迷迭香 怜

kokoro

第1話

「寒っ。」

 唇は震え、白い息が漏れ出す。厚着をしていても、寒さが身に染みる。東京に住んでいる僕には厳しい寒さである。北海道で一番寒い町とも呼ばれる陸別町の気温を舐めていた。

「昼間でも寒かったのに、夜はもっと寒いなぁ。」

 僕は地図が風で飛ばされないように、手袋越しでしっかりと握っていた。もし地図を失くしてしまったら、土地勘が無い僕は夜が明けるまで極寒の地を彷徨うことになる。

「想像するだけで、怖すぎる。」

 僕は想像で身震いをしてしまった。冬にこの街を訪れたことにちょっと後悔している。でも、僕は迷迭香 怜を探しに来たんだ。

「手がかりは上着のポケットにある手紙だけだ。」

 上着の左ポケットに一通の手紙がある。封筒の中身は便箋と一枚の絵。僕は広げていた地図を閉じて、一歩一歩進んでいく。地図通りに歩いているはずだが、慣れない夜道だから心配になってくる。

「ここらへんのはず。」

 僕は地図を上着の右ポケットに入れて、ふと空を見上げた。

「あっ。」

 声が思わず、漏れてしまった。空にはオーロラが広がっていた。ここはオーロラが見れる珍しい場所だということは知っていたが、実際の目で見るのは初めてだ。

「・・・綺麗だ。」

 その言葉しか出なかった。言語化出来ない程の美しさ。これがあの人の見てきた景色。

「そこの青年、初めてここに来たのかい?」

 背後から声をかけられた。振り向くと、そこには大きなリュックを背負った人が立っていた。

「ええ。そうですけど。」

「だよね。見ない顔だから。」

 その人はフードをとって、顔を見せた。中性的な顔立ちで、声色は高い。目の前の人は女性だろう。

「とりあえず、温かい飲み物でも飲む?」

「えっと。」

 僕が反応に困っている間に、彼女は大きいリュックを地面に下ろして、チャックを開けていた。

「コーヒーでいいかな?」

「あっ・・・はい。」

 彼女は折りたたみ式の小さな机、コーヒードリッパー、ケトルとどんどん物をリュックから取り出す。

「貴方はよくここに来るんですか?」

「うん。ここは落ち着くからね。考え事に適している。」

 彼女はリュックから出した道具一式でコーヒー豆を挽いていく。

「青年はどうしてここに?やっぱりオーロラ目当て?」

「いえ。」

「じゃあ、何で?」

 今日会ったばかりの彼女に話すのか。彼女はよくこの場所に訪れるということは、彼女はもしかしたら迷迭香 怜を知っているかもしれない。

「・・・迷迭香 怜を探しているんです。」

「マンネンロウ レイ。」

 僕の一言に彼女の流暢な動きが止まった。

「あっ。迷迭香はローズマリーの和名ですけど、人物の名前ですから。」

「よく知ってるよ。ローズマリーじゃなくて、マンネンロウ レイという人物を。所在地まで。」

 僕は息を呑んだ。迷迭香 怜を知っている人間。

「教えて下さい。あの人はどこにいるんですか?」

「それを教えて、マンネンロウ レイが傷つかない保証がどこにあるんだい?」

 彼女は優しい声色から低くて威圧的な声色に変わった。

「青年がマンネンロウ レイに恨んで、報復をする為に動いている可能性もある。」

 探している人を傷つける為に、探偵に人探しを依頼するということも世の中にはある。彼女にとって、迷迭香 怜は大事な人なのだろう。

「青年はどうして、マンネンロウ レイを探しているのかい?」

 だからこそ、彼女は迷迭香 怜の所在を教えるに値するか僕を見定めている。

「僕は迷迭香さんのペンフレンドだったんです。」

 僕は左ポケットから手紙を出して、彼女に見せた。

「ペンフレンドって。」

「今時ペンフレンドって思うかもしれませんが、ネットにはペンフレンドを探す掲示板があるんです。」

 SNSで知らない人と繋がれる時代に文通は古いかもしれないが、文通には文通の良さがある。相手からの返事を待つ楽しみ。直筆の温かみ。だからこそ、未だ廃れない文化なのであろう。

「中学時代の僕は絵を描くのが好きで美術部に入部しました。でも、僕の周りはコンクールで次々と結果を出していくのに、僕だけは結果が出せませんでした。」

 中学時代の僕は現実に打ちのめされた。部活には足が遠のいていき、筆にも触らないようになって、人間的に腐っていった。

「僕はいつしか描くことをやめて、ネットの掲示板にのめり込みました。」

 ネットは楽だった。繋がりを簡単に作れて、飽きたらやめれるものだった。何も考えず、自分の欲求を満たしていた。

「そんなときに、文通相手を募集するネット掲示板を見つけて、絵を描く同志を探していた迷迭香さんに出会いました。」

 募集欄を見て、目標の為に頑張っているアピールかと思ってしまった。迷迭香さんを僕のような人間に引き摺り込むという下衆の考えで、表面上は志が同じ人間だということで手紙を送り始めた。

「迷迭香さんとは自分の作品と相手の作品の感想を毎回送り合うようになりました。中学を卒業して、高校に入っても、手紙の交流は続きました。」

 あの人を引き摺り込むどころか、僕は腐る前の自分を取り戻していった。

「でも、三年前からぱったりと手紙が来なくなりました。それどころか、それ以降に送った僕の手紙は受取人不明として送り返されるようになりました。」

 文通を止めることや引越しの話は今までの手紙を読み返したが、どこにも無かった。

「三年間考え続けた結果、会いに行くことを考えました。」

 音信不通の文通相手に今更会いに行くことは迷惑な話であろう。だが、あの人は中学時代の僕に寄り添ってくれた。今度は僕があの人に寄り添う番だ。

「迷迭香さんはオーロラの絵を送ることが多かったです。最後の手紙にも。」

 封筒からオーロラの水彩画を取り出す。あの人から最後に贈られた絵は鮮やかで、繊細で、美しいオーロラだった。

「この陸別町なら、迷迭香さんの手がかりが何か掴めるかと考えてここに来ました。」

 あの人の手紙の住所は陸別町。この景色を見てオーロラを描いていたのだろう。

「青年の理由はわかった。でも、マンネンロウ レイと会わない方が幸せだよ。」

「どうしてですか?」

 彼女はコーヒーを淹れながら、迷迭香さんのことを語り始めた。

「三年前からマンネンロウ レイは解離性健忘。所謂、記憶喪失なんだよ。」

 解離性健忘。聞き馴染みの無い言葉だった。彼女は理解できない僕を察してくれて、誰にでもわかる単語で言い直してくれた。

「トラウマやストレスで引き起こる記憶障害。」

 僕に送られた文通に心的外傷を匂わせる所はどこにもなかった。顔も知らない僕に話しても無駄だと感じたからか。

「迷迭香 怜は長年に渡って、家庭内暴力を受けていたそうだ。そして、身体より精神が先に限界を訪れた。」

 何かを書いているときに、間違えてしまった経験は誰にだってあるはずだろう。そして、間違えた箇所を書き直す為に、僕達は一つの方法を取る。

「迷迭香 怜は暗黒期を空白期に変えることで精神の安定を図った。」

 消しゴムで間違えた箇所を消してしまえばいい。それと同じように、彼女は耐え難い事実を全て忘れることで、人生をやり直した。

「マンネンロウ レイが病室で目覚めた時に、警察や医師に説明された。マンネンロウ レイの目の前には迷迭香 怜の親はいなかった。」

 迷迭香さんが記憶喪失になった時には親の虐待は世間に露見されて、あるべき場所へ行ったということだろう。迷迭香さんの精神が崩壊してから、親へ罰が降るとは皮肉的な話だ。

「マンネンロウ レイは警察や医師の説明も、身体の痣も、迷迭香 怜という名前さえも他人事だった。」

 迷迭香さんのことを語る彼女は虚ろな瞳をしていた。

「マンネンロウ レイは長いようで短い病院生活を終えた。帰る場所は親のいない迷迭香 怜の家だった。」

 迷迭香さんにとっては、記憶障害を起こした忌まわしき場所。

「そこは記録上では迷迭香 怜の家ではあったけれど、迷迭香 怜の居場所では無かった。」

 家に暮らしていたら、その人の生活や人間性が現れるものだ。

「迷迭香 怜の親が暮らしていたのは理解できたが、迷迭香 怜の生活を感じる所はどこにも無かった。」

 親の暮らしはわかって、迷迭香さんだけ感じられなかった。それは親が迷迭香さんを人間として扱っていたのではなく、物の一つとしてしか思っていなかったということだ。

「迷迭香 怜は記憶喪失になって、いやもっと前から精神は死んでいるんだよ。」

 彼女は僕に文通のやりとりをした迷迭香さんにはもう会えないと伝えたいのだろう。

「マンネンロウ レイは青年のことを覚えていないよ。それでも会いたいのかい?」

 迷迭香さんは僕に筆をもう一度取る機会を与えてくれた恩人であり、友人である。

「迷迭香さんが僕のことを忘れたなら、もう一度友人になります。だから、教えて下さい。」

「マンネンロウ レイは不気味な家から離れたくて、日本を津々浦々周った。言うならば、自分探しだよ。」

 彼女はコーヒーをカップに入れていく。

「でも、結局はここに戻ってきた。迷迭香 怜にとって、この町は大好きな場所なんだろうね。」

 彼女は美しいオーロラを見上げて、話していた。

「私の名はマンネンロウ レイ。青年、私と友人になってくれないかい?」

 彼女は僕にコーヒーを渡して、尋ねる。

「朝まで語り明かす前に青年の名前を教えてくれ。」

 コーヒーは苦かったけれど、温かくどこか懐かしい味わいだった。

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迷迭香 怜 kokoro @kokoro30

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