そして、夏の終わりに君を刺す
紫陽花 雨希
本編
私たちが勤める病院のすぐそばにある居酒屋は、とても美味しい店だった。蛍光灯の光に満ちた明るい店内は狭くて、カウンター席が五つと座敷が二つしかなく、その全てが埋まっていた。店長の好みなのか、宇多田ヒカルの曲がずっとかけられている。壁にはパワーポイントで作ったらしいメニューの紹介ペーパーがぺたぺたと貼られていて、どれも魅力的で食欲をそそった。カウンターの中では、店長のおじさんが汗だくになりながら鉄板で具材を焼いていた。あまりにもしんどそうなので、メニューを追加するのが申し訳なくなるほどだった。常連客らしいおじさんたちが、店員のおばさんと楽しそうに談笑している。昔ながらの地元のお店、という雰囲気だが、私たちのようなよそ者にも丁寧に接客してくれる良い店だった。
私たちは五人連れだった。四国の離島にある病院に、たまたま同じ時期に派遣された研修医の同期。みんなそれぞれ別の町から来ていて、知り合ってまだ二週間しか経っていない間柄だ。特別気が合うというわけでもなかったけれど、たった五人しかいない同期なので仲良くしようと、けっこう頻繁にみんなで外食しているようだった。私はなんやかんやと理由をつけて断っており、その日が初めての参加だった。
それは、夏祭りの夜だった。二十時から始まる花火を待つ間、飲み会をしていたのだ。車を出してくれた美佳ちゃんとアルコールがダメな私以外は、ガンガン酒を呑んでいた。当然、話はどんどん胡乱で好き勝手になってゆく。天井近くの棚に置かれたテレビには甲子園の試合が映っていて、酔った人たちは高校の時に何の部活をやっていたかやら、同級生の球児が盗撮で捕まった話やら、しょうもないことをゲラゲラ笑いながら言い合っていた。私は話に参加せず、ノンアルコールのソーダをちびちび飲みながら、寛いでいた。自分でも不思議なぐらい、居心地が良かった。
私は元々、人間嫌いな所がある。学生の頃はクラスで孤立していたし、就職してからも飲み会に参加したことはほとんどなかった。だから、その日誘われたときは少し不安だった。少人数の飲み会だし、私のせいで場がしらけてしまうんじゃないかと思った。でも、私は車を持っておらず、花火大会に車で連れて行ってくれるという申し出を断れなかった。
けっこう楽しいな、と思いながらぼんやりとしていると、隣に座っている美佳ちゃんが
「璃子ちゃんも食べなよ。割り勘なんだからさ」
と話しかけて来た。私の小皿に、切り分けたお好み焼きをのせてくれる。
「ありがとうございます」
「璃子ちゃんって、ずっと敬語だよな。同期なんだからタメで良いのに」
「癖なんです」
本当は、みんなと少し距離を置くための敬語だった。
頼んでいた最後の料理が届いたのは、十九時四十五分くらいだった。私たちは慌てて完食し、会計を済ませて外に出た。夜の風は、程よい生温かさだった。暗い空と、闇の間にほのかに広がる街灯や民家の灯。夏祭りの会場までかなり距離があるので、屋台のにおいや賑やかな人の声は届かない。虫や植物のざわめきと、時折通り過ぎる車の走行音が心地良かった。
「早く行こうで。花火始まってまう」
ぼんやりしていると背中を押された。私たちは車に乗り込み、海沿いの道を走り出した。走っている間に、次々と海の向こうに花火が上がった。後部座席に座っている酔っ払いたちが、
「もうこの辺で車停めようや」
「いやいや、まだ遠いって」
などと騒ぎ始める。
「自分の車じゃないからって好き勝手言いやがって」
美佳ちゃんが毒づいた。
結局、私たちは海辺の道の駅の駐車場に車を停めた。他の四人は堤防にのぼって騒いでいたけれど、私は海に落ちるのが怖くて、少し離れた所でスマホをかかげた。動画を撮りたかった。研修のために実家にひとりぼっちで残してきた妹に、花火を見せてあげたい。もっとも、私と違って社交的な妹は、数日前に友達と一緒に高松市の花火大会に行って来たようだが。
黄色一色の大きな花火が、次々と上がっては開き、しだれ柳のように輝きながら落ちてゆく。その最後のきらめきまでもが、金粉のように眩しい。
「きれい……」
ふと、そんな透き通った声が聞こえた。私は思わず声のした方を向く。
ノースリーブの白いワンピースを着たショートボブの女が、いつの間にか隣で堤防にもたれかかっていた。さらさらと夜風に揺れるミルクティー色の髪が、花火の白い光を反射している。この世のものとは思えない、まるで命のない絵画の中の幻のような儚さ。
彼女は、とても美しかった。
女が、私の方を見る。
「花火、終わっちゃったね」
彼女が呟いたそのとき、私は我に返った。
「フィナーレ、見逃しちゃった」
「今年最後の花火なのにね」
そう言って、彼女は笑う。見ず知らずの他人であるはずの私に向かって、なぜか昔からの友人のように話しかけてくる。
「えっと、前にどこかでお会いしましたっけ?」
「前世で会ったじゃん。ねえ、今日、泊めてくれない?」
私は、うなずいていた。
自分でもどうしてそうしたのか、分からなかった。
それは、真夏の出会い。
殺さなければならない彼女と、死にたい私のひと夏の物語。
夏の全てを焦がすような太陽から逃れ、私と美佳ちゃんは病院の隣に建つ公民館の野外喫煙所の屋根の下に入った。濃い青色の日陰は、冷房がついているわけでもないのにひんやりとしている。煙草に火を付け、錆びたベンチに腰を下ろす。午後三時。ルーティーンの仕事は全て片付け、あとは担当患者さんが急変したりしないことを願うだけ。蝉時雨。病院の白い壁にオリーブの木の影が揺れるのをぼんやりと眺める。
「医者のくせに喫煙者だなんてコンプライアンスに反するよなぁ」
片手でスマホをいじりながら、美佳ちゃんが呟く。
「お前、なんで煙草なんて吸い始めたの?」
「なんとなく」
自傷行為として、なんて言えるわけがなかった。十代の頃は服で見えない所をカッターで切ったり抜毛したりしていたけれど、煙草の方が周りから病んでいるように見えないので乗り換えた。苦い煙を吸っていると落ち着く。健康を害して早死にできるのも良かった。酒もやってみたが、アルコールを体が受け付けなかった。薬物とかは犯罪なのでなし。
「俺は学生の時憧れてた先輩の真似をして吸い始めたら、依存症になっちまった。バカだよなぁ」
「なんか可愛いですね。意外と」
美佳ちゃんがむすっとする。しまったと思いつつも、動揺を顔に出さないように気を付けながら煙草を吸い続ける。
「俺だって普通の女子だからな」
そう言って、彼女は自嘲するように笑った。紺色のスクラブから伸び出した手足はすらっとして白く、ポニーテールにされた黒髪はよく手入れされている。普段から派手な服は着ないし、見た目だけなら大人しくて真面目な若者という感じだ。その風貌で、上司どころか院長にまで喧嘩を吹っ掛ける。
正しくありたいと願う彼女の姿は、私には美しくも、恐ろしくも見える。私にはできないし、なりたいとも思わない。
スマホから顔を上げた美佳ちゃんが、目を細めた。
「誰かこっちに手を振りながら歩いて来るけど……誰だ、あれ」
私は目があまり良くないので、美佳ちゃんからかなり遅れてその女を視界に認めた。腰に大きなリボンのついた白いワンピースを着た、ショートボブの女。近づいて来るにつれ、彼女が満面の笑みを浮かべていることが分かって来る。
私は苦笑いした。
「あれは……同居人」
「は?」
「夏祭りの夜に転がり込んで来たんです。関東からの旅行者らしいんですけど、路銀が尽きたとかで」
「なんでそんなわけわかんない奴を」
少し怒っているような声を出した美佳ちゃんの唇に、いつの間にかすぐそこに迫っていた女が人差し指を当てる。
「ねー、あっついね! お二人さん、アイスは要るかい?」
女が、左手に提げていたコンビニの袋をかかげる。中からは、白熊のカップアイスとプラスチックスプーンが三つ出て来た。美佳ちゃんは警戒していたけれど、ほらほらとアイスを頬に当てられて、しぶしぶ受け取った。
ベンチに三人で並んで座って、アイスを食べる。練乳は懐かしい子どもの頃の夏の味がした。
「お前、何者なの?」
美佳ちゃんに聞かれ、女はにこにこ微笑みながら
「璃子ちゃんを探してはるばる旅して来たの。あ、普段は普通の会社員だよ。銀行のカードなくしちゃって今はほとんどお金ないけど」
と答えた。
「え、じゃあ、二人は知り合いなのか?」
「うん、前世からのね」
「は?」
そのとき、美佳ちゃんのポケットに入っていたピッチ――仕事用の携帯電話が鳴った。電話に出た美佳ちゃんの顔が真っ青になる。
「俺、行かなきゃ。またな」
駆け出した彼女の背中を、女は笑みを消して見送っていた。
「可愛い人だね。璃子ちゃん、あの子が好きなんでしょ?」
「へ?」
そんな気持ちは全くなかったので、唖然とする。
「あなた、一体何を」
「あなたって、なんかよそよそしいね。名前教えたじゃん、ユキって」
「ユキ様は一体どんなことを考えておられるのですか」
ユキちゃんが、私の耳元にそっと唇を近付ける。
「好きな人がいられると困るんだよね。この世への未練、みたいな」
蝉の声が、止まる。
「殺せないじゃん」
病院での研修は、指導医と呼ばれる先輩と一対一のペアになって行われる。私の指導医は消化器内科の長尾先生という三十代半ばの男の人だ。不愛想だけれど穏やかな人で、私だけでなく他の研修医たちにもよく気遣いの言葉をかけてくれる。
昼休み、食堂で給食を食べている長尾先生に、私は重い足取りで近付く。斜め後ろに立ち、気付いてもらえるのを待つ。自分から声をかける勇気は出なかった。完食した先生が席を立とうとして私のお腹にぶつかり、ぎょっとしたように目を見開いた。
「どうしたん、浜田先生」
「……あの、体調不良で今日の午後休ませていただきたいんですが」
先生は顔色一つ変えず、
「大丈夫? ゆっくりしてください。事務の人には僕から言っとくから」
と、穏やかな口調で言った。
私は深々と何度も頭を下げた後、さっさと荷物をまとめて帰路についた。幸いにも研修医の控室には誰もおらず、心配されるという苦手なイベントは避けられた。
私が住んでいる職員寮は、病院から徒歩五分のところにある。そこそこ高級なマンションらしく、きれいだし防音もしっかりしている。炎天下をだらだらと歩いてなんとか部屋にたどり着き、服を着替えもせずにベッドの上にうつ伏せで倒れ込む。シーツが冷たくて心地よい。私がいない間も、ずっとエアコンが付けっぱなしになっていたようだ。はーっとため息をついたとき、
「体調悪いの? もしかして病弱だったりする?」
と、耳元で声がした。首だけを回して振り向くと、枕元にしゃがんでいたユキちゃんと目が合った。
「壊れてるのは、体じゃなくて精神……」
「そっかぁ。病死に見せかけて殺すことも考えてたんだけどなぁ」
また、物騒なことを言う。
今日も、ユキちゃんは白い服を着ている。胸に青文字でロゴの入ったシャツワンピースだ。何か理由があるのか、こだわりなのか、不思議に思いながらも聞けずにいる。他人の内面に踏み込むようなことは、私にはできない。
「今日は、何してたんですか」
「璃子ちゃんのアカウントで、ネトフリずっと見てた。面白いアニメ見つけたんだ」
「そうですか……」
「なんてアニメか聞かないの?」
「ううっ」
面倒くさい。私のことなんて放っておいて、寝かせて欲しい。目をつむった私の頬を、ユキちゃんが指先でつんつんと突く。耐えきれず、
「ごめんなさい。私、しんどいんです」
と言う。怒っていたけれど、喉の奥から絞り出した声は弱々しかった。
ユキちゃんがのそのそと去ってゆく足音が聞こえた。安堵と自己嫌悪が入り混じった気持ちを抱えながら、寝返りを打って天井を見る。
いっそ、肉体も壊れてくれたら良いのにと思う。どんなに不養生をして、どれだけ傷つけても、私の体は健康そのもので風邪すらひかない。もったいないと思う。この世界にたくさんいる、病気で苦しんでいる人たちに私の体をあげられれば良いのに。
ずっとずっと、死にたいと思い続けている。死んで楽になりたい。もうこれ以上、傷付きたくない。他人に否定され続けた過去の記憶はいつまでも私の足を引っ張り続け、もがいてなんとか生き抜いた日々は私を優しくするどころか狭量にし、精神が壊れているというレッテルは私の未来を閉ざす。希望なんてどこにもない。それでも私が死ねない理由があって、それを救いではなくほだしだと思ってしまうのが虚しい。
私には、たった一人の妹がいる。妹を天涯孤独にしないためだけに、私は生きている。だからもし、彼女が先に逝くようなことがあれば、私は――
「璃子ちゃーん、夕飯にしよ!」
ぴと、と何か冷たいものが頬に触れる。目を開けると、視界いっぱいに生わさびのボトルが迫っていた。
「スーパーでお寿司買って来たんだー! 私のおごりだよ。食べよ、食べよ」
しばらく眠ったおかげか幾分か軽くなった体を起こし、ダイニングへと向かう。ちゃぶ台の上に、五十貫ほどの握り寿司が入った巨大なパックがのっていた。唖然とする。
「もしかして二人でこれを食べるつもりなんですか? 宿をとるお金もないんですよね?」
「つい、欲しくなっちゃって」
ユキちゃんが恥ずかしそうにもじもじする。私が呆れて大きなため息をつくと、彼女は
「じゃあ、美佳ちゃんも呼ぼうよ」
と言い出した。いつの間に連絡先を交換したのか、スマホで電話をかけ始める。
二分ぐらいして、玄関のインターホンが鳴った。ドアを開けると、そこには美佳ちゃんが大きなビニール袋を抱えて立っていた。
「部屋にあったお菓子、全部持って来たけど……」
「ありがとー! 今日はみんなで宴会だぞ」
ユキちゃんが後ろから私の首に腕を回して、嬉しそうに跳ねる。
「二人はいつの間に仲良くなったんですか」
美佳ちゃんは苦笑いした。
「まあ、色々と」
私たちは寿司のパックを囲み、スマホでユキちゃんの好きな音楽を流しながら呑んだ。美佳ちゃんは甘い缶チューハイ、ユキちゃんはビール、私は愛のスコール。ユキちゃんが飲み物も用意してくれていた。本当に手持ちのお金が少ないんだろうか、この人は。
「ユキちゃんは、どうしてこの島に旅行に来たんだ?」
美佳ちゃんが缶を手首でくるくる回しながら聞く。酔いが回っているのか、元々色白な頬が紅潮している。
「この島に、エンジェルロードっていうのあるじゃん? 小島への道が、干潮のときだけ現れるっていうの。大切な人と一緒に歩くと願いが叶うって聞いて」
美佳ちゃんが不思議そうに首をかしげる。
「でも、一人旅じゃん、お前」
ふっと、ユキちゃんの目が翳った。口元にかすかな笑みを浮かべて、視線を斜め下に落とす。内側にこもるように、しばらくの間、口を閉ざしていた。いつも騒がしい彼女らしくなくて、私の胸がざわりと波立つ。
沈黙を破ったのは、美佳ちゃんだった。
「ネットで調べたら、今ちょうど道が出てるみたいだぞ。行くか、今から。三人いるから、きっと願いも叶うな」
ユキちゃんがぶはっと笑いをふき出す。
「私ら、まだ知り合って三週間だよ?」
「大丈夫、大丈夫。もうダチだ、俺たち」
私はこんな夜に出かけたくないと思いながらも、部屋で一人で待つ方が心細いのでしぶしぶついて行くことにした。
車の運転席に座った私に、持ち主が不安げな顔を向けてくる。
「お前、運転できるのか?」
「大丈夫。免許は持ってる」
深夜。片側一車線しかない道路には、他に車の姿はない。海沿いを、時速四十キロメートルほどでのろのろと走ってゆく。走っている間、美佳ちゃんが色々と指示を出してくれて、なんとか事故を起こすことなく目的地に着くことができた。
白壁のホテルの前に、斜めに並んでいる駐車場に停める。線から大きくはみ出してしまうが、他に客がいないので許してもらえるはずだと自分に言い聞かせる。
最近公開された、この島でロケの行われた映画ののぼりがはためく土産物店や、赤茶けた顔出しパネル、小さな神社、おみくじ付きのガチャポンが設置されているテントのそばを通り過ぎ、砂浜へと下りてゆく。
真っ白な砂浜が、ぼんやりと発光し浮き上がっているように見えた。緑に覆われた小島に向かって、弓なりになった白い道が続いている。タールのような真っ黒な波が、道を浸食するように斜めに寄せては返すことなく消滅する様に目を見張る。湾の対岸には観光客向けのホテルが立ち並んでおり、規則正しく並んだ窓から飛び飛びに黄色い光が瞬いている。さらさらと寄せる波の音だけが響き渡る、静かで眩しい夜だった。
私と美佳ちゃんは「きれいだね」とささやき合いながら、スマホで何枚も写真を撮った。ひとしきり画像におさめて満足し、そう言えばユキちゃんはどうしたのだろうと辺りを見回す。
波打ち際に、彼女は立っていた。薄っすらと発光する白いシャツワンピースの裾が、潮風にはためく。波がキラキラと星屑を散らしたように輝きながら、サンダルの先を濡らす。水平線に向かって、彼女は何か小さなものをかざしていた。首から細いチェーンで吊るした白いかけらを、右手でつまんで目の高さにかかげている。髪の毛が、彼女の表情を私から隠す。あまりの美しさに息を呑んだとき、強い風が吹いて彼女の髪をかき上げた。同時に、こちらに振り向く。微笑んでいた。愛しげに。
「美佳ちゃん、璃子ちゃん、連れてきてくれてありがとう。私の願い、叶いそうだよ」
覚悟ができた、と彼女がささやいた気がした。けれどそれは、風による空耳かもしれなかった。
砂浜から帰った私たちは残りの寿司を片付けて、宴会をお開きにした。美佳ちゃんが自分の部屋に帰り、残った私たちは順番にシャワーを浴びる。
温かいお湯で、体がほどけてゆく。午前中は仕事ができないほどしんどかったのに、二人と遊んで交感神経が優位になったせいか、今は少し気分が上がっているようだ。
不思議な、魔法がかかったような夏だ。こんな経験、私の一生で一度きりしかないと思う。ああ、もしかしたらもうすぐ終わってしまうかもしれない人生だけれど。
初めて会った夜、ユキちゃんは「苦しませずに殺してあげる」と言った。
花火が終わった後、私は美佳ちゃんの車に乗らず、彼女と二人で夜道を歩いていた。腰の後ろで手を組んで、彼女は私より数歩前を行く。白いワンピースが、車のライトに照らされて黄色や赤にくるくると色を変えていた。
「私にあなたの命をくれたら、妹さんの今後の生活は保証してあげる。金銭的にも、社会的にも。だから、安心して死んで良いよ。あなたをここにつなぎ留めてるのは、それだけなんでしょ?」
彼女が振り返る。口調は穏やかだったけれど、その表情は険しく凍り付いていた。私は何も言葉にできず、ただ首を縦に振った。
「でも、すぐには殺さない。本当に私が殺すに値するか、しばらく見極めさせて」
そう言って、女神のように微笑んだ。
ふと、頬に何か温かいものが当たった。目を開ける。ぽつり、ぽつりと落ちてくるのは彼女の涙だった。ベッドの上に横たわる私の上に馬乗りになって、見下ろしている。大きく見開かれた充血した目から、絶えず水滴がこぼれ落ちている。表情はなく、ただ真っ直ぐに私を見ていた。
彼女の両手が伸びて、私の首にかけられる。一瞬ぎゅっと力が入ったけれど、すぐに緩んだ。
「ねえ、璃子ちゃんは死にたいんでしょ?」
「うん」
「だったら、私に感謝してくれるよね?」
「……うん」
また、手に力がこもる。喉が閉まってゆく。痛い。苦しい。咳き込みそうになるが、もう空気は通らなかった。目に涙がにじむ。死にたかった。けれど、あまりの苦しさに耐えられず彼女の手を払いのけようとしたとき、すとん、と彼女の胸元から何かが落ちた。首からチェーンで吊るされたそれは、一目見て人の骨だと分かった。人の掌の骨、手根骨の一つである月状骨だった。
はっと、彼女が息を呑んだ。首を絞めていた指がほどけて、骨を大切そうに包み込む。
「大切な人なんですか?」
ぐすん、と彼女が鼻をすすった。
「そうだよ。この世界で一番大切な人。病気で亡くなったの。でもね、私が身代わりに誰かの命を捧げたら、生き返るんだ。だから、私にあなたの命を――」
「大丈夫。あなたにあげます、私の命」
すっと、意識が遠のいた。
目が醒める。青いカーテンの隙間から、昼間の光が漏れ出している。自分の首を指でなぞる。
急に夢だか現実だか分からない記憶がよみがえって来て、ハッと体を起こした。いつもベッドの隣に敷かれていたユキちゃんの寝袋も、部屋の隅にあったトランクも、なくなっていた。心臓が早鐘を打つ。慌ててベッドから下り、部屋じゅうを見て回った。スーパーで買ったばかりの歯ブラシも、台所のシンクに入れていた寿司のパックもビールの空き缶も、風呂場の排水溝に絡まっていた茶色い髪も、彼女がいた痕跡は全て消えていた。何一つ、残さずに。
頭が鈍く痛む。私は、悪夢を見ていたのだろうか。そうでなければ、彼女は人ならざる者だったのか。
呆然と立ち尽くす私のズボンのポケットの中で、スマホが震えた。急に現実に引き戻される。画面を見ると、美佳ちゃんの名前が表示されていた。
「もしもし」
「あっ、ごめん。起きてた? 今、大丈夫?」
「うん」
「昨日の夜、お前の部屋に車の鍵忘れちゃったみたいで。今から取りに行って良いかな?」
「……大丈夫です」
そう答えたとたん、玄関のインターホンが鳴った。玄関の前で待っていたらしい。ドアを開けると、外のあまりの眩しさに目が痛くなった。
「もしかして起きたばっかり?」
美佳ちゃんが眉をひそめる。
「二日酔い? あれ、でもお前、アルコール呑んでなかったよな」
彼女の言葉で、昨日の宴会が夢ではなかったことを知る。と、言うことは、ユキちゃんは丁寧に掃除をしてこの部屋から去っていったのだ。
部屋の隅に落ちていた鍵を拾い上げると、美佳ちゃんは心配そうに私を見た。
「朝ごはんまだっぽいし、良かったら一緒にどっかへブランチ食べに行かん?」
私はしばらくためらった後、
「行きます」
と答えた。
そのカフェは、海辺にある古民家を改装して開かれたものだった。まだ早い時間であるせいか他に客はおらず、私たちは縁側に置かれたテーブル席に向かい合って座る。青いガラス製のコップが二つ運ばれてきた。夏の終わりの日差しがガラスを通り抜けて、テーブルの上に複雑な模様を描く。その影をじっと見つめていると、
「璃子ちゃん」
と低い声で呼ばれた。
「メニュー、どうぞ」
「ありがとうございます」
頭が上手く回らず、一番上に載っていたランチメニューを注文した。美佳ちゃんも、「同じもので」と頼む。
「だいぶしんどそうだけど、何かあったのか」
「ユキちゃんが、いなくなっちゃって」
髪の毛一本残さず消えてしまったことを離すと、美佳ちゃんは呆れたような顔をした。
昨日の夜、首を絞められたことは言えなかった。夏祭りの夜に初めて会ったときのことも、彼女が持ち歩いていた人骨のことも、肝心なことは何一つ言わずに、心の中に閉まって、私はただガラスコップの中の氷をちりんと鳴らした。
「不思議な奴だったよな、ユキちゃんって」
美佳ちゃんが頬杖をついて、窓越しに空を見上げる。私もつられて、顔を上げた。ついこの前まで入道雲が浮かんでいた空が、今は一面のうろこ雲に覆われている。
「俺、ちょっと前、かなり落ち込んでたんだ。担当してた入院患者さんが亡くなってさ。その人、家族に見捨てられて体が悪いのに一人暮らししてて、家で倒れてるのに気付かれるまで一週間かかったんだ。入院してからも誰も見舞いに来なかった。自分はこれまでろくな生き方をして来なかったから、こうなるのも報いなんだってよく言ってた。それで、そのまま一人で亡くなった。俺、すっごい辛くて。外で一人でやけになって煙草吸ってたら、ユキちゃんがいつの間にか隣に立ってんの。煙草一本ちょうだいなんて言うから、火をつけてやったらゲホゲホ咳き込んで、自分で自分を傷つけようとする人の気持ちは分かんないね、なんて言ってた」
美佳ちゃんが、くすっと笑う。私が笑えずにいると、彼女はきまり悪そうに話を続ける。
「それで、言うんだ。その患者さんはずっと一人だったかもしれないけど、最期は美佳ちゃんが隣にいたじゃん、って。私は一人だからその人の気持ちが分かる。たった一瞬、袖が触れ合っただけの出会いでも、それに救われることがあるんだよ、って。だから――」
美佳ちゃんが、真剣な顔で私を真っ直ぐに見た。
「俺は、これからも医師を続けたいって思った」
カフェから帰る途中、エンジェルロードパークのそばを通った。道路からは見ることができないが、今も海の中に道ができているはずだった。
私もいつか、大切な人と――妹と一緒にここに来よう。そして、願いをこめて歩くのだ。
そう思うと、ぶわっと涙があふれて来た。
「私、妹のこと、一人にしてしまうところだった」
美佳ちゃんが、左手でぽんぽんと肩を叩いてくれる。
スマホの中で、花火があがる。
あの夏は、もう、ずいぶんと遠くに去ってしまった。
【おわり】
そして、夏の終わりに君を刺す 紫陽花 雨希 @6pp1e
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