そこに無数のドラマがあるくせに

こおの

一話完結

 60階の展望フロアから夜景を見下ろしながら、別れよう、と呟いた彼女。

とても正気とは思えなかった━━━━。


「…………は?」

 俺の反応は間違ってないと思う。これが筆記テストでバツ印がつけられたのなら、俺は教師に直談判するだろう。

 

 俺と希子よりも遙か下に、まるで風呂場のタイルみたいに整列しているマンションや高層ビル。公園に、病院に、バカデカいショッピングモール。地上にいるときはあんなに無秩序に、なんの統一性もなく、雑然と、文字やマークで溢れていたというのに、この60階から見えるのは、ただの美しく輝く夜景だった。

 

 

 なあ知ってる?

 俺は今日この日の為に、いろんなことを考えたんだ。

 3ヶ月ぶりのデート。

 やっと取り付けた約束。

 上司に叩きつけた有給届。

 展望台のチケットだって、ちょっと奮発した。1人2200円の入場券とオプションでカップルシート利用券をつけた。

 な、分かるだろう?俺の気の入れようが。

 

 俺は今日この日を、すごく楽しみにしていたんだ。

 3ヶ月ぶりのデートだし、そろそろ付き合って3年が経とうとしている。仕事が忙しくて会えない時も多かったけど、その分今日は2人きりの時間を精一杯楽しもうと思っていた。

 

 希子に話したいこと。希子と行きたいとこ。希子が好きなこと。希子と食べたいもの。

 いっぱい考えたし、いっぱい調べたんだ。

 やっぱり一緒にいたら楽しいね、ってそう言われたかった。普段は離れている分、この一日くらいは密着していたかったんだ。

「聞こえなかった?だから、私たち━━」

 待って、と俺は呟いた。呟いたにしては、声は大きかったかもしれない。焦りと絶望で震えた声が、この静かな展望フロアに響いた。ほんの数メートル先にいるカップルが、俺たちを一瞬振り向いた。なに、どうしたの、という声が聞こえてきそうな視線。でも俺達が何も発しなくなったから、またすぐに夜景に視線を戻した。

「別れようって……なんで……。そもそもこんなシチュエーションで話すことじゃないっていうか」

「うん」

「そういう話だったらさ、どっか他の静かなとこでじっくりすべきだと思うんだけど……」

 そうだね、と希子は静かに頷いた。横顔を盗み見る。メガネに夜景の灯りが映っていた。唇はキュッと引き結ばれていて、頬は強張っていた。

 こんなときでさえ、ピンと伸びた背筋。その静かな佇まいは、俺が彼女を好きになった理由の一つなんだ。なのに今はまるでその背が拒絶しているかのように見えた。

 

 ━━━━こんな予定じゃなかった。

 ━━━━そんな顔で、この夜景を見たくなかった。

 

 ああ、あの遠くに見える動物園。希子と初めてのデートで行ったんだ。普段淡白な反応の希子が、実は動物好きで、興奮しながらカメラのシャッター押しまくってたっけ。動物なんて興味無かった俺が、帰りは彼女が好きだと言った動物のぬいぐるみをペアで買ったくらいだ。そのぬいぐるみはまだ家に飾ってある。

 

 そしてあのショッピングモール。希子とよく行ったんだ。仕事帰りに集まって、ご飯だけ一緒に食べた。行き過ぎて「これがタンプラリーだったらコンプリ何回目だよ 」なんて話をしたっけ。

 

 希子のアパートと、俺のアパート。……ここからじゃ見えないけど、この大通りのずっとずっと先にあるはずなんだ。

 

 このガラスから見える街のなかに、俺たちはいくつ思い出を作ったんだろう。

 

 空から見ればただの固まりでしかない。コンクリートの固まりが綺麗に並べられているだけ。タイルのように、敷き詰められているだけ。

 でもそのタイルの中には、何千もの人間が息をしている。その人間の数だけドラマがあって、人間の数だけ思い出がある。

 

 ほらあの電車。いつも俺が乗ってる電車だ。俺はこの夜景を、地上の窓からいつも眺めている。今日だって、有給をとらなければ、いつものように疲れた顔でつり革に掴まっていたはずだ。

「私、ね」

 希子は唐突に口を開いた。俺はガラスを睨んだまま、耳を傾ける。

「……久しぶりにあなたに会って気付いたの」

 希子は横目で俺をみた。

 俺は━━見なかった。

「あなたのことは……好きだけど、あなたの気持ちが負担になってた」

「…負担、って?」

「あなたは……幸人くんは、いつも私のことを一番に考えてくれるよね。私が喜んでくれたら嬉しいからって、いつも私を楽しませようとしてくれる。でもね」

 ガラスに映った希子は、ぼんやりとした輪郭で、夜景の上に浮かんでる。

「でもその気持ちが負担になってた。私も喜ばなきゃいけないって……。幸人くんの期待に応えなきゃ、って……思うようになってた。ほら、私今日いっぱい笑ってたよね?」

「……………」

「笑わなきゃって思ってた。期待に応えなきゃ、って思ってた。でも私、本当はいつも無理してたかもしれない。あなたの理想に近づかなきゃって……無理に、笑ってたかもしれない」

 この夜景と、一緒だよ。

 

 そう言った彼女の真意。俺には、分からなかった。でもそれを聞いてしまったら何かが終わってしまう気がして、俺はだんまりのまま、信号機の3色の光を見つめていた。

 

 俺達の後ろを若いカップルが通り過ぎる。会話を楽しみながら腕組みをしていた。その男女は、きっと俺たちが別れ話をしているなんて露にも思わないだろう。

 いいや、俺たちだけじゃない。

 傍から見ればあのカップルだって、カップルではないかもしれない。仲の良い兄妹かもしれない。隣の男女だってそうだ。会社の先輩後輩、または趣味の仲間……もしくは、ただ偶然この場所で再会しただけの知人かもしれない。

 

 近付かないとわからない。

 そこに無数のドラマがあるくせに、美しい夜景はそれを隠してしまう。こんな話をしていても、俺たちは傍から見たらカップルなのだろう。

 

 俺はきっと彼女を遠目でしか見ていなかった。

 きっと、彼女の心を見ていなかった。美しい夜景であるべきだと、彼女に理想を押し付けていたのかもしれない。

 求め過ぎたんだ。

 俺は現実を見ようともせず、輝いている彼女ばかりを見ていた。

 

「希子」

 なに、と静かで凛とした声が返ってきた。

「……夜景、綺麗だね」

「そうね」

「ごめんね」

「…………」

 俺は、眺め続けた。

 ただ、彼女の横で、眺め続けた。

 綺麗だった。美しかった。

 俺たちの足元で、無数の光が瞬いていた。

 

 いつか。

 いつかこの夜景を、笑って見返す日が来るんだろうか。

 俺はそんなことを考えながら、熱くなった目尻を擦った。

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そこに無数のドラマがあるくせに こおの @karou_nokoko

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