だ。
食卓を囲む誰もが静まり返る。
ぼくはその沈黙を破った。
「何か、あったのですか、父上」
「ああ」
「それは何ですか」
「長年の悩み事がなくなった」
「悩んでおられたのですか」
ぼくは身を乗り出した。
「話してくださればよかったのに」
ぼくの黒目がちの目に、涙が浮かぶ。
「ぼくに――ぼくたちに、相談してくださればよかったのに」
最後は涙で声が詰まってうまく伝えられなかった。
「話せることではなかった」
父上が目線を下げる。
「でも」
ぼくの服の裾を、暁雲が引っ張った。
暁雲は、首を横に振った。これ以上言うな、と目で訴えてきた。
ぼくは素直に腰を下ろし、涙を手の甲でぬぐった。
ぼくの背中に、程軍師が、手を添えてくれる。
大きな、温かい、優しい手だった。
許昌に帰る前の晩、ぼくと暁雲は、孟徳のおじ上に呼ばれた。
ひざまずこうとすると、止められた。おじ上も立っている。
そのかたわらには、父上がいた。
背が高く、その体は鍛え上げられている。肩や胸の筋肉は鎧のようだ。けれども腰から下はすらりと伸びている。
孟徳のおじ上は平服だったけれど、ぼく、暁雲、父上は戦袍姿だ。
孟徳のおじ上が言った。
「暁雲」
「はい」
「おまえは、子廉の邸に住まえ」
「えっ?」
思わず声を上げる暁雲。ちなみに子廉とは、父上のあざなだ。
ぼくも驚く。
おじ上は続ける。
「子廉には夷陵の防備を任せる。許昌に帰るのは、まだ先だ。馥と共に、子廉の留守を守れ」
「承りました」
「昇」
おじ上が暁雲を、名で呼んだ。
また暁雲が、顔を上げる。
「頼んだぞ」
ぼくは暁雲の横顔を見守った。彼の切れ長の、かげりと憂いを帯びた目に、光るものが見て取れた。
「馥」
「はい」
ぼくが孟徳のおじ上に向き直る。
「おまえは騎射が得意だったな」
「はい」
ほんとうは自信が持てなかったが、すぐに答えた。
「よりその腕を磨け」
おじ上の整った顔に、一瞬、烈しい色が上る。
「次は西涼だ。弓馬に優れた兵がいる。おまえの技が物を言う」
ぼくは、身が引き締まる思いがした。
なんとこの中原には、敵が多いことだろう。
その敵に、おじ上は、父上は、暁雲は、そしてぼくは、いつまで立ち向かえばいいのだろう。
思ってぼくは、おじ上に約束した。
「必ず」
「そういえばおまえには、まだあざながなかったな」
「ありません」
「飛将」
かつて、呂布は、そう呼ばれた。もともとは前漢の武将李広が匈奴から「飛将軍」と恐れられたことに由来している。呂布も李広も弓術と馬術に優れていた。
そばで聞いていた父上と暁雲が目をみひらく。
「ぼくが、呂布や李広と同じ、とおっしゃりたいのですか」
「飛将と呼ばれたのは、李広の方が先だろう」
おじ上が愉快そうに笑う。
「ぼくが、あの李広と同じ?」
「そうだ」
信じられない。
でも、とぼくは考え直す。
もっと稽古をするしかない。逆に言えば稽古をすれば、今よりは技術が向上する。
実戦ならば、より早く、熟達するはずだ。
西涼。まだ見たことがない。訪れたこともない。
――でも。
ぼくは答えた。
「ありがたく頂戴いたします」
呂布も、李広も、優れた将だった。しかしその最期は悲惨なものだった。
でも、ぼくは、彼らのようにはならない。
「西涼の馬超が兵を集めている。しかし馬騰――奴の父親は、鄴にいる。弟たちも一緒だ」
おじ上はぼくと暁雲に言った。
「馬超と馬騰。二人が手を組むかどうか。許昌に戻った後、探るのだ」
と、ここまでの話が、ぼくが「飛将」になった理由だ。
建安十三年(208)、江東攻略――のちの世に言う「赤壁の戦い」に失敗した孟徳のおじ上、漢の丞相曹操は、ぼくたちと許昌に引き揚げた。
そして攻めとった土地を一族や家臣に任せた。
南郡には、曹仁――ぼくの父上の実の兄を。
夷陵には、ぼくの父上――曹洪を。
襄陽には、夏侯惇――元譲のおじ上を。
そして合肥には、張遼、李典、楽進の三将軍を。
許昌に出立する前の晩に、ぼくと暁雲は、孟徳のおじ上から、「馬騰と馬超が手を組むかどうか探る」と言われた。この二人は父子だ。
孟徳のおじ上の話には、続きがあった。
「馬騰は鄴で、警護の役についている。おれが今年、召し出した。せがれが三人いて、馬超は長男だ。招いたが、奴は官に就かなかった。今は馬騰の軍を率いている」
父上が言葉を継いだ。
「次男と三男も鄴で官に就いている」
ぼくは疑問に思った。
なぜ、馬超だけが、一人残ったのか。
なぜ、馬騰は、鄴に来たのか。
孟徳のおじ上が、また言った。
「馬騰には韓遂という義兄弟がいた。しかし仲が良かったのは最初のうちだけで、互いの領地に侵入しあうようになった。そこで反目し、馬騰だけ鄴に赴いたというわけだ」
おじ上は父上を見た。父上がうなずき、目をぼくと暁雲に移す。
「馬騰の領地を馬超に守らせるためだろう。しかし馬超は漢中の豪族と手を組んでいるという情報も入ってきている。仮に馬騰と馬超がおれたちを挟み撃ちするなら、手を打たねばならない。だがもし、馬超だけがおれたちを攻めるなら、奴を打たねばならない」
孟徳のおじ上は、ぼくと暁雲に近づいた。
白い手を、ぼくと、暁雲の肩に置く。
おじ上の整った白い顔が、ぼくたちの前にある。
「子孝も子廉も元譲も置いていく。暁雲、飛将。頼れるのは、おまえたちだけだ」
ぼくも暁雲も、しばらく黙っていた。
口を開いたのは、暁雲だった。おじ上に――暁雲にとっては、実の父上――に、真剣なまなざしを向ける。
「父さん」
「何だ」
おじ上の声音は、沁みるように優しかった。
「おれも父さんに、頼みたいことがある」
「言ってみろ」
「おれを、子廉将軍と、馥の間者にして欲しい」
ぼくと父上は、驚いた。
父上は、でも、すぐに、合点がいったようだった。無言で暁雲を見据えるおじ上を見て、暁雲に言った。
「馥と一緒にいたいのか、暁雲」
暁雲は父上を見て、答えた。
「はい」
ぼくはもう一度、驚いた。
ぼくは、いわゆる「長坂坡の戦い」で、父上の軍からはぐれてしまった。初陣だったから。周りが見えなかったから。焦っていたから。恥ずかしすぎる。穴があったら入って三日くらい出てきたくない。
それを迎えに来てくれたのが暁雲だ。おじ上は、弓馬の技に優れたぼくを死なせたくなくて、暁雲にぼくを守るようにひそかに命じていたそうだ。
暁雲はおじ上の故郷で生まれた。母上は貧しい農民の娘で、おじ上が潁川で黄巾賊から助けて、おじ上の侍女になった。かわいらしくて、優しいひとだったらしい。おじ上が董卓を討ち果たせずに故郷沛国に帰った。その後、暁雲が生まれた。
余談だけど、おじ上は董卓討伐の義勇軍を募り、長安へ移る董卓を追撃した。けれど滎陽で、董卓の大将徐栄がおじ上の軍を返り討ちにした。
その時におじ上の命を助けたのが、ぼくの父上だ。乗っていた馬を失ったおじ上を、自分が乗っていた馬に乗せようとした。ぼくの父上と子孝のおじ上は早くに両親を亡くし、おじ上の家で育った。
昔のことを滅多にしゃべらない父上が、その時のことだけはぼくに話してくれた。だから今でも一字一句正確に思い出すことができる。
――兄上、おれの馬に乗れ!
――洪、ばかなことを言うな。おまえが死ぬぞ。
父上は、そこで、叫んだ。
――天下におれがいなくてもいい。でも、あなたはいなくてはならない。
父上はおじ上を無理やり馬に押し上げた。そして自分はその隣で走った。汴水という川まで来た。川は深く、騎馬のままでは、まして徒歩では渡れない。父上はおじ上を草むらに隠して待たせ、船を手に入れて戻ってきた。その船に乗って、故郷に逃げた。
ぼくが記憶をひもといている間、誰も何も言わなかった。
暁雲の横顔は、矢を放つ前の弓弦のように張りつめている。
おじ上の整った顔が、ふっとやわらいだ。
「許す」
「父さん」
「洪と、馥の間者になれ」
暁雲は、五回息を吸って吐いた後、おじ上に抱きついた。おじ上もしっかりと受け止め、固く抱き返す。
「父さん、ごめん」
「いいんだ」
「父さんが死んだら、おれたち間者は、後を継いだ人に引き継がれる。おれは父さんのために、母さんのために、間者になったんだ。父さんの他の人に仕えたくない」
「わかっている」
父上は優しい目で、おじ上と暁雲を見ている。
「父さん言ってたろ。母さんも言ってた。父さんは子廉将軍を一番信頼しているって」
おじ上と暁雲は、お互いに体を離した。おじ上がぼくたちを呼ぶ。
「暁雲、馥」
ぼくたちは揃って「はいッ」と背筋を伸ばす。
「洪の留守を守れ」
「はい!」
「馬騰の件は、沙汰を待て」
「承りました!」
おじ上は父上を見た。その目は、優しい。
父上もほほえみを返した。ぼくたちに近寄り、ぼくと暁雲を、厚い胸に抱きしめる。
暁雲は、硬直している。
ぼくも驚いて声が出せない。
「馥。暁雲。任せたぞ」
父上はいつも温かい。小さい頃、寒い夜、妹の祥とよく、父上の布団に入り込んだ。
――ちちうえ、あったかい。
ぼくはまだ「良い子」のふりをしていない頃で、素直だった。
――自分の布団で寝ろ。
――つめたいので、いやです!
祥はそう言って、父上に抱きつく。病弱で寝つくことが多いのだが、元気な時はやかましくて生意気だ。今、どうしているかな。
――おまえたちと寝ると、体が伸ばせない。起きた時に首や肩が痛くなる。
――ぼくたちは、あったまります!
――母上のところへ行けばいいものを。
――この子たちは父上が大好きなのですよ。
母上がにこにこしているのは、声でわかる。
――暖めて差し上げてください。
そう言って母上は、ぼくたちを布団の上からさすってくれた。母上、元気でいるかな。
「お任せください」
ぼくは父上の背に腕を回して、答えた。泣いているとばれなければいいなと思った。
祥は目をうるませて暁雲を見つめている。
まったく、こいつは、年齢に関係なく、美形が好きだ。
だから今、暁雲を前にして、頬を紅色に染めている。
数えで十一歳のくせに、ませている。
そう、ぼくたちは、許昌の邸に戻ってきた。
出迎えた母上と祥の前に、ぼくと暁雲は立っている。
まあ、こいつも、兄のぼくが言うのも何だけれど、すれ違った人が必ず振り向くほどの美少女なのだ。母上も、母上の実家も美形の一族なのと、父上が整った顔立ちをしているので、ただ単にかわいらしいだけではなく、きっぱりとした目鼻立ちをしている。だから品がある。
「はじめまして。わたくし、曹祥と申します」
何だよ。普段は生意気なくせに、こんな時だけかわいい女の子になりやがって。――おっと、これはぼくの心の声。
暁雲は愛想よくほほえんだ。
「はじめまして、お嬢様。李暁雲と申します。丞相の間者でございましたが、このたび曹将軍と、飛将どのの間者として務めることになりました」
「飛将?」
ぼくは祥に答える。
「ぼくのあざなだよ。孟徳のおじ上からいただいたんだ」
「えっ。どうして。わたくしには?」
「物じゃないんだから、あざなは」
「馥兄さまだけ、ずるい」
祥はぶうとふくれた。口がとんがっている。かわいい顔が台無しだ。
「おまえは戦に行ってないだろうが」
「中へ、入りませんか」
母上が暁雲に言った。
暁雲を見た時から、母上も目をうるませている。その理由が、ぼくにはわかった。
ぼくたちは卓を囲んで座った。
暁雲がぼくを見て、促した。ぼくはうなずき、母上にまず伝えた。
「孟徳のおじ上から、暁雲をここに住まわせてやってくれと頼まれました。父上や子孝のおじ上、元譲のおじ上が江東の近くに残る間、ぼくと一緒に留守を守れと仰せ付けられたのです」
孟徳のおじ上は、母上宛に手紙を書いてくれた。それを見せる。
母上は受け取って読み進めていたが、途中、目をみひらいた。
「父上の文もあるのですね」
ぼく、祥、暁雲、六つの目が手紙に吸い寄せられた。
確かに父上の字だ。馥と暁雲に留守を任せた、よろしく頼むと書いてある。
母上が暁雲に、黒目がちの瞳を向けた。この瞳は、ぼくと祥も受け継いでいる。
「何年にお生まれになったのですか」
「初平二年(191)です」
「――私もその年に、赤子を産みました。すぐに亡くなりましたが」
やっぱりそうだ。母上は、ぼくたちの亡くなった兄上、曹震を思い出していたのだ。生きていればちょうど、暁雲と同じ年齢だから。
母上の美しい瞳から、涙が流れ落ちた。
「震、といいました。わたくしは出戻りでした。以前の夫との間に子供が授からず、離縁されたのです。やっと生まれたと喜んだのですが……」
きれいな形の指で涙をぬぐう。
「飛将どのも、お嬢様も、立派な方だと、それがしは思っております」
暁雲が優しくほほえむ。
「それがしは数えで十四の年に、母を亡くしております。許昌に病が流行った時でした。母を亡くした後、丞相の間者になったのです」
「お父上は?」
ぼくは知っている。だから何も言わずにいた。暁雲は、孟徳のおじ上の実の息子なのだ。
暁雲は面を伏せた。
「事情があり、離れて暮らしております」
「会っていますか」
「――ええ」
母上は実の息子を心配するような顔になっている。
「あなたがわたくしどもの家に住まうことを、お父上はご存じなのですか」
「はい」
「丞相の間者でなくなることも?」
「――そうです」
「わたくしには、あなたとお父上の事情はわかりません。けれども、あなただけが背負うものがあるのだと、感じました。この家に住まう間、何か困り事があれば、遠慮なくおっしゃっていただけませんか」
暁雲は母上を、ほんとうのお母さんを見るような顔で見つめていた。
ぼくは暁雲、それに父上から、暁雲のお母さん――李氏の話を聞いている。優しくて、我慢強い暁雲を見守ってくれたひとだ。
でも、夜な夜な、幼い暁雲も住まう家に通ってくる孟徳のおじ上を、暁雲がどう思っていたか。それも聞いて知っているので、何ともいえない。
「はい。そのようにいたします」
「暁雲どの、と、お呼びすればよろしいのですか」
「はい」
母上はまた涙を浮かべた。
「あなたを、実の息子のように、思うてよろしいですか」
暁雲も目を赤くして答えた。
「嬉しい限りです」
母上は、にこりと笑った。母上の笑い顔は、とてもかわいい。
「わたくしも、実のお兄さまと思ってよろしいですか」
祥がすかさず暁雲に体を寄せる。すると思った。ぼくは閉口した。
暁雲は祥に笑顔を向けた。相手の望む反応を即座にできるあたり、さすが間者だと思う。
「ええ、どうぞ。それがしはひとり子なので、こんなにかわいらしい妹ができて光栄です」
「わたくしも嬉しいです。では、暁雲兄さまとお呼びしてよろしいですか」
「ええ」
「わたくしのことは祥とお呼びになって」
目をきらきらさせながら見つめる。性格を知らない人が見れば純真な美少女だと思うだろう。
母上が庭先に目をやる。
「今のところ困り事は起きていませんが、やはり丞相がご不在の間、物盗りが多く出たとよく聞きました。そうですね、祥」
「ええ、母上。うちも狙われる恐れがあります」
父上には資産がある。でもぼくたちの暮らしは、地味なものだった。ぼくは初陣なのに、新しい甲冑さえ作ってもらえなかったくらいだ。
「では、飛将どのと一緒にお守りいたします」
「ぼくのことも、馥でいいよ。母上の前でも」
ぼくは口を挟んだ。暁雲があわてる。
「ですが、それでは――」
「君はもう、ぼくたちの家族みたいなものだろ」
母上もうなずいた。
「馥の言う通りだと、わたくしも考えます」
暁雲はしばらく固まっていた。
その切れ長の、憂いを帯びた目が、涙でやわらいだ。
「暁雲兄さま」
祥が目をきらきらさせて呼びかける。おまえ、近寄りすぎだ。離れろ。ぼくと代われ。
ぼくも暁雲のそばに寄った。
母上も優しい目で見守る。
「はい……」
暁雲は涙を流していた。
その日の夜、ほんとうに物盗りが現れる。その話はまた次の時に。
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